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ヒストリー

ヒロシマの記録1981 8月


1981/8/1
名古屋市でノーモア・ヒロシマ・コンサート。広島大の芝田進午教授らの呼びかけで全国11都市で公演へ。8月3日、東京公演では10歳のとき長崎で被爆した美輪明宏さんも出演
1981/8/1
広島被爆翌日、当時の高野源進広島県知事が被災者の動揺を静めるために出した「知事告諭」が、広島市の久行忠さん宅で見つかり原爆資料館に寄贈
1981/8/1
東広島市原爆被害者の会が同市内で原爆死没者追悼法要。5年前から8月1日に実施
1981/8/1
広島平和記念館で「市民が描いた原爆の絵展」。絵を残して亡くなった66人の作品を展示
1981/8/1
長崎市で核禁会議主催の「81核禁全国集会」。約800人が参加
1981/8/1
広島市で長崎市子ども会と広島市西区子ども会が交歓会。1977年から始まり80年まで長崎で開催
1981/8/2
ロサンゼルスで広島、長崎の原爆被爆者でつくる米国原爆被爆者協会(CABS)と全米被曝退役軍人協会(NAAV)が初の合同集会
1981/8/2
在米被爆者の記録映画「生き残り」(SURVIVORS)の製作を進めているスチーブン・オカザキ監督とフランシス・ポテリオさんが広島入り
1981/8/2
日本YWCAが計画した「国際青年プログラム・ひろしまの旅」の海外代表17カ国40人が広島入り。これまで12年間全国の中、高校生を対象に「ひろしまの旅」を実施し、初めて海外にも参加を呼びかけ
1981/8/2
広島市西区草津南町に「草津南町国民義勇隊追悼之碑」が完成、除幕式。建物疎開に出動し157人が全滅。建設する会の小西ノブ子会長が遺族を捜し建立
1981/8/2
広島市立造船工業学校(現広島市立広島商業高校)が、創立60周年で慰霊祭。被爆当日、市内水主町で建物疎開作業中の1年生と教師273人全員が犠牲に
1981/8/3
東京で「原水爆禁止1981年世界大会国際会議」が開幕。5回目の統一大会。国連軍縮センターのヤン・モーテンソン所長ら32カ国、13国際組織、141人の海外代表を含む約500人が参加
1981/8/3
東京在住の画家長田正之助さん(第一美術会)が広島市で「原爆記念日にささげる画展」
1981/8/3
核禁会議が広島市で広島県民集会。約150人が参加
1981/8/3
中国新聞が連載企画「教科書とヒロシマ」を掲載。8回連載。「原爆」記述の歴史追う
1981/8/4
仏が「ムルロア環礁で地下核実験を実施」と発表。ミッテラン社会党政権になって初
1981/8/4
中川一郎科学技術庁長官が「米の核積載艦の領海通過、寄港程度は認めることにならなければ」と非核三原則の見直しを主張
1981/8/4
山口勇子氏作の「おこりじぞう」のモデルとなった被爆地蔵が、松山市から里帰り。広島市中区千田町1丁目、広島赤十字病院の裏門で被爆、首が吹き飛ばされた。近くの人が新しい首をつけ松山市へ渡っていた
1981/8/4
広島市立翠町中学校が同校の前身第三国民学校の慰霊祭。同国民学校は210人が犠牲に
1981/8/4
中国新聞が連載企画「岡山の『ヒロシマ』」を岡山版に掲載
1981/8/5
国際軍縮促進議員連盟の大石武一会長ら各党代表7人が広島入り。「国会内で被爆写真展など検討したい」と表明
1981/8/5
「原爆の図」の丸木俊さんらが文部省を訪れ、高校教科書「現代社会」(清水書院)の白表紙本の「原爆の図」(1ページ大カラー)削除に抗議。削除理由は「原爆の図は子どもに悲惨。絵を小さくするか変更を」
1981/8/5
米がネバダで地下核実験。エネルギー省が発表
1981/8/5
全米各地で核兵器廃絶、原発禁止、軍備競争反対を訴え集会、デモ。ホワイトハウス前で黙とうと集会、ニューヨークのゼネラル・エレクトリック(G・E)社への抗議行動など。G・E社抗議では18人が逮捕
1981/8/5
広島市公会堂で広島市、広島交響楽協会、中国新聞社主催の音楽会「平和への夕べ」。13回目。国際障害者年を記念し盲目のピアニスト神庭玲子さんが熱演
1981/8/5
荒木広島市長が4日の仏の核実験に抗議電報
