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ヒストリー

ヒロシマの記録1978 8月


1978/8/1
広島洋画壇の草分け故神田周三氏の遺作展始まる。三越広島店。13日まで。1955年に「原爆十作」を描き始め、広島平和美術展設立にも尽力。47年3月5日78歳で死去
1978/8/1
7月26日の仏核実験に抗議し被爆者らが平和記念公園の原爆慰霊碑前などで座り込み。広島県佐伯郡五日市町でも光禅寺の原爆死没者慰霊碑前で原水爆禁止五日市町協議会の40人が初の座り込み
1978/8/1
東京・一ツ橋の日本教育会館で「87核兵器完全禁止・被爆者援護世界大会」の国際会議が開幕。大友よふ地婦連会長が主催者あいさつ。国連広報部国際非政府組織(NGO)のサリー・シェリー課長ら海外代表39人を含む550人が出席し討論集会。会議後、大友会長らが長崎大会開催について「諸団体、個人がそれぞれの立場で参加、協力を」と緊急アピール。2日目はパグウォッシュ会議執行委員長のバーナード・フェルド教授(米)、バートン・バーンスタイン教授(同)、元ロッキード社トライデント・ミサイル設計技師ロバート・オルドリッジ氏(同)らが討議。ペギー・ダフ女史(英)が東京宣言を提案、採択し閉幕
1978/8/1
広島市平和記念館で原爆映画の上映始まる。「ヒロシマ原爆の記録」「市民の手で原爆の絵を」「炎の中で母と子は」など6本。6日まで
1978/8/1
韓国ソウルの新世界百貨店で初の原爆写真展。大韓YWCA連合会、韓国教会女性連合会の主催で約50点の広島、長崎の被災写真のほか、韓国に引き揚げ後遺症に苦しむ在韓被爆者の写真20点も展示。6日まで
1978/8/1
広島県朝鮮人被爆者協議会が広島県などに、6日安倍晋太郎官房長官が出席して開く「被爆者代表から要望を聞く会」に朝被協代表も意見発表の場をと要望
1978/8/1
東京・銀座で被爆体験記「原爆の子」(長田新氏編)に作文を寄せた子どもたちを追った写真展「ヒロシマ1945-1978<原爆の子>の30余年」が始まる。フリーカメラマン土田ヒロミさんとルポライター吹上流一郎さんの作品。186人の「原爆の子」のうち住所の分かった106人
1978/8/1
マーティン・シャーウィン氏の「破滅への道程・原爆と第二次世界大戦」が発刊。加藤幹雄氏訳。TBSブリタニカ
1978/8/2
中国新聞が被爆米兵捕虜の行方をたどる連載企画「被爆米兵の行方」を掲載
1978/8/3
核禁会議が広島市の見真講堂で核禁広島全国集会。「核兵器の全面禁止、被爆者に愛の手を」をスローガンに800人が参加。荒木広島市長も参加
1978/8/3
大阪で原水禁国民会議の「生存のための国際連帯会議」が開幕。5カ国から20数人の海外代表が参加し、反原発を強く押し出す。米ネバダ核実験の被害者パット・ブラウディさんが「米ヒバクシャ遺族」として訴え
1978/8/3
国労原爆被爆者対策協議会が広島、長崎の国鉄職員の被爆、救援体験をまとめた「この怒りを原爆被災復旧記録」を発刊
1978/8/3
愛知県津島市が広島から被爆教師を招き、市内の小中学校教師と交流
1978/8/3
開催が危ぶまれた「78核兵器完全禁止・被爆者援護世界大会」長崎大会の開催が決定。原水禁国民会議は組織参加、日本原水協は個人参加で妥協
1978/8/3
被爆直後の広島、長崎を撮影した米戦略爆撃調査団など米軍の未公開写真展が広島市平和記念館で始まる。広島関係24枚、長崎関係18枚
1978/8/3
土門拳氏の写真集「生きているヒロシマLIVINGHIROSHIMA」が築地書館から出版
1978/8/4
原爆症で亡くなった佐々木禎子さんの物語「サダコと千羽鶴」を前年、米で出版したカリフォルニア州の児童文学作家エレノア・コアさんが広島市を訪問。バーバラ・レイノルズさんらから禎子さんの話を聞き感動し執筆
1978/8/4
日本原水協が広島市基町の県立体育館で「78核兵器完全禁止・被爆者援護世界大会広島大会」の歓迎集会。約6,000人が参加
1978/8/5
長崎市の市立桜馬場中の管弦楽部と邦楽部の約100人が広島市を訪れ、広島市立庚午中のブラスバンド、コーラス部と音楽交流
1978/8/5
