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ヒストリー

ヒロシマの記録1980 8月


1980/8/1
広島市の平和記念館で被爆者名簿の公開始まる。広島市の上川文次さんが義妹の名前を確認
1980/8/1
芝田進午広島大教授らがノーモア・ヒロシマコンサートを東京で初めて開く。故永井隆博士の辞世の歌に故山田耕筰氏が曲をつけた「しろばらの」初演。6日に広島市でも開催
1980/8/1
80核禁会議九州ブロック集会が長崎市で開会。(1)核全面禁止(2)軍縮を強力に求めてゆく運動(3)平和建設のための基金作りを求める運動を発展させる-との集会アピールを採択
1980/8/1
荒木広島市長が米ソ核実験に抗議する電報を各在日大使館に打つ▽原水爆禁止1980年世界大会運営委員会も両国政府あてに抗議電報の打電を決める
1980/8/2
原水禁1980年世界大会の国際会議が東京・日本青年館で始まる。100人を超す海外代表を含む400人が参加。原水禁国民会議(社会党・総評系)、日本原水協(共産党系)の確執を反映し、基調報告は行われず▽大会参加のミチ・パンガリナン北マリアナ連邦議会議長ら太平洋地域4カ国の代表9人が、日本が計画している太平洋核廃棄物投棄に反対する声明を発表
1980/8/2
米オレゴン州ポートランドの「広島、長崎退役軍人会」が「1945年9月の焼け跡整理(クリーン・アップ作戦)に参加した米将兵のうち、白血病や骨髄がんなどで既に約100人が死亡」と発表
1980/8/2
原水禁山口県民会議が米ソ核実験に抗議して山口市と下関市で座り込み
1980/8/2
広島市の平和記念公園にある「嵐の中の母子像」の作者、故本郷新氏をしのぶ会が発足
1980/8/3
核禁会議(民社党・同盟系)の広島全国集会開く。広島市の見真講堂に1,000人が参加
1980/8/3
米ソ核実験(7月31日)に抗議して被爆者らが広島市の原爆慰霊碑前など全国28カ所で座り込み
1980/8/3
原水禁1980年世界大会の国際会議が閉幕。(1)核兵器使用禁止の国際条約制定(2)非核武装地帯の設定、拡大(3)被爆者援護法制定の実現をめざし、世界の「ヒバクシャ」に対する援護を各国政府が進めるよう働きかける-などを盛り込んだ東京宣言を採択
1980/8/3
「1メガトンの核爆弾でワシントンが全滅」。米軍備管理軍縮局が米ソ核戦争を想定して作成したリポート「核戦争の影響」を広島原爆資料館の高橋昭博館長が入手
1980/8/4
米爆撃機B29元機長ニール・フィッツパトリック氏が被爆直後の「黒い雨」の中、広島を撮影したと中国新聞記者に語る。「広島壊滅の無線を傍受し、針路を変えて広島市上空を20分にわたって旋回、約270メートルの低空から写真撮影した」。広島市中心部と観音、江波方面を撮影した写真が残っているが、当日撮影には疑義も
1980/8/4
ワールド・フレンドシップ・センターの招きで来日した米の平和教育担当教師4人が広島市翠町中学校の平和学習を参観
1980/8/4
京大医学部が放射能検査を名目に被爆者の遺骨50片を広島から持ち帰り、25年間放置していた事実が判明。広島大原医研に送還したが、被爆者らから科学者の良心を問う声が高まり、5日、原水禁国民会議(社会党・総評系)が京大学長あてに謝罪を求める抗議電報
1980/8/4
原水禁国民会議の被爆35周年原水禁大会(広島)に出席したオーストラリア代表のジョン・クロッシング氏がオーストラリアにも核実験被曝者がいることを明らかに。「マラリンガ地区の英核実験に従事した兵士のうち、200人が被曝し、がんによる死者も52人に」
1980/8/4
