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ヒストリー

ヒロシマの記録1979 7月


1979/7/1
中国新聞で連載企画「ヒロシマの証原爆資料館から」が始まる
1979/7/2
総評の槙枝元文議長(日教組委員長)が、原水禁国民会議の独自大会を批判。「統一を妨げる行動はやめてもらいたい。独自集会を強行しても総評、日教組は参加しない」
1979/7/3
広島県労会議が、槙枝元文総評議長の原水禁国民会議の批判に抗議
1979/7/3
福岡簡易裁判所が窃盗罪に問われた韓国人被爆者の孫振斗被告に懲役1年4月、執行猶予4年の判決。「被爆者であることと犯行とは直接関係ないが、改悛の情も強く被害弁償も済ませている」
1979/7/3
在韓被爆者の救済策が日韓与党の自民党と民主共和党の間でまとまり、自民党政務調査会で了承。(1)韓国の医師を1979年度から5年間、5人程度研修のため受け入れ(2)日本から専門医を派遣、医師の教育や医療活動(3)重症の被爆者を日本で治療
1979/7/4
南アフリカが、米との濃縮ウラン供給交渉が決裂と発表。「供給を絶たれても、独自に濃縮ウランを生産し予定通り核開発を進める」
1979/7/6
ソ連がセミパラチンスクで地下核実験。米エネルギー省が7日発表
1979/7/6
神奈川県警が核燃料物質「酸化トリウム」約450キロを隠し持っていた神奈川県の会社社長を逮捕。「酸化トリウムで水をラジウム温泉化する計画」と自供
1979/7/7
広島市議と市幹部でつくる広島原爆被害者援護強化対策協議会(会長、任都栗司市議)が休眠状態に。共産党市議団が開催を要求。同協議会は1966年7月結成、77年に任都栗氏が市土地開発公社汚職事件で収賄罪に問われてから壊滅状態
1979/7/8
ノーベル賞学者の朝永振一郎元東京教育大学長が食道がんで死去。73歳。京大を卒業後、仁科芳雄博士のもとで研究生活。1965年度ノーベル物理学賞を受賞。1957年の第1回パグウォッシュ会議に参加、62年には科学者京都会議を結成
1979/7/9
原水禁世界大会の広島大会日程決まる。東京で開いた世界大会実行委に現地実行委の後藤利行、藤本幸作の両事務局長が出席し「8月5日午後、課題別集会。6日午後1時から広島県立体育館」を確認
1979/7/9
原子力船「むつ」が佐世保港入港以来約9カ月ぶりに佐世保重工業のドックに。同重工の再建問題でドック入りが遅れる
1979/7/9
動力炉・核燃料開発事業団の新型転換炉「ふげん」が操作ミスで緊急停止。3月20日に営業運転
1979/7/9
愛知県津島市が同市内の被爆二世の11疾病の医療費を1980年度から無料化。該当者は49人
1979/7/9
米信託統治領のミクロネシア・パラオ諸島が国民投票で非核憲法制定。「パラオの領土、領海内で核物質を含むあらゆる化学物質の貯蔵、運搬、実験、使用を許さない」。原水禁大会に参加のため8月7日、長崎入りした「パラオを守る会」のモーゼス・ウルドングさんが伝える
1979/7/10
米ソ代表がジュネーブ軍縮委員会に、放射能兵器の開発、生産、貯蔵、使用禁止の条約原案を提案
1979/7/10
原水禁国民会議が独自大会の日程を決める。両大会の出席に道
1979/7/10
荒木広島市長がソ連核実験に抗議電報。広島市内や山口、東京、山形など各地で座り込み
1979/7/10
動力炉・核燃料開発事業団の新型転換炉「ふげん」が本格運転再開
1979/7/11
長崎も原水禁世界大会の統一大会が実現。日程問題で原水禁国民会議と日本原水協が合意
1979/7/13
