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ヒストリー

ヒロシマの記録1984 4月


1984/4/1
荒木広島市長が3月31日の米地下核実験で在日米大使館に抗議電報
1984/4/1
1985年8月、ジュネーブでの核拡散防止条約第3回再検討会議の準備委員会議長に今井隆吉軍縮大使
1984/4/2
財団法人フォーリン・プレスセンターの招きで来日している米ヒューストン・ポスト紙記者のエミリー・グロッタさんが原爆資料館を見学
1984/4/2
2年前に結成された「反核・日本の音楽家たち」(代表、芥川也寸志氏ら)が、東京で1年ぶりの総会。7、8月に全国で公演を決める
1984/4/2
全国の原発(25基)の1983年度運転状況で原発稼働率が初の70%台、全発電量に占めるウエートも20%台を記録-。通産省・資源エネルギー庁が発表
1984/4/3
米の3月31日の地下核実験に抗議し、原爆慰霊碑前で被爆者らが座り込み
1984/4/5
フィンランドのヘルシンキで開く核戦争防止国際医師会議(IPPNW)の第4回世界総会に大北威広島大原医研教授(日本支部事務局長)、野間祐輔広島県医師会副会長、10フィート運動広島若者の会の児玉克哉さんら3人の参加決まる
1984/4/5
米が世界核戦争を想定した指揮所演習「ナイト・トレイン84」を開始。13日まで9日間、15万人が参加。ソ連も前週から世界規模の演習を実施中
1984/4/6
米ハワイ州マウイ郡が同郡内の島と海域、上空への核兵器の持ち込み、原子力艦艇の3カイリ内立ち入り、原子炉建設の禁止を宣言。米太平洋艦隊司令官は「連邦法は地方の法令に優先。決定を認めない」と通告
1984/4/9
8月6日からポーランド労働者出版協会がワルシャワなど3カ所で開く「ヒロシマ・ナガサキ-戦争に反対する原爆記録展」に、広島、長崎から被爆資料116点の貸し出しを決める。広島平和文化センターの小松清興さんの派遣も。海外への資料貸し出しは9回目
1984/4/9
渡日治療第9陣の在韓被爆者12人が広島入り。
1984/4/10
ワインバーガー米国防長官が「ソ連の軍事力」を報告。「新巡航ミサイルを開発中」
1984/4/10
アジア・アフリカ連帯委員会の招きで来日中のニカラグア平和委員会のドリス・テヘリノ会長ら3人が原爆資料館を見学、広島原爆病院を慰問
1984/4/11
広島の原爆資料館の外国人公式訪問者数が1983年度、初めて100人を突破し118人に-。広島市が発表。10年前は6人。77年度33人、78年度50人、79年度96人
1984/4/11
広島市が1985年国際アニメ・フェスティバル広島開催に全面協力を決める
1984/4/13
西ドイツのシュツットガルトバレエ団の90人が原爆慰霊碑に参拝
1984/4/15
国連大学で「平和と科学技術」をテーマに第3回東京セミナー。17日に荒木広島市長が「ヒロシマからの提言」として(1)被爆地・広島で原爆被害の実態を確認し、米ソ両国を含め平和と軍縮の首脳会議を広島で開く(2)平和と軍縮に関する国際的な研究機関を広島に設置(3)ヒロシマと心を同じくする世界の都市が連帯し、平和への諸条件を整える-を示す
1984/4/15
オーストラリアのウィリアム・ヘーデン外相夫妻が原爆資料館を見学、慰霊碑に参拝
1984/4/15
ソ連がセミパラチンスクで地下核実験。オランダのハーグ国立観測所が発表
1984/4/15
オーストラリアで反核デモ、約25万人が参加。英では10万人。ロンドン西郊のグリーナムコモン米空軍基地で行われた平和を祈るミサにはカナダから広島の被爆者節子サーローさんも参加
1984/4/16
荒木広島市長が15日のソ連核実験で在日ソ連大使館に抗議電報
1984/4/16
米スリーマイル島原子力発電所事故調査、研究で日本企業が40億円出資の協定に調印
1984/4/18
ソ連の15日の地下核実験に抗議し、広島県内の10市10町(28カ所)と1都7県(13カ所)で被爆者らが座り込み。原爆慰霊碑前では遠足の児童も参加
1984/4/20
西ドイツの郵便通信労働者連合組合のクルト・バン・ハーレン会長らが広島市で全電通広島地方支部の青年、婦人らと平和交流会
1984/4/20
動力炉・核燃料開発事業団が北海道幌延町に高レベル放射性廃棄物の研究・貯蔵施設建設を計画。関係機関との協議を開始したことが明らかに
1984/4/20
平岩外四電気事業連合会長が青森県知事に核燃料サイクル基地を下北半島に立地することを正式要請。ウラン濃縮から放射性廃棄物処理まで
1984/4/21
社民連の田英夫代表が国会内で記者会見し、核兵器の「作らず」「持たず」「持ち込ませず」の非核三原則に「使わせず」を加えた非核四原則を根幹に「日本は非核国家宣言」をすべきと提言
1984/4/21
