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ヒストリー

ヒロシマの記録1982 10月


1982/10/1
ソ連のグロムイコ外相が国連総会で核実験即時全面禁止条約の締結を呼びかけ
1982/10/1
広島学習に来た京都府相楽郡山城町の小学生10人のリポートを掲載した町報が原爆資料館に届く
1982/10/1
桜内義雄外相が国連総会で演説し、平和、軍縮の機能強化を訴える
1982/10/1
9月26日のソ連、29日の米の地下核実験に抗議し、原爆慰霊碑前など広島県内26カ所で座り込み
1982/10/2
全国の詩人が「戦争に反対する詩人の会」を結成し、東京・狛江市で記念の集い
1982/10/3
広島へ修学旅行に来た大阪府松原市の布忍小学校6年生187人が、組体操とマスゲームで原爆の惨状と復興を表現
1982/10/4
米、欧州、ソ連3,500キロを8カ月かけて平和行進した米運動家K・ララビーさんが広島入り
1982/10/5
長編ドキュメント「原子爆弾」(仮題)出版を計画している米コネティカット州の作家ピーター・ワイドンさんが、被爆者取材のため広島入り
1982/10/6
米ソ戦略兵器削減交渉(START)がジュネーブで再開
1982/10/6
爆心500メートル以内の被爆生存者を10年間追跡調査した広島大原医研の鎌田七男助教授チームに、広島県医師会が広島医学会賞。爆心の被爆者78人を追跡、全員に染色体異常
1982/10/6
長崎の平和公園に全国から届く千羽づるを納める「折り鶴の塔」が完成、除幕式(「長崎年表」)
1982/10/6
フランス原子力庁が、1982年1月に故障した実験用高速増殖炉1号の運転再開は不可能として、稼働15年で解体を決定
1982/10/7
衆院安全保障特別委員会で伊藤宗一郎防衛庁長官が米の新鋭戦闘機F16の三沢基地配備問題に関し、「F16には核積載能力」と答弁
1982/10/8
英の反戦・平和運動家フィリップ・ノエルベーカー卿がロンドンの自宅で死去。92歳
1982/10/8
非核宣言した広島県安芸郡府中町に、米の非核条例制定の町メリーランド州ギャレットパークのローラ・プラット町長から正式に姉妹縁組の申し入れ
1982/10/8
来日中の国際自由労連(世界91カ国132組織加盟)のP・P・ナラヤン会長が広島を訪問し、原爆慰霊碑に参拝
1982/10/9
ジャズマンの井上敬三さん(広島市中区)ら広島の音楽家が反核を訴え「ヒロシマ・サバイバル・コンサート」を同市内で開く
1982/10/9
外務省が安保政策に関する基本見解を公表。軍縮問題について「核兵器全廃論は国際社会の安定を損なう」と核抑止力の有効性を強調
1982/10/11
ソ連がノバヤゼムリャで地下核実験
1982/10/12
荒木広島市長がソ連核実験に抗議電報
1982/10/12
米コロラド大医学部のカール・ジョンソン助教授が、米ネバダ核実験場の風下地区住民のがん発生パターンが広島、長崎と同じで、今後も続くと報告。ユタ州連邦地裁で行われている被曝住民の損害賠償請求訴訟に証拠として提出
1982/10/12
厚生省と広島、長崎両市が、今後1年間に76人の在韓被爆者の渡日治療受け入れを決定
1982/10/13
原水禁国民会議の被爆37周年原水禁沖縄大会が那覇市で開幕。15日まで
1982/10/13
米ソの医師が核戦争防止を語り合うソ連製作のテレビ映画「核戦争-不治の病」が米で放映
1982/10/14
ソ連の地下核実験に抗議し、原爆慰霊碑前など広島県内26カ所で座り込み
1982/10/15
カーター前米大統領がNHKのインタビューに「日本に寄港した米艦艇の何隻かは明らかに核兵器を装備」と答える
1982/10/15
国連軍縮週間(24日から)を前に、ユーゴスラビアの彫刻家アリヨス・イエルチナさんが「反戦・反核鉄の塑像展」を広島市の平和記念館で開く
1982/10/15
ミッテラン仏大統領が、米紙ニューヨーク・タイムズの「仏が中性子爆弾の製造決定」の報道否定
1982/10/15
日本原水協がカーター前米大統領の核積載艦の日本寄港発言で、日本政府への抗議声明を発表
1982/10/16
中国が初の潜水艦発射弾道ミサイル(SLBM)の実験に成功-と北京放送が伝える
1982/10/17
在韓被爆者診療のため、核禁会議の派遣医師団5人が広島を出発
1982/10/18
広島原爆病院の元院長、重藤文夫氏が東広島市の自宅で死去。79歳。20日、自宅で葬儀。11月1日、同病院で追悼式
1982/10/18
1982年度ノーベル平和賞のガルシア・メキシコ国連大使が、国連で「包括的軍縮の合意失敗は米ソに責任」と批判
1982/10/20
広島、長崎両市が製作した原爆映画「ヒロシマ・ナガサキ-核戦争のもたらすもの」英語版が日本紹介映画コンクールで金賞を受賞
1982/10/20
荒木広島市長のハマーショルド賞受賞が決まる。「平和連帯に対する功績」が理由
1982/10/20
