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ヒストリー

ヒロシマの記録1983 12月


1983/12/1
広島市が「広島新史」の第7巻「行政編」を発刊。被爆者援護など記録
1983/12/1
東京在住の画家、二科展審査員の吉野正明氏が広島原爆病院に「早春のピエルフォン城」「カリソンヌの城郭」を寄贈。1982年に盗難にあった絵の代わり
1983/12/1
中国雑誌「世界知識」が「10年間は世界大戦なし。米ソ首脳とも核戦争の壊滅性を認識」と分析
1983/12/1
荒木広島市長がソ連核実験に抗議する電報を駐日ソ連大使に打つ
1983/12/2
ソ連核実験に抗議し、広島市の原爆慰霊碑前など広島、山口両県の38カ所で座り込み
1983/12/2
原爆投下から半年後に広島の惨状を撮影した元米戦略爆撃調査団の一員ハーバート・スッサンさんが37年ぶり広島訪問。当時フィルムに収めた被爆者と再会
1983/12/3
ニュージーランド政府が「仏は3日、ムルロア環礁で核実験を行った」と12月7日に発表
1983/12/4
英の反核団体「核軍縮運動」(CND)が、非核宣言都市シェフィールドで年次大会を開き、国内に搬入されている米巡航ミサイル撤去を決議
1983/12/4
米反核団体「核兵器凍結キャンペーン」が年次大会で、核凍結支持の政府作りの方針決める。1984年の上下両院選挙で100万人を動員し40議席の獲得をめざす
1983/12/5
中国紙の工人日報が、1969年に中国西北部の原爆製造工場で大規模放射能汚染があったと明かす
1983/12/7
荒木広島市長が仏核実験に抗議する電報を駐日仏大使に打つ
1983/12/7
世界人権宣言35周年の広島集会で、核廃絶へ平和のきずな求める広島宣言を採択
1983/12/8
日本原子力研究所大洗研究所が「材料試験炉で職員3人が最高1.15レム被曝する事故」と発表
1983/12/8
ニュージーランド地震観測所が「仏は8日、ムルロア環礁で核実験を行った」と9日発表
1983/12/8
米ソの核問題関係の科学者グループがワシントンで「大規模な核戦争による影響」について合同会議。核戦争が起これば「ニュークリア・ウインター」(核の冬)現象が発生、全人類が死滅との見解で一致
1983/12/8
ジュネーブの米ソ戦略兵器削減交渉(START)も無期休会に。ソ連が米の欧州核配備に反発し、再開期日の設定を拒否
1983/12/9
3日の仏核実験に抗議し、広島市の原爆慰霊碑前など広島、山口両県など38カ所で座り込み
1983/12/10
日本被団協が東京で被爆者援護法を考える集い開く。関東の被爆者40人が出席。「基本懇(7人委)答申を乗り越え、援護法制定の要求運動を再構築しよう」との意見相次ぐ
1983/12/10
核兵器搭載疑惑がある英空母インビンシブルの日本寄港が明らかに。英政府が日本に打診。11日、中曽根首相が「核兵器搭載なら寄港を拒否」と表明
1983/12/10
荒木広島市長が8日の仏核実験に抗議する電報を駐日仏大使に打つ
1983/12/11
8日の仏核実験に抗議し、広島市の原爆慰霊碑前など広島、山口両県など38カ所で座り込み
1983/12/11
原爆被爆者対策基本問題懇談会(7人委)答申3周年で、原爆被害者相談員の会など市民平和7団体が、広島市内で被爆者援護法制定のシンポジウム
1983/12/12
広島県朝鮮人被爆者協議会が平和記念公園への慰霊碑設置を広島市に要望。8年越しの要求。市は「公園近くに候補地を探したい」と答える
1983/12/12
欧州への米中距離核ミサイル配備に反対し、西ドイツ300以上の都市で6万人がデモや集会
1983/12/12
ニュ-ヨ-ク国連本部の原爆被災資料常設展の拡充に伴い、長崎市から、溶けた瓦の塊など4点を追加送付(「長崎年表」)
1983/12/12
英空母寄港問題で政府は、英側が核の保有について明確な回答をせず「非核三原則を尊重する」との態度表明にとどまった場合でも寄港を認める方針
1983/12/12
広島県原水禁(社会党・総評系)が英空母寄港反対の声明書を中曽根首相あてに送る
1983/12/13
在韓被爆者渡日治療で広島原爆病院に入院していた第7陣の14人が帰国
1983/12/13
