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ヒストリー

ヒロシマの記録1981 7月


1981/7/1
日本原電敦賀発電所などの下請け労働者183人が労働組合を結成。原発下請け作業員の労組は初
1981/7/2
放影研の重松逸造新理事長が着任
1981/7/2
荒木広島市長が6月30日のソ連核実験に抗議電報
1981/7/3
6月30日のソ連の核実験に抗議し、被爆者らが広島市の原爆慰霊碑前などで座り込み。「核実験抗議の座り込みを世界に広げよう」と世界教育者連盟総連合のロバート・ハリス氏から広島県労会議に手紙
1981/7/3
原爆問題広島総合研究会(代表、庄野直美広島女学院大教授)が5月に白書編集委員会を設置し、広島の学者、医師らが被爆朝鮮人白書づくり
1981/7/4
広島市中区千田町出身の俳優木村功さんが食道がんのため死去。58歳。1946年、劇団俳優座に入る。50年、退団、岡田英次、西村晃さんらと「青年俳優クラブ」を結成、54年に「劇団青俳」と改称、79年に倒産するまでその中心的役割
1981/7/4
広島原爆病院で10フィート運動で入手した原爆記録フィルムの上映会。写っている3人の被爆者の遺族が名乗り出る。8日、「原爆1号」の吉川清さんが写っていることも分かる
1981/7/5
ヒロシマ・アウシュビッツ委員会(桑原英昭委員長)が、広島県賀茂郡黒瀬町にアウシュビッツ記念館建設でポーランドへ使節団。資料の譲り受けを目指す。7月16日、30品目、約200点の永久貸与が決まる
1981/7/5
1979年に広島市で旗揚げした「広島実験劇場」が市公会堂で第3回公演。日本舞踊の花柳豊尚氏がノーモア・ヒロシマの祈りを込めた創作舞踊など披露
1981/7/6
長崎原子爆弾被爆者援護強化対策協議会が村山達雄厚相に被爆二世対策や外国人被爆者の被災調査の実施を陳情(「長崎年表」)
1981/7/6
広島-長崎を結ぶ「原水爆禁止国民平和大行進」が広島を出発
1981/7/6
中国新聞が原爆被爆後に廃校となった済美学校6年男子組の卒業生の消息をたずねる連載企画「幻の卒業生済美6年男子組の被爆36年」を掲載。10回連載
1981/7/6
朝鮮総連長崎県本部と長崎県朝鮮人被爆者協議会が、長崎市の朝鮮人被爆者実態調査に疑問点が多いとして本島等長崎市長に調査継続を申し入れ(「長崎年表」)
1981/7/7
佐世保市議会が「非核三原則の堅持と核廃絶を求める意見書」を全員一致で可決
1981/7/7
朝鮮人被爆者の記録映画「世界の人へ」(仮題)の平和記念公園ロケ。被爆者の金連順さんが証言 1981/7/9
米紙ニューヨーク・タイムズが、イスラエルの核兵器開発に関する国連国際委員会の報告を報道。「イスラエルは短期間で核兵器を製造する能力があり、すでに長崎型原爆10~15発分のプルトニウムを所有」
1981/7/9
高校教科書「現代社会」から「原爆の図」「はだしのゲン」などが削除。「原爆の図は悲惨すぎる」
1981/7/10
1960年の日米安保条約改定時、米軍部が日本側に核持ち込みの密約を要求していたことが公開情報で明るみに。そのほか(1)核積載のいかんを問わず米艦船の日本への入港は協議の対象としない(2)米の作戦行動に関する日本の拒否権は受け入れない(3)核兵器持ち込みについて日米双方の希望を完全に満たす解決策はないが、米はいかなる条約上の約束もしない-など要求
1981/7/10
長崎県議会が「非核三原則の順守と核兵器廃絶」決議を可決
1981/7/10
広島県原爆被爆教職員の会、県高校原爆被爆教職員の会が、元安川の河床美化工事で出た被爆瓦でモニュメントの建立を、と広島市に申し入れ
1981/7/10
朝鮮人被爆者を描く記録映画「世界の人へ」を製作中の盛善吉監督らロケ班5人が長崎入り(「長崎年表」)
1981/7/11
広島市の臨時市会で「核兵器持ち込みに対する疑惑と不安解消を求める意見書」を採択。同市議会の核問題に関する決議、意見書採択は1973年7月の米、仏、ソ、中の核実験反対決議から5回目
1981/7/11
「平和と学問を守る大学人の会」、「原爆問題広島総合研究会」と広島平和文化センターが主催し平和記念館で「被爆地ヒロシマと非核三原則」シンポジウム
1981/7/11
浩宮が広島原爆慰霊碑に参拝。学習院大の卒業論文の資料収集のため岡山、愛媛、広島の3県を旅行、初めて広島を訪問
1981/7/11
広島県山県郡千代田町の勇知ヨシエさんが、原爆症認定却下で国に不服申し立て。「爆心地から2.6キロで被爆。2キロで線引きは納得できない」
1981/7/12
