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ヒストリー

ヒロシマの記録1983 8月


1983/8/1
原水爆禁止83年世界大会の国際会議が東京・上野の池の端文化センターで500人が参加して開幕。海外代表は18年ぶりの中国代表など33カ国160人
1983/8/1
市民団体「非核市民のつどい」が長崎市の原爆爆心地公園にギリシャの聖火をともす計画に対し、長崎市が「爆心地は犠牲者のめい福を祈る聖域」と難色
1983/8/1
1月に亡くなった創作舞踊家古月澄子さんのレパートリーだった反核バレエ「星ひとつまたたきて-ノーモア・ヒロシマズ」が、娘の公子さんや門下生らによって広島市公会堂で28年ぶり再演
1983/8/2
原爆詩人峠三吉氏とその仲間の青春群像を描いた劇団「月曜会」の創作劇「河」が、9年ぶりに広島市で上演。通算7回目
1983/8/3
20年ぶりに統一が実現した原水爆禁止83年平和大行進が東京出発以来89日で広島市に到着
1983/8/3
広島国際文化財団の82年アキバ・プロジェクトで前年夏、広島、長崎を取材した米オハイオ州シンシナティ市のカトリック系月刊誌「セント・アンソニー・メッセンジャー」のジャック・ウインツ記者のヒロシマリポートと原爆ドームの写真が、シンシナティ編集協会の出版コンテストで最優秀作品に。中国新聞に受賞を知らせる手紙
1983/8/3
超党派の国際軍縮促進議員連盟の会長に三木武夫元首相が就任
1983/8/3
ハワイ・ホノルル市のアリゾナ記念館長ゲーリー・T・カミンズ氏が原爆死没者慰霊式・平和祈念式典参列のため来日
1983/8/3
広島市の姉妹都市、西ドイツ・ハノーバー市のシュマルスティーク市長が、広島市が呼び掛けた「世界平和都市連帯」に参加を表明。加盟は11カ国24都市に
1983/8/3
海外被爆者の里帰り治療に取り組む「在外被爆者支援連帯ヒロシマ委員会」が初めて招いたシアトル在住の山田勝江さんが32年ぶりに広島市に帰り、肉親と再会。8日から広島大病院に入院
1983/8/3
原爆投下機エノラ・ゲイ機長のポール・チベッツ氏から「標的は相生橋だった」と定説を裏付ける手紙が広島平和文化センターに届く
1983/8/3
荒木広島市長が7月28日のソ連核実験に抗議する電報を駐日ソ連大使に打つ
1983/8/3
原水禁83年世界大会の国際大会が東京で閉会総会。「国連安保常任理事国である5つの核保有国は、人類に対する核脅迫を完全に取り払う責任を負え」と、初めて米、ソ、英、仏、中国の名を挙げて東京宣言。午後から日比谷公園で東京集会。2,000人が参加
1983/8/4
広島原爆の高濃縮ウランを抽出した米テネシー州オークリッジの核兵器工場が核廃棄物を垂れ流し、下流地域は複合汚染-。地元の環境保護団体「自然の権利センター」の調査で判明
1983/8/4
カナダ・ハミルトン小学校から広島市の幟町小へ千羽づるが届く。1982年から続く平和交流、原爆の子の像にささげる
1983/8/4
原水禁国民会議が独自に開く被爆38周年原水禁大会が広島市で開幕。6日まで。11カ国51人の海外代表を含め8,000人が参加。被爆者ら内外の代表が「これ以上核の被害者を出さない非核社会を」と国際連帯を訴え
1983/8/4
核禁会議(民社党・同盟系)広島地方集会が広島市公会堂で開かれ、「地球を破壊する核兵器の廃絶に最大限の努力と行動を起こすとともに、高齢化する被爆者の援護運動を強化しよう」との宣言を採択
1983/8/5
米、西ドイツ、仏の市民が6日に行う「生命への断食」に呼応して、広島市の平和記念公園で宗教者20人が宗派の枠を超えて断食を始める
1983/8/5
日本原水協の独自集会「原水爆禁止83年世界大会の成功をめざすヒロシマ集会」が広島市で開催。「日本を核戦場にさせないために」をテーマに1,000人が参加
1983/8/5
広島市の江波小学校の児童らが、378個の被爆瓦の破片で「平和の碑」を作り、除幕式
1983/8/5
ソ連核実験に抗議し、広島市の原爆慰霊碑前で被爆者や原水禁世界大会の代表ら200人が座り込み
1983/8/5