原爆開発のマンハッタン計画で排出された核廃棄物が、ニューヨーク州ルイストンのほか、ペンシルベニア、ニュージャージー両州にも大量に投棄され、異常に高い放射能を検出していることが判明
1980/8/4
原水禁国民会議独自の被爆35周年原水爆禁止大会開会総会開く。9カ国22人の海外代表を含む8,000人が参加。太平洋への核廃棄物投棄反対を訴える
1980/8/4
長崎国際文化会館原爆資料センターが、被爆の惨状を伝える写真を焼き直して一新、外国人被爆者コーナーを新設(「長崎年表」)
1980/8/4
長崎県と長崎市が共同企画した原爆アニメ映画「8月9日長崎」が完成、長崎市役所で試写会
1980/8/4
ビキニ環礁の米水爆実験で「死の灰」を浴びたマーシャル諸島ロンゲラップ島の住民2人が、原水禁九州ブロック会議の招きで来日し、日赤長崎原爆病院に入院。7日まで
1980/8/5
原爆開発のマンハッタン計画によって生じた核廃棄物が埋められていた米ニュージャージー州ミドルセックス市で放射能汚染土壌の除去作業が始まる
1980/8/5
「子どもたちに世界に!被爆の記録を贈る会」が写真集「原子爆弾の記録~ヒロシマ・ナガサキ」を発行 自治労(丸山康雄委員長)が、被爆した自治体職員の労働条件改善などをめざし自治労原爆被爆者連絡協議会を結成
1980/8/5
第3回地球市民世界大会・第18回世界連邦世界大会のヒロシマ会議開く。広島医師会館に16カ国の代表を含む250人が参加
1980/8/5
原水禁1980年世界大会・広島集会が折り鶴平和行進で開幕。核禁会議(民社党・同盟系)の主力である同盟が不参加のため、原水禁団体の大同団結は崩れたが、参加者は7,000人と前年を上回る
1980/8/5
北マリアナ連邦議会の代表が科学技術庁に放射性廃棄物の海洋投棄計画中止を申し入れ
1980/8/6
荒木広島市長が平和宣言。「世界の情勢はヒロシマの心を痛ましめてやまない。拡大し続ける世界の軍事費はついに1日10億ドルを超え、中東や東南アジアでの相次ぐ紛争は、大国の動向次第では全面核戦争に発展する危険をはらむ。もとより、核兵器の増大・拡散を憂え、人類を破滅から救おうとする努力は、部分的核実験停止条約、核拡散防止条約、米ソによる戦略兵器制限交渉等にもみることができる。しかし、現実の世界情勢を思うに、軍備拡大の裏にある国家間の根強い不信感を取り除かない限り、決して輝かしい平和の岸に至ることはできない。ヒロシマは今ここに第2回国連軍縮特別総会に先がけて、米ソを始めとする平和首脳会議の開催を提唱する。第1回国連軍縮特別総会において平和に徹し、国際協調を基本とする外交努力を一層強化してゆく旨の決意を表明した日本政府は、その先導的役割を果たすべきである。今こそわれわれは全人類の連帯を求め、破滅への道を生存への道に転じなければならない」
1980/8/6
広島被爆35周年。広島市の平和記念公園で原爆死没者慰霊式・平和祈念式開く。宮沢喜一官房長官ら市民3万5,000人が参列。2,279人の名前を記載した原爆死没者名簿を原爆慰霊碑に奉納
1980/8/6
広島県被団協(森滝市郎理事長)が広島市の見真講堂で被爆35周年原爆死没者追悼法要を営む 1980/8/6
広島県高校生平和ゼミナールが「平和のための学力を」発刊
1980/8/6
中国電力の総評系労組の電産中国地本(700人)が反原発を訴えて初の座り込み。「新しいヒバクシャを生む原発建設に反対しよう」と呼びかける
1980/8/6
長崎原爆病院が1年間(1979年8~80年7月)の被爆者診療概況をまとめる。入院患者はがんが依然トップ
1980/8/6
