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ヒストリー

ヒロシマの記録1981 4月


1981/4/1
通産省が日本原子力発電会社の敦賀原発に対し「故障隠しがあった」と運転停止命令
1981/4/2
戦傷病者戦没者遺家族等援護法に基づく被爆死朝鮮人の遺族弔霊金、給与金の支払い請求を却下したのは不当、とした広島市の孫達秀氏らの異議申し立てを厚生省が却下。「日本国籍がない」が理由
1981/4/2
広島大で第36回日本物理学会。「物理学者の社会的責任」をテーマにシンポジウム開く。広島大理論物理学研究所の永井秀明助手が全国の2,100人の科学者を対象にアンケート。「広島、長崎の原爆投下はやむを得なかった」が約20%、「核兵器を開発したい」が8%
1981/4/3
広島市史編修委員会が故都築正男東大教授の資料集を「広島新史・資料編1」として刊行
1981/4/6
米シアトル市の収入役ロイド・ハラ氏が広島市を訪れ、荒木市長に5月にシアトル市で開催を計画している「原爆後障害シンポジウム」の準備状況など報告
1981/4/7
社会党など野党6党(社、公、民、共、新自ク、社民連)が国家補償に基づく原子爆弾被爆者等援護法案を衆院へ共同提案。1977年4月以来5回目。共産党が社公民案に歩み寄る
1981/4/7
ヒロシマを8回にわたり紹介したユーゴスラビア・リエカ市の新聞ノビィ・リストが広島市に届く
1981/4/7
「1980年12月にオーストラリア・シドニーで核物質運搬車が横転、少なくとも10人が核汚染。付近の住民数千人が汚染した可能性も」-。警官ら10人を治療した医師が告発
1981/4/8
北大西洋条約機構(NATO)の核計画グループ国防相会議が、ソ連の提案している中距離核ミサイル欧州配備中止案の拒否を決める。「ソ連提案は核戦力の東西格差を固定化する」
1981/4/9
鹿児島沖で米原潜ジョージ・ワシントンが愛媛県北条市の貨物船日昇丸を当て逃げ。野口泰三船長と松野下純夫1等航海士の2人不明。原潜はポラリスA3核ミサイル16基を積載。マンスフィールド駐日米大使が遺憾の意を表明。10日、レーマン米海軍長官が遺憾の意
1981/4/10
広島平和記念館でローマ法王ヨハネ・パウロ二世からの贈り物公開。1945年8月8日、原爆の破壊力に警鐘を鳴らしたバチカン市の新聞「オブセルバトーレ・ロマーノ」(イタリア語)のコピー鋼板。「人類は憎しみと支配欲を優先させることに専心し、そのために最も効果的な道具を得た。…この戦争は黙示録的な驚きを与える」
1981/4/11
レーガン米大統領が原潜ジョージ・ワシントンの事故で遺憾の意表明
1981/4/12
中川一郎科学技術庁長官が、「政府は原子力船『むつ』の母港として青森県大湊港を断念。新たに同県内の外洋に母港を建設したい」と青森県知事らに提案。新母港には関根浜が有力
1981/4/13
広島市がローマ法王ヨハネ・パウロ二世の広島訪問の記録映画を完成
1981/4/13
米国日系市民協会会長のジェームス・ツジムラ氏が広島市を訪れ、荒木広島市長、松原博臣在米被爆者検診医師団長と原爆シンポジウムで打ち合わせ
1981/4/16
広島大原医研が旧相生橋の鉄材の残留放射線量を測り、原爆投下当時の正確な放射線量を測定へ
1981/4/17
在日米軍が、4月22日に予定した共産党の岩国基地立ち入り調査を拒否。理由「基地が忙しい」。米軍は2月23日、立ち入り調査をOKしていた
1981/4/17
36年ぶりに長崎市を訪れた元オランダ兵捕虜のヤム・デグロートさん(65歳)に、長崎市が原爆被爆者健康手帳を交付(「長崎年表」)
1981/4/18
日本原子力発電会社の敦賀原発で放射能漏れがわかり、本格究明始まる。排水路近くの海草から平常値の10倍のコバルト60検出。その後の調べで、原因は3月8日に放射性廃棄物処理建屋内で起きた廃液流出事故が原因と判明。廃液、汚染除去に計56人の作業員が従事、1人平均の被曝線量は35ミリレム、最大155ミリレム。日本原電は同事故をひた隠し
1981/4/18
ニューヨーク・タイムズが米原潜ジョージ・ワシントンの事故に関し社説で「原潜側の過失は明白」と述べ、日米両国指導者が事実の公表を控えているとすれば「日本国民を二重に怒らせる」と指摘
