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ヒストリー

ヒロシマの記録1984 3年


1984/3/1
静岡県焼津市で3・1ビキニデー中央集会。中央実行委員会と地元の実行委の主催による統一集会。大友よふ全国地域婦人団体連絡協議会長と鈴木正次静岡県原水禁代表委員が「名実ともに統一されたこの集会をきっかけに、運動のすそ野を広げ、地球上から一切の核兵器をなくそう」とあいさつ。服部毅一焼津市長も出席
1984/3/1
米がネバダで地下核実験。エネルギー省が発表
1984/3/2
荒木広島市長が1日の米核実験で在日米大使館に抗議電報
1984/3/3
西ドイツ「緑の党」の国会議員クリスタ・リーツさんが原爆資料館を見学
1984/3/4
放射線影響研究所(重松逸造理事長)で日米専門家が遺伝調査会議。ロバート・ミラー米国がん研究所臨床疫学部長、松永英国立遺伝学研究所長ら出席
1984/3/4
米の1日の核実験に抗議の座り込み。47年7月の仏に始まる座り込みから250回目。宮崎安男広島県原水禁事務局長や「デルタ女の会」のメンバーらが参加
1984/3/5
米軍基地建設のため1965年、マーシャル諸島クェゼリン島からイバイ島へ強制移住させられた人々でつくっている「クェゼリン環礁組合」のラジ・タフト財政部長が原爆資料館を見学
1984/3/5
日本原子力産業会議が1983年末の世界の原子力発電の動向をまとめる。82年1年間に新しく22基が運転を開始、総数は302基に。ハンガリーで初の原発が運転を始め原子力発電国は24カ国
1984/3/6
荒木広島市長がトマホークの日本持ち込みについて「国に反対要請はしない」と言明。「中曽根首相が非核三原則の堅持を明言している」が理由。長崎市長、市議会議長は連名でトマホーク配備反対を外務省に申し入れ
1984/3/7
ソ連がセミパラチンスクで地下核実験。スウェーデンのハグフォルス軍地震観測所が発表
1984/3/8
広島市の平和記念公園内の動員学徒慰霊塔にささげられている折りづる約10万羽が焼失。若い男逮捕。「寒かったので」
1984/3/8
放射線影響研究所専門評議員会が、遺伝調査にDNA法と2次元電気泳動法の採用を提言
1984/3/8
反核ドキュメント映画「ノーモア・ヒバクシャ-被爆者は今」(片桐直樹監督)がクランクイン。語り部佐伯敏子さんが被爆体験を語るシーンを撮影。最終タイトルは「生きるための証言-いま、ヒロシマから」に
1984/3/9
南方特別留学生として旧広島文理科大留学中に被爆したインドネシアのアリフィン・ベイさんが広島市を訪れ、「興南寮」跡など回る。現筑波大客員教授、帰国後はブンハッタ大副学長に
1984/3/9
広島県医師会が反核ポスター作成。同市の開業医末田敏さんの作品。核戦争防止国際医師会議(IPPNW)を通し世界の医師へ
1984/3/9
三菱重工韓国人被爆者沈没遺族会長の盧長寿さんが8年ぶり来日。広島市内の河村病院に入院
1984/3/9
荒木広島市長が7日のソ連核実験で在日ソ連大使館に抗議電報
1984/3/11
ソ連の7日の地下核実験に抗議し、原爆慰霊碑前に被爆者ら約40人が座り込み
1984/3/12
衆院予算委で北村汎外務省北米局長が「核トマホークの領空通過は非核三原則に触れる」と答弁
1984/3/12
山口県熊毛郡上関町で反原発デモ、500人が気勢
1984/3/13
広島の書道家吉田芳香さんが古希を祝って開いた個展の収益金106万円を「被爆者のために」と広島市に寄付。10年前の還暦個展、5年前の個展の収益金もそれぞれ日赤病院、原爆病院へ寄付
1984/3/14
米サンフランシスコ日米会の関野行雄会長と米国原爆被爆者協会の倉本寛司会長が荒木広島市長に在米被爆者渡日治療の資金援助を申し入れ
1984/3/15
山口県上関町の原発建設推進派が、町議会へ原発立地事前調査を中国電力に申し入れるよう請願書