元中国新聞記者大佐古一郎氏、同社元カメラマン松重美人氏、元同盟通信(共同通信)記者中村敏氏が、原爆で壊滅的打撃を受け発行不能になった8月7、8日付の新聞を「廣島特報」の題字で発行。NHK中国本部が3記者の被爆体験を基に制作したドキュメンタリー「爆心地のジャーナリスト」を放映
1980/8/6
米紙ワシントン・ポストが米政府高官の話として「カーター大統領は米ソ核戦争の際にソ連の核戦力および政治、軍事の司令センターを攻撃目標とする『相殺戦略』の採用に署名」と報道
1980/8/6
中国の人民日報が「今日の広島」と題する異例のルポルタージュを掲載。核兵器の問題点よりも広島市の驚異的復興ぶりに注目
1980/8/6
江津萩枝さんが「櫻隊全滅~ある劇団の原爆殉難記」を出版
1980/8/6
宮沢喜一官房長官が記者会見で、荒木広島市長が平和宣言の中で提唱した世界平和首脳会議開催について「意義深い提言なので、広島市と国が協力して進める必要がある。外務省に検討させる」と積極姿勢
1980/8/6
原水禁1980世界大会・広島集会が閉幕。被爆者援護法制定を求める特別決議とヒロシマ・アピールを採択
1980/8/6
スリーマイル島原子力発電所に近い米ハリスバーグ市で平和祈念式。ポール・ダウトリッヒ市長が「『過ちは再び繰返しませぬから』という広島の誓いを新たにしよう」と宣言。留学中の広島市出身の三宅展子さんが被爆二世としてヒロシマの心を訴え、共感呼ぶ
1980/8/7
日本原水協が広島市の県立体育館で4年ぶりの独自集会「80年世界大会の決議を実践するための広島集会」。被爆者援護法制定に向け2,000万人署名運動を決議
1980/8/7
日本原水協の代表団が米海兵隊岩国基地で核持ち込み禁止を訴える
1980/8/7
大川美雄軍縮大使がジュネーブ軍縮委員会本会議で演説し、米英ソの核実験全面禁止交渉のもたつきを批判。「戦後、世界が一貫して核軍縮を叫びながら、交渉を重ねるごとに広島、長崎の悲劇を忘れがちなのはどうしたことか」
1980/8/7
ワールド・フレンドシップ・センター(原田東岷理事長)が創立15周年。平和活動家バーバラ・レイノルズさんら70人が出席して記念祝賀会
1980/8/7
宮沢喜一官房長官が外務省首脳と意見交換。荒木広島市長が平和宣言で呼びかけた平和サミット開催について実現の可能性を検討することで一致
1980/8/8
斎藤邦吉厚相が長崎市で記者会見し「被爆者援護法は原爆被爆者対策基本問題懇談会(7人委)の答申を尊重」と言明
1980/8/8
韓国原爆被害者協会の郭貴勲副会長が首相官邸を訪れ「原爆後遺症の治療は日本政府の責任で進めて欲しい」との鈴木首相あての要望書を提出
1980/8/8
本島長崎市長が在米被爆者の渡日検診で「希望すれば旅費を助成する考えがある」と言明
1980/8/8
ノーベル平和賞受賞者で、英の平和運動家フィリップ・ノエルベーカー氏が首相官邸に鈴木首相を訪ね「日本主導で核廃絶運動を」と訴え
1980/8/8
動力炉・核燃料開発事業団がプルトニウム転換技術開発施設の建設に着工
1980/8/9
本島等長崎市長が平和宣言。「膨大な核兵器は人類を幾たびも絶滅させる量に達しており、技術的、管理的ミスによる核戦争偶発の危険性も強まっている。世界の良心はいまこそ、ナガサキの声に耳を傾け、核兵器の廃絶と戦争の完全放棄を実現するため立ち上がらねばならない。被爆体験の継承は、長崎・広島市民にとどまらず、国民の、いな人類の課題として強力に推進すべきである。いまや真の平和の実現のため、人々は国境を超え、信教・信条を超えて必死の努力を払っていくべきときである。日本国政府が核兵器の完全禁止と全面軍縮への決意を新たにし、国家補償の精神に基づき被爆者援護対策の確立をはかるよう強く訴える」
1980/8/9
