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ヒストリー

ヒロシマの記録1978 3月


1978/3/1
国連軍縮特別総会に被爆地広島の声を結集しよう-。ビキニデー統一行動日で社会党系、共産党系の広島県原水協がそれぞれ街頭署名運動
1978/3/2
ジュネーブ軍縮委員会で小木曽本雄日本代表が米ソ英に核実験禁止に関する交渉妥結を訴える
1978/3/2
ジュネーブで開かれていた非政府組織(NGO)軍縮国際会議が、(1)国連軍縮特別総会では核軍縮を最優先させるための軍縮宣言をする(2)国連は広島に原爆が投下された8月6日を「世界軍縮デー」とする-などを求めた宣言を満場一致で採択し閉会
1978/3/2
広島県被団協(森滝市郎理事長)が5月の国連軍縮特別総会に5人の代表派遣。桧垣益人事務局長、伊藤サカエ、高橋昭博、下江武介、小野田百合子氏ら
1978/3/3
広島平和文化センターが呼びかけ、「国連軍縮特別総会へ署名を送る広島県・市民の会」が広島県婦協など28団体で発足。県青連、PTA連合会、婦人会、広島「折鶴の会」など。50万人署名を目指す
1978/3/4
中国が国連軍縮特別総会への出席を明らかにする。「超大国の覇権主義を阻止」
1978/3/4
広島市で日本マスコミ市民会議が主催し「核報道を問う」シンポジウム
1978/3/4
作家大田洋子氏の文学碑の碑文が決まる。同文学碑建立委員会(斎木寿夫代表委員)が一般から募集。随筆「生き残りの心理」の一節「原爆の苦悩を一人でしょってるつもりはない。みんなで背負っているから苦しいのだ」
1978/3/5
韓国の金永善駐日大使が広島市の韓国人原爆犠牲者慰霊碑に現職大使として初めて参拝。原爆病院も訪れ、入院中の韓国人被爆者卞今順さんを見舞う
1978/3/5
広島県被団協の最高齢者、広島市大手町の島本正次郎さんが死去。92歳。「無窮鳴石」のペンネームで被爆者の霊を慰める短歌、俳句をつくり続ける
1978/3/6
衆院予算委員会で公明党の近江巳記夫氏の質問に対し、真田秀夫内閣法制局長官が「憲法九条2項が禁止しているのは自衛のために必要な最小限度を超える自衛力である。従ってそれに至らない範囲内の武器、兵器であれば通常兵器であろうと核兵器であろうと九条2項の問うところではない」。福田首相「国会が非核三原則を順守すべく決議しているのだから、守られなければならない」
1978/3/6
広島県被団協(森滝市郎理事長)が、広島県内の市町村長、議長に被爆者援護法制定の支持を求める県内行脚を開始。1968年から11年ぶり
1978/3/6
被爆死した朝鮮人の遺族が戦没者戦傷病者遺家族等援護法の適用を厚生省に申請。広島市の孫達秀さん夫婦が広島電鉄、広島瓦斯に徴用工として働いていたおいの孫三祚さんと孫正権さんについて申請
1978/3/7
長崎で被爆した元オランダ兵捕虜のH・V・ミエロブさんが治療のため長崎に。福岡捕虜収容所第2分所(爆心地から10キロ以上)の造船所で作業中、原爆投下。「翌日市内に入り、14分所の仲間を捜した」
1978/3/9
被爆者援護法の制定を要求する総評被爆連や日本被団協の第1次中央行動が始まる
1978/3/9
「核兵器は憲法上持てる」-と政府が国会で統一見解。「核兵器の保有に関する憲法九条の解釈」=(1)憲法九条2項について自衛のため必要最小限度を超えない実力の保有は、核兵器、通常兵器を問わず禁じていない(2)一切の核兵器について政府は非核三原則によりこれを保有しないことにしており、また原子力基本法、核拡散防止条約の規定により、保有が禁止されているが、これと核兵器の保有に関する憲法九条の法的解釈は全く別問題
1978/3/9
山口県の平井N6知事が原子力発電所の事前環境調査を拒否した豊浦郡豊北町の佃三夫町長の措置について「長時間の抗議集会の結果とはいえ遺憾」と批判
1978/3/10
山口県豊北原発の建設反対住民の「原電対策協議会設置条例」の廃止を求める直接請求が成立
1978/3/10
政府が愛媛県伊方町の四国電力伊方原発2号機の設置取り消しを求める住民請求の棄却を決める 1978/3/13
島根県鹿島町の中電島根原発2号機の建設難航の中で安達忠三郎鹿島町長が、高齢に伴う健康悪化を理由に辞職を表明
1978/3/14
米ユタ州立大のチャールズ・メイズ教授が広島市の放射線影響研究所を訪れ、ネバダ核実験被曝米兵を1957年から調べていたと公表。被曝米兵を放置してきた米政府を批判
1978/3/14
