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ヒストリー

ヒロシマの記録1981 6月


1981/6/1
「原発はごめんだヒロシマ市民の会」(木原省治代表)などで組織する「核持ち込み抗議行動をするヒロシマ市民実行委」が呼びかけ、広島駅前で核持ち込み疑惑に抗議する1週間の座り込み
1981/6/1
参院連合審査会で外務省がワインバーガー米国防長官発言に関し米側の回答を示す。(1)長官発言は米が核のカサを提供することで日本が経済的繁栄をしたことを示し、ミッドウェーに核を積載して日本に寄港を指したものではない(2)米は日本への誓約を誠実に実行
1981/6/1
参院連合審査会で園田直外相がライシャワー発言に関し「いらぬお節介をする、無作法千万なる方」とライシャワー元駐日米大使を非難
1981/6/2
仏が核実験の継続へ。ミッテラン新政権「核抑止力強化には核戦力の開発が必要」
1981/6/2
日本青年団協議会など11市民団体が非核三原則の厳守を政府に求める国民運動の展開を決定。NGO日本宗教者連絡会議、主婦連合会、全国地域婦人団体連絡協議会、日本被団協、日本生活協同組合連合会など
1981/6/3
ライシャワー元駐日米大使が共同通信のインタビューに「岩国沖に核兵器を積んだLSTが恒久的に停泊していることを知り、ワシントンに抗議したのは1964年末か65年初め」との新事実
1981/6/3
東京都立足立ろう学校の中等部3年12人が修学旅行で広島を訪れ、手話でヒロシマ学習
1981/6/3
原爆被爆者特別措置法改正案が成立。医療特別手当を新設、原爆小頭症患者手当を法制化、両手当の所得制限を撤廃、実施は8月1日。被爆者援護法案は6日の会期切れと同時に廃案に
1981/6/3
米紙ワシントン・ポストが「岩国沖に係留されていたLSTの艦名はサン・ホアキン・カウンティ」と乗組員の証言を基に報道。「艦は1959年以前から64年ないしそれ以後にかけ岩国基地沖180メートルに常駐」
1981/6/4
米空母ミッドウェーの横須賀寄港で、共産党系の広島県原水協、同被団協の被爆者ら200人が原爆慰霊碑前に座り込み。5日は県原水禁や県原水協などで構成する原水爆禁止運動ヒロシマ連絡会議が48時間座り込む
1981/6/4
原水爆禁止資料センター準備会(代表、服部学立教大助教授)が製作していた広島・長崎原爆写真展の見本が完成。新聞1ページ大のパネル67点で1セット
1981/6/4
米空母ミッドウェーの寄港を前に横須賀港で社会党、総評などが反対集会。約9,000人が参加
1981/6/4
日本原子力発電会社が放射能漏れ事故に関連し鈴木俊一社長の引責辞任、白沢富一郎会長の取締役相談役就任のほか4人の役員の降格を決める
1981/6/4
長崎被災協と長崎市教委が初めて平和教育に対する指導の在り方などについて協議(「長崎年表」)
1981/6/5
ダニエル・エルズバーグ氏がニューヨークで「日本国内の核論議を核アレルギーと片づける傾向があるが、敏感な核論議こそ正気の論議」と述べる
1981/6/5
ライシャワー元駐日米大使がワシントン・ポスト紙に「日本-大騒ぎの意味」と題して寄稿。「日本が非核三原則を放棄する必要はまったくなく、核の持ち込み(イントロダクション)とは何を指すかについて明確で現実的な了解が出来れば、非核三原則は完全に保持されよう」
1981/6/5
衆院外務委が全会一致で核軍縮決議。(1)非核三原則を国是とするわが国は、核拡散防止条約を意義あるものとし、核兵器拡散のおそれを除去するための最善の努力をすべき(2)国連、その他の国際会議等でわが国の軍縮に対する態度を一層明確にし、核兵器廃絶に貢献すべき
1981/6/5
米空母ミッドウェーが横須賀港に寄港。社会、共産両党などの抗議船22隻が取り囲み、陸上でも約2,500人が集会やデモ。岸壁では第7艦隊と自衛隊が歓迎マーチ演奏、自民党の二階堂進総務会長、源田実国防部会長らが寄港を歓迎
1981/6/5