広島市長室次長で、広島平和文化センター事務局長の小倉馨さんが脳動脈瘤破裂で死去。58歳。1960年に広島市職員になり、米国育ちの経歴を買われ渉外係長に。原爆資料館長、渉外課長を歴任
1979/7/14
関西電力大飯原発1号機が緊急停止。6月13日に運転再開したばかり。配線ショートが原因
1979/7/14
核禁長崎県民会議は原水禁世界大会長崎大会に不参加決める。県同盟が代表参加へ。原子力船「むつ」の佐世保入港の際、核禁会議は核平和利用促進の立場から賛成したのが障害に
1979/7/14
ソ連がカスピ海北部で地下核実験。スウェーデン防衛研究所が16日発表
1979/7/15
広島県朝鮮人被爆者協議会(朝被協)が、朝鮮人の被爆体験集「白いチョゴリの被爆者」を労働旬報社から出版。全国の朝鮮人被爆者18人が被爆と民族差別に苦しむ実態を訴える。李実根会長は被爆当時、広島市内にいた朝鮮人は5万2,000~5万3,000人、うち4万8,000人が被爆、1年以内に3万人が死亡と推定
1979/7/15
関西の小、中、高の教師や青少年が、大阪市で「ヒロシマを結ぶ若者の集い」。広島の語り部、高橋昭博さんが呼びかけ実現。約100人が参加
1979/7/16
広島市原爆死没者慰霊式・平和祈念式の内容決まる。原爆投下時の1分間の黙とうを広島県内だけでなく山口、岡山など中国地方と愛媛、香川に呼びかけ
1979/7/16
本島等長崎市長が「8月9日の長崎平和祈念式典に、長崎で被爆した元英軍捕虜のR・E・プライヤーさんを招きたい」と表明
1979/7/16
長崎市世界平和祈念旬間行事実行委員会(会長、本島等市長)が、被爆34周年平和祈念式典を「慰霊」から「継承」へ重点(「長崎年表」)
1979/7/17
米スリーマイル島原発近くのドゥートリック・ハリスバーグ市長が、8月4~9日を「ヒロシマ・デー」とし、広島市と姉妹縁組を提唱。「ヒロシマは最初の原爆被害者。ハリスバーグは原子力災害のシンボルに」
1979/7/17
自治労広島県本部の被爆二世協議会が広島市で結成。約30人が出席、組織の拡大をめざす
1979/7/17
荒木広島市長が14日のソ連核実験に抗議電報。18日、1都6県で抗議の座り込み。鳥取県庁前でも初めて実施し中国5県すべてが参加
1979/7/18
本島等長崎市長がソ連の核実験に対し、抗議文を持って東京・麻布台のソ連大使館に出向く。大使館側は受け取りを拒否(「長崎年表」)
1979/7/18
原水禁世界大会長崎大会実行委員会が発足
1979/7/18
ソ連がセミパラチンスクで地下核実験。スウェーデンのウプサラ大地震研究所が発表
1979/7/19
荒木広島市長が18日のソ連核実験に抗議電報。20日、全国7都県で抗議の座り込み
1979/7/19
広島市の私立安田高校が「平和デー」。原爆映画を観賞し、被爆体験を聞く。4年前から夏休み前の1週間を平和ウイークとして活動
1979/7/20
原水禁世界大会に14年ぶり中国の参加が決まる。中国は1965年まで日本原水協の大会に参加。その後は部分核停条約の評価の違いから不参加
1979/7/20
広島のケースワーカー11人が被爆者の苦難の歴史を「35年目の被爆者」としてまとめ出版。労働教育センター
1979/7/20
7月13日死去した小倉馨さんの遺作「ヒロシマになぜ-海外よりのまなざし」が出版。渓水社。フロイド・シュモー、リチャード・ニクソン、ジョルジュ・ムスタキ、ジョーン・バエズ、ノーマン・カズンズ、アール・レイノルズさんら22人
1979/7/21
公明党広島県本部が平和問題専門研究委を発足
1979/7/21
高校生らが広島市の平和記念公園で、初の「原爆集中フィールドワーク」。広島県内、大阪の高校など17校、約80人が参加
