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ヒストリー

ヒロシマの記録1978 7月


1978/7/1
広島原爆投下機エノラ・ゲイを先導した偵察機の操縦士で、戦後ノイローゼと罪の意識に苦しんだクロード・イーザリー氏がテキサス州ヒューストンの復員軍人病院でがんのため死去。57歳。1960年、氏は「過去15年間というもの、私は眠ったことがない。今、私にほしいのは一息入れることだ。私の心に平和はない」と語ったという
1978/7/1
東京で開かれた「国連に核兵器完全禁止を要請する日本国民代表報告集会」の後、原水禁統一実行委員会(新村猛代表幹事)が呼びかけ、新統一実行委員会の発足を決める。参加の枠を広げる
1978/7/2
米上下両院外交委員会が各種新兵器に関する報告を公表。ランス・ミサイルの弾頭用中性子爆弾について欧州に92基、太平洋方面にも展開の計画が明らかに
1978/7/2
原水禁統一実行委員会の新村猛代表幹事が講演のため広島市を訪れ「夏の原水禁世界大会の見通しは混沌」と語る
1978/7/3
原水禁国民会議が中国地区ブロック会議で、原水禁統一実行委員会に代わる新組織について「統一世界大会開催の母体ではなく、共同行動の連絡調整機構なら同意」との態度決める
1978/7/5
ソ連がセミパラチンスク付近で地下核実験。スウェーデンのウプサラ大地震研究所が発表
1978/7/5
地婦連、日本被団協、生協連、日青協、非政府組織(NGO)日本宗教者連絡会議の5団体が夏の「核兵器完全禁止・被爆者援護をめざす国際的な大会を開催するためのよびかけ」を発表。日本原水協は協力を決定
1978/7/6
荒木広島市長がソ連核実験に抗議の電報を在日ソ連大使館に打つ。この年9回目、ソ連へは4回目。7日、被爆者らが広島市の原爆慰霊碑前など広島県内の7市1町、11カ所で抗議の座り込み
1978/7/6
原子力船「むつ」の核封印修理を長崎県漁連などで構成する「むつ阻止佐世保港封鎖実行委員会」が、母港化禁止などの条件付きで認める。政府要請から2年5カ月、「封印」要請から3カ月ぶり
1978/7/7
電機労連(竪山利文委員長)が定期大会で、原子力の平和利用是認の方針を決める。「エネルギー供給の安定化のためには、原子力の平和的な開発利用は選択すべき一つの道」
1978/7/8
柳坪進広島市議が被爆者健康手帳不正入手事件の責任をとり市議を辞職
1978/7/10
広島県原水禁が「78核兵器完全禁止・被爆者援護世界大会」に反対方針を決める。「日本原水協を中心とした中央主導で形式的な大会になる可能性が大きい」
1978/7/10
地婦連など5団体の統一原水禁大会開催呼びかけで、41団体と個人9人が、東京・四谷で「大会を開催する実行委員会」を結成。大会名称を「78核兵器完全禁止・被爆者援護世界大会」とし、8月1日から9日までの間に東京、広島、長崎で開催を決める
1978/7/10
「孫振斗さんに治療と在住を!全国市民の会」が「朝鮮人被爆者・孫振斗の告発」を出版。たいまつ社
1978/7/11
ジュネーブ軍縮委員会が夏会期を開会
1978/7/11
地婦連の大友よふ会長、田中里子事務局長、日青協の佐々木英雄副会長が広島市を訪れ、広島県婦協(湯藤栄会長)、広島県青連(椎木剛会長)に協力要請
1978/7/11
広島県原水協(佐久間澄理事長)が「78核兵器完全禁止・被爆者援護世界大会」の全面支持を表明
1978/7/11
原水禁国民会議が被爆33周年原水禁大会実行委員会を開き、「78核兵器完全禁止・被爆者援護世界大会実行委員会」「核兵器完全禁止・被爆者援護をめざす国民懇談会」への対応を決める。いずれも個人、加盟団体ごとに参加し国民会議としては参加しない