原水禁1980世界大会・長崎集会開く。長崎市の市民会館体育館で67人の海外代表を含む4,000人が参加。(1)原子力の軍事化への反対運動の強化(2)太平洋への核廃棄物投棄、貯蔵反対-などを盛り込んだ「長崎からの訴え」を採択して閉幕
1980/8/9
原水禁国民会議が独自の被爆35周年長崎大会閉会総会を開く。海外代表15人を含む8,000人が参加。「太平洋非核化をめざし、2年後に迫った国連軍縮特別総会の成功と核絶対否定の実現のために戦おう」と宣言
1980/8/9
長崎被爆35周年。長崎市の平和公園で原爆犠牲者慰霊平和祈念式典。新たに書き加えられた1,386柱の原爆殉難者名簿を奉安
1980/8/9
モスクワ放送が「ソ連黒海沿岸のヤルタ近くにある国際青年キャンプ『スプートニク』で広島、長崎の原爆犠牲者の霊を弔う集会が開かれた」と伝える
1980/8/9
日本消費者連盟、自主講座実行委員会など反原発グループで作る「放射性廃棄物の海洋投棄計画白紙撤回を求める実行委員会」の代表が、科学技術庁で「日本の原子力開発のつけを太平洋諸島住民に押しつけるべきでない」との声明を発表
1980/8/10
長崎市の平和祈念式典に出席した元オランダ人捕虜ら3人に長崎市が被爆者健康手帳の交付を決める。元捕虜への交付は初めて(「長崎年表」)
1980/8/10
中国の北京晩報が「北京郊外の老朽化した原子炉から放射能が漏れた」と報道
1980/8/10
長崎市主催の平和市民大行進に4,000人が参加。本島等長崎市長が閉幕集会で、日本政府が核保有国に呼びかけ東京で世界軍縮会議を開くよう提案
1980/8/11
科学技術庁が制御棒駆動装置の電気系統の一時的不良から自動停止した新型転換炉原型炉「ふげん」の運転再開を指示
1980/8/11
ブレジネフ・ソ連共産党書記長が「核兵器を持たない国に対しては核攻撃をしない」と声明
1980/8/11
ミクロネシア・パラオ諸島のローマン・ペドールさんら太平洋住民が科学技術庁に放射性廃棄物投棄計画の中止を訴え
1980/8/11
佐世保市で原子力船「むつ」の改修工事が始まる。原子炉容器上ぶた8年ぶりに取り外す
1980/8/13
長崎市が元オランダ兵捕虜のレネ・シェーファーさんと元オーストラリア兵捕虜のピーター・マックグラスカーさんの2人に被爆者健康手帳を交付
1980/8/13
太平洋地域首脳会議で日本が進めている核廃棄物海洋投棄計画に理解を求めるため、科学技術庁原子力安全局次長ら政府代表団が出発
1980/8/14
ジュネーブの核拡散防止条約再検討会議で大川美雄軍縮大使が核防体制強化を力説。兵器用核分裂物質の生産停止を提案
1980/8/14
日本の放射性廃棄物の海洋投棄計画を中心に討議する太平洋地域首脳会議がグアムで始まる。ホスト役のカルボ・グアム知事が海洋投棄計画に反対を表明
1980/8/15
長崎の証言の会が、1980年度の日本ジャ-ナリスト会議奨励賞を受賞(「長崎年表」)
1980/8/15
グアムで開かれている太平洋地域首脳会議が日本の核廃棄物海洋投棄計画の停止を求める決議 1980/8/17
ブラウン米国防長官がABC放送のテレビインタビューで、欧州侵略に対する抑止力として戦術核兵器の先制使用の可能性を示唆
1980/8/18
原水禁国民会議の被爆35周年原水爆禁止沖縄大会が始まる。沖縄戦最後の激戦地・摩文仁の丘に1,000人が参加
1980/8/18
広島県賀茂郡黒瀬町が計画しているアウシュビッツ記念館に展示する資料を寄贈してもらうため、ヒロシマ・アウシュビッツ委員会(桑原英昭会長)がポーランド使節訪問団を派遣
1980/8/20
広島県原水協と新日本婦人の会広島県本部が広島市の似島海浜整備計画で「千人塚跡など原爆遺跡を壊さないよう進めて欲しい」と要望