高校生を中心にした全国の若者350人が広島市で原爆の子の像や峠三吉詩碑などを巡るフィールド・ワーク。広島県高校生平和ゼミナールが案内
1983/8/5
広島市の似島で開かれた「第10回原水爆禁止少年少女のつどい」で、原爆遺跡の島、似島をテーマにレコード化した「にのしま」を披露
1983/8/5
故永井隆博士の自伝を映画化した「この子を残して」(木下恵介監督)が完成、広島市で試写会
1983/8/5
非核宣言の広島県安芸郡府中町など6自治体の首長が同町で、「非核自治体宣言の輪を全国に広げよう」と組織作りの準備会。日野市(東京)、藤沢市(神奈川)、津島市(愛知)、北中城村、読谷村(沖縄)が参加、1984年8月5日に結成総会の開催を決める
1983/8/5
仏がムルロア環礁で核実験
1983/8/5
日本医師会の武見太郎前会長が米医師協会報に「広島への原爆投下が日本を救った」との見解を寄稿
1983/8/6
中曽根首相が広島市の原爆養護ホーム「舟入むつみ園」を訪問。原爆孤老に「病は気から。根性さえしっかりしていれば病気は逃げる」と発言。被爆者らの反発招く。広島県原水禁、広島県原水協、広島県朝鮮人被爆者協議会の3団体が抗議声明
1983/8/6
平和運動団体「生命への断食」グループの4人が欧州への核兵器配備と核実験停止を求め、パリの路上で断食を始める。西ドイツのボンで2人、米カリフォルニア州オークランドで日本人1人を含む4人が無期限のハンガーストライキに突入。オーストラリアではシドニー、ブリスベーンなど各地で反核集会が開かれる
1983/8/6
原水爆禁止83年世界大会の「ヒロシマのひろば」が、広島県立体育館に6,000人が集まって開催。「世界市民が連帯して核廃絶を」のアピール採択
1983/8/6
荒木広島市長が平和宣言。「米ソ両国を中心とする核軍拡競争はますます熾烈の度を加え、欧州におけるSS20の配備、パーシング2の配備計画、極東における核兵器増強の動きなど、増大する核の脅威のもとで、人類はまさに破滅の危機に直面している。こうした状況の中で、核兵器反対の運動は大きな盛り上がりをみせ『ヒロシマを繰り返すな』『ノーモア・ヒロシマ』の声が、今や、国際的世論にまで高まっている。今こそ人類は、敵対の歴史に決別して、人間の尊厳に目覚め、相互の対話を大いに深めて、信頼関係と友好の絆を確立すべきである。きょうの逡巡は、あすの破滅につながる。際限のない核軍拡競争に歯止めをかけるため、核兵器保有国は直ちに、核実験全面禁止条約を締結し、すべての核兵器の製造と配備を停止し、核兵器を廃絶するよう強く求める。特に、核超大国である米ソ両国は、一日も早く首脳会議を開催し、軍事的・戦略的立場を超えて、全人類的立場から、世界に希望を与える決断を行うよう訴える。唯一の被爆国であり、憲法の平和理念のもとに非核三原則を堅持する国は、その実現に先導的役割を果たし、世界平和の灯火たるべきである」
1983/8/6
広島被爆38周年。広島市の平和記念公園で原爆死没者慰霊式・平和祈念式。市民4万8,000人が参列。新たに5,179人の名前を記入した原爆死没者名簿を奉納。計10万8,956人に。中曽根首相が歴代首相として4人目の出席。「国是である非核三原則を堅持し、世界恒久平和の先達となる」とあいさつ。原水禁世界大会に参加している海外代表が立ち上がり無言の抗議。西ドイツ緑の党のローランド・ウォークさんら4人は「ナカソネ!あなたはヒロシマから何を学んだ」と書いた紙を掲げる▽8時15分、被爆者や市民約150人が爆心地に近い原爆ドームのわきで「ダイイン」▽山口大の平和キャラバン隊30人が130キロ歩いて式典に参加▽広島市の要請を受け、京都府八幡市と福島県白河市が録音テープに収めた平和の鐘を流す
1983/8/6
被爆直後の広島の惨状を世界に伝えたジャーナリストのウィルフレッド・バーチェット氏が、その後の広島取材も加えた体験記「広島TODAY」を出版
1983/8/7
長崎市の平和公園で「ナガサキの心を世界に!83年反核市民のつどい」。ギリシャの聖火ともす
1983/8/7
西ドイツのラムシュタイン米軍基地に座り込んだ160人逮捕。米ネブラスカ州オフット空軍基地でも189人逮捕。米中距離核ミサイルの配備に反対の運動激化