1981/8/5
カトリック信者らが広島で15年ぶりに平和行進。平和記念公園から世界平和記念聖堂まで
1981/8/5
広島県生活協同組合連合会に全国の生協連から約100万羽の折りづるが届く。12トントラック1台分
1981/8/5
日本原水協が広島市の見真講堂などで4つの課題別集会。「米軍・自衛隊基地の実態と告発、非核三原則法制定運動の促進」など
1981/8/5
広島市で原水禁国民会議の「被爆36周年原水爆禁止広島大会」。11カ国36人の海外代表をはじめ全国から8,000人。「非核三原則を日本非核宣言に高め、いかなる核も否定する核廃絶の運動を進めよう」と広島アピール
1981/8/5
広島市大河地区の原爆犠牲者の碑が完成、除幕式
1981/8/6
平和式典参加の国際軍縮促進議員連盟の一行7人が広島原爆病院と広島原爆養護ホームを見舞う
1981/8/6
1945年暮れに旧陸軍騎兵学校の門柱を譲り受けつくった広島市戸坂原爆犠牲者供養塔にゆかりの人たちがひっそりと参拝。日銀会議室の慰霊銘板にも
1981/8/6
北海道の書家高田昌暁さんの法華経の写経が、爆心地の法華宗本逕寺に贈られる
1981/8/6
広島市の県立体育館で原水禁団体、婦人団体などが「1981年原水爆禁止・被爆者援護ヒロシマ集会」。約4,000人が参加。海外からも英のノーベル平和賞受賞者フィリップ・ノエルベーカー卿、ドイツ戦争抵抗者同盟ゲルト・グロイネ議長ら30カ国、11国際組織、109人が出席。荒木広島市長、宮沢弘広島県知事もあいさつ
1981/8/6
原水爆禁止ヒロシマ集会に参加の東ドイツ平和評議会のベルナール・ルンペル事務局長が広島市に平和メダルを贈る
1981/8/6
荒木広島市長が平和宣言。「ひとたび核戦争が勃発すれば、人類が絶滅することは明らかである。もはや核兵器で安全を保障することはできない。核兵器の廃絶こそが安全を保障し、平和への道に通じることを人類は悟らねばならない。…第2回国連軍縮特別総会において全加盟国は、この精神に立脚し、核兵器保有国率先のもとに、核兵器の不使用・非核武装地帯の拡大・核実験全面禁止など、核兵器廃絶と全面軍縮に向けて具体的施策を合意し、速やかに実行に移すべきである。平和国家の理念を掲げ、非核三原則を国是とするわが国がその先導者となることを期待する。…われわれ広島市民は一層平和への責任と義務を自覚し、国家補償の精神に基づく原爆被爆者及び遺族への援護対策の拡充強化を求め、世界に強く平和への努力を訴える」
1981/8/6
原爆ドーム横で若者約150人が核軍拡へ抗議のダイイン
1981/8/6
広島被爆36周年。広島市の平和記念公園で「広島市原爆死没者慰霊式・平和祈念式」。鈴木善幸首相をはじめ、初めて全国の都道府県から被爆者代表が参列、超党派の国会議員でつくる国際軍縮促進議員連盟の大石武一会長らも出席。原爆死没者名簿に新たに2,753人を記載、総数は10万人を超え10万717人に。桑原秀夫さん、開由利さんの2人が被爆二世として初めて平和の鐘を打つ
1981/8/6
鈴木首相が平和式典に続き原爆資料館を見学、原爆養護ホームを見舞い、被爆者代表の要望を聞く。「被爆者代表から要望を聞く会」では広島県被団協の佐久間澄理事長ら5人が意見陳述。首相は「原爆被爆者対策基本問題懇談会(7人委)の答申内容から被爆者年金や弔意金支給は困難」と繰り返す
1981/8/6
鈴木首相が原爆病院の広本フサさんを手紙で激励。瓦力官房副長官が病室を見舞い手渡す。広本さんは「群集の渦」のメンバーと一緒に「8月6、9日を休日に」と訴え、過去8回首相官邸へ直訴
1981/8/6
米(5日)、仏(4日)の地下核実験に抗議し広島県内8市17カ所で座り込み。広島市の原爆慰霊碑前では原水禁大会参加者ら約200人
1981/8/6
広島市の見真講堂で「原爆犠牲者にささげる音楽の夕べ」。早川正昭「ソプラノと打楽器とコントラバスのための祈り」、林光、関忠亮「川を流れているような」、林学「祈り」、森脇憲三「混声合唱のためのレクイエム『碑』より」、安達元彦「愛の歌-ヒロシマの子」、外山雄三「永遠のみどり」など各氏作曲の作品発表
1981/8/6