長崎原爆被災者協議会が進めていた被爆者の店の増築が完了。映写室を新設(「長崎年表」)
1978/3/15
日本被団協が、被爆者援護法を実現するため1カ月間の全国行脚を始める。長崎で出発集会。参加者延べ3万人を予定。1964年、67年に次いで3回目
1978/3/15
広島県内の7つの被爆者団体が「原爆被爆者援護法即時制定を求める広島県集会」を広島市で開く。広島県被団協(森滝市郎理事長)、県労被爆連(石川俊彦会長)、県朝鮮人被爆者協議会(李実根会長)、広島被爆者の会(久保正直会長)、小頭症患者の親らの組織「きのこ会」(畠中国三会長)、広島「憩いの家」(田辺耕一郎事務局長)、広島被爆二世連絡会議準備会(遊川和良代表)の100人が参加
1978/3/15
中国が新疆ウイグル自治区のロプノル実験場で大気圏核実験。米エネルギー省が15日に発表
1978/3/16
中国の核実験で荒木広島市長が在日中国大使館に抗議電。中国への抗議電は1968年12月以来、14回目。中国はこれまで6回、受け取りを拒否。18日、被爆者らが広島県内11カ所で抗議の座り込み
1978/3/16
広島被爆二世連絡協議会準備会、大阪被爆二世の会、関東被爆二世協議会の3団体が、国に生活、健康調査を求める統一要求をまとめる
1978/3/16
総評被爆連(森井忠良議長)と原水禁国民会議主催の「原爆被爆者援護法制定要求中央総決起集会」が東京で開く。6,000人が参加。都内をデモ行進
1978/3/17
スペイン北部ビルバオ郊外に建設中の原子力発電所をバスク人過激派が襲う。2人死亡、12人負傷
1978/3/17
広島県立皆実高校の生徒らが、被爆体験を受け継ごうと同校の前身、県立広島第一高等女学校の卒業生らの話を聞く
1978/3/17
原爆資料館の対話ノートがきっかけで、いとこ同士が37年ぶりに広島市で再会。大阪市の北田英造さんと広島市の北田寿伸さん
1978/3/18
東京で「原爆投下過程の史的解明に関するシンポジウム」開く。日本学術会議平和問題研究連絡委員会(委員長、岡倉古志郎同会議副会長)、第二次大戦史日本委員会、歴史学研究会の共催。藤原彰一橋大教授が「日本の敗戦と原爆投下」、西島有厚福岡大教授「原爆投下とポーランド問題」、立花誠逸氏「米国における原爆投下問題の研究状況と問題点」など
1978/3/19
被爆電車の生き残りの一人、広島市の高橋澄子さんが肝硬変のため死去。被爆電車の生存者は9人、前年11月、交通事故で死亡した原爆白内障認定第1号の竹田初枝さんに次ぐ死亡
1978/3/19
広島市の平和記念公園にある原爆の子の像の台座がスロープ化。「段差が高く障害者が近寄れない」などの声があったため
1978/3/19
原水禁国民会議が東京・銀座で被爆者援護法の制定を訴える街頭アピール
1978/3/20
動力炉・核燃料開発事業団が福井県敦賀に建設した新型転換原子炉「ふげん」が臨界に
1978/3/20
原水禁国民会議が全国委員会で、夏の原水禁世界大会の独自開催を正式決定。統一問題では「原水禁運動連絡会議」を提唱
1978/3/22
米ハーバード大学生が小型核兵器の製作方法を記した論文を作成。「公表資料だけでも核兵器が造れる」。上院政府問題委員会で明らかに
1978/3/22
放射線影響研究所の諮問機関である専門評議員会が放影研で始まる。飯島宗一名古屋大教授、米ウィスコンシン大のジェームス・クロウ教授ら日米8人が参加。初の試みである郵便による寿命調査9万人の疫学調査などについて論議。死亡被爆者の解剖調査の縮小を勧告へ
1978/3/23
米環境保護局がコロラド州デンバーとワイオミング州シャイアンで中国核実験の死の灰を観測
1978/3/23
米エネルギー省が「ネバダで地下核実験を実施」と発表。この年2回目
1978/3/23
国連本部で開かれる「広島・長崎被爆写真展」の概要が決まる。5月20日から6月20日まで。点数は広島、長崎合わせて60点前後
1978/3/24
小、中学校の新学習指導要領で「核」の記述削除が判明。中学2年社会歴史分野と小学校6年社会科。25日、広島県原爆被爆教師の会、長崎同などが連名で文相に公開質問状
1978/3/24
荒木広島市長が米核実験で米大使館に抗議電。長崎市も。26日、被爆者らが広島県内9カ所で座り込み
1978/3/24
外務省が15日の中国核実験に対し、抗議と即時中止を求める情報文化局長談話を発表
1978/3/25
山口県豊北原発の事前環境調査をめぐる混乱の責任をとって佃三夫豊北町長が辞意を表明
1978/3/26
ソ連がセミパラチンスクで地下核実験
1978/3/27
