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ヒストリー

ヒロシマの記録1982 2月


1982/2/1
反核アピールを出した国内の文学者グループが在日米大使館に、核兵器全廃、非核三原則の厳守などを求めるレーガン大統領あての請願書を手渡す
1982/2/1
米ニュージャージー州のセイレム原子力発電所で、配管破損のため放射性冷却水が大量に漏れる
1982/2/1
米カリフォルニア大付属ローレンス・リバモア兵器研究所に反核運動の活動家約700人が押しかけ、「核兵器の研究、製造中止」の抗議デモ。ダニエル・エルズバーグ博士ら165人が逮捕。3月1日にもデモ、48人逮捕
1982/2/3
ソ連ブレジネフ書記長が軍縮諮問委員会代表と会談し、1990年を目標に西側とソ連双方が欧州中距離核ミサイルを各三分の一に削減するよう提案
1982/2/4
中国電力が島根原子力発電所2号機の建設計画で、島根県鹿島町片句地区土捨て場の用地買収を断念。地権者の了解が得られず。原発敷地内の代替地を検討
1982/2/4
レーガン米大統領が米ソ欧州中距離核削減交渉について声明を発表。「ソ連が中距離ミサイルを廃棄すれば、米もパーシング2、巡航ミサイル配備を中止する『条約草案』を既に提示」。ソ連提案(3日)に対抗
1982/2/4
公明、民社、新自由クラブ、社民連の野党4党首が会談し、反核・軍縮運動などで共同歩調
1982/2/5
西ドイツの出版社オットーマイヤー社がドイツ語版「原爆の子」の刊行を計画し、編集責任者のヘルマン・フィンケ氏が取材で広島訪問
1982/2/5
広島県原水禁が1975年秋から発行の「原水禁ニュース・ヒロシマ」を一新。機関紙から市民を対象にした編集に
1982/2/5
広島原爆病院で治療を受けていた在韓被爆者13人のうち4人が退院、帰国。1981年12月入院
1982/2/5
ソ連のモスクワ放送とタス通信が、レーガン米大統領の欧州戦域核削減の条約草案を拒否
1982/2/6
カナダが、使用済み核燃料再処理をめぐる対日規制の大幅緩和の意向を表明
1982/2/6
ローマ法王ヨハネ・パウロ二世の平和アピール碑の制作者に彫刻家の杭谷(くえたに)一東さん(ローマ在住、広島県世羅郡甲山町出身)が決定
1982/2/6
広島県原水協(佐久間澄理事長)と県被団協(同)が広島市内で国連軍縮特別総会に向け核兵器完全禁止と軍縮を求める街頭署名とカンパ
1982/2/7
中部電力が芦浜原子力発電所を計画している三重県紀勢町で、原発慎重派町長が再選
1982/2/8
巡回原爆写真展が広島県安芸郡海田町の県海田合同庁舎で始まる。県主催で県原水協(佐久間澄理事長)と県被団協(同)が協力
1982/2/8
広島で「反核20万人集会」実現を目指す中央と広島の両主催団体が平和記念館で初の打ち合わせ会。集会名称を「82年・平和のためのヒロシマ行動」とし、スローガンを「世界から核兵器をなくそう-ヒロシマ、ナガサキの心を世界に」と決める
1982/2/9
鈴木首相が衆院予算委員会で、国連軍縮特別総会での首相演説に意見を反映させるため、野党との党首会談開催を表明
1982/2/9
ソ連のタス通信が米ソ欧州戦域核削減交渉で2段階削減案を提案。「1985年までに欧州中距離ミサイルを双方各600基に」。ブレジネフ書記長が3日提案した段階的削減案(90年に300基まで削減)の前段階案。10日、米側が拒否
1982/2/9
カトリック正義と平和広島協議会・平和を願う会(倉光誠一会長)がローマ法王ヨハネ・パウロ二世の広島訪問1周年を記念する文集「平和への道」を発刊
1982/2/9
「原爆乙女の父」米整形外科医のアーサー・バースキー博士が南仏の自宅で死去。83歳。ニューヨークのマウント・サイナイ病院で原爆乙女の治療に尽力
1982/2/11
米原子力規制委員会が原子力発電所の安全目標として、今後30~40年間に原発事故死者が1万3,000人以内にとどまるよう基準設定すべき-との指針を示す
1982/2/11