1983/8/8
原水爆禁止83年平和大行進が長崎市に到着
1983/8/8
米第7艦隊の空母ミッドウェーが佐世保に入港
1983/8/8
原水爆禁止83年世界大会長崎大会始まる。9日まで。米空母ミッドウェーの佐世保入港に緊急抗議
1983/8/9
原水爆禁止83年世界大会長崎大会が「核兵器廃絶を目指す人間の連帯の環を地球いっぱいに張りめぐらそう」という長崎アピールを採択して閉会
1983/8/9
荒木広島市長が5日の仏核実験に抗議する電報を駐日仏大使に打つ
1983/8/9
広島、長崎の原爆記念日に合わせ米、カナダで反核グループが展開していた「ユーロシマ(欧州の広島)」阻止のデモや集会で500人逮捕。英でもグリーナムコモン米空軍基地周辺で女性20人逮捕
1983/8/9
今井隆吉軍縮大使がジュネーブ軍縮委員会で、広島市の原爆慰霊碑の碑文に関し「核戦争をあくまで回避しなくてはならないという決意」との解釈を示す
1983/8/9
本島等市長が平和宣言。「米ソ両大国をはじめとする核保有国の指導者の皆さん、すべて人類を数十回も殺すことのできる核兵器の貯蔵がどうして必要でしょうか。地上から空中から、海上から、いつ発射されるかも知れない核兵器におびえながら、平和がいつまで続くというのでしょうか。日本政府は非核三原則の中の『核を持ち込ませず』に疑いをもっている人々に誠意をもってこたえて下さい。米ソ両大国に被爆の実相を訴え、相互不信の打開のために平和使節団の派遣を提唱します。日本と外国の被爆者の国際医療センターの設置が必要です。実現に力を結集しましょう」
1983/8/9
長崎被爆38周年。長崎市の平和公園で原爆犠牲者慰霊平和祈念式典。2万人が参列。新たに3,391人の名前を記入した原爆殉難者名簿を奉安、計6万1,969人に
1983/8/10
原水爆禁止83年平和大行進に参加した米の教師マーサー・ケインさんら5人が長崎市の平和公園で1週間の断食に入る
1983/8/11
詩人の大原三八雄氏が17年間出し続けた「広島通信」が68号で終刊
1983/8/11
仏核実験に抗議し広島市の原爆慰霊碑前など広島県内26カ所と山口市で被爆者や市民が座り込み
1983/8/11
米がネバダ州で地下核実験
1983/8/12
広島、長崎の原爆資料をニューヨークの国連本部に常設展示するため、広島平和文化センターが写真、絵画など49点を発送
1983/8/12
荒木広島市長が米核実験に抗議する電報を駐日米大使に打つ
1983/8/12
広島に原爆を投下した爆撃機エノラ・ゲイの副操縦士だった故ロバート・ルイス氏が、原爆投下の任務を担ったことに悩み、大理石製のキノコ雲像を彫刻。治療を受けた臨床心理学者に渡していたことが判明
1983/8/14
長崎市主催の平和祈念市民大行進に5,000人が参加。市内6カ所から平和公園に向け歩く
1983/8/14
尾道市の若者グループが原爆映画14本を上映する平和フィルムマラソン
1983/8/14
米核実験に抗議し、広島市の原爆慰霊碑前で市民や被爆者が座り込み
1983/8/14
長崎市の反核クループが「オランダ兵士長崎被爆記」の出版会を著者のレネ・シェーファー夫妻を招いて開催(「長崎年表」)
1983/8/15
広島市が平和記念公園内のレストハウスに国際交流ラウンジ開設
1983/8/16
反核集会「ヒロシマデー」に出演するなどオーストラリアで親善公演した広島市の箏曲生田流大師範宮地智子さんが、荒木広島市長に帰国報告。「テレビではヒロシマの記録フィルムを放映し、反核への関心の高さを感じた」
1983/8/17
マンハッタン計画で高濃縮ウラン生産、プルトニウム分離などの研究が行われたシカゴ大の構内に放射性廃棄物が放置。米エネルギー省が除去作業
1983/8/18
日本YWCAの「ひろしまを考える旅」が広島で始まる。130人参加して3日間開く
1983/8/19
米エネルギー省が「ソ連が18日、ノバヤゼムリャで地下核実験を行った」と発表
1983/8/20
荒木広島市長がソ連核実験に抗議する電報を駐日ソ連大使に打つ
1983/8/20
