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ヒストリー

ヒロシマの記録1982 3月


1982/3/1
米バーモント州のウエストミンスター町など18町が米ソ核競争中止を求める決議を採択
1982/3/1
「反核太平洋の日3・1東京集会」が東京で開会。反原発団体など約60団体300人が参加。政府の低放射性廃棄物の海洋投棄反対などのアピールを採択
1982/3/1
広島の文学者、文芸家11人が平和アピール「被爆の原点・広島からの呼びかけ」を発表。好村冨士彦広島大文学部助教授や詩人の栗原貞子、作家小久保均さんらが世話人。署名を集め、鈴木首相や国連軍縮特別総会へ
1982/3/1
反核アピールを核保有国首脳に送った日本の文学者グループに、ソ連ブレジネフ書記長から返書(2月26日付)。在日大使館から世話人の伊藤成彦中央大教授らに届く。運動支持と核軍縮への努力をうたう
1982/3/1
「ナガサキ-ヒロシマ-東京-ニューヨーク」平和リレーが長崎市の平和公園をスタート。核廃絶の声を国連軍縮特別総会にアピール。20日、広島入り
1982/3/2
浄土真宗の東本願寺派山陽教区が広島市の東本願寺広島別院で「非核非戦の集い」を開会、約100人が参加。平和学習会の開催や教団レベルの平和運動などを盛り込んだ大会宣言を発表。同宗門の平和活動は初めて
1982/3/3
旧海軍兵学校、陸軍士官学校の出身者らが「旧軍学校等関係者有志会」を結成。「軍拡、核兵器増強の危険を感じる」と反核、軍縮署名運動を開始。28日、初の賛同者会議で「核兵器廃絶・軍備縮小・文民統制堅持を求める旧軍の会」に名称変更
1982/3/3
反核アピールを出した日本の文学者グループが東京で「反核-私達は読み訴える」集会(リードイン)を開く。賛同署名した文学者465人のうち大江健三郎氏ら50人と市民計約800人が参加。非戦、反核の意思を表明
1982/3/4
カナダ原子力公社のチョークリバー原子炉研究センターで、長期間の放射線被曝により皮膚がん死亡と白血病になった労働者2人が初めて職業病認定
1982/3/4
国公立大2次試験の小論文テーマに、広島大総合科学部が「ヒロシマ」、岡山大文学部が「戦争」を取り上げる。反核運動が高まる中で、平和や戦争観を問う
1982/3/4
原爆資料館が、被爆した尾道市の無職浜田義雄さんが寄贈した「黒いつめ」を展示
1982/3/5
米キリスト教月刊誌「ソジャーナーズ」核問題特集号が原爆資料館の高橋昭博館長に届く。37年前、テニアン島基地に従軍し、原爆投下機エノラ・ゲイの発進を見過ごしたジョージ・ザベルカ神父のざんげを掲載
1982/3/5
日本とオーストラリアの原子力協定改定交渉が3年半ぶりにまとまり、新協定に調印
1982/3/5
ジェームズ・ワトキンズ米海軍太平洋艦隊司令官が上院軍事委員会の公聴会で、核弾頭付き水中発射巡航ミサイル「トマホーク」の太平洋艦隊配備が決定済みと証言。戦域核装備の原潜日本寄港が現実味をおびる
1982/3/5
「82年・平和のためのヒロシマ行動」広島実行委員会が、3・21反核20万人集会の会場について平和大通りを断念。広島県警が代案で示した平和記念公園など6会場分散集会を決める。広島市は9日、同公園使用を認めず、太田川河川敷など3会場の代案。結局、11日、原爆資料館南側にトラックの移動ステージ設置で決着
1982/3/6
北海道岩内郡共和町の住民が原発推進派町長のリコール請求を提出。隣村に北海道電力が建設予定の原子力発電所に反対
1982/3/6