1981/4/19
原子力発電所の事前調査をめぐり全国初の町長リコールが成立した高知県高岡郡窪川町長選で、リコールされた原発推進派の藤戸進氏が返り咲く
1981/4/19
22日からの世界宗教者集会に出席のため来日した英のノーベル平和賞受賞者フィリップ・ノエルベーカー卿が東京で記者会見。「原爆について学び、被爆の実態を学ぶのが日本を訪れた私の課題」 1981/4/21
米原潜ジョージ・ワシントンに衝突され行方不明になった日昇丸の野口泰三船長と松野下純夫1等航海士の遺体が鹿児島県屋久島沖で見つかる。12日ぶり
1981/4/21
米エネルギー省が、ニューメキシコ州ロスメダノスの地下650メートルに放射性廃棄物の地下処分施設を着工。岩塩層をくり抜き、初期段階で3万2,000平方メートル、最終的に18万平方メートルの地下処分壕を設置
1981/4/22
ソ連がセミパラチンスクで地下核実験。スウェーデンのウプサラ大地震研究所が発表
1981/4/22
軍備撤廃・核兵器廃絶を目指す世界宗教者集会が東京で始まる。9宗派の約50カ国160人と国内代表400人が出席。集会提唱者は日本山妙法寺の藤井日達師
1981/4/22
広島平和会館の原爆被爆者相談所が被爆者健康手帳申請のため、証人を捜している4人を公表。1972年7月から始まり、100回目、計400人に
1981/4/22
マーシャル諸島住民341人がビキニ核実験被害で米6省庁を相手取り、総額10億ドル(約2,200億円)の賠償請求を起こす
1981/4/23
荒木広島市長が22日のソ連核実験に抗議電報。24日、被爆者らが広島県内17カ所と東京、山口など県外7カ所で抗議の座り込み
1981/4/23
厚生省が1979年度に実施した被爆二世健康診断で「一般との差はない」と結論。しかし「被爆二世として健康に不安を持つケースが多い」ため「不安解消を目的としたカウンセリングが重要」と指摘
1981/4/23
園田直厚相が衆院社会労働委員会で、個人的見解としながら「米の原爆投下が国際法違反は明らか」と表明。外務省の公式見解「実定国際法に禁止が明記されていないが、国際法の精神に違反する」を一歩進める
1981/4/23
動力炉・核燃料開発事業団の人形峠事務所が国産濃縮ウラン1トンを東海村の核燃料製造工場へ初出荷。1982年秋には同事業団の新型転換炉「ふげん」の取り換え燃料の原料として使用へ。79年9月から生産開始
1981/4/24
デンマーク女王マルグレーテ二世と夫君のヘンリック殿下が広島市を訪れ、原爆慰霊碑に参拝し資料館を見学
1981/4/25
米各地でクエーカー教徒の社会活動組織米フレンズ・サービス委員会が核兵器反対行動。コネティカット州グロトン、コロラド州ロッキーフラッツなど
1981/4/27
米戦略爆撃調査団が撮影した原爆記録映画を入手し記録映画をつくる「10フィート運動」を繰り広げている「子どもたちに世界に!被爆の記録を贈る会」が、入手した未公開フィルムを東京で初試写
1981/4/27
米民主党の上院院内副総務が「インドだけでなくパキスタンも核実験場建設を進めている証拠がある」と発表
1981/4/29
ロバート・オッペンハイマー博士と原爆とのかかわりを追求したテレビ番組「トリニティー作戦のあと」が米公共放送網(PBS)で放映。サンノゼのテレビ局ディレクター、ジョン・エルス氏が10年かけ完成。「日本、ドイツのファシズムから欧米文明を守るために原爆開発を迫られた。しかし、投下後は自責と罪の意識にかられた」
1981/4/29
イタリアのピアニスト、マウリィツオ・ポリーニ氏が原爆慰霊碑に参拝し原爆資料館を見学。「見学していると頭の中で原爆に対する警告が次第に強くなる」
1981/4/30
米がネバダで地下核実験。エネルギー省が発表
1981/4/30
通産省が日本原子力発電会社の敦賀原発事故を「構造欠陥と人為ミスの競合」と発表。原子力安全委員会は「通産省調査報告は不十分」と独自調査へ
1981/4/--
大阪市原爆被害者の会が、会員で原爆孤児の滝宮俊三さんの半生を「人間をかえせわが家をかえせ」と題し記録集にまとめ出版

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