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ヒストリー

ヒロシマの記録1984 2月


1984/2/1
荒木広島市長が31日の米の地下核実験で在日米大使館に抗議電報
1984/2/1
映画「高野聖」で武智鉄二監督が日本被団協、広島市などに「反核映画であり、被爆者団体などの主張は誤解も甚だしい」と文書で回答
1984/2/1
広島平和教育研究所の「ヒロシマ平和カレンダー」が完成。原爆遺跡に焦点
1984/2/2
レーマン米海軍長官が海上発射巡航ミサイル「トマホーク」を戦艦ニュージャージーのほか4隻の攻撃型原潜に配備ずみと言明
1984/2/3
ローマ・カトリックのベルリン枢機卿ヨアキム・マイスナー師が原爆資料館を見学、原爆慰霊碑に参拝。ベルリン教区は1966年に「戦争の被害都市が手を結ぼう」と広島教区(野口由松司教)と姉妹提携
1984/2/3
米の31日の核実験に抗議し、広島県内の10市10町28カ所で座り込み。岡山市でも平和町の西川緑道公園の平和像前で約150人が初の座り込み
1984/2/6
在韓被爆者渡日治療で20人が来日。12人が広島、8人は長崎へ。日韓両国政府の合意に基づく渡日治療は1980年11月以来、今回が第8陣。受診者は114人に
1984/2/6
第4回在米被爆者検診で半数に異常という結果判明。受診者総数305人
1984/2/6
韓国人原爆犠牲者慰霊碑建立委員会(張泰煕委員長)が、広島市に碑の平和公園内移設を申し入れ。前年12月、広島県朝鮮人被爆者協議会(李実根会長)が申し入れた新たな碑の建立には「死者の霊に38度線を設けることになる」と反対
1984/2/6
相原和光広島YMCA総主事が中国新聞に「映画ザ・デイ・アフターを見て」と題し寄稿。「私たちは戦う相手を間違えていたのではないか。国連に訴えるよりもそれぞれの自国政府を揺り動かすこと、日本政府が米ソに対して本気で核廃絶を申し入れるよう、私たち自身が真剣に働きかけてきたであろうか。米ソにとって痛くもかゆくもない国連に訴えてきたのは間違いだったのではないか…」
1984/2/7
「ノーモア・ヒロシマズ」の言葉は元UP通信の東京特派員ルサフォード・ポーツ氏が生みの親-。広島市の谷本清牧師の話から判明。ポーツ記者は1948年、谷本さんを取材した記事で「ノーモア・ヒロシマズ」と報道。同年3月5日付のパシフィック・スターズ・アンド・ストライプスやニッポン・タイムズ、米国内の新聞に掲載された。記事を読んだカリフォルニア州のアルフレッド・パーカー氏が平和運動のスローガンに転用し48年の8月6日にかけて世界に広まり定着
1984/2/9
核戦争防止国際医師会議(IPPNW)の呼びかけに応じ広島県医師会(杉本純雄会長)が核軍拡競争の停止を求める署名運動を開始
1984/2/11
ビキニ被災30周年の平和行進を東京-焼津間で13年ぶりに実施。日本山妙法寺が主催し東京・夢の島の第五福竜丸展示館前を出発
1984/2/11
広島県高校生平和ゼミナール実行委員会(栗原直美委員長)が西ドイツ・ケルン市のツォール・ストック総合学校と姉妹校提携
1984/2/12
広島の仏教各派訪タイ団が被爆実相を伝え帰国。仏舎利を持ち帰り国泰寺に安置
1984/2/13
被爆教職員の会全国連絡会(石田明会長)が東京で総会の後、平和教育充実を文部省に要請
1984/2/15
米がネバダ核実験場で地下核実験。実験後に実験用トンネルが陥没、科学者12人がけが。1人重体、4人が重傷
1984/2/16
荒木広島市長が15日の米の核実験で在日米大使館に抗議電報。陥没事故についても遺憾の意
1984/2/17
広島市平和問題調査会(永井道雄委員長)が、同市が計画している被爆40周年世界平和連帯都市市長会議を了承。広島、長崎市が提唱し米ホノルル、サンフランシスコ、西ドイツのハノーバー、イタリアのトリノ、オーストラリアのシドニー、ソ連のボルゴグラードなどが賛同
1984/2/17
広島県原水禁が広島市で「第1回ヒロシマ平和講座」開く。森滝市郎代表委員が若者らに講演
1984/2/18
米の15日の地下核実験と陥没事故に抗議し、被爆者らが広島県内28カ所で座り込み
1984/2/19
ソ連がセミパラチンスクで地下核実験。スウェーデンのウプサラ大地震研究所が発表
1984/2/19
「米の首都地区で、第二次大戦末期に広島、長崎に原爆を投下したことを知っている青少年は44%しかいない-。米ワシントン・ポスト紙が報道
1984/2/20