浄土真宗本願寺派安芸教区が広島市の県立体育館で「安芸門徒総結集大会」、約8,000人が参加。反核運動の展開など6項目を決議。平和記念公園で原爆死没者追悼法要、原爆慰霊碑前で大谷光真門主が平和宣言。同派の平和運動は初めて
1982/3/7
大阪の「平和をねがう民衆の会」が広島県被団協の森滝市郎理事長を招き「反核・平和の集い」
1982/3/7
インド原子力省の核燃料加工工場に迷い込んだ幼児2人が、可燃性核廃棄物に触れ火傷で死亡
1982/3/7
山口県原爆被爆者福祉会館ゆだ苑と県被団協、徳山被爆者の会などが徳山市で、被爆者援護法の制定や核廃絶を訴える構成劇「国民法廷」を開く
1982/3/8
米太平洋艦隊への核弾頭付き水中発射巡航ミサイル「トマホーク」の配備決定で、広島県原水禁が在日米大使館と日本政府に抗議文。9日、同県原水協も(3・9、3・10)
1982/3/8
在米被爆者の苦悩を描いた記録映画「SURVIVORS(生き残り)」が完成。来日した米国原爆被爆者協会の倉本寛司会長が「広島協力委員会」(事務局長、片柳寛広島女学院大教授)に報告
1982/3/8
「反核・平和のうねりを!大阪連絡会準備会」(大阪総評など50団体)が大阪駅東口で国連軍縮特別総会に向けた反核署名
1982/3/8
全国地域婦人団体連絡協議会など婦人36団体で作る「国連軍縮特別総会に向けて婦人の行動を広げる会」が東京都内5カ所で核廃絶の街頭署名
1982/3/9
日本美術家連盟が核兵器廃絶を求める声明文を採択。4,000人の会員が署名へ
1982/3/9
ロンドン市議会が「非核地帯」を宣言する決議を3票差で採択
1982/3/9
衆院議員会館で「ヒロシマ原爆の記録」「にんげんをかえせ」など原爆映画5本を上映する会。国会議員ら約30人が観賞
1982/3/10
動力炉・核燃料開発事業団(茨城県東海村)のプルトニウム第2開発室で作業員2人が鼻など被曝。許容量の百分の一。5月6日にも1人が汚染
1982/3/10
米議会上下両院で民主、共和両党議員141人が、米ソ両国に「核兵器の凍結・削減」を求める決議案を提出。バート国務省政治軍事局長は不支持の声明(3・12、3・13)
1982/3/10
浄土真宗本願寺派が宗議会で反核決議。大谷光真門主の平和宣言(6日)を受ける
1982/3/11
徳島県那賀郡鷲敷町議会が「核兵器廃絶、軍縮推進に関する請願書」を採択
1982/3/11
「南太平洋人間環境会議」(クック諸島ラロトンガ)が、核廃棄物の投棄・貯蔵と核実験禁止宣言を採択し閉幕
1982/3/11
国賓で来日中のペルチーニ・イタリア大統領が参院本会議場で演説。「広島・長崎は人類への警告」として全面核軍縮を強調
1982/3/12
「82年・平和のためのヒロシマ行動」のテーマソングに、広島市の被爆二世、県立国泰寺高校2年の洲加本有衣子さん作詞「きいてください」(作曲は池辺晋一郎氏)が決まる
1982/3/12
愛媛県議会が「核兵器の全面撤廃と軍縮推進」の意見書を採択
1982/3/13
公明、民社、新自由クラブ、社民連の中道4党と同盟が広島市公会堂で「ヒロシマの心を世界に-平和の集い」を開会。各党幹部が国連軍縮特別総会に提出する街頭署名。4党代表が16日、東京・国連広報センターに核廃絶、軍縮要請文を提出
1982/3/14
第1回長崎高校生平和ゼミナールが長崎市で開催、5校18人が参加。爆心地近くで被爆瓦を掘る
1982/3/14
日本青年団協議会など青年・学生6団体の「反核3,000万人署名推進キャラバン」が広島、長崎を目指して東京を出発
1982/3/14
日本原子力船研究開発事業団が、青森県むつ市関根浜地区への原子力船「むつ」新母港の建設は可能とする調査報告書と港湾構想を同県、市と県漁連に提示