新横綱の千代の富士は被爆二世-。札幌で開かれた原爆死没者北海道追悼会で父親の秋元松夫さんが明らかに。秋元さんは暁部隊に所属し、爆心から2キロの屋外で軍事訓練中に被爆。救援活動で広島市内を奔走した。「原爆のむごさは経験した人でないとわからない。息子が横綱になった今も被爆の影響が表れないか不安」。千代の富士「父親から広島のことは何回も聞いている。原爆に無関心ではないが、父に後遺症はないし、オレだって被爆から10年たって生まれているので影響はないと思っている」
1981/8/6
原水禁大会などに参加の米代表団31人が5日の米地下核実験で、レーガン大統領あてに個人名で抗議電報
1981/8/6
荒木広島市長が5日の米核実験に抗議電報
1981/8/6
ヨーロッパの「1981年平和大行進」の5,000人がパリに到着。シャトー・ド・バンセンヌで平和のための大集会。6月21日にデンマークのコペンハーゲンを出発、西ドイツ、オランダ、ベルギーを縦断、パリではスウェーデンのパルメ前首相も行進
1981/8/6
広島原爆記念日でロンドン・テムズ河畔の公園で記念集会。喪章をつけた市民が桜の植樹をし、長崎の被爆医師、秋月辰一郎聖フランシスコ病院長のメッセージが読み上げられる
1981/8/6
英紙ガーディアンが「きのうの日本-あすの欧州?」と題した軍縮キャンペーン。同国の軍縮団体「世界軍縮運動」(WDC)が起草したレーガン米大統領とブレジネフ・ソ連最高会議幹部会議長にあてた手紙を掲載、世界中で21紙が同様キャンペーン
1981/8/7
オーストラリア政府が核実験参加の被曝軍人に賠償金。1953年、南オーストラリア・ウーメラで核実験の拡散状況を空から調査。59年甲状腺がんになり、75年除隊
1981/8/7
長崎県被爆者手帳友の会、原水禁国民会議が主催し、被爆者と一般戦災者が長崎で初の合同集会
1981/8/8
明仁皇太子が「私は終戦記念日、8月6日の広島、9日の長崎の原爆の日、そして沖縄戦が終わった6月23日の4回、毎年、黙とうをしている」「遺族のことなどを考えるとやはり黙とうしてしまいます。広島原爆投下の日にはテレビをつけて一緒に黙とうします。戦争は2度とあってはならないことです」 1981/8/8
高橋昭博広島原爆資料館長が体験記「ヒロシマの心を若い世代に」を刊行。原爆資料保存会刊
1981/8/8
被爆当時、国鉄広島車掌区に勤務した女子車掌34人が広島市内で再会。犠牲者23人のめい福祈る
1981/8/8
レーガン米大統領が中性子爆弾の生産を決定。「米国内で生産、貯蔵し、当面、国外に配備しない」 1981/8/9
本島等長崎市長が平和宣言。「私の声の届く限りのすべての皆さんに申し上げます。8月9日を心に刻んで下さい。私たちは国家補償による被爆援護の確立を要求し続けております。特に孤独・高齢化が進み、死を目前にした被爆者の実情に国民の深い理解と協力をお願いします。…特に教育者の皆さんにお願いしたい。核兵器をなくし、完全軍縮の実現こそが、人類が未来に生き残る唯一の道であることを、こどもたちに、すべてに優先して教えてほしい。平和こそ、私たちが子孫に残すただ一つの遺産なのです。…日本の国是としての非核三原則の一つ『核兵器を持ち込ませず』が揺らいでいます。今日核の寄港、通過があったと信じている多くの人々の声に耳を傾けて下さい。…日本本土とその周辺を非核武装地帯とすることを宣言して下さい」
1981/8/9
ワシントンで「広島、長崎の悲劇を思い起こす集会」。約400人が参加、長崎原爆投下機の副操縦士フレッド・オーレビイ氏も参加し「長崎への原爆投下は軍事的にもまったく不必要だった。私も決して喜んで爆撃に加わった訳ではない。命令だから仕方がなかった」
1981/8/9
長崎原爆投下のB29編隊(3機)の観測機に乗り組んでいたラルフ・カリー氏がAP通信に語る。「巨大な雲がものすごい勢いで天高く昇った。5万か6万フィートはあったろう。ニジの中にあらゆる色がきらめいていた。美しい光景だった」「われわれは原爆が悪魔の爆弾であることを知らなかった。だれもどんな結果になるか予想しなかった」「われわれの使命は第二次大戦を終わらせることだった。後悔はしていない」
1981/8/9
