×

ヒストリー

ヒロシマの記録1984 5月


1984/5/1
「長崎市原子爆弾被災資料協議会」が初会合。岡島俊三長崎大教授を会長に選出(「長崎年表」)
1984/5/1
36年前に米の原爆実験で島を追われた太平洋のビキニ島民が「土壌の浄化」、住民への損害賠償を求め米政府を相手にハワイの連邦地裁に提訴
1984/5/1
立正佼成会の第2回庭野平和賞受賞のため来日中の国際非政府組織(NGO)軍縮委員会初代委員長のホーマー・ジャック牧師が広島市を訪れ、被爆者、平和活動家らと懇談
1984/5/1
1958年の米英協定に基づき、英の要請受け米英がネバダで共同の地下核実験
1984/5/2
荒木広島市長が米英共同核実験に抗議し在日米、英大使館に電報
1984/5/2
全国のキリスト者ら約60人が広島市で前年に続き第2回「広島平和セミナー」。アジア6カ国からも10人が参加。福山市の日本福音ルーテル教会西教区の松木傑牧師らの「平和と核兵器廃絶を求める委員会」が呼びかけ
1984/5/3
広島市が1985年夏開く世界平和連帯都市市長会議へ参加呼びかけのため、川本義隆原爆資料館長と米田勁草平和記念館長を米など4カ国10都市に派遣。5月28日、広島帰着。米ハリスバーグ、ホノルル、カナダのバンクーバー、トロントなど6市から出席の返事
1984/5/4
米英共同の核実験に抗議し被爆者らが広島県内28カ所で座り込み。原爆慰霊碑前はひろしまフラワーフェスティバルの花壇に囲まれての座り込み
1984/5/8
原水禁国民会議がこの夏も独自の原水禁世界大会開催を決め、実行委員会を結成。独自大会は8月7日、長崎市で開幕。5日に広島で4,500人規模の集会
1984/5/8
ナイジェリアの国連代表オル・アデニジさんが原爆慰霊碑に参拝、資料館を見学
1984/5/8
広島、長崎市が1985年8月に開く第1回世界平和連帯都市市長会議への参加を呼びかける案内文と開催計画案を24カ国76都市の市長に発送
1984/5/8
在カナダ被爆者協会(17人)のキヌコ・ラスキーさんが荒木広島市長に厚生省の被爆者検診医師団のカナダ派遣を要請
1984/5/9
仏がムルロア環礁で地下核実験。ニュージーランド政府が10日発表
1984/5/10
倉敷市の鷲羽山で病弱を苦に香川県の被爆者母子が心中。2人は広島で被爆
1984/5/10
広島市で12日開く国際ソロプチミストの米日リジョン・ガバナー湯浅叡子さんと全国の理事28人が原爆慰霊碑に参拝
1984/5/10
ネバダ核実験場周辺の住民が米政府に損害賠償と医療救済を求めていた「ネバダ核実験訴訟」で原告側が勝訴。ユタ州ソルトレークシティー連邦地裁のブルース・ジェンキンズ判事ががん発生と核実験の因果関係を認定し、国に対し9人の原告に260万ドル(約6億円)の支払いを命じる。「放射性核爆発が生物学的にどんな結果を招くかを住民に十分、警告しなかったのは政府の過失」
1984/5/10
荒木広島市長が9日の仏地下核実験に抗議し在日仏大使館に抗議電報
1984/5/12
北海道電力泊原子力発電所の用地買収で疑惑。右翼が介在し買収価格の4倍強で裏取引
1984/5/12
仏の9日の地下核実験に抗議し、広島県内の10市10町28カ所で被爆者らが座り込み。広島県豊田郡大崎地区労は大崎町役場前など3カ所で50回目
1984/5/13
仏がムルロア環礁で地下核実験。ニュージーランド政府が14日発表
1984/5/13
広島市と周辺の被爆者13人が語り部集団「ヒロシマを語る会」を結成、市中央公民館で初会合。「韓国の原爆被害者を救援する市民の会」の豊永恵三郎広島支部長、広島被爆者団体連絡会議の近藤幸四郎事務局長、自治労被爆協の北川哲事務局員、詩人の望月久さん、原爆乙女の山岡ミチコさん、小倉醇さんなど
1984/5/13
旧広島市立高等女学校の1944年の卒業生が広島市で卒業40周年を記念し同級生の追悼法要を営む。250人の卒業生中41人が原爆の犠牲に▽広島市幟町公園では幟町国民学校の50人、世羅特務警備部隊、広島中部特務警備部隊の300人の慰霊法要