外務省首脳が「ミッドウェー寄港延期を米側と交渉したが、(1)延期するとかえって疑惑を深める(2)次の寄港がもっと激しい反対を招く-と拒否された」と述べる
1981/6/6
「岩国基地に数人の男が車などで乗りつけ、1人が基地に侵入。警備中のMPが上空に向け発砲」。岩国基地報道部が発表。7日、岩国署の現場検証では侵入の形跡なし。7月6日、米海軍調査部が「発砲した米兵の勘違い」と訂正
1981/6/6
総評、中立労連、新産別の労働3団体と社会党、護憲連合が、東京・代々木公園で「日米軍事同盟反対、核持ち込み糾弾、憲法改悪阻止全国総決起集会」。主催者発表で9万人(警察発表2万4,000人)が参加
1981/6/6
日本被団協の呼びかけを受け、横浜市で国の戦争責任を裁き、被爆者援護法制定をめざす劇仕立ての「国民法廷」が全国で初上演。神奈川県被団協、生協、婦人団体が中心に上演
1981/6/6
米がネバダで地下核実験。エネルギー省が発表
1981/6/7
山口県被団協が山口市宮野江良の「原爆死没者の碑」前で、核疑惑に抗議し8年ぶりの座り込み
1981/6/7
「科学者京都会議」が15年ぶりに京都で開催。「政府は核抑止論から脱却し、核軍縮の具体的提案を行うべき」との声明を発表。出席は呼び掛け人の湯川秀樹京大名誉教授、評論家の中野好夫氏、哲学者の谷川徹三氏、桑原武夫京大名誉教授、坂本義和東大教授、佐久間澄広島大名誉教授ら26人
1981/6/7
元米政府職員のダニエル・エルズバーグ博士が来日。8日、野党議員と懇談。「有事の核持ち込みは日本側に事前協議しないことになっていた」と暴露
1981/6/7
共産党系の広島、山口原水協などの約1,000人が米軍岩国基地に抗議
1981/6/8
衆院の楢崎弥之助(社民連)と参院の秦豊、江田五月(同)、黒柳明(公明)の4氏が米軍岩国基地を視察。スピード・シェイ司令官と会見。弾薬庫へは近づけず
1981/6/8
イスラエルがイラク・バグダッド近郊の原子炉を爆撃、破壊。「原爆製造を阻むため」と声明。イスラエル特別声明。「長期間にわたってオシラク原子炉の建設を憂慮しながら見守ってきた。同原子炉は原爆製造が目的であり、原爆の目標はイスラエルである。同原子炉の完成、始動の時期は今年7月初めか、9月初めの予定だった…」。米が異例のイスラエル非難声明。アラブ諸国も強く反発
1981/6/9
広島県原水禁が8月5、6日に広島市で開く「被爆36周年原水禁大会」の広島実行委を発足
1981/6/9
荒木広島市長が米核実験に抗議電報
1981/6/10
島根大の山田一郎学長ら教官224人が非核三原則の堅持を要望する声明。大学の声明は全国初
1981/6/10
広島大の核問題教官懇話会(幹事、好村富士彦文学部助教授)の有志20人が、非核三原則の堅持を訴える立て看板。教官の立て看板は1969年の大学紛争以来
1981/6/10
岩国沖に停泊していたという米海軍のLSTサン・ホアキン・カウンティの元艦長F・ディーベンドルフ少佐が共同通信のインタビューに「1966年まで岩国にいた」と回答
1981/6/11
総評の招待で来日中のダニエル・エルズバーグ博士が岩国市を訪問。約600人を前に「岩国沖に係留していたLSTの核兵器は先制攻撃のねらいもあった」と講演。夜、広島で広島県被団協の森滝市郎理事長らと懇談
1981/6/11
山口放送が広島市の平和記念公園でドキュメント作品「ヒロシマ・ある画家の情念」を撮影。広島市出身の画家で原爆作品の多い殿敷侃さんの日常を追う
1981/6/11
6日の米地下核実験に抗議し広島県内8市2町で被爆者らが座り込み
1981/6/11
社会党が「非核三原則は憲法並みの国是。法制化は問題のわい小化につながる」と法制化に同調しない方針を決める
1981/6/11
放影研が理事会で被爆線量推定値の再検討を進めるよう日米研究機関に要請決める。役員改選で玉木正男理事長の後任に重松逸造国立公衆衛生院疫学部長、空席の副理事長にウィスコンシン医科大内科学アントニー・ピシオタ教授を決定
1981/6/11