長崎で被爆36周年の原爆犠牲者慰霊平和祈念式典。約2万人が参列。新たな死者1,587人を加え、原爆死没者名簿は計5万6,690人に。全国47都道府県代表が初めて参列、元オランダ兵捕虜のジャーゲン・オンケンさんも花輪。小、中、高校生代表が初の「平和への願い」
1981/8/9
村山達雄厚相が長崎で被爆者援護制度の再検討を否定。「原爆二法は特別の救護法であり、単なる社会保障でないことは明らか」
1981/8/9
原水爆禁止1981年世界大会準備委員会が、レーガン米大統領に中性子爆弾の生産決定に抗議電報
1981/8/9
「1956年7月27日、英東部のレイケンヒース英空軍基地でブロークン・アローの暗号名で知られる核事故が起きた」-。英日曜紙オブザーバーが伝える。「米ネブラスカから飛来した米空軍のB47が着陸に失敗し、核兵器貯蔵庫に突っ込んだ。マーク6核爆弾3個があったが起爆薬に引火する前に消し止めた。乗員4人は焼死」
1981/8/10
長崎市が平和祈念式典に招いた米在住・元オランダ兵捕虜に原爆被爆者健康手帳を交付。外国人元捕虜への交付は4人目、オランダ人は3人目(「長崎年表」)
1981/8/10
米紙ニューヨーク・タイムズが「心身に障害を持つ原爆の子ら」のタイトルで広島市の原爆小頭症患者佐久間和子さんと母キクヨさんの苦悩の日々を伝える。ヘンリー・ストークス記者が広島から送稿
1981/8/11
中国電力島根原発2号機建設で島根県と鹿島町が安全協定に基づく事前了解。中電に文書回答
1981/8/11
ベンジャミン・ウエルズ米国防副次官補が「中性子爆弾を使う可能性は欧州だけでなく、中東、極東であり得る」と発言
1981/8/12
広島県高校生平和ゼミナール、県原爆被爆教職員の会、県原水禁、県原水協など6団体が、元安川の出土瓦で被爆モニュメントの製作を広島市に陳情
1981/8/12
「広島の中学3年生は核兵器に対する拒絶反応が東京、大阪、札幌の生徒に比べはるかに高い」-。創価学会教育部人間教育研究会がまとめる
1981/8/12
荒木広島市長が米、ソの中性子爆弾生産、開発に抗議しレーガン大統領、ブレジネフ・ソ連最高会議幹部会議長に手紙
1981/8/14
ソ連が地下核実験
1981/8/14
「日系二世の女学生たちが、広島市縮景園で外国の短波放送傍受の任務中に被爆死」-。中国新聞が伝える。第二総軍司令部が極秘に設置した「特情班」。8人が被爆死、残るグループは終戦まで広島県賀茂郡西条町に移り傍受を続ける。ロサンゼルス在住のアイリーン・ナカガワさん、森中照子さんが明かす。「特情班は24時間3交代制。1グループ15~16人で半数がいつも短波を傍受」
1981/8/15
核実験被曝復員兵で構成する全米被曝退役軍人協会(NAAV)が全米各地で支部作り
1981/8/15
広島市在住の68歳の被爆女性が山口県の大畠瀬戸でフェリーから投身自殺
1981/8/15
広島市医師会が医師36人の被爆体験をまとめた「広島市医師会だより」特別号を刊行
1981/8/16
被爆当時、広島高等師範付属中1年生の普通学級、科学学級生徒たちが、同校の後身の広島大教育学部付属高校内へ「謝恩の碑」を建立
1981/8/18
原子力委員会の「ウラン濃縮国産化専門部会」が▽原型プラントの建設、運転は動力炉・核燃料開発事業団が行う▽商業プラントは民間が中心になり1985年以降に一部の運転を開始-などの報告書をまとめる
1981/8/18
英のフィリップ・ノエルベーカー卿から広島県高校生平和ゼミナールに活動を励ます手紙
1981/8/18
ジュネーブ軍縮委でソ連代表が中性子爆弾禁止条約を提唱
1981/8/18
中国電力が島根原発2号機の原子炉設置許可申請を通産省に提出。1983年の着工を目指す
1981/8/19
ソ連の14日の地下核実験に荒木広島市長が抗議電報(「広島市・核実験抗議文書発信綴」)
1981/8/20
西ドイツ作家同盟のベルント・エンゲルマン会長が発起人となり、欧州、ソ連の作家150人が「核戦争に反対するアピール」を発表。西ドイツのノーベル賞受賞作家ハインリッヒ・ベル、ギュンター・グラス、ゴロ・マン、英のジェームズ・オルドリッジ、ソ連のユリ・コリエメツの各氏ら。11月8日、日本の作家の賛同署名を得るため、西ドイツ作家同盟バイエルン地方委員長のハンス・ペーター・ブロイエル氏が来日、東京で伊藤成彦中央大教授、小中陽太郎氏らが懇談会
