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ヒストリー

ヒロシマの記録1979 5月


1979/5/1
使用済み核燃料の再処理を民間にも認める「原子炉等規制法改正案」が成立。電力9社が新会社を設立し、英、仏との再処理の委託契約の切れる1990年に運転開始をめざす。新会社の処理能力は年間1,000~1,500トン
1979/5/1
米国務次官補が上院政府間問題委核拡散問題小委員会で、パキスタンが2~5年で水爆開発の可能性を指摘
1979/5/1
「水爆の秘密」の記事掲載をめぐり報道の自由か国家の安全かが問われている中で、米ウィスコンシン州ミルウォキーのミルウォーキー・センティネル紙が「水爆は容易に入手できる」の特集記事を掲載
1979/5/2
三重県桑名市の日本キリスト教団桑名教会の呼びかけで発足した「在韓国原爆被爆者を広島の病院へ招く会」(会長、河村虎太郎医師)のカンパ約450万円で、金永根さんと白順岳さんが広島市の河村病院に入院
1979/5/3
米厚生教育長官が上院委員会で、スリーマイル島原発周辺の住民のがん死亡の可能性を証言。80キロ以内に住む200万人のうちの1人ないし10人ががんにかかり死亡
1979/5/5
米原発でまた放射能漏れ。アラバマ州アセンズのブラウンズフェリー原子力発電所。放射性物質を含んだ水がテネシー川に流入
1979/5/6
ソ連がセミパラチンスクで地下核実験。スウェーデンのハグフォルス軍観測所が発表
1979/5/6
米ワシントンで6万5,000人の反原発デモ
1979/5/7
中国電力島根原発の特別保安監査が始まる。市川弘行広島通産局公益事業部長をキャップに広島通産局、資源エネルギー庁の係官ら7人。島根県からオブザーバー2人が参加。9日終了
1979/5/8
第2回在米被爆者検診医師団(団長、蔵本潔広島原爆病院副院長)が成田を出発
1979/5/8
荒木広島市長がソ連地下核実験でポリャンスキー駐日ソ連大使に抗議電。9日、広島、呉、三次、岡山、山口など21カ所で抗議の座り込み
1979/5/8
在米被爆者検診の会場にサンフランシスコの連邦公衆衛生病院の使用が認められる。当初、国務省が使用許可に難色。1978年の第1回検診では会場が確保できず、問診だけに
1979/5/9
第2次米ソ戦略兵器制限交渉(SALT2)が7年ぶりに合意。双方の大陸間弾道ミサイル(ICBM)、潜水艦発射弾道ミサイル(SLBM)、戦略爆撃機の合計数を2,250以下に制限、その中で複数目標弾頭(MIRV)の合計を1,200以下、MIRV装備ICBMは820以下に
1979/5/9
日本被団協、地婦連、日青協など11団体で構成する被爆問題市民団体懇談会(市民懇)が東京で「被爆者援護法制定国会請願大会」。約200人が参加。市民懇が集めた402万2,000人分の署名を携え国会に請願
1979/5/9
原水禁国民会議が東京で全国委員会を開き「79統一原水禁世界大会」への参加を決定。大阪、広島、長崎の委員らから「原水禁運動に混乱を招く」と異論
1979/5/10
下関から新幹線で広島を訪れた「中日友好の船」の副団長らが原爆慰霊碑に参拝
1979/5/10
原子力安全委員会が、原発総点検結果は具体性を欠くと、通産省に14日までに追加報告を求める
1979/5/10
広島、長崎両県の被爆教職員の会などが出版12社に原爆記述について公開質問状。(1)原爆問題をどのように記述しているか(2)新しい教科書と古い教科書の原爆記述の変化とその理由
1979/5/11
サンフランシスコの連邦公衆衛生病院で第2回在米被爆者検診。初日は15人。30人以上の米報道陣が詰めかける
1979/5/11
関西電力高浜原発1号機で緊急冷却装置の軸折れを発見。同2号機の制御棒にも傷。福井県が発表
1979/5/12
米政府がスリーマイル島原発事故報告書で、人体への危険性は最小限と発表。周囲80キロの被曝線量は当初推定の2倍
1979/5/12
広島市安古市町の被爆女性が自殺。45歳
1979/5/12
厚生省が「広島、長崎における残留放射能」の調査結果を発表。「両市とも放射能の残留はなく、黒い雨地域も『白』で、被爆地域拡大の必要は認められない」。調査は1976、78両年度に実施
1979/5/12