1984/3/15
ポーランド国会議員団の11人が広島市を訪れ、原爆資料館など見学
1984/3/15
マンスフィールド駐日米大使から本島等長崎市長に核実験抗議で返書。「米政府は核軍備競争を管理下におくため努力している」
1984/3/16
アキバ・プロジェクト第1回参加のロドニー・バーカーさんが「原爆乙女」執筆のために5年ぶり広島を再訪。バーカーさんは、両親が広島の原爆乙女の樋山(旧姓大島)鈴枝さんらを自宅に泊めて世話をしたことからヒロシマに関心
1984/3/16
米の環境保護グループ「健康・エネルギー研究所」が主催し、米の核実験、ウラン鉱山、原発など放射線被害者70代表がワシントンに集まり円卓会議。賠償訴訟や健康調査を討議し、(1)核開発に関する政府の記録の全面公開(2)被害者への医療補償-など「放射線被害者の権利の章典」採択で合意。米の放射線被害者が一堂に会すのは1980年4月の放射線犠牲者の市民公聴会以来2度目
1984/3/16
広島市議会予算特別委で荒木市長が「核トマホーク搭載可能な米艦船の日本寄港が具体化すれば、政府に非核三原則堅持の要請も考えたい」と答弁
1984/3/16
広島YMCAが「YMCA国際平和研究所」を開設。所長に相原和光総主事。オランダ、デンマーク、西ドイツに代表1人を派遣、10月に40カ国のYMCA代表を迎え、横浜と広島で「反核・平和のための兄弟都市YMCA青年国際会議」。7月2日、副所長に永井秀明さんが広島大を退職し就任
1984/3/16
オーストリアのウィーンで中欧兵力削減交渉(MRFA)が3カ月ぶりに再開
1984/3/17
山口県上関町の反原発住民組織「原発に反対し上関町の安全と発展を考える会」が町議会に原発立地事前調査反対の請願書を提出
1984/3/19
カナダ在住の日系二世作家ジョイ・コガワさんが広島市を訪れ、原爆詩人の栗原貞子さんらと話し合う。コガワさんは小説「失われた祖国」でカナダ文学賞など北米で5つの賞を受賞
1984/3/21
米韓合同軍事演習「チームスピリット84」に参加中の米空母キティホークとソ連の攻撃型原子力潜水艦が日本海南部海域で衝突。空母は船底の燃料タンク1個が破損、原潜は船体上部に傷。米国防総省が発表
1984/3/21
広島平和記念館で原水爆禁止運動ヒロシマ連絡会議が主催し「3・21反核平和の集い」。ヒロシマ連絡会議は1977年に誕生したNGO広島継続委員会が81年5月に改組し発足。集いには「全米放射線被曝者協会」のドロシー・レガレッタ事務局長も参加
1984/3/22
ソ連が「衛星攻撃兵器打ち上げの最初の国にはならない」とジュネーブ軍縮会議で公式表明
1984/3/22
総評、総評被爆連、原水禁国民会議主催の援護法制定中央行動に参加する広島県内の被爆者や労組員ら約180人が新幹線の被爆者列車で上京
1984/3/23
被爆者援護法制定要求中央行動で代表らが渡部恒三厚相に援護法の即時制定を求め要求書を提出。渡部厚相「現行法で施策を充実できるのか、新しい法律が必要なのかを勉強させてほしい」
1984/3/23
広島県原水禁が10年間の核実験座り込み抗議を記録した「ヒロシマの記録-核実験抗議座り込み10年、核兵器廃絶・被爆者援護法を求めて」を出版。1973年7月20日の仏核実験に座り込んで以来250回となった3月4日の米核実験までを振り返る
1984/3/26
灘尾弘吉元衆院議長が、被爆者援護に尽くしたとして11人目の広島名誉市民に。広島県佐伯郡大柿町出身
1984/3/26
日本被団協が1983年11月から実施している「被爆者要求調査」の中間報告をまとめる。18都道府県、3,183人分を集計。健康の不安、生活苦が浮き彫り
1984/3/26
広島市会で「核装備艦船の日本寄港を拒否し、非核三原則の完全実施を求める」意見書を可決
1984/3/26
日本被団協の「被爆者援護法制定をめざす3月中央行動」が東京で始まる。約300人が決起集会
