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ヒストリー

ヒロシマの記録1982 7月


1982/7/1
ニュージーランド科学技術省が「仏は1日、ムルロア環礁で20キロトン規模の地下核実験」と発表
1982/7/1
デクエヤル国連事務総長が国連軍縮特別総会に報告書を提出。核兵器全面禁止への交渉や非核地帯の設置などを勧告
1982/7/2
「非核武装に関する欧州会議」がブリュッセルで開会、西欧を中心に25カ国約800人が参加。バルカン半島の非核武装化推進で一致。4日まで
1982/7/2
国際文学者会議(西ドイツ・ケルン市、6月18~25日)に参加した原爆詩人の栗原貞子、広島大助教授の好村冨士彦さんらが帰国報告。「ケルン市の出版社から原爆文学選集のドイツ語版出版の申し出があった」
1982/7/2
動力炉・核燃料開発事業団が福井県敦賀市に建設予定の高速増殖炉原型炉「もんじゅ」の公開ヒアリングが同市民文化センターで開会。軽水炉に代わる新型炉の安全性に不安が続出
1982/7/2
島根原子力発電所が立地する島根県八束郡鹿島町の庁舎建設工事で、中国電力が総事業費の三分の二の8億4,000万円の寄付を約束し、既に1億3,000万円支払われていることが判明。5日、島根県労評など3団体が中電島根支店、同町役場に寄付撤回を申し入れ
1982/7/4
スウェーデンのウプサラ大地震研究所が「ソ連は4日、セミパラチンスク周辺で強力な地下核実験を実施」と発表
1982/7/4
荒木広島市長が仏地下核実験に抗議電報
1982/7/4
松山市で「おこり地蔵を語りつぐ子供の会」が結成。児童文学「おこりじぞう」のモデル地蔵が祭られる同市の竜仙院で小中学生約100人が反核を誓う
1982/7/5
仏とソ連の地下核実験に抗議し、原爆慰霊碑前など広島県内23カ所、県外12カ所で座り込み
1982/7/5
荒木広島市長がソ連地下核実験に抗議電報
1982/7/6
米国立オークリッジ研究所が「スリーマイル島規模の原子力発電所の大事故は13年半に1回の割で起こり得る」との結論をまとめる。米原子力規制委員会の委嘱で米国内の原発事故を調査
1982/7/6
広島大核融合理論研究センターが「核融合プラズマの発生から消滅まで全過程をコンピューターで立体的に模擬実験することに成功」と発表
1982/7/6
鈴木首相が参院外務委員会で、国連の核不使用決議について「国会決議を踏まえ積極対応」を表明
1982/7/7
中国電力の島根県八束郡鹿島町に対する約8億円の寄付問題で、反原発中国5県共闘会議と原水禁中国ブロック会議が中電本社に寄付撤回を申し入れ
1982/7/7
広島県豊田郡の東野、大崎、木江3町の役場前で、ソ連地下核実験に抗議して初の座り込み。大崎地区労が呼び掛け
1982/7/7
被爆瓦の発掘、保存運動を続ける「広島県高校生平和ゼミナール」(河野浩樹委員長)に1982年度「子どもの文化賞」が決まる
1982/7/7
広島、長崎の惨状を撮影した米戦略爆撃調査団の責任者ハーバート・スサン氏(ニューヨーク在住)の会見記事を載せた米紙シアトル・タイムズが広島国際文化財団に届く。スサン氏は「ヒロシマ、ナガサキで見た被爆の惨状は私が生き続ける限り影のようにつきまとう」と苦悩を述べる。会見したエリザベス・ローズ記者は1981年アキバ・プロジェクト招請記者で広島を取材
1982/7/7
広島県被団協(森滝市郎理事長)が1982年度運動方針を決める。(1)被爆者援護法制定のため県内の全市町村から国会請願団を出す(2)被爆体験を語る運動を世界に広げる-など