長崎市で、市立小榊小学校の校長が8月9日の原爆登校日に「原爆を許すまじ」の禁止を指示していたことが判明。長崎市教組が市教委に抗議
1978/8/5
日本被団協が広島市で原水禁運動の分裂以来初めて被爆者と非被爆者の交流集会。見真講堂に約1,000人集まる
1978/8/5
原水禁国民会議の被爆33周年原水禁世界大会開幕。広島市の県立体育館に約8,000人が参加。森滝市郎代表委員「いまや核エネルギーは軍事利用も平和利用も人類の生存を脅かすものでしかなくなった。核絶対否定の原水禁運動を高める以外に、人類の生きる道はない」。6日は分科会。丸山益輝広島大教授らが反原発の講演
1978/8/5
和歌山県労働組合懇談会が荒木広島市長に「被爆者のために」と180万円を寄付。1967年から1年おきに広島、長崎両市に贈る
1978/8/5
「78核兵器完全禁止・被爆者援護世界大会」に参加する約9,000人が広島市内を4コースに分かれてノーモア・ヒバクシャ折り鶴行進。午前10時から約1時間、地婦連、県婦協、県青連なども15年ぶりに歩く
1978/8/5
原爆で死亡した広島県立病院の看護講習生12人の公務死申請が却下。「正規の看護婦ではない」が理由。遺族の横手綾子さん「お金じゃない。国のために娘が死んだことを認めてほしい」
1978/8/5
広島原爆養護ホーム(志水清所長)が初の「原爆養護ホーム事業概要」を発表。一般146人、特別100人で平均年齢は78.3歳、79.1歳
1978/8/5
8月5日付「広島県医師会速報」にマルセル・ジュノー博士の遺稿掲載。4年前、遺族から広島市に贈られた原稿をエリザベト音楽大の丸山幹正講師が翻訳
1978/8/5
泰緬鉄道建設に従事した当時の連合軍捕虜と旧日本軍関係者が原爆慰霊碑に参拝。米のデニス・ローランドさん、オーストラリアのランス・ロウさん、倉敷市の永瀬隆さん。同行の牧師ハーバード・ニコルソンさんは米で集めた被爆者救援の5,000ドルを広島市に寄付
1978/8/6
原爆で夫を失い胎内の二男を早産した広島市の大平数子さんの詩「慟哭」を、名古屋音楽大の早川正昭教授(元広島大助教授)が作曲しレコーディング。慟哭の作曲は尾上和彦さんに次ぎ2回目
1978/8/6
荒木広島市長が平和宣言「…ヒロシマの願いは、ようやく、世界の良心を動かし、本年5月、国連加盟149カ国による史上初の軍縮特別総会が開催された。広島市長は、長崎市長とともに、両市民を代表してこの軍縮特別総会に列席し、あわせて国連本部で画期的な「ヒロシマ・ナガサキ原爆写真展」を実現した。この写真展は、被爆の実相を生々しく再現し、国連加盟国代表はもちろん、国連を訪れた人々に大きな衝撃を与えた。…しかしながら、米・ソをはじめとする核大国は、依然として核実験を続け恐るべき新兵器の開発に没頭している。破壊兵器の大量蓄積とその配備競争は、いまや人類を先例のない絶滅の脅威にさらしている。…いまこそ唯一の被爆国であるわが国は、国際社会における平和の先覚者として国際世論の喚起につとめ、核兵器の廃絶と戦争放棄への国際的合意の達成を目指して、全精力を傾注すべきときである…」
1978/8/6
広島市基町の県立体育館で、約8,500人が参加し「78核兵器完全禁止・被爆者援護世界大会・広島」。広島県婦協、広島県青連が前面に、日本原水協は独自大会をやめ全面支援。議長団に大友よふ地婦連会長、桧垣益人日本被団協代表委員ら。国際非政府組織(NGO)広島継続委員会の庄野直美代表が「いま戦いの戦列に加わった婦人、青年の心のぬくもりを大切にして、すべての核兵器をなくす壮大な戦いに英知を結集しよう」。主催5団体を代表し中林貞男生協連会長があいさつ。荒木広島市長、宮沢弘広島県知事もそろって出席、「全市民的な立場で、誠実な運動を」と強調。第1回原水爆禁止世界大会で訴えた高橋昭博広島県被団協(森滝市郎理事長)事務局次長が被爆者を代表して訴え。被爆者援護法の制定と核兵器禁止の国際条約締結を盛り込んだ広島アピールを採択し閉幕
1978/8/6
被爆者代表が安倍晋太郎官房長官に(1)現行原爆二法の一本化(2)遺族への弔慰金支給(3)原爆養護ホームなど被爆者施設の充実-などを要望。広島県被団協(森滝市郎理事長)の伊藤サカエ理事、同(佐久間澄理事長)金崎是副理事ら。官房長官は引き続き広島原爆養護ホーム、同原爆病院を駆け足慰問
