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ヒストリー

ヒロシマの記録1978 5月


1978/5/1
「国連軍縮特別総会へ朝鮮人被爆者を送ろう」と相原和光広島YMCA総主事らが、旅券発行を求める署名運動を開始
1978/5/2
朝永振一郎、湯川秀樹氏ら「科学者京都会議継続委員会」の5人が安倍晋太郎官房長官に「国連軍縮特別総会で核軍備削減決議案提出」など福田首相あての要望書手渡す
1978/5/3
広島市似島の野戦病院跡に慰霊碑が完成、除幕式。被爆者1万人を治療、3,000人以上が死亡
1978/5/4
国連軍縮特別総会で核兵器廃絶を訴える国民代表団が決まる。総勢502人。代表委員は磯村英一東洋大学長ら。広島からは佐久間澄広島大名誉教授、森滝市郎同、桧垣益人日本被団協代表委員ら
1978/5/7
1945年に入学した広島市比治山高等女学校の60人が33年ぶりの同窓会「昭和20年をしのぶ会」開く
1978/5/8
政府の「むつ」総点検・改修技術検討委員会が「『核封印方式』でも改修工事は可能」と結論
1978/5/10
核禁広島県民会議(村上忠敬議長)と広島地方同盟(戎崎始成会長)が韓国被爆者実態調査の結果発表。慶尚南道陜川郡で5,001人の被爆者を確認。98%が広島で被爆し、生存者は3,867人。貧血や消化器系疾患目立つ
1978/5/10
森下一徹氏が写真集「HIBAKUSHA」出版
1978/5/10
英放送協会(BBC)が荒木広島市長らに国連軍縮特別総会に臨む姿勢をインタビュー
1978/5/11
広島市が原爆遺跡選定調査会を発足。メンバーに小倉馨市長室次長、矢野俊夫原爆資料館長、平山安武平和記念館長、小堺吉光市史編さん室長、横田工原爆資料保存会長ら12人
1978/5/12
政府が「核封印方式」で原子力船「むつ」の佐世保修理を決める
1978/5/13
国連のラサール・モイソフ総会議長が原水禁国民会議の森滝市郎代表委員へ国連訪問歓迎の手紙。同議長は1964年原水禁世界大会にユーゴ平和委員会から参加
1978/5/14
山口県豊北町長選で原発反対の藤井澄男氏が圧勝。町議補欠選挙でも反対派が勝利
1978/5/15
国連被爆写真展で国連事務局が「身体の障害」写真5枚の削除を求める。削除写真は火傷の少女など長崎4枚、広島1枚。理由は「残酷すぎる」
1978/5/15
原水禁国民会議が全国委員会を開き、夏の被爆33周年原水禁世界大会の独自開催を決める
1978/5/16
国連軍縮特別総会への「国連代表派遣連絡調整会議」が核兵器完全禁止の全国署名を集計。計1,753万8,000人。総会の「NGOのための日会議」で発言する日本代表には地婦連の田中里子事務局長が決まる
1978/5/16
日本原水協が常任理事会で、夏の原水禁世界大会を「5・19合意」に基づく統一大会として開催を決める。統一実行委員会(代表幹事、新村猛名古屋大名誉教授)の開会を呼びかけへ
1978/5/17
国連で展示する写真64点を収録した写真集「ヒロシマ・ナガサキ-1978年、国連で」が完成。各国政府代表などに配布へ
1978/5/17
広島県朝鮮人被爆者協議会の李実根会長に被爆者健康手帳を交付。国連訪問のため入手。1945年8月7日、神戸市から山口県厚狭郡の自宅に帰る途中、国鉄八本松駅から廿日市駅まで山陽線沿いに歩いた「入市被爆者」
1978/5/17
日本原水協が原水禁世界大会の統一大会実現へ向けアピール発表。「核兵器の全面禁止など一致できる課題で団結し、より高い視点に立ってより広い階層の人が結集する国民的統一組織を」
1978/5/17
国連軍縮特別総会の広島代表統一壮行会が広島市内で開く。国民代表団の40人、「子どもたちに世界に!被爆の記録を贈る会」の5人、世界連邦国連訪問使節団の4人の計49人
1978/5/18
国連軍縮特別総会の政府代表決まる。安倍勲国連大使、小木曽本雄軍縮委員会大使、大川美雄外務省国連局長、緒方貞子国連公使の4人