1984/3/27
「被爆40周年の来夏、広島市で国際アニメ祭を」-。国際アニメーションフィルム協会(本部・仏アヌシー市)日本支部の木下蓮三会長が荒木広島市長に協力を要請。木下氏は原爆アニメ「ピカドン」の作者
1984/3/28
広島平和文化センター(河村盛明理事長)が新年度の事業計画決定。2年前広島、長崎両市が岩波映画製作所に依頼してつくったドキュメンタリー映画「ヒロシマ・ナガサキ-核戦争のもたらすもの」のビデオ版の製作、語り部の派遣など
1984/3/28
在米被爆者里帰り治療のこの年の第1陣が広島入り。カリフォルニア州サンノゼの織田清子さん。30日、第2陣のモンテリーパーク市の宮地喜代子さんとフローレンス・ヤマダ・ガーネットさんも
1984/3/28
広島市の清水劇場で大衆演劇新川劇団(新川博之座長)が原爆劇「原爆の子」を公演。一座の総責任者の新川恵三さんの新作
1984/3/29
4月2日からジュネーブで始まる列国議会同盟(IPU)会議で、日本代表の佐藤文生衆院議員が広島市が製作した「ヒロシマ原爆の記録」を上映へ
1984/3/29
長崎市議会が「核巡航ミサイル・トマホーク装備米艦船の日本寄港に反対する請願」を否決(「長崎年表」)
1984/3/29
ソ連がセミパラチンスクで地下核実験。スウェーデンのハグフォルス軍地震観測所が発表
1984/3/30
広島の若者グループ「平和交流を進める広島若者の会」(萩原繁和代表)の7人が、原爆慰霊碑前で九州、沖縄平和キャラバン出発式
1984/3/30
荒木広島市長が29日のソ連地下核実験に抗議し在日ソ連大使館に抗議電報
1984/3/30
東京・新宿の日本青年館で「原水禁1984年世界大会」準備委員会が発足。学者、文化人、原水協、原水禁、労働・市民運動代表の45人が出席
1984/3/30
社会党など5野党が共同で被爆者援護法案を衆院に提出。同法案の国会提出は9回目。前回(1983年3月)まで過去5回提出に加わっていた新自由クラブは共同提出から外れる
1984/3/31
広島市の平和記念公園で29日のソ連核実験に抗議し被爆者らが座り込み。広島県原水禁の森滝市郎代表委員、宮崎安男事務局長、「韓国の原爆被害者を救援する市民の会」の豊永恵三郎氏ら15人
1984/3/31
米がネバダで地下核実験。エネルギー省が発表
1984/3/--
米メリーランド州タコマパークが米で初の非核都市宣言。核兵器の製造、持ち込み禁止だけでなく、核兵器に携わる企業とは物資購入の契約を結ばず
1984/3/--
広島市内の画廊で「平和を願う詩人の夕べ」巡回展。東京の詩人城尾徳昭さんが呼びかけ、中村真一郎、野間宏、堀田善衛氏らが賛同
1984/3/--
原水禁中国ブロック(高橋謙輔事務局長)が、太平洋ベラウ(パラオ)共和国に交流拠点の集会所建設を、とカンパ活動
1984/3/--
中国電力が使用済み核燃料の再処理を英、仏でも実施へ。1985年6月、初年度分76体を搬出
1984/3/--
広島平和文化センターの諮問機関「原爆被災資料調査委員会」(委員長、今堀誠二広島女子大学長)が、被爆40周年事業として、市民の被爆体験を場所と時間を追って聞き取りし被爆全体像の復元を図る構想
1984/3/--
広島大総合科学部の児玉克哉さんが原爆孤児17人の戦後を追跡、「原爆被災孤児の生活史に関する社会学的研究」として修士論文に
1984/3/--
電力中央研究所が地下式原子力発電所を計画。山口県田万川町など38地点の候補地名が表面化
1984/3/--
広島市が旧相生橋の親柱を平和記念公園の相生橋たもとに保存へ
1984/3/--
山田典吾監督が児童文学「白い町ヒロシマ」の映画化を発表。「白い-」は母と姉、弟の3人を原爆で失った木村靖子さんの作品。新藤兼人氏が脚本

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