1978/7/12
米エネルギー省が「ことし4回目の地下核実験をネバダ実験場で実施した」と発表
1978/7/12
東京で国連代表派遣連絡調整会議の主要メンバーが集まり「核兵器完全禁止・被爆者援護をめざす国民懇談会」への結集の呼びかけ。湯川秀樹京大名誉教授らのほか労働4団体、婦人、市民団体の代表51人が名を連ねる
1978/7/12
「核兵器完全禁止・被爆者援護をめざす国民懇談会」(核禁国民懇)が東京で結成総会。総評など労働4団体、地婦連、日青協などの市民団体と参院議員の市川房枝さんら30団体、80人が参加。被爆者援護法の制定と内外被爆者の援護などを課題に挙げる
1978/7/13
荒木広島市長が12日の米核実験で在日米大使館に抗議電。この年10回目。米へは4回目。15日、広島県内11カ所で抗議の座り込み
1978/7/13
広島市安古市地区で「黒い雨・自宅看護原爆被害者の会」が結成
1978/7/13
「78核兵器完全禁止・被爆者援護世界大会の成功をめざす国民平和大行進」が広島市を出発、長崎市へ向かう。日本原水協が呼びかけた150人が参加
1978/7/13
米内務省が「8月20日ごろビキニ島住民142人を1,120キロ離れたキリ島へ移す」と語る
1978/7/14
原爆死没者名簿への記入始まる。広島市職員の柿原恵美子さん。5回目の記入。柿原さんは一家9人全員が被爆、3年前は病死した弟の名前を記入
1978/7/15
原爆被災後の広島を記録したカメラマンや遺族12人が出席し、広島市で「広島原爆被災撮影者の会」を結成。元中国新聞カメラマンの松重美人さんら
1978/7/15
広島県婦協(湯藤栄会長)、県青連、県生協、県宗教者NGOなどが「78核兵器完全禁止・被爆者援護世界大会」を広島で開くための世話人会を発足
1978/7/15
3月に解散したNGO被爆問題シンポジウム長崎準備委に代わるものとして、長崎「原爆問題」研究普及協議会が発足(「長崎年表」)
1978/7/17
独自の原爆被爆者対策を続けている愛知県津島市の井桁克市長が広島市を訪問、原爆病院など慰問
1978/7/17
広島大平和科学研究センターが第3回平和科学シンポ「世界秩序問題の学際的探求」を開く。19日まで(7・20)
1978/7/17
「78核兵器完全禁止・被爆者援護世界大会」の広島開催現地実行委員会結成を呼びかけている広島県被団協(森滝市郎理事長)が、原水禁3団体へも参加を呼びかけへ。核禁広島県民会議は参加方針決める
1978/7/18
「78核兵器完全禁止・被爆者援護世界大会」の開催を目指す広島県婦協など5団体が世話人会。現地実行委員会の結成は原水禁3団体へ直接呼びかけないことを決定。広島県被団協(森滝市郎理事長)の提案は見送る
1978/7/19
仏が南太平洋ムルロア環礁で過去最大規模の地下核実験。この年初。消息筋が22日明らかに
1978/7/20
山口勇子さんが「かあさんと呼べた日」を出版。草土文化社刊
1978/7/20
「78核兵器完全禁止・被爆者援護世界大会」開催へ向け広島実行委員会準備委員会が発足。県婦協など5団体に国際非政府組織広島継続委員会を加え6団体
1978/7/21
原子力船「むつ」の佐世保港修理で、政府、日本原子力船開発事業団と地元が「合意協定」に調印。佐世保修理が正式決定
1978/7/23
荒木広島市長が19日の仏の核実験に抗議電報(「広島市・核実験抗議文書発信綴」)
1978/7/24
中国新聞に「34年目のもう一つの傷跡-ヒロシマの深層に探る声なき声」掲載。「原爆に遭って逃げるとき父は私の胸から名札をもぎとった…今から思えば捨てられたのだと思う」
