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ヒストリー

ヒロシマの記録1980 3月


1980/3/1
残留放射能が検出されている長崎市西山地区の非被爆住民に対する健康調査が始まる。3月2日までに136人が受診(「長崎年表」)
1980/3/1
ビキニ被災26周年。静岡県焼津市の弘徳院で故久保山愛吉さんの墓前祭。1,000人が参列▽3・1ビキニデー広島集会、広島市の労働会館で開く。250人参加。核兵器廃絶や世界の核被害者との連帯、被爆者援護法制定-などの運動盛り上げを決議▽山口市では原水禁山口県民会議が市民会館前で座り込み
1980/3/2
日本原水協初代理事長、法政大名誉教授の安井郁氏が死去。72歳。第五福竜丸のビキニ被災をきっかけに東京・杉並区内の主婦たちがはじめた原水爆禁止の署名運動を組織化、原水禁運動の基盤を作る
1980/3/3
ニュージーランドのウェリントン地震観測所が「仏は2月24日ムルロア環礁で核実験を行った」と発表(3・4夕)
1980/3/4
広島市と広島青年会議所にハットフィールド米上院議員から「議会内での被爆写真展開催を受け入れるよう精力的に呼びかけている」と手紙
1980/3/4
日本原子力産業会議第13回年次大会が東京で始まる。6日まで。有沢広巳会長が「諸外国からウラン濃縮や再処理を頼まれたら積極的に応ずるべき」と発言
1980/3/4
荒木広島市長が仏核実験(2月24日)に抗議する電報を駐日仏大使に打つ。5日、米核実験(2月28日)に抗議電報
1980/3/6
米、仏核実験に抗議し、広島、山口、岡山、鳥取、長崎など25カ所で被爆者らが座り込み
1980/3/6
仏紙クオティディエン・ド・パリが西側軍事筋の話として「ソ連はアフガニスタンに戦術核ミサイル用の移動発射装置を配置」と報道
1980/3/8
米エネルギー省が「ネバダ核実験場で地下核実験を行った」と発表
1980/3/9
創価学会広島二世の会が「私にとってのヒロシマ」をテーマに青年主張大会を開く
1980/3/10
荒木広島市長が米核実験に抗議する電報を駐日米大使に打つ
1980/3/11
核禁会議が常任理事会で「平和教育の徹底を強く訴える」などの運動方針を決める
1980/3/11
米核実験に抗議し、広島市の原爆慰霊碑前、山口、岡山、鳥取など全国25カ所で座り込み
1980/3/13
スウェーデンのアルバ・ミュルダール女史に第1回アインシュタイン平和賞
1980/3/13
西ドイツの週刊誌シュテルンが「イスラエルは第4次中東戦争で核兵器を使用する直前だった」と報道。さらに「1979年4月に仏で発生したイラク向け原子炉爆破はイスラエルの情報機関モサドの工作」とモサドの元要員の証言を基に事件の詳細を掲載
1980/3/13
米日系三世ジャズグループ「ヒロシマ」が反核を訴え、ニューヨーク市でコンサート
1980/3/13
広島県の調査で南米在住被爆者はアルゼンチン13人、ブラジル8人、パラグアイ6人、ペルー3人の計30人と判明
1980/3/14
細田吉蔵防衛庁長官が参院予算委員会で「非核三原則を守らないとか、なし崩し的に(独自の核戦略の研究を)しようとは考えていない」と答弁。同長官が2月21日の衆院予算委員会で「核戦略を研究している」と発言したことに対し、社会党の松前達郎氏が質問
1980/3/16
米原子力ミサイル巡洋艦ロングビーチと原子力潜水艦アスプロが沖縄のホワイトビーチ基地に入港 1980/3/17
ジュネーブ軍縮委員会が1980年の作業日程で、核実験全面禁止に関する作業部会の設置を見送る
1980/3/18
原水禁国民会議が全国委員会で、広島県原水禁提唱の「原水禁統一世界大会の東京開催」を確認
1980/3/18
米ニューヨーク・タイムズが米政府筋の話として「イタリアはイラクに原子力技術の提供と科学者、技術者の訓練を行う取り決めを結んだ」と伝える
1980/3/19
核実験による放射線障害を調査している米大統領特別委員会が、1950年代のネバダ大気圏内核実験で周辺住民にがんなど生じた事実を確認。被曝者への政府補償を勧告する報告書
1980/3/21
大阪府の被爆者墓参団の27人が広島市の広島原爆被爆者福祉センターで受診。大阪府が被爆者対策事業として、全国で初めて墓参費を負担
1980/3/22
角田礼次郎内閣法制局長官が参院予算委員会で「核兵器を保有して核拡散防止条約に違反すれば憲法に違反する結果になる」との解釈を示す
1980/3/22
米原子力巡洋艦ロングビーチが入港していた沖縄のホワイトビーチ基地で平常比40%増の放射能を海水から検出。科学技術庁が外務省を通じ米側に調査を依頼。沖縄県原水協などが日米両政府や沖縄県に抗議へ