1978/8/6
中国新聞が「米国で生き抜く原爆乙女」特集。笹森恵子さん、博子・ハリー(旧姓田坂)さん
1978/8/6
広島のテレビ局が原爆特別番組。中国放送「ヒバクシャ-核実験米兵」、広島テレビ「ドキュメント78~原爆この夏に、被爆者黒木庄平の軌跡」、テレビ新広島「ヒロシマの声、世界へ~ある被爆者の訴えから」。7日、NHK「月曜特集・爆撃機ロンサムレディ号」
1978/8/6
広島大で「被爆33周年8・6広島反戦集会」。反戦被爆者の会(小西ノブ子会長)が呼びかけ各地の新左翼、反戦グループが参加
1978/8/6
広島市三滝寺に原爆供養合同歌碑が完成、除幕式。33首を刻む。「真樹社」の山本康夫さんらが建立。1977年、完成した原爆慰霊句碑の兄弟碑
1978/8/6
被爆34周年。広島市の平和記念公園で午前8時から広島市原爆死没者慰霊式・平和祈念式。福田首相代理で安倍晋太郎官房長官が出席。市民ら約4万人が参列。荒木広島市長が2,179人を新たに書き加えた原爆死没者名簿を奉納、計9万3,595人に。平和宣言で初めて唯一の被爆国としての日本の責務を強調し、世界平和への政府の積極的な取り組みを提起。午前8時15分、広島市内の大半の電車とバスが1分間の祈りのストップ。1963年以来15年ぶりに復活
1978/8/6
全米各地で反核デモ。カーター大統領夫妻の通うワシントンのバプテスト教会へ8人の反核活動家が乱入。礼拝中に1人の女性が中性子爆弾の実戦配備反対を直訴。ロサンゼルス郊外のシールビーチ海軍兵器庫周辺で約2,000人がデモ、原子力発電所への反対行動も。メーン、ニューハンプシャー、オレゴン、オハイオなどでも。オレゴン、カリフォルニア州で420人が逮捕。カナダ・バンクーバーで「ヒロシマ・ナガサキ被爆写真展」始まる。トロントでも平和記念式典
1978/8/6
中国新聞が「広島平和美術展24年の歩み」を特集
1978/8/6
世界平和記念聖堂建設に尽くしたドイツ人神父のフーゴー・ラサールさんが平和記念式典に参列。東京・紀尾井町に在住
1978/8/6
広島市平和記念館で広島市青年連合会と長崎市青年団体協議会などが「長崎・広島平和文化交流」。長崎から10人、広島から20人の青年が参加。1976年度から交流を再開、8・6と8・9を1年交代で訪問しあう
1978/8/6
北海道深川市の主婦連絡協議会の主婦2人が広島市の皆実町原爆被害者の会会長日詰忍さんを訪ねる。両団体の交流は1966年の原水禁大会がきっかけ。69年から毎年主婦協が代表を送り以来10年続く
1978/8/6
旧広島市高等女学校(現舟入高校)慰霊祭で、被爆当時の校長故宮川造六さんが詠んだ追悼歌を市女の音楽教諭だった沓木善之さんが作曲し披露
1978/8/6
「サダコと千羽鶴」の著者エレノア・コアさんが原爆の子の像前で佐々木禎子さんの母ふじ子さんに、米の子どもたちの折りづる5,000羽を手渡し像にささげる
1978/8/7
ビキニ水爆実験で被曝したロンゲラップ島のアルミラ・マタヨシ、リジョン・マクドナルドさんの女性2人が長崎で治療のため来日。原水禁国民会議が招待
1978/8/7
防衛庁が初の有事立法研究会。内局、制服20人のスタッフで構成、2年後に一応の結論
1978/8/7
「人類危機の13日間」「平和のための革命」の著者、ニューヨーク市立大名誉教授のジョン・サマビル氏が広島大で、「ヒロシマの意味」と題して講演、日米学者ユニオンの結成を呼びかける
1978/8/7
共産党の津金佑近氏が死去。49歳
1978/8/8
韓国政府が在韓被爆者の全国調査を決める
1978/8/8
米のダニエル・エルズバーグ博士が共同通信に「1950年代末から10年間、米軍岩国基地に核兵器が貯蔵されていたのは確実」と話す
1978/8/9
米核兵器工場ロッキー・フラッツで抗議集会を開いたダニエル・エルズバーグ博士、詩人のアレン・ギンズバーグ氏ら80人が不法侵入で現行犯逮捕
1978/8/9
長崎市で「78核兵器完全禁止・被爆者援護世界大会・長崎」大会開く。長崎での統一大会実現は1963年の分裂以来、15年ぶり。日本青年団協議会の西井勇会長、現地実行委員会の具島兼三郎長崎大学長があいさつ
1978/8/9