「広島県高校生平和ゼミナール」が広島市で開かれ、被爆瓦のモニュメント「ヒロシマの碑」建立などの緊急アピールを採択
1982/2/12
公明、民社、新自由クラブ、社民連の中道4党と同盟が「第2回国連軍縮特別総会に向けて核軍縮を進める連絡協議会」発足に合意。15日、「ヒロシマの心を世界に-平和の集い」(3月13日、広島)の開催を決定
1982/2/12
米がネバダで2回連続の地下核実験。エネルギー省が発表
1982/2/13
荒木広島市長が米地下核実験に抗議電報。1982年初、通算247回目。15日、原爆慰霊碑前など広島県内17カ所を含め全国24カ所で抗議の座り込み
1982/2/13
日本被団協が被爆体験を海外に伝える国際活動方針を決定。ジュネーブの非政府組織軍縮会議(3月31日から)とオーストリア(4月)に各2人、国連軍縮特別総会と欧州(8月)に各40人の代表団を送る計画
1982/2/13
「82年・平和のためのヒロシマ行動」実行委員会に加わっている広島県原水禁、県原水協、県生協連などが広島市内で初の街頭署名、カンパ
1982/2/15
安保体制打破・新劇人会議(28劇団約800人加盟)が「核兵器廃絶」を訴えるアピール
1982/2/15
日本被団協がソ連など9カ国の在日大使館に、核兵器不使用の国際条約締結などを要請する書簡
1982/2/16
「10フィート運動」の募金活動に協力した広島市中区白島北町の安田女子高校3年生が原爆映画「にんげんをかえせ」を市内の学校で初めて観賞
1982/2/17
電力9社の社長会が、プルトニウム再利用を目的とした新型転換炉(ATR)実証炉の導入を検討する「ATR特別委員会」設置を決める
1982/2/17
ニューヨークのオフブロードウェーで、米劇団モダンタイムズ・シアターが原爆劇「ヒバクシャ」を公演。広島「折鶴の会」世話人、河本一郎さんの妻だった時恵さんをモデルに、被爆者の苦悩を描く2幕、20場。劇団作者スチーブ・フリードマン氏が原爆資料を読んで脚本
1982/2/18
「日本国際法律家連絡協会」(仁科哲事務局長)が核兵器廃絶の署名運動決める
1982/2/19
ニューヨーク連邦地裁が、核廃棄物トラックのニューヨーク市内通過を禁止する判決。連邦核廃棄物投棄場所への運搬をめぐり、州と市が連邦政府を相手取った訴訟で、「事故予防対策が不完全」が判決理由
1982/2/19
ごみ運搬トラックが平和記念公園のハトの群れに突っ込み65羽が死んだ事故で、広島区検が運転手を動物虐待のペット法違反罪で略式起訴。27日、広島簡裁が罰金3万円
1982/2/19
広島原爆病院に入院し、治療を受けていた在韓被爆者13人のうち第2陣7人が帰国
1982/2/19
記録映画「広島・長崎における原子爆弾の影響」一般公開について、小川平二文相がノーカット上映に消極姿勢。「人権尊重の立場から慎重に」
1982/2/19
オランダ気象庁が「19日、ソ連のセミパラチンスクで地下核実験」と発表
1982/2/20
広島YMCAで広島在住外国人を対象に「英語原爆映画のつどい」。留学生ら約50人が英訳「ピカドン」「にんげんをかえせ」「ヒロシマ原爆の記録」を観賞
1982/2/20
荒木広島市長がソ連地下核実験に抗議電報。ソ連へはこの年初。22日、原爆慰霊碑前など広島県内17カ所で被爆者らが座り込み。西ドイツで平和活動を続ける留学生の大園弥栄子さん(東京・武蔵野市)も参加
1982/2/21
米音楽家200人がボストンで無料奉仕の反核クラシックコンサート。長崎原爆投下の翌日、同市上空を飛行したハーバード大教授で作曲家アール・キム氏の室内楽「ナウ・アンド・ゼン、長崎そして今」も演奏。広島の原爆乙女の笹森恵子さん(ロサンゼルス在住)が被爆体験を証言
1982/2/22
名古屋市で「核兵器禁止国民署名愛知県センター」が結成総会。国連軍縮特別総会に向け県民200万人署名を目指す。飯島宗一名古屋大学長ら5人が発起人
1982/2/22
動力炉・核燃料開発事業団が建設予定の高速増殖炉原型炉「もんじゅ」の安全審査結果の地元説明会が福井県敦賀市で開かれる。反対派1,800人がデモ