1982/7/8
被爆瓦の発掘運動を通じて建立が計画された「原爆犠牲ヒロシマの碑」が広島市中区大手町2丁目の平和記念公園対岸の緑地で起工式
1982/7/8
米シカゴ平和資料館のマーク・ロゴビン館長が広島市を訪れ、被爆者が描いた「原爆の絵」の原画50点を選ぶ。8月6日から約4カ月間展示へ
1982/7/8
広島の若者や学識者が反核行事を企画する「ヒロシマ反核テーブル」を結成。反核市民運動の継承を目指す
1982/7/9
駐屯の警備隊員らが被爆死した広島市中区の幟町国民学校跡(現在の幟町公園)から掘り出された被爆の遺品37点が原爆資料館に寄贈。広島地区第1特設警備隊中部第32037部隊の生存者、茶木原実人さん(中区江波西1丁目)が保存
1982/7/9
広島県労会議青年部など7団体の「反核・平和の火リレー」が平和記念公園をスタート。広島県世羅郡世羅西町で開く県青年婦人平和友好祭を目指す
1982/7/9
広島国際文化財団の1982年アキバ・プロジェクト招請記者4人の1人に、欧州から初めて英のフリー記者トニー・ワールドさんが決まる
1982/7/9
ブラジルのアラタニャ海軍参謀長が「ブラジルは既に原爆製造能力を持っている」と言明
1982/7/9
米国防総省が「米戦略核部隊が地球規模の総合演習(15~23日)を実施」と発表。米、英、西ドイツ30カ所の戦略空軍が参加
1982/7/10
広島大名誉教授の中野清一氏(京都府宇治市)が「広島・原爆災害の爪跡」(蒼林社)を出版。被爆者の現代的課題などを収録
1982/7/10
第2回国連軍縮特別総会が5週間の討議を終え閉幕。懸案の包括的軍縮プログラムは合意できず棚上げ。世界軍縮キャンペーン発足などがわずかな成果。核不使用決議案は表決されず
1982/7/10
被爆瓦発掘運動の歩みを童話作家山口勇子さんがまとめた「原爆瓦-世界史をつくる十代たち」が東京・平和文化社から発刊
1982/7/10
広島映画センターが広島名画座で10フィート運動の原爆映画「予言」の上映会を開始。23日まで。常設映画館での長期上映は初
1982/7/10
広島県高教組が定期大会で、8月6日を全校登校日にする特別決議を採択
1982/7/12
南方特別留学生として旧広島文理科大に留学中に被爆したブルネイの元首相ペンギュラン・モハド・ユソフさんが37年ぶりに母校を訪れ、恩師や同級生と再会
1982/7/14
原爆資料館の被爆ピアノが37年ぶりによみがえる。広島で被爆した作曲家竹西正志さん(東京在住)の曲「哀傷」を、地元のピアニスト中村さつきさんが演奏。NHK広島放送局の原爆特集がきっかけで調律
1982/7/14
中国新聞社が広島、岩国に1メガトンの核兵器が落ちた場合の被害シミュレーションを特集で掲載。専門家の協力で被害を模擬計算し、核の脅威を実証。広島市で60万人以上、岩国市で6万人以上の犠牲者と予測
1982/7/15
戦時中、三菱重工業広島造船所で働いた韓国人徴用工2人と韓国原爆被害者協会の辛泳洙会長らが広島法務局で、三菱側が供託している未払い賃金記録簿の閲覧を申請
1982/7/15
写真集「原爆の碑広島のこころ」(黒川万千代編)が新日本出版社から発刊(「奥付」)
1982/7/16
九州電力の玄海原子力発電所3、4号機(佐賀県東松浦郡玄海町)について、通産省の第1次公開ヒアリングが唐津市で開会。反対派がボイコット、陳述人24人全員が賛成意見。社会党、総評など約3,500人が阻止行動
1982/7/16
日韓両国政府の合意に基づく渡日治療で、広島原爆病院に入院していた在韓被爆者10人のうち金元均さんら7人が退院、帰国