1980/8/20
核兵器廃絶の道を探る世界科学者の集い、パグウォッシュ会議がオランダで開幕。43カ国から125人が参加。日本から豊田利幸名大教授ら
1980/8/20
被爆35周年原水爆禁止沖縄大会が閉幕。西表島住民が核燃料再処理工場設置に反対の訴え
1980/8/21
沖縄本島の東方海上を航行中のソ連のエコー1型原子力潜水艦が火災事故。死者9人、負傷3人を確認。海上保安庁、航空自衛隊の救援を拒否。放射能は検出されず
1980/8/22
政府が、火災事故を起こしたソ連原子力潜水艦について、ソ連側が(1)放射能漏れや核汚染の危険がない(2)核兵器を搭載していない-の2点につき保証を与えない限り、原潜の日本領海通過を拒否する方針をソ連政府に申し入れる
1980/8/23
ソ連火災原潜のタグボートによる曳航が始まり、日本領海を2時間35分にわたって通過。外務省がソ連に厳重抗議。海上保安庁がソ連原潜対策室を設置
1980/8/24
むつ市で原子力船「むつ」の再母港化に反対する集会。370人が参加
1980/8/25
パグウォッシュ会議が核戦争の危険を世界に警告する異例の声明を承認して閉会。「人類はかつてこのような危機に陥ったことがない。その危険な流れを変えないと、今世紀末までに文明の終わりと人類絶滅につながる核戦争が予測される」と宣告し(1)米ソ間での真剣な交渉再開(2)欧州とその他の地域での核兵器並びに通常兵器競争をやめさせる(3)第3世界での紛争から第3国の手を引かせる-の実現を呼びかける
1980/8/26
原子力船「むつ」の改修工事は放射能漏れ事故の原因となった一次遮へい体群の撤去作業が始まり、核心に入る
1980/8/26
ソ連火災原潜が対馬海峡を通過、日本海へ抜ける。政府は原潜の日本領海通過を「無害通航で領海侵犯にはあたらない」との統一見解をまとめる
1980/8/30
小久保均氏が「夏の刻印」を出版
1980/8/--
広島市の幟町国民学校に駐屯していて、原爆によって全滅したといわれていた特設警備隊の生存者が名乗り。広島市の茶木原実人さん。「一緒に逃げた何人かはきっと生きているはず」
1980/8/--
岡山市在住のアマチュア画家保田真一さんが、被爆直後の広島を描いたデッサンや水彩画4点を広島市の平和記念館に寄贈
1980/8/--
放射線影響研究所が「これまでの調査では原爆放射線が被爆二世に与える影響は認められない」とする遺伝生化学調査の中間報告をまとめる
1980/8/--
長崎市の平和公園に長崎型原爆「ファットマン」と広島型原爆「リトルボーイ」の実物大模型を展示する市の構想が、被爆者らの反発を受け宙に浮く
1980/8/--
原爆詩人の故峠三吉氏が1948年に編集人となって発行した月刊総合雑誌「ひろしま」第1号と次号に掲載予定していた峠氏司会の文化人座談会「広島の顔」の筆記録が広島県立図書館で見つかる
1980/8/--
秋葉忠利・米タフツ大准教授が米の高校生、大学生を対象に原爆について意識調査。「高校生の半数が原爆投下を知らず、大学生には核抑止論が定着」
1980/8/--
大阪府松原市立布忍小学校の5年生180人が、被爆手記集「原爆の子」を参考に描いた木版画を大阪市で開かれた「反戦平和展」に出品
1980/8/--
広島市の原爆被爆者福祉センターが1979年度の被爆者健康診断結果をまとめる。一般検査10万4,928人、精密検査5万8,273人
1980/8/--
日本青年団協議会が核廃棄物海洋投棄計画の反対運動に加わる方針を固める

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