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ヒストリー

ヒロシマの記録1981 10月


1981/10/1
米エネルギー省が「ネバダで地下核実験を実施」と発表
1981/10/1
ソ連がノバヤゼムリャで地下核実験。スウェーデンのウプサラ大地震研究所が発表
1981/10/1
広島平和文化センターが原爆投下直後の広島を撮影したネガフィルム285点を複写して永久保存を決める。「広島原爆被災撮影者の会」が協力
1981/10/2
米大統領が核戦力を強化する新戦略計画を発表。次期主力戦略ミサイルは、競馬場方式の配備をやめて既存のサイロに100基設置-など
1981/10/2
荒木広島市長が米、ソの1日の核実験に抗議電報
1981/10/3
米オレゴン州ポートランド市の日刊紙オレゴニアン紙のリチャード・ノークス主幹が広島入り
1981/10/4
英日曜紙オブザーバーが「欧州で戦争が起これば5日目に核使用の決断を迫られる」と米国防総省の報告書を暴露
1981/10/4
米、ソの1日の核実験に抗議し、被爆者らが広島市の原爆慰霊碑前などで座り込み
1981/10/5
日本フィル広島公演で原爆詩をもとにした歌曲「慟哭」を演奏。広島市の松本孝子さんが歌う
1981/10/5
「道後山の秋をどうぞ」-広島県比婆郡西城町の道後山でユースホステルと山荘を経営する畑中乙さんが秋の草とリンゴで広島原爆病院を慰問。16年目
1981/10/5
「原爆の投下日を核廃絶を願う国民の休日に」-。9月に亡くなった広島市の広本フサさんの遺志を継ぎ「首都圏在住被爆二世の会」の西本満さんら3人が東京・数寄屋橋公園で50時間ハンスト
1981/10/7
非核憲法を制定したベラウ(パラオ)共和国と米の平和運動家が広島で被爆者らと交流。ベラウからはイグナシオ・アナスタシア代議士ら10人、米からは先住民族のウォーレス・ブラックエルクさん
1981/10/7
米から里帰りした長崎市出身の被爆女性2人に長崎市が原爆被爆者健康手帳を交付(「長崎年表」)
1981/10/8
被爆直後、愛児の死の悲しみなどを記した旧陸軍船舶司令部元教官の日誌を広島原爆資料館で公開。兵庫県宍粟郡山崎町の故北林祐道さん。三男の哲夫君を奪われた悲しみを記す
1981/10/8
レーガン米大統領が原発規制の大幅緩和を発表。建設認可の審査期間を半分に短縮、禁止していた民間の使用済み核燃料の再処理を積極的に進める-など
1981/10/9
核禁長崎県民会議主催の韓国原爆被爆者慰問交流使節団(28人)に、本島等長崎市長が長崎原対協会長の立場で参加(「長崎年表」)
1981/10/10
西ドイツの首都ボンで20万人参加の反核デモ。連立与党の社民党(SPD)、自民党(FDP)の一部議員らも加わる
1981/10/11
イタリア・シチリア島のコミソで米巡航ミサイル配備反対の1万人デモ
1981/10/11
非核憲法のパラオに原爆映画を贈ろうと、広島市内の若者が「パラオに原爆記録映画を送る会」(奥谷義行代表)を結成、街頭募金
1981/10/13
広島市元安川から出土する被爆瓦を使ってのモニュメント建設で市と広島県高校生平和ゼミナールなど6団体が合意。元安橋下流左岸に建設へ
1981/10/15
放影研広島地元連絡協議会(皇至道会長)が、「放影研の移転先は広島大工学部跡地が最適。広島大の東広島市移転に合わせて具体化を」と要望
1981/10/15
総理府が12月に実施を予定していた「核問題」世論調査の取りやめを決定。総理府「わが国は非核三原則を堅持する方針なので、核の調査項目は外した」
1981/10/16
衆院議運委で国際軍縮促進議員連盟が主催する国会で初の原爆写真展がOKに。憲政記念館で開催
1981/10/16
レーガン米大統領が各紙論説委員との会見で「超大国間の全面核戦争に発展するような紛争はなくても限定核戦争はあり得る」と発言。欧州に不安感強まる
1981/10/17
カナダ日系人文化経済使節団の一行34人が広島原爆資料館など見学
1981/10/17
ソ連がセミパラチンスクで地下核実験。米エネルギー省が18日発表
1981/10/18
日本被団協が東京で全国代表者会議を開き、活動方針などを討議
1981/10/19
広島平和記念館で軍縮シンポジウム。広島、長崎両市、広島大、広島平和文化センター主催。宮崎繁樹明治大教授、豊田利幸名古屋大教授、坂本義和東大教授ら18人の学者と市民ら150人が参加。(1)人類にとってのヒロシマ・ナガサキの意味(2)世界の非軍事化と開発-が基本テーマ。宮崎教授が「国連総会で『核兵器使用禁止』の決議、宣言が3回行われている。日本政府は賛成、棄権、反対と立場を逆転させている。日本は反対の立場を取るべきではない」と主張