長崎から上京した「群集の渦」の被爆二世が、首相官邸前で割腹自殺を図る。1カ月の重傷
1979/5/13
日本原水協が新村猛名古屋大名誉教授らが呼びかけている「79原水禁世界大会」に組織として参加を決定。1978年は個人、傘下の団体ごとの覆面参加
1979/5/13
広島城跡公園に旧中国軍管区司令部の軍人、軍属、旧比治山高女動員学徒の慰霊碑が完成、除幕式。司令部には1,000人程度が勤務し、800人が死亡と推定
1979/5/13
東京で「ヒロシマ・若者を結ぶ会」が2回目の会合。語り部の高橋昭博氏を囲み約100人が集う
1979/5/13
東京で第6回国際放射線研究会議が始まる。放影研のS・C・フィンチ博士が「広島、長崎35年間の研究の展望」と題し講演
1979/5/14
石田明全国原爆被爆教職員の会会長が、東京高裁で開かれた「家永教科書訴訟」控訴審口頭弁論に原告側証人として出廷、教科書の原爆記述減少を証言
1979/5/14
原子炉安全専門部会が「関西電力大飯原発1号機の冷却装置は安全」と結論
1979/5/14
パキスタンが年内に核実験強行とインド紙が報道
1979/5/15
広島平和教育映画ライブラリーが平和記念館で8夜、原爆映画上映会。「ピカドン」など12本
1979/5/15
ソ連との全面核戦争が起きると米の死者は1億5,500万~1億6,500万人-。米上院議会事務局が第2次米ソ戦略兵器制限条約(SALT2)の討議資料で報告
1979/5/16
尾道市の桑原忠男さんが国を相手取って起こした、原爆症認定申請却下処分の取り消し請求訴訟の控訴審が広島高裁で判決。原告が敗訴。胡田勲裁判長は「病気が被爆に起因すると認めるのは困難」と控訴を棄却
1979/5/16
広島平和教育研究所が「平和教育実践辞典」の出版を決める
1979/5/16
広島県が南米移住の被爆者24人を確認。アルゼンチン13人、ブラジル8人、ペルー2人、パラグアイ1人。各国の広島県人会から回答
1979/5/16
核兵器完全禁止・被爆者援護国民懇談会が、「79年統一原水禁世界大会」の実行委員会をつくり、統一世界大会を開くよう努力することで合意。新村猛名古屋大名誉教授らも同じ内容の「21人アピール」を発表
1979/5/16
西ドイツ・ニーダーザクセン州政府が、ゴアレーベンに計画の核燃料再処理施設建設を不認可。理由は「連立与党の社民(SPD)、自民(FDP)両党が安全性の評価で足並みがそろわず、国民に不安」
1979/5/17
ニューメキシコ州のロスアラモス原子力研究所で、極秘のはずの水爆製造法が4年間も一般公開。ハーバード大生が発見、警告。国外流出の恐れもあり、米議会が調査へ。カリフォルニア大リバモア放射能実験所の図書室でも水爆報告書を公開
1979/5/18
厚相の諮問機関である原爆被爆者対策基本問題懇談会の委員7人が決まる。大河内一男東大名誉教授、緒方彰NHK解説委員室顧問、茅誠司東大名誉教授、久保田きぬ子東北学院大教授、田中二郎元最高裁判事、西村熊雄元駐仏大使、御園生圭輔原爆被爆者医療審議会会長。6月8日に初会合
1979/5/18
福井労基局が関西電力、日本原子力発電、動力炉・核燃料開発事業団の3社に、下請け従業員を含めた避難訓練の実施と避難体制の確立を指示
1979/5/18
オクラホマ州オクラホマシティーの米連邦地裁が核燃料会社カー・マギー社に、放射能被曝の遺族へ賠償金1,050万5,000ドル(約22億円)の支払いを命令。原告は同社の女性放射線技師カレン・シルクウッドさんの遺族
1979/5/18
原水禁国民会議が「核のない太平洋」をめざし、太平洋核被害調査交流団を派遣。3班編成49人。1班=サイパン、テニアン、パラオ、2班=オーストラリア、ニュージーランド、フィジー、マーシャル諸島、3班=仏領ポリネシア。広島からは今田正義県労会議議長らが参加
1979/5/19
関西電力大飯原発の運転再開に原子力安全委員会がゴーサイン
1979/5/19
放射線影響研究所で第6回専門評議員会。ミシガン大のジェームズ・V・ニール博士らが出席
1979/5/19
ロサンゼルスでも在米被爆者検診が始まる。会場は日系人医師が共同経営しているシティー・ビュー病院。前回検診以後、米国原爆被爆者協会の初代会長だった岡井巴さん(1978年死去、58歳)ら3人が相次ぎ死亡
1979/5/19
東京・夢の島の第五福竜丸展示館前から8月6日の広島を目指し国民平和大行進がスタート