1978/5/18
ソ連の反体制核物理学者アンドレイ・サハロフ博士がモスクワ郊外でエレナ夫人とともに逮捕。反体制物理学者オルロフ博士の裁判傍聴を求め警官ともみ合う
1978/5/19
総評、同盟、地婦連、日本被団協の代表らが福田首相に国連軍縮特別総会出席を要請
1978/5/19
朝鮮人被爆者の国連軍縮特別総会訪米決まる。法務省が再入国許可証発行へ。朝鮮人被爆者協議会の李実根会長と白昌基さん
1978/5/20
国連で「広島・長崎被爆写真展」始まる。人体被害の5点削除で見切り発車。「米への配慮」の観測強まる。展示の反響は大きく初日3,500人が見学。23日、削除に対する日本国内の反響に驚き、国連事務局が全面公開に踏み切る 1978/5/20
広島県高田郡八千代町出身のアマチュア画家朝原吾郎さんが馬の絵を広島原爆病院に贈る。1970、71年に続き3回目
1978/5/21
広島市東観音町にあった西高等女学校を1945年3月に卒業し、専攻科に進んだ8期生が同窓会。全校で約220人の原爆犠牲の慰霊碑建立へ
1978/5/22
米マサチューセッツ州議会が国連軍縮特別総会を控え、日本代表団の運動を評価する決議。「日本からの500人の国民代表団と2,000万人の署名簿は平和を求める思慮深く意義ある行動」
1978/5/22
日本弁護士連合会(北尻得五郎会長)が独自の核兵器使用禁止条約案を発表。国連軍縮特別総会参加の阿左美信義弁護士(広島)が各国代表らに配布へ
1978/5/23
国連本部で初の国連軍縮特別総会始まる。6月28日まで。ワルトハイム国連事務総長「特別総会で世界を破滅の道から転ずる路線を確立しなければならない」。日本代表団502人も相次ぎニューヨーク入り
1978/5/23
衆院が「国連軍縮特別総会に関する決議案」を全会一致で採択。「世界の恒久平和と安全に到達するため全面完全軍縮を目指しつつ、総会で核兵器の究極的廃絶、生物、化学兵器の禁止について早急に実現するよう強く訴えよ」。24日、参院でも
1978/5/24
釜ケ崎原爆被爆者の会が「釜ケ崎原爆被爆者の会5年間の歩み」を出版
1978/5/25
広島市が平和記念公園の露店2店を都市公園法違反の疑いで告発。1976年に次ぎ2回目。業者は「1964年、浜井広島市長が許可」と反論、営業続行
1978/5/25
国民代表団のうちの被爆者8人を含む約100人が国連軍縮特別総会を初傍聴。「広島・長崎被爆写真展」については批判の声も
1978/5/25
国連軍縮特別総会参加の非政府組織(NGO)の代表が「軍事費を福祉に」と訴える大集会をサウス・ブロンクスのスラム街で開く
1978/5/25
アルゼンチンから里帰り中の中西裕人、芳子夫妻に被爆者健康手帳を交付。広島市を訪れた在外被爆者への手帳交付は1974年から27人(米18人、韓国9人)で、アルゼンチンは初めて
1978/5/25
「子どもたちに世界に!被爆の記録を贈る会」の被爆記録写真集「広島・長崎-原子爆弾の記録」が完成。写真620点と被爆者が描いた絵120点を収録。写真の90%をオリジナルネガから焼き付け、未公開写真も約1割。写真集を携え、元中国新聞写真部員の松重美人さんら3人の写真家を含む30人が国連軍縮特別総会へ
1978/5/26
国連軍縮特別総会出席で訪米中の荒木広島市長がロサンゼルスで米国原爆被爆者協会幹部らと懇談
1978/5/26
ソ連の最新原子力砕氷船シビーリが北極航路開航のためムルマンスクを出港
1978/5/26
長崎県被爆者手帳友の会が、原子力船「むつ」の佐世保港修理受け入れの賛否を問う投票を市内7カ所で行う。反対5,238票、賛成547票(「長崎年表」)
1978/5/26
夏の広島市平和記念式典に参加するクワイ川の旧連合軍捕虜デニス・ローランドさんと広島の被爆者高橋昭博さん、桧垣益人さんらが国連軍縮特別総会のニューヨークで対面
1978/5/26