広島市が原爆遺跡に設置した「原爆被災説明板」が日本サイン・デザイン協会(SDA)の特別賞を受賞。東京で授賞式
1981/6/12
広島県佐伯郡五日市町の粟屋博行氏が、1961年8月に岩国沖で写したLSTサン・ホアキン・カウンティの停泊写真を公表
1981/6/13
長崎市が同市の朝鮮人被爆者は1万2,000~1万3,000人、死者は1,400~2,000人と初の調査報告
1981/6/13
東南アジア諸国連合(ASEAN)記者団15人が広島市を訪れ被爆者ら取材
1981/6/13
広島で「平和と学問を守る大学人の会」が再建集会。広島大名誉教授の森滝市郎、佐久間澄、荘司雅子、村上忠敬の各氏や庄野直美広島女学院大教授らが呼びかけ。約90人が参加し、代表理事に北西允広島大教授。大学人の会は1953年2月、故長田新氏らが中心になって発足、65年以降は開店休業
1981/6/14
米CBS放送が「米国の国防」と題する報道特集の第1部「グラウンド・ゼロ(爆心地)」で、米の核ミサイル積載原子力潜水艦は本国と連絡不能の場合、艦長判断で核ミサイル発射できることを初めて明らかに
1981/6/14
広島の医療ケースワーカー、弁護士、医師らで組織する「原爆被害者相談員の会」(代表、河合幸尾広島女子大助教授)が、月1回の被爆者相談を開始
1981/6/15
国連安全保障理事会でイスラエルのイラク原子炉爆撃で日本もイスラエルを非難
1981/6/15
広島県山県郡戸河内町の上殿小児童らが広島原爆病院を山ユリ慰問。1951年以来30年目
1981/6/16
米原子力規制委員会が高レベル放射性廃棄物の1,000年密封地下貯蔵の基準試案を発表。(1)使用済み核燃料、高レベル廃棄物は1,000年間、周辺環境に漏れないよう封じ込め(2)廃棄物は少なくとも50年間はいつでも回収できる構造に
1981/6/16
故マルセル・ジュノー博士の自伝「第三の兵士」の邦訳「ドクター・ジュノーの戦い」が、命日のこの日に出版。訳者、丸山幹正氏。勁草書房
1981/6/17
原水禁国民会議が沖縄で「被爆36周年原水禁沖縄大会」。約1,300人が参加し「日本本土から核を撤去し、非核三原則を堅持し、国際的な非核武装地帯、核廃絶実現の闘いを前進させよう」とアピール
1981/6/17
尾道市の三井一雄さんが広島市の原爆資料館に黒い雨を浴びたリュックを寄贈
1981/6/17
米最大のトライデント原子力潜水艦の1号艦オハイオが大西洋上で海上試験。排水量18,700トン。射程6,400キロのトライデント・ミサイル24基を積載
1981/6/18
京都府福知山市の画家近森巌雄さんが広島平和記念館に原爆ドームの絵を寄贈
1981/6/18
ブラジルの日刊紙エスタド・デ・サンパウロが「ブラジルは核兵器開発を目的とした秘密計画を進めている」と報道。西ドイツの技術を導入
1981/6/19
広島国際文化財団が第2回アキバ・プロジェクトで招請した米地方紙記者の記事をまとめ「米人記者の見たヒロシマ・ナガサキ」を出版
1981/6/19
長崎市の本島等市長が「核保有国の艦船の入港を今後、一切拒否」と発表。「政府の核問題に対する発言は信頼できない」が理由
1981/6/19
日本原子力発電会社敦賀原発の一連の事故で、福井労働基準局が「労働者の被曝は法律の限度内。報告義務違反もない」と発表。管理体制の改善だけを指示し、職権による捜査を断念
1981/6/20
広島市で第9回全国平和教育シンポジウム(日本平和教育研究協議会、広島平和教育研究所主催)が始まる。約1,500人が参加。障害児教育と平和教育をテーマにした「被爆体験の継承・障害者の人権と平和教育」分科会を初開催。矢田翠神辺工高教諭が検定後の高校現代社会の教科書から「原爆の図」や「沖縄嘉手納米軍基地の写真」などが消えていると検定の在り方を批判
1981/6/20
日本被団協原爆被害者中央相談所が伊東壮理事長の後任に肥田舜太郎常務理事を選出
1981/6/20
広島平和教育研究所(石田明理事長)が「平和教育実践事典」を発刊。290項目を解説
1981/6/21