1979/7/21
「峠三吉没27周年・平和のための朗読と講演会」を広島市内で開く。市民、高校生ら約200人が参加。広島共立病院長の丸屋博さんらが思い出を語る
1979/7/22
茨城県東海村の東海原発第2発電所で一次系冷却水の蒸気漏れ。運転を中止
1979/7/22
東京・上平井中学の卒業生たちが、地元で映画「ひろしま」(1953年製作)の上映運動。修学旅行で広島を訪れたのがきっかけ
1979/7/22
西ドイツ・ケルンで活躍している日本人ジャーナリスト、松原久子さんが取材のため広島市入り
1979/7/23
写真集「ヒロシマ1945~1979」が出版。横浜市のカメラマン土田ヒロミさんの作品。「原爆の子」(1951年出版)に作文を書いた105人と長田新氏の序文に引用されている81人の計186人を追跡し、うち107人の日常を撮影
1979/7/23
在韓被爆者調査のため、大阪の「韓国の原爆被害者を救援する市民の会」(松井義子会長)が韓国へ
1979/7/23
ワールド・フレンドシップ・センターが実施している平和教育「日米教師交換事業」で渡米の4人が広島を出発。広島市国泰寺中の大石武司教諭ら
1979/7/23
広島県、市が「被爆職員の健康管理休暇」制度決める。年間6日間。休暇は認定被爆者と健康管理手当を受給している職員が対象。県208人、市400人
1979/7/24
広島県地域婦人団体連絡協議会(県婦協、高浜清子会長)が原水禁世界大会へ10円募金始める
1979/7/24
中国新聞が連載企画「核と放射能アメリカからの報告」
1979/7/25
全国21市区で開かれる原爆死没者慰霊式や平和記念式典に、本島等市長のメッセ-ジ発送へ(「長崎年表」)
1979/7/25
大阪被爆二世の会(大久保定会長)と部落解放同盟大阪府連(上田卓三委員長)が交流学習会
1979/7/25
広島、長崎の被爆の実相を総合的にまとめた「広島・長崎の原爆災害」が発行される。両市の委嘱を受けた今堀誠二広島女子大学長、飯島宗一元広島大学長、具島兼三郎長崎大学長らが編纂、37人が執筆。既存文献のまとめのほか、新たな調査結果も。27日、東京で発刊記念会。岩波書店刊
1979/7/27
広島少年合唱隊(樋口正司代表)が広島市公会堂で結成20周年記念コンサート。長崎少年合唱団が友情出演。1960年7月27日、92人で発足
1979/7/27
長崎、広島に駐留して残留放射能を浴びたという元米海兵隊員ら約50人が「広島・長崎退役軍人会」を組織。29日、代表2人が両市の平和記念式典などに出席のため出発。元長崎駐留兵で骨髄がんのハリー・コポラ氏、長崎駐留兵の夫を亡くしたバージニア・ラルフ夫人
1979/7/28
中国電力島根原発の制御棒試験で異常、出力低下。30日、修復フル運転へ
1979/7/29
東京・品川の東海寺で原爆犠牲者合同慰霊祭。東友会主催で15回目
1979/7/29
広島短歌入門の会の50人が、被爆した1人の婦人がさまよった道をたどり短歌に
1979/7/30
31日からの「原水爆禁止1979年世界大会」で、原子力問題を課題から下ろすことで合意。同盟の主張を入れる
1979/7/30
広島県高教組が高校生の原爆に関する意識調査まとめる。3年前の調査に比べ、知識、意識ともに高まっているが、核兵器保有をやむを得ないとしたり、自衛隊肯定の意見も増える
1979/7/31