1978/7/24
明仁皇太子夫妻が第20回全国自然公園大会(宮島町)に出席のため広島入り。原爆慰霊碑に参拝、原爆病院を慰問
1978/7/24
仏核実験に抗議し広島県内10カ所で被爆者らが座り込み。県庁前は明仁皇太子の県庁訪問のため中止(7・25)
1978/7/24
広島市が1975年9月に実施した原爆被災復元調査の補完調査結果を発表。国が全国の被爆者健康手帳所持者を対象に調査。広島被爆は計17万8,490人、11万951世帯。調査世帯で75年9月までに亡くなった被爆者は6万5,356人、45年10月までの死者は2万9,059人
1978/7/24
1977年、外務省の外交資料で発見された「広島で被爆した米兵捕虜20人」のリストに、1945年、九州大で行われた米兵生体解剖実験の犠牲者6人と他の虐殺事件の被害者3人の計9人が含まれていることが判明。生体実験の発覚を恐れた日本軍が「被爆死」とすりかえ。事件発覚のきっかけは45年5月初め、熊本県阿蘇郡小国村付近で撃墜され捕虜となり、被爆死したとされていたB29の搭乗員WilliamFredwicks少尉。生体解剖を裁いた横浜裁判で判明した犠牲者ウイリアム・R・フレドリックス少尉と同一人物とみられ、同裁判の中で被告の一人が「45年11月ごろの証拠隠ぺい会議で広島の原子爆弾のため死亡したと報告することに決まった」と証言。広島で終戦処理に当たった元陸軍中佐大屋角造さんも「45年9月ごろ、福岡の西部軍参謀から被爆死したことにしてほしいと頼まれた」と裏付け
1978/7/25
茨城県東海村の動力炉・核燃料開発事業団で作業員6人がプルトニウム汚染。ゴム製のグローブボックスに穴
1978/7/25
金丸信防衛庁長官が統合幕僚会議の栗栖弘臣議長の更迭を決める。栗栖議長は19日の記者会見で「奇襲攻撃があった場合、第一線指揮官としては超法規的措置を取らざるを得ない」とシビリアンコントロールに反する発言
1978/7/25
「78核兵器完全禁止・被爆者援護世界大会」広島大会の実行委員会が結成。広島県婦協など5団体代表、原水禁3団体の森滝市郎、佐久間澄、村上忠敬3氏が広島大名誉教授の肩書で名を連ねる
1978/7/25
「78核兵器完全禁止・被爆者援護世界大会長崎」の実行委員会が空中分解。地元5団体が離脱
1978/7/25
被爆し1945年8月8日に25歳で亡くなった米兵捕虜ヘンリー・アトキンソンさんの名前が原爆死没者名簿に記入。アトキンソンさんは広島上空で撃墜され山口県内で捕虜に
1978/7/25
仏国立管弦楽団の指揮者ロリン・マゼールさんが公演のため広島市を訪れ、原爆慰霊碑参拝
1978/7/26
「長崎の証言」第10集を刊行。単行本形式の最後、次集からは季刊にし雑誌形式に
1978/7/26
被爆死した動員学徒の遺品や日誌などを展示する「ヒロシマ動員学徒の遭難」が広島市平和記念館で始まる。11月23日まで。動員中の国民学校高等科、中等学校、高等女学校の生徒約2万2,000人のうち建物疎開で6,295人、軍需工場などで654人が死亡
1978/7/26
仏がムルロア環礁で地下核実験。タヒチの新聞ジュルナルが29日報道
1978/7/27
広島市出身の歌手二葉あき子さんが広島原爆病院を歌で慰問。二葉さんは、子どもを疎開させるため芸備線に乗り「初めてのトンネル(中山トンネル)に入った瞬間、原爆がさく裂」
1978/7/28
広島市婦協(迫千代子会長)が「78核兵器完全禁止・被爆者援護世界大会」に参加決める
1978/7/28
ソ連がセミパラチンスクで地下核実験。スウェーデンのウプサラ大地震研究所が発表
1978/7/28
米が韓国配備の戦術核弾頭、爆弾数百発のうち約三分の二を1977年初めに撤去、残りも82年までに撤去-。米紙ボストン・グローブが報道