長崎で被爆した朝鮮人の居住跡が36年ぶりに稲佐山の中腹で見つかる(「長崎年表」)
1981/7/12
西ドイツ、仏両首脳が欧州の核配備推進で合意
1981/7/13
広島市で「81原水爆禁止・被爆者援護ヒロシマ集会」の実行委が発足
1981/7/13
教科書協会の関連機関「教科書研究センター」が「社会科教科書の日米比較」まとめる。「米の朝鮮、ベトナム介入は明確な説明がされているが、ソ連のハンガリー、チェコスロバキア侵入、スターリニストの暴虐、キューバ介入などの説明は少ないなど、執筆者の政治的立場でゆがめられている場合が多い」
1981/7/14
広島県高教組が高校生の核意識調査。「65%が核戦争に危機感」「自衛のための核兵器保有に賛成6%、将来持たざるを得ないかも知れない57%」
1981/7/14
中国新聞が「核持ち込み・疑惑の軌跡」と題して核兵器の日本搬入を裏付ける証言を特集
1981/7/15
7月15日までに広島県内の自治体で非核三原則順守の決議をしたのは広島、因島、府中、東広島の4市と安芸郡府中町、海田町など8町、三原、尾道、三次市などは保守系の反対で否決されたり提案できず
1981/7/15
広島平和記念館で原民喜氏の没後30周年回顧展。被爆当日のメモ帳、葬儀で読まれた佐藤春夫氏の自筆の弔辞など
1981/7/15
広島市東区牛田早稲田3丁目集会所で転勤族の子どもや母親を対象に「原爆の話を聞く会」。高橋昭博原爆資料館長が被爆体験を話す
1981/7/17
広島文理科大へ留学中に被爆した2中国人が36年ぶりにヒロシマ再訪。北京市の由明哲さん、南京市の王大文さん。避難先の家族や広島訪問を世話した広島県議会日中友好議員連盟の議員らの歓迎を受ける。18日、広島県が2人に被爆者健康手帳を交付。被爆後、帰国した中国人への手帳交付は初
1981/7/19
広島市幟町の幟町国民学校跡に広島地区第一特設警備隊の碑が完成、除幕式。中部32037部隊(広島東部)や32057部隊(世羅)などの犠牲者を慰霊。32037部隊の生き残り茶木原実人氏が生存者と遺族を捜す
1981/7/19
呉市阿賀町の大空山公園に「平和の碑」が完成、除幕式。市内の被爆者や川柳愛好者が建立
1981/7/20
中国新聞が各界で活躍する人々の被爆者群像を紹介。江戸家猫八、小松茂美、扇ひろ子、平山郁夫、二葉あき子、竹西寛子、田村元の各氏
1981/7/20
アルゼンチン在住の日系人医師上原晴夫さんが広島原爆病院で被爆者検診の研修。広島県が招く 1981/7/21
平和式典で平和の鐘をつく遺族代表に初めて被爆二世。23歳の桑原秀夫さんと21歳の開由利さん
1981/7/21
広島原爆養護ホームが体験集「紙碑-被爆老人のあかし」発刊
1981/7/21
衆院社労委の広島県視察団(今井勇団長)が広島県庁を訪れ、6被爆者団体から国家補償に基づく被爆者援護法の要望など聞く。22日、放射線影響研究所、原爆病院など視察
1981/7/21
長崎平和会館がオープン(「長崎年表」)
1981/7/22
「原爆1号」の吉川清さんが体験記「原爆一号と言われて」を発刊。筑摩書房
1981/7/22
東京地裁の藤田耕三裁判長が、大竹市の遺族2人が訴えていた被爆公務死認定訴訟で「長期間裁定せず放置していたのは違法」と判決。認定訴訟自体は請求を却下。原告は大知コウさんと竹野ツヤ子さん。1952年に戦傷病者戦没者遺家族等援護法が制定された直後、公務死認定を請求したが54、55年に却下、再審査申し立て、却下を繰り返し78年に異議申し立て
1981/7/23
北朝鮮が被爆者実態調査を中四国学者訪朝団(団長、今堀誠二広島女子大学長)に表明。金永南書記(国際担当)が朝鮮対外文化協会の金佑鐘副委員長に指示
1981/7/23
8月3日に開館する大阪府平和祈念戦争資料室に広島市が被爆資料10点を永久貸与
1981/7/24
広島市の平和問題調査会(委員長、永井道雄元文相)が東京・国連大学で第2回会合。12月に日本で開く「軍縮と安全保障に関する特別委員会」(通称パルメ委員会、本部ウィーン、委員長オロフ・パルメ博士)に広島市での軍縮研究集会参加を要請へ
1981/7/24
広島原爆資料館で旧相生橋の被爆橋げたの一部を保存、展示へ
1981/7/24
広島原爆病院で被爆女性が自殺。75歳
1981/7/25
長門市在住の画家殿敷侃さんの「原子爆弾」など大型シルクスクリーン作品を展示した殿敷侃展が広島で始まる
1981/7/25
大阪原水禁の招きで来日したパラオの市民グループ「パラオ非核憲法を支持する人民委員会」が広島市を訪れ、原爆慰霊碑に参拝、原爆資料館を見学