岩国市で山口県労評、岩国地区労主催の「核持ち込み糾弾、日米安保条約廃棄、憲法改悪阻止、平和と民主主義を守る岩国集会」。過去最高の約2,000人が参加
1981/6/21
日本被団協が代表委員を改選。桧垣益人、小佐々八郎、行宗一の3氏は顧問に就任し、伊藤サカエ、山口仙二、伊東壮3氏を選ぶ
1981/6/22
広島市のワールド・フレンドシップ・センター(原田東岷理事長)が1980年の設立15周年を記念し、和英両文の記念誌「友愛」を発行
1981/6/22
新日本婦人の会広島県本部(伊原敏子会長)が、19年間発行してきた「木の葉のように焼かれて」14冊、210編の手記から28編を選び同名のタイトルで出版。労働教育センター刊
1981/6/23
沖縄戦終結36周年で、沖縄タイムスと琉球新報が非核三原則の堅持と核廃絶を訴える統一アピール
1981/6/23
山口大で非核三原則擁護、国内核兵器撤去、核兵器廃絶を訴え「山口大学教職員・学生共同抗議大集会」。全教官の6割347人が署名した共同声明を発表
1981/6/25
「8月6、9日を人類総ざんげの日に」と運動している94歳の被爆者広本フサさんが、「群集の渦」メンバーと8回目の上京
1981/6/30
ソ連がセミパラチンスクで地下核実験。スウェーデンのハグフォルス軍地震観測所が観測
1981/6/30
広島市議会が人事抗争のあおりで「非核三原則堅持」の決議案採択できず
1981/6/30
共産党が初の平和政策綱領を発表。アフガニスタン、ポーランドへのソ連の介入を厳しく批判。真の世界平和をもたらす力は非同盟諸国人民の運動、と強調
1981/6/--
旧広島一中の1年生の父母らの手記集「星は見ている」を広島市内の池上長子さんがテープに吹き込み全国75カ所の点字図書館と広島市の平和記念館に寄贈
1981/6/--
米国日系市民協会(ジェームス・ツジムラ会長)が、ワシントンのスミソニアン国立博物館に広島、長崎の原爆資料の永久展示を働きかけ。広島市の原爆資料館も支援を約束
1981/6/--
大江健三郎氏の「ヒロシマ・ノート」を弘前学院大教授の米沢紀さんと雑誌編集長のデビッド・スエインさんが英訳し出版へ
1981/6/--
広島、長崎両市が全国の都道府県と市町村に「原爆死没者名簿登載申請書」を送り、協力を依頼
1981/6/--
「2月広島市を訪れたローマ法王ヨハネ・パウロ二世の平和アピールを記念碑に残そう」と、同市の藤枝良枝さんが呼びかけ
1981/6/--
広島市立本川児童館長の大平数子さん(詩)と兄の比治山女子短大講師竹本三郎さん(挿絵)が合作で詩集「少年のひろしま」を出版。草土文化社
1981/6/--
広島大原医研の宇吹暁助手が広島市の平和記念式典の変遷を追った「平和式典考」をまとめ、自治問題研究所広島研究会年報に発表へ
1981/6/--
広島市が1981年から「原爆死没者慰霊式・平和祈念式典」に全国の都道府県から原爆死没者遺族代表を招待へ。国の補助金がついたことに伴う措置
1981/6/--
原爆孤児たちの生活を明るく描いた吉本直志郎さんの「青葉学園物語」全5巻が完結
1981/6/--
元機長ポール・チベッツ氏らが、ワシントン郊外の倉庫に眠っている原爆投下機エノラ・ゲイの保存運動。保存に消極的な国務省に対しチベッツ氏は「日本を刺激したくないためだろうが、日本国民は第二次大戦の現実を理解している」
1981/6/--
米核実験の影響調査のためネバダ、ユタ、アリゾナの3州で約500世帯のがん発生率の調査開始。全米放射線研究財団が資金援助、カール・ジョンソン博士が担当
1981/6/--
広島市の産婦人科医山田栄一さんが自宅に核シェルター。1980年5月に完成
1981/6/--
長崎市が平和祈念式典に初めて全国都道府県から遺族代表各1人の招待を決める(「長崎年表」)
1981/6/--
広島赤十字病院で1946年春の被爆者カルテを発見。外科、産科の数百枚

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