1982/3/15
歌舞伎、文楽、能、新劇など演劇、舞台関係者が「平和への演劇人の訴え」を発表。木下順二、内村直也、川口松太郎さんらが発起人で88人が賛同
1982/3/15
米国務省が「ソ連配備の中距離核ミサイルSS20は既に300基。5カ所の発射基地を建設中」と公表
1982/3/15
レーガン米大統領がテネシー州議会で演説。米議会内の米ソ核兵器数現状凍結案について「現状で凍結したらソ連に利するだけ」と反対の立場を表明
1982/3/15
ローマ法王ヨハネ・パウロ二世の平和アピールに感動したイタリア・ミラノ在住の画家アレッサンドロ・ナスタージオさんが「原子爆雲の中の死と生」を広島県立美術館に贈る
1982/3/15
スウェーデンの女流作家、リュングバーグさんが広島を訪問。ヒロシマをテーマに絵詩構成作品を書くため被爆者らを取材
1982/3/15
米国原爆被爆者協会の倉本寛司会長が長崎市を初めて訪れ、本島等長崎市長に在米被爆者援護を要請(「長崎年表」)
1982/3/15
原子力船「むつ」の5代目船長に室原陽二氏が就任
1982/3/16
ロバート・ロング米太平洋軍司令官が下院軍事委員会で証言。「ソ連はモンゴルに戦域核SS20を配備。中国向けだが、日本、フィリピンも射程内」
1982/3/16
レーマン米海軍長官が「ソ連の原子力潜水艦で何回も原子炉事故が発生、乗組員に複数の死者を含む健康障害が出ている」と明かす。安全基準の低さが原因と指摘
1982/3/16
ソ連のブレジネフ書記長が欧州中距離核ミサイル凍結の方針を表明。「既に欧州に配備した中距離核ミサイルを質量ともに凍結、国際情勢の悪化がない限り、1982年中に一方的に一定量を削減」。レーガン米大統領は「米ソ双方が全廃する米提案(ゼロ・オプション)でなければだめ」とソ連案を拒否。英は17日、米案を支持。西ドイツは29日、条件付きでソ連案を支持
1982/3/16
原子力委員会の廃炉対策専門部会が、寿命のきた原発処分について「解体撤去が適当」と報告書
1982/3/16
島根県が原子力発電所事故に備え、ヨウ素剤の購入を明らかにする。県原子力防災計画の対象人口9万人の2.1日分を県立中央病院(出雲市)に保管。事故の際、住民に配布
1982/3/16
ジュネーブでの米ソ欧州戦域核削減交渉が2カ月間の中断に入る。交渉経過を両本国で検討へ
1982/3/17
自民党が「核兵器および軍縮問題に関するわが党の態度」と題する党見解を各都道府県連に流し、野党や民間団体の署名、決議に加わらないよう通知。党独自の軍縮署名運動を展開する方針
1982/3/17
広島県朝鮮人被爆者協議会が広島市の平和記念館で「県朝鮮人被爆者の集会」を開き、約200人が参加。極東地域の軍事基地や核兵器撤去、朝鮮人被爆者の援護策充実など5項目を決議
1982/3/17
原爆資料館に「被爆証言コーナー」設置。高橋昭博館長ら被爆者8人の体験をテープで流す
1982/3/17
日本バプテスト連盟が広島市の広島基督教会で「反核広島祈とう会」。核兵器廃絶を求める声明発表
1982/3/17
社会、公明、民社3党が今国会に被爆者援護法の野党案を共同提出で合意
1982/3/18
大阪府松原市の布忍(ぬのせ)小学校の卒業式で、卒業生全員が平和の誓い。修学旅行でのヒロシマ学習など1年間の平和学習の総仕上げ
1982/3/18
ロストウ米軍備管理軍縮局長が米下院外交委員会で、核兵器製造能力を持つ国としてアルゼンチン、ブラジルなど7カ国を挙げる。他はインド、パキスタン、南アフリカ、イスラエル、リビア
1982/3/18
日本科学者会議の核兵器廃絶署名に科学者184人が署名。国公私立の大学長40人も署名。中国地方では今堀誠二広島女子大学長、今石益之広島女学院大学長