1982/7/16
原爆資料館で入館料徴収や売店経営をする原爆資料保存会の運営に疑惑。市の業務委託料から掛ける職員の社会保険料などが未払い。8月25日、横田工会長を詐欺容疑で広島地検へ書類送検
1982/7/17
広島、長崎などの市民グループや研究者が広島市の平和記念館でシンポジウム「反核・軍縮の今後」を開会。市民運動の拠点として「ヒロシマ・ナガサキ国際平和研究所」(仮称)設立運動の推進を申し合わせ
1982/7/19
日本被団協が東京で被爆者援護法制定を求める中央行動。厚生省と各政党へ援護法制定を要望
1982/7/19
レーガン米大統領が国家安全保障会議で、米英ソ3カ国の包括的核実験禁止条約交渉を再開しないことを決定。米紙ニューヨーク・タイムズが伝える
1982/7/19
自治労被爆二世連絡協議会など主催の被爆写真展が東広島市の中央公民館で開会。24日まで
1982/7/19
高知県高岡郡窪川町の町議会が、原子力発電所の立地を住民投票で決める全国初の条例案を可決。投票は四国電力の立地調査が完了する1984年以降の見通し
1982/7/20
岩国市の灘小学校で、展示された原爆写真20枚のうち2枚が校長の意向で撤去。黒焦げの子供と遺骨の写真。「残酷過ぎ、人間軽視になりかねない」が理由
1982/7/21
米下院が次期戦略核ミサイルMXの最初の生産予算を可決
1982/7/21
北欧の平和運動グループ「82年平和行進」の約300人がモスクワに到着。24日、中心部をデモ行進。西側反核団体のソ連訪問は初
1982/7/21
韓国人被爆者の孫振斗被告(福岡市博多区)の窃盗事件で、福岡簡裁が懲役10月の実刑判決。1月26日、同市内のたばこ店から現金5,600円を盗んだ罪。孫被告は1979年以来、窃盗罪で2度の有罪判決を受け、81年9月に仮釈放、その4カ月後の犯行
1982/7/21
広島放送児童合唱団が、英詩人エドモンド・ブランデンの詩をもとにした合唱曲「ひろしまのうた」演奏のため広島を出発。西ドイツや英ブリストル市の音楽教育国際会議などで計5回演奏。8月1日帰国
1982/7/21
広島、長崎の被爆者らがバチカン・サンピエトロ広場でのローマ法王ヨハネ・パウロ二世の一般謁見で、10フィート映画の原爆映画「にんげんをかえせ」「予言」のイタリア語版を贈る。「子どもたちに世界に!被爆の記録を贈る会」の代表団10人で、広島から被爆者の芝間タヅ、映画プロダクション代表月下美紀、広島YMCA総主事相原和光の3氏が参加
1982/7/21
ニュージーランドが「仏は21日、南太平洋ムルロア環礁で核実験を実施」と23日発表
1982/7/22
広島で被爆したカナダ在住の節子サーローさんが同国政府の研究留学助成金を受け、被爆者研究のため日本へ出発。約1年間、広島、長崎、東京で平和運動と被爆者の研究。8月31日、広島で本格調査を開始
1982/7/22
広島県高教組の被爆二世教師らが「県高教組原爆被爆二世教職員の会」を結成。二世の医療充実や平和教育の推進など活動方針を決める
1982/7/22
米の最新型戦域核ミサイル・パーシング2の初の発射実験が失敗。フロリダ州で発射直後に爆発。1983年からのNATO配備に支障も
1982/7/22
電産中国本部の清水英介委員長が山口県支部定期大会で「中国電力が萩市、同県熊毛郡上関町、下松市などで原子力発電所の立地を計画」と報告
1982/7/23
名古屋市で開かれた全国知事会で、10フィート運動の原爆映画「にんげんをかえせ」が上映
1982/7/23