1984/5/14
荒木広島市長が13日の仏地下核実験に抗議し在日仏大使館に抗議電報
1984/5/14
国際ペン東京大会で「広島、長崎被爆資料展」を開催。写真パネル22枚など35点。丸木位里、俊夫妻の「原爆の図」の第11部「母子像」も展示
1984/5/14
「核状況下における文学-なぜわれわれは書くのか」をテーマに第47回国際ペン(ペール・ウェストペリ会長)東京大会が始まる。日本での大会は1957年以来2回目。海外からの約230人を含め600人が参加、ゲストとしてアラン・ロブグリエ(仏)、ウィリアム・スタイロン(米)、ワシーリー・アクショーノフ(亡命ソ連)、巴金(中国)氏ら。遠藤周作氏が「文学と宗教」、大江健三郎氏が「日本人は原爆をどう書いてきたか」を発表
1984/5/15
ソ連・レニングラードで環境問題に関する科学委員会(SCOPE)の国際セミナー。西ドイツのパウル・クルツ教授らが「核戦争が起きると地球は核爆発後、昼間でも暗く気温低下が長く続く」と報告
1984/5/15
広島市婦人教育会館で、原水禁84年世界大会広島実行委員会結成総会。1954年の「原水爆禁止広島市民大会」から30年を記念し、市民大会の中心になった広島県婦協会長の畠しげ子さん、県被団協事務局長の藤居平一さんらが出席。広島県原水禁、同原水協などで構成する「原水爆禁止運動ヒロシマ連絡会議」が主催
1984/5/16
米下院がMXミサイルの生産について(1)政府要求の40基調達案を15基に削減(2)軍縮交渉にソ連が復帰しない場合に限り予算執行-の条件で可決
1984/5/16
マーシャル諸島ビキニ島のトマキ・ジェダ首長ら6人が、国連信託統治理事会に出席し米の放射能除去作業実施を訴え。ハーバード大のコーン教授の調査ではビキニ島の放射能除去には約6,000万ドル(約138億円)必要
1984/5/16
修学旅行で広島訪問の京都府精華町の精華中学と広島市立翠町中学が平和交流。5回目
1984/5/16
仏の13日の地下核実験に抗議し、広島県内の10市10町28カ所で被爆者らが座り込み
1984/5/17
国際ペン東京大会が「核兵器、化学・細菌兵器、通常兵器の拡大を避ける」などを訴えた東西ドイツ、スウェーデンなど共同提案の決議を採択
1984/5/17
米エール大のジョン・ハーシー氏が、訪問した広島市の米田勁草平和記念館長に著書「ヒロシマ」の豪華本を贈る。「核戦争を防ぐのはヒロシマやナガサキの悲惨な経験についての人類の記憶だけだ。その記憶を残しておく場所は広島しかない」と語る
1984/5/17
米上院のゲーリー・ハート議員から日本被団協の高橋昭博代表理事に「核軍縮に努力」の手紙
1984/5/17
米国原爆被爆者協会の据石和副会長が荒木広島市長に在米被爆者検診医師団の派遣継続を要請
1984/5/17
被爆した御幸橋(広島市中区)の架け替え工事が始まる。1885年に完成、1933年、木橋から現橋へ。被爆当日、御幸橋東詰めで被災証明を書いた警官藤田徳夫さんと写真を撮った松重美人さんが着工に立ち会う
1984/5/17
中国路を修学旅行中の紀宮が原爆資料館を見学、被爆者から話を聞く
1984/5/18
原水爆禁止84年世界大会準備委員会が主催する84平和大行進の約1,000人が東京・夢の島を広島へ向け出発。原水禁運動分裂以後、前年に続き2度目の統一行進。統一をめぐり難産の末に妥協成立
1984/5/19
「トマホークの配備を許すな!<佐世保-横須賀>反核キャラバン運動」(梅林宏道代表)の全国行脚が広島入り
1984/5/19
日中友好協会広島県連合会(佐久間澄会長)が、同市内と周辺の旧軍施設などを地図で示した「軍都ひろしま-地図は語る」を発行
1984/5/20
「反核ジャズの会」(小杉敏代表)が東京で第1回コンサート
1984/5/20
「放射線漏れや廃棄物処理など原発に不安を持つ人が70%」-。総理府が原子力に関する世論調査の結果を発表