1981/7/26
東京・江戸川区中葛西の区立滝野公園内に原爆慰霊碑が完成し除幕式。同区内の被爆者団体「親江会」が建立。画家の丸木位里、俊夫妻がデザイン
1981/7/26
岡山市在住の被爆者が当時看病してもらった三次市の女学生と36年ぶりに再会。妹尾要さんと藤永冏子(けいこ)さん
1981/7/27
被爆二世の成長を描く映画「冬のリトルボーイ」の広島ロケが始まる。製作は呉市の平和プロダクション(内野谷典昭代表)、増田健太郎監督=後で木之下晃明氏に交代
1981/7/27
広島市のエリザベト音大ホールで広島県高田郡吉田町出身の坂田誠山氏が尺八リサイタル。「レクイエム・シャーンティ」「片足鳥居の映像」など演奏
1981/7/27
広島の歯科医師吉岡尊治氏宅で被爆直後の原爆ドーム水彩画発見。広島県高田郡出身で京都に住んでいた日本画家丸矢如泉さんの作。広島市に寄贈へ
1981/7/27
中国新聞など加盟の日本世論調査会の調べで非核三原則の堅持75%が賛成。核積載艦や航空機の一時立ち寄り、通過も53%が認める
1981/7/27
長崎で被爆後帰国し、観光ビザで来日していた中国福建省の陳雲鶴さんに、長崎市が原爆被爆者健康手帳を交付(「長崎年表」)
1981/7/27
中国新聞が広島原爆資料館の貸し出し資料の展示をルポする連載企画「暮らしの中の被爆継承巡回ヒロシマ資料展を追って」を掲載
1981/7/28
被爆の惨状記した広島市高等女学校(現舟入高校)の校史発刊。7人の教師と544人の生徒が犠牲に
1981/7/28
米国防情報センターが1950年から80年までの30年間に、米国内外で起きた核兵器事故32件に関する国防総省文書を公表。16件が国内、16件が国外、死者87人以上、放射性物質が飛び散ったケース10件、12個の核兵器もしくは容器が行方不明
1981/7/28
中国新聞が原爆被爆者援護法特集
1981/7/28
中国の原爆1号の名前は「596」。ソ連が国防新技術協定を破棄し、技術者引き揚げを通告した1959年6月にちなみ命名。中国青年報が伝える
1981/7/29
中国新聞が連載企画「救済進まぬ被曝米兵レーガン強兵策の陰で」
1981/7/30
広島原爆病院が診療白書。患者の高齢化を指摘
1981/7/31
東京で原水禁国民会議の「被爆36周年原水爆禁止大会・国際連帯会議」が開幕。8カ国46人の海外代表が参加。全世界のヒバクシャ・ネットワークの結成、10月を反核月間とする-などを呼びかけ
1981/7/31
広島市の手話サークル「あすなろ」が広島平和記念館で上映する原爆映画「ヒロシマ原爆の記録」「市民の手で原爆の絵を」など5本に字幕をつける
1981/7/--
故都築正男東大教授の遺族が広島市に被爆者治療の資料を寄贈。6日に市公文書館に到着
1981/7/--
広島の画家浜本武一さんが東京で核抗議の映像展
1981/7/--
米シアトル市のロイド・ハラ収入役から「スミソニアン米国立博物館に被爆資料の展示をするよう働きかけを始めた」と、広島原爆資料館に連絡
1981/7/--
広島「憩いの家」建設に尽力し、小説「ヒロシマの花」の著者エディタ・モリスさんから、母親の団結による平和運動を呼びかけるメッセージが広島市に届く
1981/7/--
「広島・長崎の原爆災害」(両市原爆災害誌編集委員会)の英語版が完成。8月6日、岩波書店、ベーシック・ブックス社(ニューヨーク)、ハッチンソン社(ロンドン)から発売へ
1981/7/--
中国新聞が広島復興に尽くしたフロイド・シュモーさんをインタビュー。「原爆投下は米国民にとってぬぐうことのできない罪だと思った。第二次大戦後、米の奉仕団体は日本にまで手が回らなかった。私は自分たちで募金して広島に家を建てようと思った…」
1981/7/--
日本生協連が国際協同組合同盟本部など海外の8組織に原爆パネル67枚を寄贈
1981/7/--
マンハッタン計画の核廃棄物が全米25州の76カ所に投棄、貯蔵され、今なお基準を上回る放射能を放出。エネルギー省の調査でわかる
1981/7/--
在米被爆者記録映画「生き残り」のフィルムの一部が広島協力委(事務局長、片柳寛広島女学院大文学部長)に届く
1981/7/--
大竹市の村中フサコさんが夫の公務死認定へ3度目の挑戦へ。20年かけ証言を集める
1981/7/--
広島陸軍病院へ派遣され、被爆した日赤山口支部救護班の戦災状況報告書が36年ぶりに見つかる。投下直前に同病院へ派遣されていた救護班は5班、約100人の看護婦がいたことなど判明

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