1982/3/19
「反核写真運動」呼び掛け人集会が初めて東京で開かれ、署名活動や反核写真集の出版などを申し合わせる。代表委員に秋山庄太郎氏ら8人
1982/3/19
岡山県議会が「核兵器の廃絶と軍備縮小の推進に関する意見書」を採択。前年6月県会では非核三原則堅持の意見書を否決
1982/3/19
東京・武蔵野市に「市民平和アピール発起人会」が発足。全市民署名を開始。発起人に長崎平和祈念像の彫刻家北村西望、作家藤原ていさんら24人
1982/3/19
山口市の市民会館で「山口反核集会」が開かれ、約400人が参加。作家小田実さん、西田勝法政大教授らと討論、市内デモ
1982/3/19
四国電力の伊方原子力発電所2号機(愛媛県西宇和郡伊方町)が営業運転を開始。全国23番目
1982/3/19
西ドイツの環境保護団体「緑の党」(ペトラ・ケリー議長)ガイデンキルヘン支部の女性代表クリスタ・ニケルスさんが広島入り。反核20万人集会に参加へ
1982/3/19
ローマ法王庁から核兵器廃絶を願うヨハネ・パウロ二世の考えを書いた返書が日本被団協に届く。2月に被団協が各国首脳へ送った要請文への返事
1982/3/19
中性子爆弾の惨状を再現した米短編映画(10分、カラー)が東京で試写会。米平和活動家の監督ハスケル・ウェックスラー氏が実写フィルムを使い製作、「子どもたちに世界に!被爆の記録を贈る会」が入手
1982/3/20
東京・日本青年館で「反核・日本の音楽家たち」の設立総会。約150人が参加。8月に広島市で「国際反核平和コンサート」開催へ。運営委員に作曲家の芥川也寸志、いずみたく氏ら37人
1982/3/20
日本ジャーナリスト会議が核兵器廃絶・軍縮実現のためのアピールを発表。「報道・言論人は政府に軍拡路線を改めさせ、非核三原則の法制化を迫るキャンペーンが必要」と呼び掛け
1982/3/20
全国マスコミ文化共闘会議が広島市の平和記念館で「ヒロシマ行動前夜祭」、約250人が参加。中国新聞元カメラマンの松重美人さんが撮影した被爆写真をスライド上映
1982/3/20
仏のパリ在住日本人有志で結成した「広島・長崎を伝える会」が同市内の旧バスチーユ駅で被爆写真展。28日まで
1982/3/20
広島反核20万人集会に参加するため長崎県内の労組員855人が長崎駅を出発(「長崎年表」)
1982/3/20
「仏が20日、南太平洋ムルロア環礁で地下核実験」とニュージーランドの地震観測所が24日発表
1982/3/21
「82年・平和のためのヒロシマ行動」で、童話「おこりじぞう」(山口勇子作)の紙芝居を上演。広島市在住の画家四国五郎さんが大型キャンバス16コマに描き、俳優の沼田曜一さんが語る
1982/3/21
「仏が21日、南太平洋ムルロア環礁で核実験を実施」とパリ消息筋が25日語る。中性子爆弾開発の一環と指摘
1982/3/21
原爆詩人の栗原貞子さんが3年ぶりに反核詩集「核時代の童話」を発刊
1982/3/21
「82年・平和のためのヒロシマ行動」が広島市の平和記念公園を中心に開会。主催者発表で約19万4,000人(広島県警調べ9万4,500人)が参加。市民層の参加が目立つ。核廃絶へ総結集を呼び掛けるヒロシマ・アピールを採択。広島実行委員会は4月24日、「反核運動の国民的合意を得た」と総括
1982/3/22
ワシントンの米国議会議員会館で公開ヒアリング「核凍結・削減フォーラム」が開かれ、広島の被爆者の笹森恵子さん(ロサンゼルス市在住)ら4人の在米、在カナダ被爆者が証言
1982/3/22