イタリアの作家、アルベルト・モラビア氏が夫人と一緒に広島訪問。原爆慰霊碑に参拝
1982/10/21
国連軍縮特別総会に合わせ国連ビルで開かれた「現代世界の核の脅威展」が広島市の福屋デパートで開幕。国連広報局、創価学会平和委員会主催
1982/10/22
世界連邦宣言自治体全国協議会の1982年度総会が広島市の平和記念館で開会
1982/10/24
国連軍縮週間の開始に合わせ、大阪市の大阪城公園で「82年反核・軍縮・平和のための大阪行動」が開会、約50万人(主催者発表)が参加。被爆国日本が核廃絶の実現に努力をするよう求めオオサカ・アピール
1982/10/24
英の母親ら約2,500人がロンドンで核兵器反対デモ
1982/10/24
長崎市の旧三菱兵器製作所で被爆した動員学徒ら180人が37年ぶりに同市内で再会
1982/10/24
「原発はごめんだ市民の会」が広島市中央通りの歩行者天国で「米軍被曝兵士写真展」
1982/10/24
スウェーデンのストックホルムで核兵器に反対する2万5,000人が米ソ両大使館の間を平和行進
1982/10/24
「82反核・軍縮・平和のための長崎のつどい」が長崎市で開会。11の集いに約5,000人が参加
1982/10/26
中国電力の総評系組合の電産中国地方本部の組合員35人が、原発建設反対を訴え中電本社前で座り込み
1982/10/26
原子力委員会が原子力白書を閣議報告。原子力発電所の経済性を強調し、積極開発を打ち出す
1982/10/26
「水爆開発の父」といわれる米のエドワード・テラー博士がワシントンで講演。「広島への原爆投下は誤りだった」と語る
1982/10/26
国際軍縮促進議員連盟(大石武一会長)が東京・憲政記念館で反核集会
1982/10/26
被爆の実相を伝える日本被団協のパンフレット「ヒバクシャ」の仏語版が完成し、仏に送付
1982/10/26
広島市で軍縮教育国際シンポジウムが開幕。34カ国64人の海外代表を含め約200人の教師らが参加。「核も飢えもない世界」をテーマに討議。栗野鳳広島大平和科学研究センター長が「広島を拠点に平和教材の世界交流組織を」と提言。29日、「ヒロシマ・ナガサキの被爆実相を教える」などを盛り込んだヒロシマ・アピールを採択し閉幕(10・26夕、10・27、10・28、10・29夕、10・30)
1982/10/27
韓国電力公社が核燃料加工を行う韓国初の核燃料株式会社を11月中に発足へ
1982/10/27
原爆の後障害で亡くなった長崎市内の小学校教諭山口竹子さん(当時32歳)をモデルにした映画「せんせい」(製作・映像企画)が完成、広島市での軍縮教育国際シンポで初公開
1982/10/27
フィンランド国内80カ所で、欧州の核兵器全廃を要求する平和デモ。約15万人が参加
1982/10/28
ワインバーガー米国防長官が、11月2日の「核凍結決議」投票は「戦争への危険を増幅」と反対を呼びかけ
1982/10/29
国連大学の「平和、安全保障と軍縮に関する東京セミナー」が東京の同大本部で開会。31日まで
1982/10/30
核戦争防止国際医師会議(IPPNW)がオランダのハーグで開会。21カ国45人が参加、核兵器の即時凍結を決議
1982/10/--
テレビ新広島が、沖縄の那覇市で開かれた創作オペラ「はだしのゲン」をドキュメンタリー番組(30分)にし、3日と9日に放映へ
1982/10/--
広島市が、平和大通りの樹木や散策道整備を4年計画で進める方針を決め、10月末着工へ
1982/10/--
ポーランドの作曲家ペンデレツキ氏の「広島の犠牲者に捧げる哀歌」が第6回日本フィル広島公演(8日)で演奏へ
1982/10/--
広島原爆資料館を4~9月に訪れた修学旅行生が約22万人に上る。前年同期より26.6%増
1982/10/--
カナダ・バンクーバー在住の広島、長崎の被爆者15人がカナダ原爆被爆者協会の設立を計画。キヌコ・ラスキーさん(広島市出身)ら奔走
1982/10/--
イランがイスファハンの原子力研究所で原子力発電所の建設計画を再開-。国営イラン通信(IRNA)が月刊誌報道として伝える
1982/10/--
中国電力の第2の原子力発電所予定地として、山口県熊毛郡上関町が有力候補に。同町で原発誘致に向けた住民組織が発足準備。町議会も事前調査受け入れ決議へ
1982/10/--
原爆症治療のため日本に密入国し、窃盗事件を起こし福岡刑務所に服役中の韓国人被爆者の孫振斗受刑者に対し、福岡入国管理局が特別在留許可の更新を認めないことを本人に通知
1982/10/--
米ネバダ核実験の風下地区住民の損害賠償訴訟で、政府側証人のシュウェイカー厚生長官が核実験と住民のがん発生の因果関係を認める
1982/10/--
オーストラリアのビクトリア州バララット市のフォレスト・ストリート小学校6年生から1,000羽の千羽づるが届き、広島市の「原爆の子の像」へ

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