1981/10/19
荒木広島市長が17日のソ連核実験に抗議電報
1981/10/19
日本被団協が東京で結成25周年式典。支援グループの人々も集まり、平和への誓い新たに
1981/10/20
大川美雄軍縮委員会日本代表部大使が国連総会第1委員会で包括的核実験禁止を訴え
1981/10/20
ブレジネフ共産党書記長が、党機関紙プラウダとのインタビューで「勝利を期待して核戦争を始めるのは、自殺を決意した者だけ」と述べる
1981/10/20
米ディズニーランドの約20人がドナルド・ダック、ミッキー・マウスの扮装で広島原爆病院を慰問。「原爆を落とした国民として、被爆者を慰めたい」
1981/10/21
広島県原水禁が派遣する「ヒロシマ語り部の旅」で、全専売広島地方部副委員長の桑原知己さんがロンドンへ出発。英核軍縮運動(CND)の集会に参加
1981/10/21
17日のソ連核実験に抗議し被爆者らが広島県内8市町、17カ所で座り込み
1981/10/22
長崎県議会が原子力船「むつ」の佐世保改修工事期限延長を可決
1981/10/22
中国新聞が被爆時に献身的な活動をした助産婦さんたちの群像を取り上げた連載企画「助産婦さん生ましめんかな」掲載
1981/10/24
核兵器完全禁止などを求め、広島市原水協(共産党系)が国連軍縮週間の平和行進。約200人が参加
1981/10/24
第4回国連軍縮週間で、長崎市が国際文化会館を30日まで無料開放するなど、行事を展開(「長崎年表」)
1981/10/24
被爆者援護法の制定を求め、名古屋市で「国民法廷」上演。神奈川、東京、長崎、山口に続き全国5回目
1981/10/24
東京・憲政記念館で国際軍縮促進議員連盟主催の原爆写真展が始まる。広島、長崎両市から提供された写真64点、被爆者の描いた絵40枚。写真展企画委員長は佐藤文生議員。27日までに2,600人が見学。国会議員は124人
1981/10/24
軍縮週間にちなみ、ロンドンで25万人参加の反核デモ。ローマ20万人、パリは25日に10万人、ブリュッセル20万人、欧州各地で空前の反核運動盛り上がる
1981/10/25
広島県高校生平和ゼミナール(委員長、河野浩樹君・崇徳高2年)のメンバーら200人が広島市の元安川で被爆瓦を採掘
1981/10/27
世界平和評議会の本部書記、オーストラリア平和委員会理事、西ベルリン平和と相互理解をめざす常任作業部会員ら3人が広島市を訪れ、原爆資料館を見学
1981/10/29
ロンドンの国際戦略研究所が「核戦争はコントロールできるか」との報告書。「米ソはどこであろうと、限定核戦争を行うことはできない」と結論
1981/10/30
作家の野間宏、小野周東大名誉教授ら176人の学者、文化人が中心になって結成した「原発モラトリアムを求める会」が、原発の3年間の一時停止を求める30万人の署名を通産省・資源エネルギー庁に提出
1981/10/30
広島県内の平和、市民団体など40団体が広島平和記念館で「1981年国連軍縮週間広島シンポジウム」。約250人が参加し「ヒロシマは今何をなすべきか」で討論
1981/10/31
季刊雑誌「長崎の証言」が「ヒロシマ・ナガサキの証言」(仮称)として新発足し、広島側の編集委員会(責任者、石田明全国原爆被爆教職員の会会長)がスタート
1981/10/--
相生市の市会議員松林善三さんが50人収容の地下2階核シェルターを建設。費用3,000万円。松林さんは広島原爆で妻の妹や姪を失う
1981/10/--
サンフランシスコ地区の在米被爆者検診の足場となっていたサンフランシスコ公衆衛生病院が、米の緊縮財政のあおりで閉鎖へ。かつて放射線影響研究所に勤務した同病院のトーマス・ロバートソン研究部長も「残念」
1981/10/--
ソ連科学アカデミー世界文学研究所のキム・レーホ(金麗湖)博士が広島大平和科学研究センターで「ソ連における原爆文学の受容」と題し講演。堀田善衛氏の「審判」、井伏鱒二氏の「黒い雨」を評価
1981/10/--
1980年の修学旅行で広島を訪れた東京・足立区の都立江北高校の生徒らが記録文集「燈々無尽」を作成。広島市の原爆資料館に届く
1981/10/--
1948年に広島市、広島県、広島商工会議所などが計画した原爆記録映画「ノーモア・ヒロシマズ」の企画、脚本案が市役所の「企画書類綴」から見つかる。故浜井市長が「世界のヒロシマを訴え、世界のピースセンターをいかにして作るか、という気持ちを世界の人に起こさせるような映画に」と注文。映画は資金面で実現せず
1981/10/--
日本医師会が開業医の最高賞「優功賞」を広島市の山脇卓壮医師に贈る。「被爆者の白血病研究」などが授賞理由

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