パーシー米上院外交委員長がレーガン政権の核政策に強い不信を表明する異例の声明を発表。米ソ戦略兵器削減交渉(START)の即時開始決議案を提出
1982/3/22
原水禁国民会議が広島市で全国委員会を開き、「アジア・太平洋非核地帯条約案」まとめる。国連軍縮特別総会への提出を政府要請へ
1982/3/23
広島市議会が核兵器廃絶と軍縮推進を政府に求める意見書を採択
1982/3/23
欧州歴訪中の社会党の飛鳥田一雄委員長がミッテラン仏大統領と会談。大統領は「一方的に軍縮に踏み切る余地はない」と独自の核戦力保持を表明
1982/3/23
広島の被爆二世の若手作曲家細川俊夫さん(西ドイツ在住)が、原爆をテーマにした曲づくりのため広島市に里帰り。原爆資料集めや原爆資料館見学。9月のベルリン音楽祭で発表へ
1982/3/23
広島原爆病院入院患者の美容奉仕を続けてきたニュー双葉美容室の沖従子さんが白血病で死去。58歳。被爆者で、1957年末から奉仕を開始
1982/3/23
愛知県津島市議会が全国自治体で初めて「非戦・核兵器廃絶都市宣言」を可決
1982/3/24
自民党が全国の非核都市宣言について「非核三原則を堅持するわが国では無意味」と見解
1982/3/24
鈴木首相が政府、自民党連絡会議で、地方議会の反核決議の高まりについて「反核決議が反米にならないよう」と懸念。26日には参院予算委員会で地方自治体の非核宣言に疑義を表明
1982/3/24
東広島市議会が「核兵器全面撤廃と軍縮推進」を求める政府への意見書を採択。長崎県議会と沖縄市議会も軍縮決議、意見書を採択
1982/3/24
NATO「核計画グループ」国防担当相会合が、ソ連の欧州戦域核凍結案の拒否、戦域ミサイル配備の推進などを盛り込んだ共同コミュニケを採択
1982/3/24
被爆問題市民団体懇談会(日本被団協など11団体)が衆院議員面会所で援護法制定国会請願大会を開き、衆参両院議長と政府に核兵器廃絶と援護法制定を要請。3年前から提出の署名がこの日で1,000万人を超える
1982/3/25
広島市の隣町、安芸郡府中町議会が「非核町宣言」を決議。広島県議会や大竹、山口、北九州、佐賀の各市議会、山口県の和木町議会も反核、非核の意見書
1982/3/25
日本被団協が世界に被爆者を派遣する「語り部の旅」第1陣として、斎藤義雄事務局次長と小西悟国際委員長の役員2人がスイス、西ドイツ、イタリアに出発。4月15日、帰国
1982/3/25
広島県原水禁の「ヒロシマ語り部の旅」第3陣で、国労広島地本新幹線支部書記長の岡村良二さんと同広島第2支部副委員長の西森秀雄さんの2人がオランダ、ベルギーに出発。4月11日、帰国
1982/3/25
生け花の草月流の勅使河原宏家元が広島原爆病院に100万円を寄付
1982/3/25
荒木広島市長が20日の仏地下核実験に抗議電報
1982/3/26
東京都議会の各会派が反核決議案の提出を断念。自民、社会両党間で「原子力の平和利用」をめぐり最終調整がつかず。鈴木俊一都知事も自民党のブレーキで「非核都市宣言」提案を見送り
1982/3/26
荒木広島市長が21日の仏地下核実験に抗議電報。原爆慰霊碑前など広島県内17カ所を含め全国24カ所で抗議の座り込み
1982/3/26
政府の電源開発調整審議会が全国15の新規電源開発を決定。原子力発電所では北海道電力の共和・柏原発が事実上ゴーサイン
1982/3/26
長崎市議会が核兵器の廃絶と軍縮の推進に関する決議を採択(「長崎年表」)
1982/3/26
動力炉・核燃料開発事業団の人形峠事業所(岡山県苫田郡上斎原村)のウラン濃縮試験工場が全面稼働。純国産の遠心分離法で国内自給へ
1982/3/27