広島国際文化財団が、82年アキバ・プロジェクトの米3記者のリポートを収録した「欧米記者の見たヒロシマ・ナガサキ」を出版
1983/8/20
井伏鱒二氏の「黒い雨」がテレビドラマ化。日本テレビ系で放映
1983/8/21
原子力発電や火力発電に反対する中国5県の16団体が「中国地方反原発反火電等住民運動市民運動連絡会議」を結成、広島市で初会合
1983/8/21
ジュネーブの国連欧州本部で32日間にわたって開かれた原爆被害展が閉幕。3万人が入場
1983/8/22
ソ連核実験に抗議し、広島市の原爆慰霊碑前で被爆者らが座り込む。広島駅前では200回目
1983/8/22
11月来日のレーガン米大統領に広島来訪を呼びかける署名運動。広島や京都の米人らが始める
1983/8/24
放射線影響研究所の重松逸造理事長が、広島市で開いた第6回広島地元連絡協議会で「原子力発電所での被曝者など原爆被爆者以外も研究対象に」との構想を公表
1983/8/24
「全面核戦争では地球的規模で生態系が破壊され、人類生存は疑問」。米下院科学技術委員会が報告書「地球環境に及ぼす核戦争の影響」を公表
1983/8/24
ロンドンの国際戦略研究所が「米がソ連に核攻撃を加えた場合、2,500~3,400万人が死亡」と試算
1983/8/25
米国防総省が「米の核兵器数は1960年代にピークに達し、現在は50年代末以来最低の水準」と発表。反核運動家らへの反論
1983/8/25
米議会の独立調査機関、技術評価局(OTA)が、戦後に広島と長崎に進駐し被爆した兵士と骨髄がんの関係を再調査へ
1983/8/27
アンドロポフ・ソ連共産党書記長が党機関紙プラウダとのインタビューで「欧州配備のSS20を含む中距離ミサイル数を英、仏両国保有のミサイル数と同数に削減し、残りは極東移転せず、すべて廃棄する用意」と表明。中曽根首相は歓迎声明。米ホワイトハウスも「前向きのサインとして検討」
1983/8/29
パブロフ駐日ソ連大使が外務省を訪れ、アンドロポフ書記長の「削減されたSS20を極東配備しない」との新提案を公式に伝える
1983/8/29
「在外被爆者支援連帯ヒロシマ委員会」の在米被爆者里帰り治療で2人目のワシントン州カークランド市、中野昭さんが広島市入り。広島大病院に入院
1983/8/29
在韓被爆者渡日治療で広島原爆病院に入院していた第5陣残留者と第6陣15人が帰国
1983/8/29
第14回南太平洋諸国首脳会議(SPF)がキャンベラで開会。域内の独立国、自治領13の首相、大統領が出席、南太平洋非核化など討議
1983/8/30
全国革新市長会(90都市)が東京で例会を開き、非核宣言都市の連絡会議結成など決議
1983/8/30
原爆の絵と映画を携え、米大陸横断反核の旅を続けた広島市の被爆者、松原美代子さんが体験記「原爆の絵・アメリカを行く」を出版
1983/8/30
キャンベラで開かれていた第14回南太平洋諸国首脳会議(SPF)が閉会。オーストラリアが提案した南太平洋非核化宣言は時期尚早と採択できず
1983/8/30
ライシャワー元駐日米大使が米紙ボストン・グローブに「広島に投下された原爆は日本人の絶滅を救った」と寄稿。武見太郎前日本医師会長が米医師協会報に掲載した同趣旨の論文に賛同
1983/8/--
被爆直後の広島市を撮影した写真が相次いで見つかる。米ロサンゼルス在住の元B29爆撃機搭乗員が10月ごろ空撮した2枚と米戦略爆撃調査団が秋に撮影の7枚
1983/8/--
被爆1カ月後に日銀松江支店から広島支店に復興資金として現金6,500万円(推定300~400億円)を急送した裏付け資料「回議回覧件名簿」が見つかる
1983/8/--
米の劇作家デボラ・ルーバー女史が、広島で全滅した移動劇団「桜隊」の女優で「原爆症」第1号患者の仲みどりさんの生涯をドラマ化へ
1983/8/--
河出書房新社(東京)が広島、長崎をはじめ、ベトナム、ベイルートまで戦争犠牲者の写真ばかりを集めた写真集「死者が語る戦争」を出版
1983/8/--
広島県高校原爆被爆教職員会の森下弘会長が被爆体験詩集「ヒロシマの顔」を自費出版

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