中国電力島根原発2号機の建設で、地元の鹿島町片句漁協が17億3,100万円の補償で了承。1984年春の着工にめど
1984/2/21
荒木広島市長が19日のソ連核実験に抗議電報。23日、被爆者らが原爆慰霊碑前など広島県内10市10町28カ所で抗議の座り込み
1984/2/21
1983年7月に広島市内で開いた「アジア文学者ヒロシマ会議」の報告集「核貧困抑圧-83アジア文学者ヒロシマ会議報告」が完成。ほるぷ出版刊
1984/2/21
米連邦最高裁が被曝軍人の子供らへの遺伝障害について「政府に補償責任なし」との判断示す。明確な判定理由は示さず。「軍事要員は軍務上生じた結果について政府に補償要求できない」との政府主張を認める形に
1984/2/22
廃船論浮上で着工が延びていた原子力船「むつ」の青森県関根浜新港が着工。1981年5月、国と地元の5者協定で建設方針を決定。総建設費600億円に「税金のムダ遣い」の批判高まる
1984/2/22
演芸家の江戸家猫八さんが東京都庁で被爆者健康手帳を取得。「手帳を持っていると気が弱くなると拒否していたが、健康に自信が持てた」と取得。猫八さんは旧陸軍の船舶砲兵として宇品の暁部隊で被爆
1984/2/22
東京の独立プロ、青銅、山本プロダクションなどと広島映画センターが「ノーモア・ヒバクシャ-被爆者は今」製作へ。片桐直樹監督が広島で発表
1984/2/24
通産省が中国電力島根原子力発電所2号機の工事計画を認可
1984/2/24
外務省が米、ソ、英、仏、中の核実験について「日本はあらゆる国のいかなる核実験にも反対」と各国在日大使館に抗議。1981年末に次ぐ抗議
1984/2/24
ロンドンで開催中の海洋投棄規制条約(ロンドン条約)加盟国会議が、高レベル放射性廃棄物の海底への埋設禁止を米などの反対で否決
1984/2/25
広島県安芸郡府中町の「府中町平和の集い」が平和教育シンポジウム開催
1984/2/25
平和を求めるスポーツマンの集まり「平和のための競技者連合」が、世界の一線陸上選手が国際平和と核兵器廃絶の声明に署名と発表。米のスプリンター、カルビン・スミス、女子走り幅跳びのキャロル・ルイス、棒高飛び世界チャンピオン、ソ連のセルゲイ・ブブカさんら
1984/2/26
オーストラリア政府が友好国艦船寄港の際、核積載の有無を不問にする新方針を打ち出す
1984/2/28
今後30年間に米海軍の老朽原潜100隻を海洋投棄する計画が表面化。現在、将来とも利用計画のない200カイリ経済水域内に投棄予定
1984/2/28
広島平和記念館で「ビキニ被災30周年ヒロシマ集会」。相原和光広島YMCA総主事、伊藤サカエ県被団協副理事長らの呼びかけで、1979年以来統一集会が続く。トマホーク反対を決議
1984/2/29
日本原水協が静岡市で約1,300人が集まりビキニデー全国集会
1984/2/29
静岡市で原水禁国民会議がビキニデー全国集会。約600人が参加
1984/2/--
アマチュア画家、金崎是さんが画集「ふるさとふくしまひろしま」を出版
1984/2/--
米国日系市民協会(JACL)が、在米被爆者検診に協力したシアトル市のデニス・ショート医師に感謝状を贈る
1984/2/--
非核町宣言をした広島県安芸郡府中町で「府中町平和のためのつどい」(代表、長崎広次広島大名誉教授)が「非核宣言の家」のワッペン運動
1984/2/--
広島県民生協(田中信夫理事長)が平和文集「未来を生きる子供たちへ」を発行
1984/2/--
東京・芝に「平和博物館」(岩倉務館長)がオープン
1984/2/--
在米被爆者の広島里帰り治療第2陣の3人が決定。里帰り治療は「在外被爆者支援連帯ヒロシマ委員会」(石田明代表)が1983年からスタート
1984/2/--
広島県安芸郡府中町の私立こばと幼稚園(宗藤尚三園長)が祖父母の戦争体験をまとめた「真っ赤な原子雲」を刊行
1984/2/--
第五福竜丸関係の書籍出版が続く。第五福竜丸の生い立ちから被曝までをたどる「熊野からの手紙」(徳田純宏氏著)、「第五福竜丸物語」(長谷川潮氏著)、福竜丸平和協会監修の写真集など
1984/2/--
第五福竜丸のビキニ被災から30年。当時集まった原水爆禁止署名約3,200万人分のうちの1,800万人分を日本原水協が東京・江東区の帝国倉庫に保存と判明
1984/2/--
広島市の加川数雄さんが被爆死した母と妹の墓標代わりにと旧中島本町の復元模型を完成

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