米上院外交委員会が1959年の秘密聴聞会の未公開部分を23年ぶりに発表。ベルリン危機をめぐり当時のアイゼンハワー政権高官が、ソ連次第で核使用を含む全面戦争の強硬姿勢を取っていたことが明るみに
1982/3/28
原爆乙女の渡米治療や原爆孤児の精神養子運動などに尽くした広島流川教会の谷本清牧師が引退を決め、最後の礼拝
1982/3/29
荒木広島市長と本島等長崎市長が、国連軍縮特別総会に向け政府が核兵器廃絶に積極的に取り組むよう求める要望書を外務省に提出
1982/3/29
松江市議会が国連軍縮特別総会で核兵器廃絶を呼び掛けるよう政府に求める要望を採択。沖縄県議会、佐世保、宮崎市議会も核兵器完全禁止などの意見書
1982/3/29
沖縄県島尻郡南風原町が非核町宣言
1982/3/29
1945年当時、米第20空軍司令官として広島、長崎への原爆投下作戦を指揮したネイザン・トワイニング元米統合参謀本部議長が心臓病のため死去。84歳
1982/3/30
米下院本会議で核軍縮について7時間の特別討議。対ソ軍縮交渉、核兵器凍結をめぐり激論。反核団体が議会周辺で「反核キャンドル集会」
1982/3/30
鳥取県気高郡青谷町議会が同町への原子力発電所の立地に反対する意見書を採択し、首相らに送付。中国電力の原発候補地のうわさに先制議決
1982/3/30
教員の主任手当プール分を使って「ヒロシマ学習」の東京・西多摩地区の小中学生50人と都教組西多摩支部の8人の教師が、3泊4日で広島を訪問
1982/3/31
全国都道府県議会のうち三分の二に当たる33府県議会で反核・軍縮を求める決議、意見書を採択(31日現在)。岐阜、山口、長崎3県が決議、30府県が政府への意見書。全国の市町村議会の決議、意見書は67自治体に
1982/3/31
ミッテラン仏大統領が日本人記者団と会見。「独自の核戦略を引き継ぐ。核実験も継続」
1982/3/31
非政府組織(NGO)軍縮特別委員会主催の「第2回軍縮特別総会と国際世論会議」がジュネーブ国連欧州本部で開会。約40カ国150団体代表が参加。4月2日、核兵器による人類自滅に反対するアピールを採択し、閉幕
1982/3/31
広島、長崎両市が共同で製作した原爆映画「ヒロシマ・ナガサキ-核戦争のもたらすもの」が完成。広島市の平和記念館でマスコミ関係者らに公開。早川正美監督、16ミリカラー、46分。広島市としては「ヒロシマ原爆の記録」(1970年製作)に次ぎ2作目
1982/3/31
広島原爆病院の石田定内科部長が退職。1957年4月赴任以来25年間、被爆者医療に尽くす。4月1日「核戦争防止国際医師会議」(ロンドン)に出発
1982/3/--
原子力発電所から出る低レベル放射性廃棄物の陸上貯蔵施設の候補地に北海道北部の幌延、下川両町が有力に。科学技術庁が地元接触を開始
1982/3/--
「原水禁運動の統一をめざす静岡県民準備会」の青年メンバーが、第五福竜丸の水爆被災を扱ったスライド映画「死の灰」(82コマ)を完成
1982/3/--
文芸誌「群像」1月号に載った原爆作家林京子さんの小説「無事-西暦1981年・原爆37年」をめぐり文学論争。「核の恐怖を希薄化」「体験の重さを照射」と賛否
1982/3/--
太平洋への放射性廃棄物投棄計画や仏核実験中止を求める「反核太平洋国際署名」代表が、科学技術庁に日本を含む53カ国3万人の署名を提出
1982/3/--
米政府が1954年の水爆実験など一連のビキニ核実験で犠牲を強いたマーシャル諸島住民のうち、元ビキニ島住民を中心に補償金を支払う方針を決定-。米国務省筋が明かす

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