ニューヨーク・セントポール教会で「生存のための世界宗教集会」。日本人被爆者を含む4,000人が「ノーモア・ヒロシマズ」の横断幕を先頭に市内をデモ。国連本部前の集会で広島の被爆者伊藤サカエさんが被爆瓦を軍縮特別総会準備委員会副委員長のラルフ・ハリー・オーストラリア国連大使に手渡す
1978/5/27
国連軍縮特別総会へ向け世界連邦主義者30人が東京を出発。広島からは世界連邦広島県協議会の加藤新一理事長ら2人
1978/5/27
米市民運動グループ「生存のための動員」(MFS)が、ニューヨーク市内をデモ行進し、国連本部前で集会。約1万5,000人が参加。日本被団協代表委員の桧垣益人氏が被爆者の苦しみを訴え
1978/5/28
原子力船「むつ」母港化阻止長崎県共闘会議(議長、田口健二県評議長)が、長崎市と佐世保市で「むつ」佐世保受け入れ阻止県総決起集会を開く(「長崎年表」)
1978/5/28
来日中の英下院議員12人とジャーナリスト7人が広島市を訪問。議員団の中にはチャーチル元首相の孫のウィンストン・スペンサー・チャーチル氏も
1978/5/29
荒木広島、諸谷長崎両市長が国連被爆写真展を見学。荒木市長「(展示写真削除の要求に)安易に妥協しなくてよかった」
1978/5/30
園田直外相が国連軍縮特別総会で、非核三原則の堅持と核保有国に対し核兵器の廃絶を訴える演説。広島被爆の8月6日を軍縮デーにとの提案も。荒木広島、諸谷長崎市長の傍聴も紹介
1978/5/30
国連軍縮特別総会に核兵器の完全禁止を訴える国民署名1,869万4,225人を国民代表団が国連へ提出。計20トン分の署名簿が国連本部前庭に積み重ねられ、ビュルナーシュテット国連軍縮センター所長と赤谷源一事務次長(広報担当)が受け取る
1978/5/30
ニューヨークのカーネギー・センターで開いている「国連に被爆写真を贈る会」の写真展に、元米戦略爆撃調査団の撮影班として1946年1月に長崎、3月に広島に入ったハーバート・サッサンさんが当時の写真約50枚を携え訪れる。欄干の影が残る広島市大手町の萬代橋の写真など
1978/5/--
広島市の医師松原博臣さんが1977年8月に撮影したアメラシンゲ国連総会議長の平和記念式典参列の模様を「私は訪れた私は見た」としてまとめ、米デンバー市で開かれるアメリカ国際映画祭のアマチュア・ドキュメンタリー部門に出品へ
1978/5/--
国連軍縮特別総会に合わせ、「子どもたちに世界に!被爆の記録を贈る会」も独自の代表団派遣へ。元中国新聞写真部員松重美人さんら約30人
1978/5/--
原爆モニュメント研究グループ(代表、横山英広島大教授)が、広島市内の原爆モニュメントを通し市民の原爆観、核意識の移り変わりなどを調べた「原爆モニュメント碑文集」を発刊へ
1978/5/--
原爆被災後の広島駅を中心とした国鉄の被害と復旧状況をまとめた広島鉄道局の「戦災記録」が見つかる。死亡47人、重傷401人、行方不明142人などの人的被害や、山陽線が被爆2日後の8日上り16時42分、下り15時発列車から開通した事実などを記す
1978/5/--
広島の被爆語り部、高橋昭博さんが被爆体験記「ヒロシマ、ひとりからの出発」を発刊。広島市立中2年で被爆、市役所に就職し1953年、原爆被害者の会に入会、各地で被爆体験を語り始めて以来の半生をつづる
1978/5/--
国連軍縮特別総会へ核兵器廃絶を訴える広島県内の署名活動が終了。目標の約半数と低調
1978/5/--
原爆被災後、日本軍部が広島原爆について発信した内容を傍受した米軍の機密文書が公開される。当日、広島の南西120キロの航空部隊から発信された「被害報告」、翌日、呉の海軍司令部からの「爆弾は原子爆弾とみられる」の報告など
1978/5/--
広島市の森竜司さんが学徒動員先で目撃した米兵捕虜虐殺の模様を手記にまとめる。1945年7月28日、B24が広島県佐伯郡五日市町八幡に墜落、乗員4人が脱出。2人を市民が虐殺

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