原爆作家の「大田洋子展」が広島市の平和記念館で始まる。代表作「屍の街」など生原稿20点、各作品の初版本、手紙。「屍の街」生原稿は広島初公開
1982/7/24
広島国際文化財団の1982年アキバ・プロジェクト招請記者の米英4記者が広島入り
1982/7/24
広島県教委が市民の証言を基に、広島市中区上幟町の縮景園前駐車場で被爆者の遺骨の発掘を開始。2日間の作業で遺骨は見つからず
1982/7/24
荒木広島市長が21日の仏核実験に抗議電報。25日、原爆慰霊碑前で約15人が抗議の座り込み。平和学習中の広島県安芸郡の海田中学校の生徒約20人も
1982/7/26
核禁会議が長崎市で開催予定の核禁長崎地方集会(8月3日)の中止を決定。集中豪雨が理由
1982/7/26
広島市東区の竹谷富美子さんと梶原文江さんが広島原爆養護ホームやすらぎ園で理容奉仕
1982/7/26
広島市の平和祈念式で「平和の鐘」をつく遺族代表に被爆二世2人が決まる。同市南区の会社役員山本周二さんと西区の珠算塾教師市場奈美さん
1982/7/26
市民が被爆の惨状を描いた「原爆の絵」展が広島市の中、南、安佐南区役所で始まる。市内7区役所で順次展示へ。区役所での被爆写真展(1980年)に続く市民の体験継承企画の2回目
1982/7/26
広島市に入った連絡で、仏が26日、南太平洋ムルロア環礁で核実験を実施
1982/7/27
南太平洋のバヌアツ共和国が核積載疑惑のある米艦船の寄港拒否を表明。グアムで同政府筋が共同通信に語る。日本の非核三原則を手本に「核の一時持ち込みを許す可能性を拒否したい」
1982/7/27
荒木広島市長が仏核実験に抗議電報。29日、原爆慰霊碑前など広島県内26カ所と県外12カ所で座り込み
1982/7/27
山口県原爆被爆者福祉会館ゆだ苑専務理事の永松初馬さんが、中国新聞のコラム「緑地帯」に「山口の被爆者」と題して被爆体験を連載
1982/7/28
米核実験で放射能を浴びた全米被曝退役軍人協会理事長のジョン・スミザーマンさん(ミネソタ州在住)が治療と原水禁世界大会に参加のため来日。リンパ浮腫で両足を切断、左手もはれる。「この体で恐怖を訴える」
1982/7/28
原爆作家の大田洋子が「屍の街」を執筆した場所が判明。定説だった広島県佐伯郡佐伯町の江島病院でなく、同町玖島の雑貨店。未公表の手紙で明らかに
1982/7/28
総評系の電産中国地方本部が定期大会で、反原発闘争の強化を訴える
1982/7/28
九州電力玄海原子力発電所3、4号機をめぐる佐賀県東松浦郡玄海町の住民組織による増設推進派町長の解職リコール署名が、有効数に29人足りず不成立
1982/7/28
原爆資料館の遺品と遺族の思いをつづる資料記録集「遺品は語る」が発刊。写真家の森下一徹さんと作家の深沢一夫さんの共作
1982/7/28
広島へ平和学習に来た全国の小中高校生らの感想文をまとめた「子どもたちの見たヒロシマ」が発刊。作家文沢隆一さんが編集
1982/7/29
長崎市での日本原水協の独自集会(8月9日)が、豪雨禍で中止に
1982/7/29
島根県八束郡鹿島町に対する中国電力の8億円寄付の撤回を求め、原水禁島根県協議会が町役場前で抗議集会。松江市まで反原発平和行進
1982/7/29
中国電力の松谷健一郎社長が、新たな原子力発電所の立地で山口県内が最有力候補地と示唆。島根県鹿島町や計画中の山口県豊北町に次ぐ立地で、具体的地名は示さず
1982/7/29
被爆地広島の復興を伝える歴史資料をまとめた「広島新史」資料編2(復興編)が刊行
1982/7/29
原水禁国民会議と日本原水協が統一開催の予定だった原水禁世界大会「長崎のひろば」(8月8日)が、集中豪雨禍で会場を変更、規模縮小も決定