1980/3/23
スウェーデンで原子力発電を認めるかどうかの国民投票実施。約6割が原発支持。原発6基の運転にゴーサイン
1980/3/24
映画「はだしのゲン・第3部~ヒロシマのたたかい」の広島ロケが広島県安芸郡倉橋町で始まる
1980/3/24
米平和運動団体「生存のための動員」の招きで、ノーモア・ヒバクシャ訪米代表団が日本を出発。広島市の被爆者、踊場チサ子さんら学者、宗教者、教師ら15人が4班に分かれ、4月13日まで全米約40カ所を巡回
1980/3/25
長崎市が10年をかけ実施した原爆被災復元調査事業が終了、報告書を発行。爆心から2キロ以内の約1万1,000世帯のうち8割の9,343世帯の家族構成を復元。死者2万593人を確認
1980/3/25
ニュージーランド政府が「仏は24日、ムルロア環礁で50キロトンの核実験を行った」と発表。国際環境保護団体グリーンピースが21日「仏は24日に核実験を予定」と非難、ブールジュ仏国防相は否定
1980/3/25
ヒロシマを撮り続けた故佐々木雄一郎氏の原爆被災写真遺作展が広島市の原爆資料館で始まる
1980/3/25
米スリーマイル島原子力発電所の所有者ゼネラル・パブリック・ユーティリティーズ(GPU)が、メーカーのバブコック・アンド・ウィルコックス社と親会社のレイ・マクダーモット社を相手取り、設備の不備や怠慢が事故を招いたとして総額5億ドルの損害賠償を請求する訴えをニューヨーク連邦地裁に起こす
1980/3/25
広島県議会の日中友好議員団が、被爆した元中国人留学生2人に被爆者検診の招待状を送る
1980/3/26
荒木広島市長が仏核実験に抗議する電報を駐日仏大使に打つ
1980/3/26
米コロンビア大カーミア・ボレク博士らが「高線量一時被曝より低線量を繰り返し被曝する方が発がんの危険性が高い」と、米がん協会シンポジウムで発表
1980/3/27
「核攻撃を受けたら目と口を閉じ、窓に近づくな」。中国紙「工人日報」が核攻撃対処法を掲載
1980/3/27
仏核実験に抗議し、広島市の原爆慰霊碑前など全国25カ所で被爆者が座り込み
1980/3/28
米スリーマイル島原発事故1周年で、社会党、原水禁国民会議などが東京で「原発一時停止を求める全国集会」。米各地でも抗議集会やデモ
1980/3/28
原子力委員会と原子力安全委員会が「1980年度原子力開発利用基本計画」を決定。高速増殖炉原型炉「もんじゅ」の製作に着手へ
1980/3/28
日本青年会議所が会員を対象に行った「日本の安全と防衛」に関する意識調査をまとめる。「過半数が核武装を肯定、徴兵制も3割が賛成」
1980/3/29
インド国防研究所が「パキスタンは12カ月以内に核装置の爆発実験を行うかもしれない」と報告
1980/3/31
広島平和文化センター理事長に前中国放送報道局長の河村盛明氏が就任
1980/3/31
長崎市の姉妹都市、ポルトガルのポルト市が贈った「平和の記念碑」が平和公園内に建つ(「長崎年表」)
1980/3/--
ソ連カザフ共和国の首都アルマアタ(アルマトイ)で、広島の悲劇をテーマにしたガジザ・ジュバノワ作曲のバレエ「竜の火」初演
1980/3/--
「日米の高校生の6割が核戦争を予測」。米インディアナ大のメーリンガー教授と広島大の藤井千之助教授が日米の高校生約1,000人を対象に行った意識調査まとめる
1980/3/--
英内務省が「核戦争を生き抜く方法」という極秘文書を作成。対策の不十分さを非難されることを恐れ、公表を控える
1980/3/--
「子どもたちに世界に!被爆の記録を贈る会」(松浦総三代表)が、米戦略爆撃調査団が広島、長崎の惨状を撮影したフィルムを入手し、被爆記録映画を作る計画を進める。8月から「市民の手で作る記録映画運動」(10フィート運動)として募金活動へ
1980/3/--
動力炉・核燃料開発事業団東海再処理施設の運転をめぐる1977年の日米共同声明で凍結されていたプルトニウム転換施設の着工に日米が合意
1980/3/--
原爆でわが子を失った母の心を歌った「祈り」の曲が西ドイツで反響。広島市の大平数子さんの詩「慟哭」に早川正昭さんが曲を付け、1978年にミュンヘン・フィルハーモニー交響楽団に贈る
1980/3/--
1952年に平和大橋を作った彫刻家イサム・ノグチ氏が中国新聞のインタビューにこたえ、橋に込めた平和への思いを語る。「一つの橋(平和大橋)を『生きる』、もう一つの橋を『死ぬ』と名付けた。この日本的な対比は広島で一番わかるはずだと思った」

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