原水爆禁止1979年世界大会国際会議が東京で始まる。同盟を中心とした核禁会議の参加で「国民的統一集会」に。初参加の国連軍縮機関など19カ国、11国際組織、57人の海外代表を含む約1,400人が出席。総評の槙枝元文議長が「意見の違いではなく、一致点、合意点の拡大に最大の努力を」とあいさつ。ロルフ・ビュルナーシュテット国連軍縮センター所長が「大会が世界の軍縮のために大きな力になるように」と表明。2日目、原子力発電問題を「討論集会」で取り上げるが、かみ合わず。原爆で夫と二男を奪われた広島市の大平数子さんの詩「慟哭」(早川正昭氏作曲)が名古屋二期会山本みな子さんの歌で紹介。3日目、閉会総会。核兵器の使用、実験、製造、貯蔵を禁止する国際条約をつくる運動強化などの東京宣言を採択。宣言は原子力発電問題に触れず、欧米の参加者は失望
1979/7/31
中国新聞が企画「科学学級の31人戦時下英才教育を追って」を連載。広島高師付属中に開設した科学特別教育学級を追跡
1979/7/31
大阪フェスティバルホールで、大阪のフロイデ合唱団がカンタータ「人間をかえせ」(大木正夫氏作曲)を公演
1979/7/31
広島原爆病院が1978年度の診療概況発表。入院患者の平均年齢は69.5歳。死亡77人、死因トップはがんが60%以上。被爆者の相談は前年度を1,000件上回る5,640件。高齢化して経済や生活上の相談が増える
1979/7/--
反核アニメーション映画「ピカドン」が人気。9分の短編。木下蓮三、小夜子夫妻の作品
1979/7/--
「燃え上がる長崎の町は美しかった。やっと奴隷労働から解放される」-。長崎市幸町にあった福岡俘虜収容所第14分所に収容されていた元オランダ兵のチャールズ・ブルキさんが書いた体験記「鉄条網の中で」が長崎国際文化会館に届く。著書では、捕虜は375人(125人が虐待などで死亡)、被爆即死者は数人で重軽傷者が35人、うち10人が重体。他の証言ではインドネシア人を主体にオランダ、英人など530人を収容、被爆生存者は300人、うち200人が重軽傷
1979/7/--
長崎原爆で死亡したオランダ兵捕虜6人の名前が分かり、原爆殉難者名簿に追加へ。自由アムステルダム大学の図書館長シュテリングウェルフさんから、死亡者リストが長崎国際文化会館へ届く。リストは1943年4月からの死者97人。45年8月9日以降の死者はアールダス大尉ら6人、9日に3人が爆死、15日に1人、18、22日にそれぞれ火傷で1人ずつ死亡
1979/7/--
戦時中、捕虜として長崎にいた元オーストラリア兵W・C・リード氏の被爆体験記が鎌田定夫長崎総科大教授のもとに届く
1979/7/--
「子どもたちに世界に!被爆の記録を贈る会」(松浦総三代表)が、米戦略爆撃調査団が撮影した未公開の広島、長崎の写真を入手し、発表。同会の岩倉務代表幹事がワシントンの国立公文書館、陸海空3軍の写真資料センターにある計6,000枚の原爆写真と300本の16ミリフィルムをチェック、560枚を複写。うち300枚が広島分
1979/7/--
染色工芸で「ヒロシマ」を訴え続ける広島市の岩村麦踏子(本名、穂波)さんが「ヒロシマ・シリーズ展」
1979/7/--
広島平和教育映画ライブラリー(田辺昭太郎事務局長)が全都道府県に平和教育映画ライブラリーの設置を呼びかけ
1979/7/--
旧山中高等女学校の被爆死したクラスメート約400人の名簿が7年がかりで完成。広島大付属中・高校の小野文子教諭ら7人が調査。当時の広島女子高等師範学校と付属の山中高女、専攻科合わせて被爆時の生徒数は1,566人。うち被爆直後に399人、その後44人が死亡
1979/7/--
全国の被爆者の被爆体験をテープに収め続ける元長崎放送記者伊藤明彦さんの記録が1,000人を超す。1970年から21都府県、2,000人の被爆者を訪ねる

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