1984/5/20
広島市で第2回国際平和ピクニック。400人が参加。鈩谷陽子さん、小倉桂子さん、ランディ・モーリスさんら「レーガン大統領を広島へ」の署名運動をしたグループが呼びかけ
1984/5/21
国際ペン東京大会に参加の17人がヒロシマ取材、被爆者と交流。ピーター・エルストーブ国際ペン副会長、フィンランドの詩人ラウリ・ヌミ夫妻、スペインのJ・パットロンさんら
1984/5/21
広島フィルハーモニー管弦楽団(戸田光紀代表)が広島市公会堂で第1回定期演奏会。演奏は尾上和彦氏作曲のオラトリオ「鳥のうた・ひろしま」。同管弦楽団は4年前に創立したヴァリュウ室内合奏団が母体
1984/5/22
ガンジー・インド首相など中立5カ国首脳が核兵器競争の全面停止を求める「4大陸イニシアチブ」共同声明。スウェーデンのパルメ首相、ギリシャのパパンドレウ首相、メキシコのデラマドリ大統領、タンザニアのニエレレ大統領=その後、アルゼンチンが加わり6カ国声明に
1984/5/23
来日中のラロック米国防情報センター所長が8月6日に広島で非核保有国の指導者による国際反核会議の開催を提案
1984/5/23
国際ペン東京大会後、広島を訪れたスウェーデンの女流作家アン・マルグレットさんが、広島平和文化センターの河村盛明理事長に同国で開く被爆写真展に語り部の派遣を要請
1984/5/23
日本グラフィックデザイナー協会(亀倉雄策会長)と広島国際文化財団(山本朗理事長)の「ヒロシマ・アピールズ・ポスター」第2作が完成。粟津潔同協会理事の作品
1984/5/25
広島市の古月舞踊研究所のヒロシマ・ダンサーズ(古月公子代表)がニューヨークで反核バレエ「星ひとつまたたきて-ノーモア・ヒロシマズ」を上演。作品は古月さんの父の木村秀夫さんが自らの被爆体験を基に創作、母の古月澄子さんの振り付けと演出で1952年から55年にかけて国内で上演。27日付ニューヨーク・タイムズは「ダンス・ヒロシマ物語」の見出しで「素朴だが、核戦争の悲惨だけでなく、人間の尊厳を強く訴えている」
1984/5/25
ソ連がカザフ共和国北部で地下核実験。スウェーデンのウプサラ大地震研究所が発表
1984/5/25
カーター前米大統領が家族とともに広島訪問。原爆資料館を見学、慰霊碑に参拝。米の大統領経験者が資料館、慰霊碑を訪れたのは初。「ヒロシマでのことば」と題する平和アピールを発表。「核による大量殺りくを防ぐには世界の指導者の心構えや行動だけに頼るのでは十分でない。私たちが平和をふだんに要求していかねばならない。核兵器廃絶が一市民としての私の終生の目標」。記者会見で「大統領を経験した者として、終生、平和と人権擁護のために働き続けることを誓う意味でヒロシマを訪れた」
1984/5/26
1983年から始まった法政大の公開講座「法政平和大学」が開講。袖井林二郎教授「米の平和運動に学ぶ」。丸木俊さん、小田実さんらも学外講師で参加
1984/5/26
広島県教委が9年ぶりに小、中、高校用の平和教育指導指針を作成し各校に配布
1984/5/27
日本原水協、日本平和委員会などで構成する「トマホークくるな国民運動連絡センター」が主催し、全国8カ所で約10万人が参加して「トマホークくるな!平和行動」。岩国では5,000人が米軍基地を包囲し「人の鎖」
1984/5/27
荒木広島市長が25日のソ連地下核実験に抗議し在日ソ連大使館に抗議電報
1984/5/28
ソ連の25日の地下核実験に抗議し、広島県内の10市10町28カ所で被爆者らが座り込み
1984/5/28
北朝鮮の社会科学者代表団(金哲明代表)が原爆資料館などを見学
1984/5/28
被爆エノキを囲んで広島市の基町小学校と大阪府寝屋川市の成美小学校が平和学習交流
1984/5/28
英の反核団体「核脅威と戦うスコットランド運動」(SCRAM)が、「米原潜サムレイバンが1983年9月2日、イングランド沖で、海底投棄された放射性廃棄物入り容器と衝突、放射能除去作業」と発表