1978/7/28
インドのデサイ首相が「1974年5月に行ったインド地下核実験の現場には大量のプルトニウムが残っており、非常に心配」と述べる
1978/7/29
長崎市が、国連本部で開かれた写真展の作品を集めた「ヒロシマ・ナガサキ原爆写真帳」と「原爆絵はがき」を、長崎国際文化会館で発売(「長崎年表」)
1978/7/29
荒木広島市長が28日のソ連核実験に対し在日ソ連大使館に抗議電。30日、被爆者らが広島市の原爆慰霊碑前などで座り込み抗議
1978/7/30
広島市基町、空鞘橋東詰めの中央公園に大田洋子文学碑が完成し除幕式。四国五郎氏のデザインで碑文は代表作「屍の街」の一節「少女たちは/天に焼かれる/天に焼かれる/と歌のように叫びながら/歩いて行った」。作曲家尾上和彦さんが碑文に曲をつけ披露
1978/7/30
「78核兵器完全禁止・被爆者援護世界大会」の成功をめざす平和行進団第1陣が広島市入り。日本原水協の呼びかけで京都から行進
1978/7/31
広島原爆病院が1977年度の被爆者治療状況をまとめ発表。60歳以上の入院患者が74.4%、40歳未満は2%。入院患者の疾病は悪性腫瘍がトップ
1978/7/31
荒木広島市長が26日の仏核実験に抗議電報(「広島市・核実験抗議文書発信綴」)
1978/7/--
ビキニ水爆実験で死の灰を浴び亡くなった久保山愛吉氏について桶谷繁雄東京工業大名誉教授が「…放射能灰を海水で洗い流してしまえば何事もなかったはず。久保山氏の死は気の毒なことではあるが、無知による点があったともいえよう」と「月刊・産業と環境」(通産資料調査会発行、1977年12月号)に寄稿が判明。桶谷氏「本当だから仕方がない」。原水禁国民会議などが抗議へ
1978/7/--
米週刊誌ニューズ・ウィークに掲載されたネバダ核実験場に近いグッドスプリングスに住むジャネット・ロウさんの手記が米国内で反響。通算18年、192回の核実験を近くで体験、不安を訴え
1978/7/--
広島市の安田高等女学校の被爆当日からの戦災処理、業務内容を記した日誌が同校倉庫で見つかる。職員15人、生徒315人が犠牲に
1978/7/--
米オハイオ州ウィルミントン大にある広島・長崎記念文庫のバーバラ・レイノルズさんの後任に同大のアール・レディング教授が決まる。バーバラさんは大学を離れロサンゼルスへ
1978/7/--
初期の原水禁運動の育ての親、安井郁氏が所感。「1963年の分裂以来、広島にも長崎にも行っていない。真の統一ができたら行きます。その日がくるよう期待しています」
1978/7/--
米政府が1954年3月1日のビキニ水爆実験で被災したロンゲラップ、ウトリック両島住民に補償金支払い始める。甲状腺摘出手術を受けた人2万5,000ドル(約500万円)、当時島にいた人1,000ドル(約20万円)、総額で100万ドル(約2億円)の見込み
1978/7/--
放射線影響研究所が7月から胎内被爆者調査を再開。ABCC時代は1958年から調査対象者が成人に達した66年まで実施
1978/7/--
1946年7月に中国新聞の懸賞論文「ユートピア広島」1席になった故峠三吉氏の作品が兄の峠一夫氏の作と判明。三吉氏の作品は「文化聯合」に掲載された「ちちははの鐘-二十年後のヒロシマ」。広島市の歌人、深川宗俊氏が中国新聞に「幻の峠三吉論文」として掲載(7・31、8・1、8・3)
1978/7/--
画家武永槙雄さんが1946年ごろ、15枚の被爆瓦に描いた観音像のうち2枚が武永さんの元に返る

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