1982/2/22
神田三亀男さんの「原爆に夫を奪われて広島の農婦たちの証言」(岩波新書)が発刊。建物疎開作業中に夫らが集団で被爆死し、「原爆未亡人村」と呼ばれた広島市安佐南区川内温井地区の農業婦人19人の証言
1982/2/22
広島、長崎の被曝線量を見直すため、日米の放射線専門家が放影研で初の合同検討会。最終日の24日、広島、長崎被爆の基礎データになってきた暫定被曝線量推定値「T65D」の修正が必要との中間報告
1982/2/23
ジュネーブ軍縮委員会で大川美雄大使が、10キロトン以上の核実験を禁止するよう提案。地震学の進歩で10キロトン以下の探知が可能になったため
1982/2/23
広島市東区の私立城北小学校の児童集会「37年前のヒロシマを学ぶ日」で、10フィート運動第1作「にんげんをかえせ」を上映。市内小学校初
1982/2/23
英クルウイド郡議会が非核地域宣言。これでウェールズ地方の全郡議会で、いかなる核配備にも反対する「非核地域」宣言が成立
1982/2/24
東京・永田町の憲政記念館で「憲政史特別展」が始まり、原爆資料コーナーに広島の被爆資料12点と写真パネル2点を展示。太平洋戦争中、日本軍が極秘に進めていた原爆製造研究の計画書も公開
1982/2/25
長崎市教育委員会が、国際文化会館の原爆資料を見学する長崎市内の小学5年生に交通費の半額補助を決める。1983年2月までに全小学校54校が見学(「長崎年表」)
1982/2/26
「82年・平和のためのヒロシマ行動」広島実行委員会の中心団体である広島県労会議が、広島地方同盟の定期大会に連携を呼び掛けるメッセージ
1982/2/26
プロ写真家ら223人が「反核・写真運動」を提唱する声明を発表。秋山庄太郎、土門拳、浅井慎平、荒木経惟氏らが参加
1982/2/26
米スリーマイル島原子力発電所の所有者、ゼネラル・パブリック・ユティリティーズ社が、閉鎖されている2号機の大規模な放射能除去試験作業を3月1日から開始すると発表
1982/2/27
焼津市の弘徳院で第五福竜丸の故久保山愛吉さんの28回目の墓前祭
1982/2/27
第五福竜丸被災28周年の「1982年3・1ビキニデー全国集会」が静岡市の市民文化会館で開会、約2,000人が参加。1981年に続き統一集会
1982/2/27
南太平洋での仏核実験停止を求め、タヒチのパペーテで住民約500人がデモ。ポリネシア社会党が呼び掛け、ミッテラン仏大統領への要請文を採択
1982/2/28
米ニューヨーク・タイムズが「レーガン政権は核兵器増強のためプルトニウム、トリチウムの大幅増産を計画」と報じる。核弾頭を増やす核政策の一環
1982/2/28
ローマ法王ヨハネ・パウロ二世の平和アピール碑建立委員会(原田東岷委員長)が広島市内で初の街頭募金。提唱者の藤枝良枝さんらが協力を呼び掛け
1982/2/28
米国原爆被爆者協会が、厚生省派遣医師団による第3回在米被爆者健康診断(1981年)の結果を発表。受診者166人のうち正常者は62人=37.3%
1982/2/--
原爆漫画「はだしのゲン」のエスペラント版が、東京のエスペラントサークル「ロンド・ゲン」の手で刊行
1982/2/--
米が2年後に太平洋ミクロネシア地域で、深海底への高レベル放射性廃棄物の埋設試験を計画。日本の原子力関係者の情報。処分技術の研究開発が目的
1982/2/--
旧進徳高等女学校(現進徳学園)の2年生だった主婦6人が、被爆の惨状やその後の人生などを記録集「波羅密多に想う-進徳高女被爆生の記録」にまとめる
1982/2/--
青年劇場が原子力発電所に働く青年の被曝死を描いた演劇「臨界幻想」を松山市(23日)から全国23カ所で巡演
1982/2/--
米会計検査院が低レベル放射性核廃棄物の海洋投棄に関し「住民の健康被害や環境汚染への心配には根拠がなく誇張」と危険性を否定。環境保護局に投棄基準の早期設定を勧告する報告をまとめる

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