1984/5/28
超党派の国会議員や学者、文化人、自治体首長などで組織する「核軍縮を求める22人委員会」が発足、非核三原則の堅持や援護法制定を提唱。三木武夫元首相、鈴木善幸前首相、田辺誠社会党書記長、宇都宮徳馬参院議員、岡田春夫前衆議院副議長、鯨岡兵輔代議士、田英夫社民連代表、隅谷三喜男東京女子大学長、荒木武広島市長、本島等長崎市長ら
1984/5/29
米エネルギー省が「31日にネバダで地下核実験を行う」と予告
1984/5/30
被爆者の健康が悪化-。原対協の約7,000人を対象にした被爆者検診アンケートで分かる
1984/5/31
荒木広島市長が米核実験予告に対し、在日米大使館へ抗議電報
1984/5/31
これまでに数千人のソ連人が原潜、原発事故などで被曝死-。米紙ワシントン・ポストで米評論家のジャック・アンダーソン氏が発表。CIAによるとソ連では過去3件の重大原発事故が発生。なかでも1957~58年の冬にチェリャビンスクで起きた放射性廃棄物タンク爆発では数百人が死亡、清掃に行った多数が被曝
1984/5/31
米がネバダで予告通り地下核実験
1984/5/31
広島県立美術館で広島ルネッサンス美術協会主催の「ヒロシマ新しき神話展」。浜本武一さんの電子音楽を使った「ヒロシマ・レクイエム」を紹介
1984/5/31
広島、長崎両市長が全国865自治体に8月6日と9日に死没者の慰霊と平和祈念の黙とうを呼びかけ。広島市は1979年に県内86の市町村と近隣7つの県の計93自治体に黙とうを呼びかけ、83年から長崎市と連名で全都道府県、全市、広島、長崎県内全町村に依頼状
1984/5/--
1983年度の広島原爆資料館の入館者数が7年ぶりに前年度を下回る-。市が発表。135万人で前年度より約1万7,000人減。原水禁世界大会のメーン大会長崎開催が響く
1984/5/--
オーストラリア軍の従軍記者として終戦直後から3年半、広島に滞在した同国ペンクラブ会長で作家のステファン・ケレンさんが反核フォトエッセー「IREMEMBERHIROSHIMA」を出版。11日、広島を訪れ知人のバレリーナ葉室潔さんらに会ったほか荒木広島市長らを訪問
1984/5/--
東京の「平和博物館を創る会」(代表理事、中野孝次氏ら3人)が資金づくりのため「反核カレンダー」を制作、販売
1984/5/--
広島平和文化センターが平和冊子の第5作「軍備と軍縮の歴史」を発行。著者は山田浩広島大教授
1984/5/--
原水禁84年世界大会広島実行委員会の結成総会に向け頼実正弘広島大学長ら7人が参加を呼びかけ。今石益之広島女学院大、今堀誠二広島女子大、立川昭二郎広島修道大の各学長、河村盛明広島平和文化センター理事長、庄野直美広島女学院大教授、相原和光広島YMCA総主事
1984/5/--
広島大原医研が原爆の被曝線量再評価のため、爆心から2キロ以内で被爆した人の歯、陶器類、銅、ニッケル製品などの提供を呼びかけ。再評価は米オークリッジ国立研究所がネバダ核実験を基に1965年、割り出した暫定値T65Dの見直しが必要となったため
1984/5/--
1983年夏に出版された「何とも知れない未来に」(大江健三郎氏編、集英社刊)の英訳本が完成、国際ペン大会で配布。原民喜氏「夏の花」、井伏鱒二氏「かきつばた」、大田洋子氏「ほたる」、井上光晴氏「手の家」、竹西寛子氏「儀式」など8人9編を収録
1984/5/--
広島と長崎の学者、被爆者らが出している季刊雑誌「ヒロシマ・ナガサキの証言」が84春号で計10冊に。1982年2月創刊
1984/5/--
行進中の「84平和大行進」が政党や労組の掲げる団体旗ををめぐり、「降ろせ」「降ろさない」でトラブル。背景に統一労組懇結成など労働戦線の反目
1984/5/--
放射線影響研究所が将来構想として、従来の被爆者ら11万人の寿命調査に加え、(1)がん年齢に達する若年被爆者の調査(2)遺伝的影響を含む被爆二世調査(3)被曝線量再評価研究-などに力点を決める

年別アーカイブ