米マサチューセッツ州ローエル地方裁判所の反核運動家裁判で、被告が申請した在カナダ被爆者の証言が「ヒロシマは遠い昔」と拒否される
1983/12/13
神奈川県横須賀市の立教大原子炉研究所の研究用原子炉で冷却水が漏れる事故
1983/12/13
広島市の被爆画家増田勉氏が「広島・長崎市民平和研究所」設立基金に油絵10点を寄贈
1983/12/13
東西の有力科学者らで作るパグウォッシュ会議が米ソに核ミサイルの新配備凍結を呼びかけ
1983/12/14
旧広島文理科大の南方特別留学生の1人、マレーシアのアブドル・ラザクさんが38年ぶり広島訪問。広島大原爆犠牲者追悼の碑に参拝
1983/12/15
カール・セーガン博士ら米科学者グループが「核の冬」について科学専門誌サイエンスに発表。全面核戦争の60日後に氷点下45度の寒さに襲われ人類絶滅の危機に直面と警告
1983/12/15
NATOとワルシャワ条約機構が話し合う相互均衡兵力削減交渉(MBFR)も無期限休会に入る。INF、START中断に続き、軍縮交渉の接点を失う
1983/12/16
横須賀港に米原子力潜水艦クイーン・フィッシュが入港。今年22回目。ベトナム戦争時を超え過去最多を記録
1983/12/17
米エネルギー省が「ネバダ州の核実験場で16日、核実験を行った」と発表
1983/12/17
米議会技術評価局が「原爆投下直後に広島、長崎に入った米軍人に骨髄がんなどが特に多いとは思われない」とした米連邦科学アカデミー全国研究評議会の調査を厳しく批判
1983/12/19
荒木広島市長が米核実験に抗議する電報を駐日米大使に打つ。広島市の核実験抗議電は1983年中に33回。通算305回
1983/12/20
国連総会本会議が米ソ核軍縮交渉の再開求める決議を採択
1983/12/20
米科学誌ブレティン・オブ・ジ・アトミック・サイエンティスツが「世界終末の時計」を「核戦争まであと3分」と1分進める。1953年の「2分前」に次ぐ危機。「欧州中距離核戦力(INF)削減交渉など軍縮交渉の相次ぐ中断、アフガニスタンなどの地域紛争の続発が核戦争への危機を高めている」との理由
1983/12/20
分裂前の広島県原水協の初代会長を務めた原水禁運動家・広島大名誉教授の渡辺鼎氏が死去。93歳
1983/12/20
米核実験に抗議し、広島市の原爆ドーム前など広島県内を中心に全国38カ所で被爆者らが座り込み。1983年中の座り込みは30回。通算245回
1983/12/22
米ABCテレビが軍事情報筋の話として「核・非核両用巡航ミサイルSSN12を積載したソ連エコー2型原子力潜水艦が22日、10年ぶりに米東海岸に」と報道
1983/12/23
広島県原水協(佐久間澄理事長)と広島県被団協(同)が広島県に被爆二、三世健康診断の制度化など被爆者援護対策の強化を要望
1983/12/23
広島市が平和記念公園に建設を計画している広島国際平和文化会館(仮称)の基本案が、丹下健三都市・建設設計研究所から示される。原爆資料館と平和記念館を渡り廊下でつなぎ一体化
1983/12/23
イユエカ国連総会議長がレーガン米大統領、アンドロポフ・ソ連最高会議幹部会議長、ガンジー・インド首相に書簡。狂気にストップをかけるため、安全保障理事会で首脳会談を開くよう要請。デクエヤル国連事務総長も21日、米ソ首脳会談を提案
1983/12/23
英政府が核兵器搭載疑惑のある空母インビンシブルの日本寄港中止を表明
1983/12/27
インドで開かれた「平和のための教育・アジアセミナー」に被爆教師代表として参加した森下弘広島県高校原爆被爆教職員の会会長が帰国。「抑圧や貧困が大きな問題となっているアジア諸国でも徐々にではあるが平和・軍縮教育への関心が高まりつつある」
1983/12/30
西ドイツに搬入された米新型中距離ミサイルのパーシング2第1陣9基が実戦配備を完了
1983/12/--
1923年に架けられ、原爆にも耐えた広島市の横川橋の架け替え工事が進み、名物の鉄骨アーチが姿を消す。一部は被曝線量見直しの実験資料に
1983/12/--
広島国際文化財団の83年アキバ・プロジェクトのマノフ記者が米科学誌ブレティン・オブ・ジ・アトミック・サイエンティスツ1984年1月号に原爆ジャーナリズム論を発表。反響を呼ぶ

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