ソ連核実験で荒木広島市長がソ連大使館に抗議電。1972年3月から30回目。29日、被爆者らが広島県内8市町11カ所で座り込み
1978/3/27
被爆者援護法の制定を訴える日本被団協の全国行脚の一行が山口から広島入り。平和記念公園の原爆慰霊碑前で「引き継ぎ集会」。共産党系の広島県被団協(佐久間澄理事長)も参加
1978/3/27
米内務省がビキニ水爆実験の放射能障害者7人を新たに確認。7人はロンゲラップ島とウトリック環礁の住民。ともに甲状腺異常。ロンゲラップ島には実験当時、82人の住民がいたが、うち33人に甲状腺異常が判明、最年少の子どもは1972年に白血病で死亡。ウトリック島は157人のうち8人に甲状腺腫瘍
1978/3/28
ギリシャのジャン・カンピオティス駐日大使が広島市を訪れ、原爆慰霊碑に参拝
1978/3/28
広島市原爆被災(全体像)復元調査の最終報告書まとまる。1945年10月末までの爆死者数(2キロ以内)が5万人弱と未解明多く2次調査へ。調査は1969年度から市が原爆被災復元調査委員会(志水清会長)に委託
1978/3/28
米が「1961年以来、22個の原子力衛星を打ち上げ」と発表。64年4月の衛星はインド洋上空で放射能をまき散らしながら墜落。現在飛行中の衛星は65年に打ち上げたスナップ10A
1978/3/29
広島通産局(当時、中国地方軍需管理局)の被爆死職員の遺族らの体験記を載せた広島通産局原爆被災誌「祈」が刊行。65人が犠牲
1978/3/30
韓国人被爆者、孫振斗さんが亀井光福岡県知事を相手取って原爆手帳交付申請却下処分の取り消しを求めた上告審で、最高裁の岸盛一裁判長は1、2審判決を支持、孫さんの勝訴が確定。判決理由「原爆医療法は、原爆の被爆という特殊な戦争被害について国が自らの責任により救済を図ることが目的。被爆者は日本国内にいる限り理由を問わず同法の適用を受け、不法入国者でも適用される」
1978/3/31
広島市基町地区の再開発事業がピリオド。1969年から10年、最高20階建てのアパートに4,000世帯が住む。1946年1月、広島市は公園用地として都市計画決定したが、住宅難のため200戸のバラックを建設、その後次々と増え1,815戸に。1955年前後からは相生橋東詰め付近に不法建築が急増、68年当時は約900世帯。本格的な再開発計画検討は65年。県、市が基町地区再開発促進協議会を設置、69年3月、公営住宅を含む2,600戸(2,951世帯)の移転を進めるため、住宅改良地区として指定。第1期工事は69年7月に着工、77年秋、最後の市営高層アパートが完成。県営1,602戸、市営2,964戸、計1万2,000人の新しい町。中国新聞が3月28日から連載企画「消えた原爆スラム」
1978/3/--
広島市が生活保護受給被爆者に4月から「被爆生活困窮者障害福祉手当」4,000円の給付決める。認定被爆者に対する特別手当の収入認定救済策
1978/3/--
長崎の証言の会(秋月辰一郎代表委員)が長崎で被爆した元オーストラリア兵捕虜の資料を入手。被爆兵は27人、うち3人が1965~70年にがんで死亡
1978/3/--
「子どもたちに世界に!被爆の記録を贈る会」(松浦総三代表)の被爆写真集の編集終わる。写真340点、被爆者の描いた絵90点。日本語版と外国語版(英、仏、エスペラント)で作成し買った人は日本語版を手元に、外国語版を「贈る会」に寄付し各国に送る
1978/3/--
5月末の国連軍縮特別総会に合わせ、国連本部で初の広島・長崎被爆写真展の開催が決まる
1978/3/--
今堀誠二広島女子大学長が「中国の原爆観の推移とヒロシマ-1945~1955」をまとめる
1978/3/--
広島県・廿日市中が父母の被爆体験記を出版。「暗い青春」、67編
1978/3/--
ビキニ水爆実験の放射能汚染で米がビキニ島民らの再移住を計画、予算1,500万ドル、1979会計年度分として600万ドルを要求。ビキニ環礁は1968年8月に汚染除去、再建計画を発表、69年「事実上放射能はなく、動植物への影響なし」と報告。71年、表土を取り除きココヤシ5万本を植え、家屋40戸を建て一部住民が帰島。しかし、75年の調査で島の中央部は汚染されて住めないことが判明、77年の新調査では井戸水に含まれるストロンチウム90が米の安全基準を上回り、ココヤシの食用禁止
1978/3/--
日本の原発が1,000万キロワットを超え米に次ぐ世界2位の原発国に

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