1982/7/29
原水禁国民会議の国際連帯会議が東京・総評会館で開幕。約60人が参加。31日、非核太平洋の運動支援、被爆者の援護強化などを盛り込んだアピールを採択
1982/7/30
ケネディ米上院議員らが、レーガン大統領に核実験の包括的禁止交渉の再開など求める超党派の共同決議案を提出
1982/7/30
第10回広島県青年婦人平和友好祭が同県世羅郡世羅西町で開会、約600人が参加。8月1日まで
1982/7/30
「ウラルの核惨事」(ジョレス・A・メドベージェフ氏著、梅林宏道氏訳)が発刊(「奥付」)
1982/7/30
豊田清史氏著「はばたけ千羽鶴」(ちくま少年図書館65)が筑摩書房から発刊(「奥付」)
1982/7/30
核禁会議の全国集会が広島市で開会、約1,000人が参加。核軍縮国際センター(東京)早期設立や被爆者援護促進、核エネルギー平和利用のための安全管理体制強化など核禁アピールを採択。被爆者救援カンパ1,100万円を広島市、広島原爆病院に寄付
1982/7/30
カナダのロアー・サクビル市のハミルトン小学校の児童が折った千羽づるが広島市の幟町小学校に届く。8月4日に平和記念公園の「原爆の子の像」へ
1982/7/30
長崎市が1982年度から初めて実施する在米被爆者渡日治療で、カリフォルニア州に住む長崎市出身の2女性が里帰り。日赤長崎原爆病院に入院(「長崎年表」)
1982/7/31
日本被団協が東京で「核戦争の危機と被爆者援護法を考える懇談会」を開催。盛り上がる反核運動と援護法運動の連携を探る目的
1982/7/31
米ニューヨークの国連本部で開かれた「現代世界の核の脅威展」が東京・新宿の野村ホールで始まる。10月に広島など5都市で巡回展示へ
1982/7/31
岡山市の「夏まつりおかやま82」の歩行者天国で、若者ら市民グループが10フィート運動の原爆映画上映や反核紙芝居
1982/7/31
「大田洋子集」(全4巻)の第1巻が三一書房から発刊。2巻(8月31日)、3巻(9月30日)、4巻(10月31日)も続刊
1982/7/31
被爆者と一般戦災者が広島市で初の交流集会「すべての戦争犠牲者の集い」を開く。同じ戦争犠牲者として連携を呼び掛け
1982/7/--
市民グループ「長崎在日朝鮮人の人権を守る会」が長崎で被爆した朝鮮人の実態調査をまとめる。長崎の被爆朝鮮人は約2万人、うち死者は1万人以上と推定。市が発表(1981年6月)した被爆約1万3,000人、死者1,400~2,000人とずれ
1982/7/--
国連が1982年版「軍縮年鑑」を発行。「78年の第1回国連軍縮特別総会の以後、実質的に達成された軍縮措置は全くない。逆に国際政治環境が悪化、新しい期待も生まれていない」と軍縮交渉の停滞を憂慮
1982/7/--
広島大総合科学部の芝田進午教授が共著で「反核・日本の音楽-ノーモア・ヒロシマ音楽読本」(汐文社)を出版。約400曲の原爆音楽リストや解説
1982/7/--
原爆詩人原民喜の詩に作曲家の林光氏が曲をつけた合唱曲「新原爆小景」が完成。8月9日に東京で初の演奏会へ
1982/7/--
東京のフリージャーナリスト山口義夫さんらが、西暦2000年に広島で五輪を開く市民運動
1982/7/--
米ネバダ核実験場の風下のネバダ州リンカーン郡とユタ州ワシントン郡の住民約1,500人が、「核実験でがんなどになった」と米政府を相手取り、医療費や損害賠償を求める訴えを連邦地裁に起こす

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