1981/8/20
石田明氏が「ヒロシマの母の遺産」を出版。労働教育センター
1981/8/20
ソ連の14日の地下核実験に抗議し、被爆者らが広島県内17カ所で座り込み
1981/8/20
広島国際芸術文化推進委員会の創作オペラ「はだしのゲン」が広島市で上演。約1,300人が観賞
1981/8/24
英フィナンシャル・タイムズが、中国のロプノル地方で核実験が原因とみられるがん多発-と報道
1981/8/24
ハノイ放送がベトナムに核研究所があることを明らかに
1981/8/25
食道がんのため7月4日に亡くなった俳優木村功さんの遺族が、広島原爆病院に100万円を寄付。木村さんは広島市千田町出身、両親を原爆で失い自らも被爆
1981/8/26
米国防総省が「韓国に近い公海上で偵察機が北朝鮮のミサイル攻撃を受けた」と発表。命中せず、無事帰還。28日、北朝鮮は「米軍機が領空を侵犯。ミサイル攻撃は事実ねつぞう」と反論
1981/8/30
ローマ法王ヨハネ・パウロ二世が9月1日の第二次大戦ぼっ発42周年を前に、全世界に核兵器廃絶を訴える。「広島、長崎を思い出すことが核戦争をこの世からなくすことである。原爆投下で生命を失った幾多の人たちのために頭をたれよう」
1981/8/--
全国の都道府県、政令指定市で「8月6日午前8時15分の平和の黙とう」を実施しているのは1980年で3割、81年で5割弱。広島市が調査
1981/8/--
被爆カメラマン20人の285点を収録した写真集「広島壊滅のとき」発刊。1978年7月に結成した「広島原爆被災撮影者の会」が編集、出版
1981/8/--
広島平和文化センターが平和冊子第3集「親と子のための平和教育」を刊行。荘司雅子広島大名誉教授著
1981/8/--
大阪市南区田島町の府社会福祉会館に大阪府の「平和祈念戦争資料室」がオープン。広島、長崎の被爆資料も展示
1981/8/--
飯島宗一、相原秀次氏が写真集「原爆をみつめる」を刊行。岩波書店
1981/8/--
江剌昭子氏が評伝大田洋子「草饐(くさずえ)」刊行。大月書店
1981/8/--
野球解説者で前南海ホークス監督の広瀬叔功さん(広島県佐伯郡大野町出身)が、中国新聞紙上で被爆死した兄の思い出などを語る
1981/8/--
日本芸能実演家団体協議会(中村歌右衛門会長)が、1980年12月に東京で原爆をテーマに公演した構成舞台「炎の詩」のビデオテープが完成
1981/8/--
広島市の田中実さんが被爆当時、旧広瀬国民学校に駐屯した広島地区第2特設警備隊の慰霊碑建設をめざし遺族らを捜す。11月12日までに85人の死没者が判明、遺族名簿を作成、慰霊碑建設委員会も発足
1981/8/--
全米被曝退役軍人協会が「8月6日を『被曝退役軍人の日』に制定を」と米国内各市に要望。第1号はネブラスカ州オマハ市
1981/8/--
被爆者医療に尽力した故松坂義正医師の「ABCCに関する研究ノート」が公開。ABCCの発足から研究内容、放射線影響研究所への改組の歴史などを事実に即してまとめ、比治山から市街地への移転を提言
1981/8/--
中国新聞が、原爆乙女の笹森シゲ子さんの近況伝える。ロサンゼルス市内の病院勤務、元気な日々
1981/8/--
西ドイツで米の新型中距離核ミサイル配備に反対広がる
1981/8/--
被爆前、1939年の広島市の航空写真が復元。旧陸軍が撮影
1981/8/--
ローマ法王ヨハネ・パウロ二世の平和アピールに感動したイタリアの画家アレスサンドロ・ナスタージオさんが原爆のキノコ雲の中から復活するキリストを描いた大作を広島県立美術館に提供申し出
1981/8/--
中国新聞が「広島・長崎の原爆災害」(岩波書店)の英訳を出版した米ベーシック・ブックス社の編集責任者フェビー・ハス女史にインタビュー。「原爆被害の百科事典的な意味合いがあるので索引を1,900項目に増やした。核時代に生きる人間が手元に置き、引く書であってほしい」

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