倉敷市立中央図書館が広島県高校生平和ゼミナールの生徒が掘った被爆瓦5枚を展示へ
1984/4/21
米の女性記者ラッシェル・リナーさんがヒロシマ取材に訪れる。ケンタッキー州で発行のカトリック系教育雑誌「カタラゲート」の記者。1カ月滞在し取材へ
1984/4/21
靖国神社に旧長崎医科大の被爆学生553柱が合祭されていることが判明。民間人では初めて。1967年から73年にかけ遺族が「医師不足のため夏休み返上で授業を受けていた。軍人、軍属と同じ」と主張し合祭
1984/4/23
西独で10万人の反核デモ。パーシング2ミサイルの配備されている米軍ムートランゲン基地周辺では1万5,000人が「人間の鎖」デモ
1984/4/24
広島のYMCA国際平和研究所(相原和光所長)が反核ネットワークづくりのため広島大理論物理学研究所員の永井秀明さん、上智大大学院生のロニー・アレクサンダーさん、東京YMCAの飯忍さん、ロンドン滞在中の岡本三夫四国学院大教授をオランダ、西ドイツに派遣
1984/4/24
「広島市内の平和教育は中学校は定着しているが、小学校は普及に努力が必要」-。広島市教組が調査結果をまとめる
1984/4/24
平和大橋と西平和大橋の欄干を設計したイサム・ノグチ氏が、橋の完成した1952年から32年ぶりに広島市を訪問。25日、荒木広島市長を訪ね橋のデザインについて説明。「平和大橋は生を象徴する太陽の形を、西平和大橋は犠牲者がよみ(黄泉)の国へ船出する死の象徴として船の竜骨をかたどった」
1984/4/25
広島ライオンズクラブ(林昇会長)が結成30周年を記念し広島市にイサム・ノグチ氏の抽象彫刻「雨の山」を寄贈へ。鋼鉄を素材に亜鉛メッキを施した高さ2.4メートルの作品。新庁舎内に飾る予定
1984/4/25
広島国際平和文化会館(仮称)の基本計画が基本計画検討委員会で了承。設計は丹下健三都市・建築設計研究所。1983年末示した原案に異論が出たため、地下部分を拡大
1984/4/25
ソ連がセミパラチンスクで、この年最大の地下核実験。スウェーデンのウプサラ大地震研究所発表
1984/4/26
長崎市出身で芥川賞作家の林京子さん(神奈川県在住)が、印税73万円余りを長崎市原爆被爆者基金に寄付(「長崎年表」)
1984/4/26
荒木広島市長が25日のソ連核実験に抗議し在日ソ連大使館に電報
1984/4/27
「韓国の原爆被害者を救援する市民の会」(事務局・大阪府吹田市桃山台、松井義子会長)が日本人医師の韓国派遣などを厚生省に陳情
1984/4/27
「非核自治体宣言都市は現在、92」-。西田勝法政大教授の調べで分かる。非核自治体宣言運動は1982年3月、愛知県津島市が行ったのが最初。29日、東京で「日本はこれでいいのか市民連合」(代表、小田実さんら)が主催し「非核都市宣言を全関東へ!」の集会
1984/4/27
ソ連の25日の地下核実験に抗議し、広島県内の10市10町28カ所で被爆者らが座り込み
1984/4/30
広島平和教育研究所が製作していた小、中、高校生向けのビデオ教材が完成し試写会。原爆資料館の資料を川本義隆館長が説明する「ヒロシマ」、原爆乙女の一人山岡ミチコさんの証言「ヒバクシャ」、広島県高校生平和ゼミナールの活動などの「炎の中に『げんばく』をみた」
1984/4/--
広島市役所構内に残った最後の被爆桜が満開。1940年11月10日「紀元2600年」を祝い植樹。元職員らの間で構内に残しての声
1984/4/--
米の大学生の3人に1人は「生きているうちに核戦争がある」と予測。USニューズ・アンド・ワールドリポートが伝える
1984/4/--
日本テレビ系放送のドラマのロケが広島、福山で。脚本は福山市育ちの千葉多喜子さん。8月9日、「千羽鶴幻想~あれから39年、母を求めてさまよう被爆児の霊魂」のタイトルで放送
1984/4/--
被爆の惨禍を歌った日本のオペラ「ヒロシマ」がソ連ラトビア共和国の首都リガの音楽コンクールで最優秀賞。作曲は東京都在住の寺原伸夫さん。1970年、モスクワ音楽院に留学中に作曲
1984/4/--
イタリアの指揮者クラウディオ・アバド氏がベルリオーズの「幻想交響曲」吹き込みで終楽章の鐘に広島の「平和の鐘」を使う。演奏はシカゴ交響楽団
1984/4/--
神田三亀男さんの「原爆に夫を奪われて-広島の農婦たちの証言」の1編と後書きを引用した高校1年用国語教科書が文部省の検定をパス。三省堂の「国語1」。引用されたのは広島市安佐南区川内の門前ツルヨさんの「苦しみの煮つまった死」
1984/4/--
広島大原医研(横路謙次郎所長)に医・生物学実験用としては国内最大の放射線源(カリフォルニウム252)を持つ「中性子照射装置」が完成
1984/4/--
爆心地近くの桜の花見フィ-バ-に、被爆者らが「慰霊の場」として反発(「長崎年表」)

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