1979/5/20
スイスが原子力発電所の建設規制を強化する連邦政府提出の原子力法改正案を国民投票で可決
1979/5/21
スリーマイル島原発事故は機械の設計ミスの可能性が大-。米下院内務委員会環境小委員会の同原発事故調査特別機動班長ウィーバー議員が報告書
1979/5/21
広島市で国際放射線後障害研究会を開く
1979/5/22
米スリーマイル島原発の放射能漏れで、がんによる死者は数百人から数千人-。米の科学者チョンシー・ケプフォード氏が米下院で証言
1979/5/22
日本原水協が英とノルウェーに海外交流団を派遣。広島から被爆者の中村美代子さんが参加
1979/5/22
ロサンゼルスの在米被爆者検診が終わる。サンフランシスコと合わせ150人、前回の106人を上回る
1979/5/22
米の平和運動グループ「生存のための動員」の宗教部門の世話人ポール・メア神父が広島市を訪れ(1)核兵器の実験、研究、開発の中止(2)核兵器による第1攻撃国にならないことを求める(3)原子炉の建設、輸出の中止(4)医療目的以外核物質輸送の中止(5)ウランの発掘、精製処理、輸送の中止-を要求する「核のモラトリアム」運動を提唱
1979/5/23
福井県防災会議原子力防災対策部会で、国が当面の原発事故対策示す。原発の異常事態は環境放射線が毎時1ミリレントゲンを超えたときで、周辺8キロ以内の住民を対象に考えるべき
1979/5/24
「核と平和-80年代への展望」をテーマに新聞労連の第10回新聞研究特別分科会が広島市で開催
1979/5/25
西ドイツのハンブルク大ロルフ・イタリアンダー教授が荒木広島市長を訪ね、「ヒロシマに思う」と題した詩を寄せる
1979/5/25
米ミシシッピ州ジャクソン郡の地下核実験場跡から高濃度の放射能を検出、州知事が付近住民に避難勧告。1960年代に使われた実験場。26日、特別調査班が現地調査、異常値は検出できず。機器の故障と分かる
1979/5/27
第2回在米被爆者検診がシアトルでの問診を終え、全日程を終了。28日、帰国へ
1979/5/28
「桑原訴訟」の桑原忠男さんが原爆症認定却下処分の上告断念
1979/5/30
原水禁国民会議が太平洋諸国の反核団体に呼びかけ、サイパン島で「非核未来のための太平洋国際会議」の予備会議。パラオ、テニアン、米などから35人が参加。1980年5月にハワイで本会議開催へ
1979/5/31
オランダ・ハーグ郊外で開いていた北大西洋条約機構(NATO)15カ国外相会議で、ソ連のSS20ミサイルなどに対抗するため、中距離核ミサイルの強化、近代化で意見が一致
1979/5/--
安部一成山口大教授が原爆による物的被害額を算定。広島8億8,410万円、長崎3億8,300万円(1945年の物価)。1979年の物価で換算すると広島1兆5,400億円、長崎6,400億円
1979/5/--
放射線影響研究所が「被爆者とがん」の関連を調べるため、約6万人の被爆者を対象に「生活と生活環境調査」を実施へ。6月初め調査票を郵送
1979/5/--
「昭和万葉集・巻7」(講談社)が出版。「敗戦前夜」「いまわしい記憶」の2項目に24人の原爆作品42首収録
1979/5/--
トルーマン米大統領の原爆投下承認メモを発見。ポツダム会談(1945年7月17~8月2日)出席中に書かれ「提案を承認する。準備が整い次第、投下せよ。ただし、8月2日以前は控えること」と記す。スティムソン陸軍長官の問い合わせへの回答。メモは同大統領補佐官ジョージ・エルゼー氏が保管、トルーマン記念図書館に寄贈
1979/5/--
徳山被爆者の会(金子武会長)が文集「渇き」を創刊。被爆者10人の証言を収録
1979/5/--
横浜市大文理学部の山極晃教授がワシントンの国立公文書館で「マンハッタン計画」関係文書の中の「原爆攻撃に関する目標選定委員会」議事録を見つける。委員会は1945年4月から5月に3回開き、第1順位=京都、広島、第2順位=横浜、小倉、第3順位=新潟を内定。5月28日の最終会合で京都、広島、新潟に。目標都市と順位は後に変更
1979/5/--
広島大原医研が被爆とその後の生活環境の因果関係を調べるため、被爆した双生児の研究を始める

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