長崎被爆33周年。平和公園で長崎市主催の平和祈念式典。約1万7,000人が参列、福田首相代理の小沢辰男厚相が出席。諸谷義武市長が平和宣言「このたび国連史上初めて開かれた軍縮総会で、日本政府は包括的核実験の禁止などを主張した。私はこの総会に出席し、国連本部内で原爆の悲惨さを示す写真展を開催するなど世界の恒久平和を強くアピールしてきた。世界の指導者は核兵器の廃絶のみならず、一切の軍備の縮小に立ち上がるべきである」
1978/8/10
米核実験被曝者の未亡人パット・ブラウディさんと弁護士のロナルド・パッカル氏、低線量被曝の研究をしているロザリー・バーテル博士が放射線影響研究所を訪問、被曝線量とリンパ腫の関係などを調べる
1978/8/10
米原子力規制委員会が一転、ニューハンプシャー州シーブルック原子力発電所の工事再開を認める。環境保護局がOKを出したため
1978/8/10
ソ連がノバヤゼムリャ核実験場で地下核実験。オランダ王立気象研究所が発表
1978/8/11
岩国基地の核疑惑で広島、山口原水禁が米海兵隊岩国航空基地に抗議文
1978/8/11
荒木広島市長が10日のソ連地下核実験で在日ソ連大使館に抗議電
1978/8/12
ソ連の10日の核実験と岩国基地の核持ち込み疑惑に抗議し、広島県内各地で被爆者らが座り込み
1978/8/13
米紙サンフランシスコ・イグザミナーが在米被爆者特集。筆者はかつて広島女学院で教壇に立った(1960~63年)ドロシー・ストロープさん
1978/8/13
7回目の「原爆犠牲者慰霊・世界平和祈念市民大行進」が、市民3,500人が参加して行われる(「長崎年表」)
1978/8/15
仏の作家サン・テグジュペリの「星の王子さま」の思想を具体化しようと、シリアで肢体不自由児の医療援助、社会復帰活動に尽くしているポール神父、コラクリー医師夫妻が広島を訪問
1978/8/15
ロンドン郊外のオルダーマストン核兵器研究所で洗濯室の女性3人が高濃度のプルトニウム汚染。10年以上、従業員の作業服を洗う
1978/8/17
vv 米が東京電力の使用済み核燃料126本を英で再処理することを認める。関西電力も30本の再処理を仏で実施を要望。8月31日のワシントン・スター紙が報道
1978/8/17
広島市に1977年、全国で初めて発足した国連青少年友好センター(中尾重継理事長)主催の研修旅行に参加の広島の青少年34人が国連見学
1978/8/17
米英ソ3国は核実験全面禁止交渉を急げ-。ジュネーブ軍縮委員会で小木曽本雄代表が演説
1978/8/18
被爆者援護法要求の「原爆訴訟」を準備している青年法律家協会の「被爆者とともに平和を考える委員会」の池田真規委員長、椎名麻紗枝弁護士ら8人が広島市を訪れ現地調査
1978/8/18
米のアール・レイノルズ博士が広島大で開かれている国際平和学会(PSSI)に出席。8年ぶりの広島入り。「日本における初期の平和研究の発展」と題し、自らの主催した平和科学研究所を紹介。氏はカリフォルニア大サンタクルス校の平和学教授、来日はアキエ夫人も同行
1978/8/18
広島「折鶴の会」が会員3人を韓国に派遣、在韓被爆者を慰問。広島女学院高校の戸田慶子さん、吉野和子さん、二葉中の豊後聖子さん
1978/8/19
原爆投下直後に広島市安古市町からキノコ雲を撮影した松重三男さんのカメラが原爆資料館に寄贈。自宅の物置から発見
1978/8/20
日本YWCA主催の「ひろしまを考える旅」が10回目を迎える。全国各地の中、高校生70人が参加
1978/8/22
「78核兵器完全禁止・被爆者援護世界大会・広島」を主催した広島県青連、県婦連、県被団協(森滝市郎理事長)、県生協連、県労協が「県民連絡懇談会」を発足
1978/8/22
長崎市議12人が、超党派で被爆地域拡大推進議員協議会を結成(「長崎年表」)
1978/8/23
大竹市の大知コウさんと竹野ツヤ子さんが国を相手取って広島地裁に「行政処分並びに裁決取り消し請求訴訟」を起こす。「国民義勇隊で出動し被爆、1947年に亡くなった夫の死を公務死と認めよ」 1978/8/24
ソ連がシベリア中央部で地下核実験。スウェーデン国防省の観測所が発表
1978/8/24
米大陸間弾道ミサイル、タイタン2型基地で液体燃料が漏れ、猛毒ガスが発生、サイロ要員1人が死亡、3人が負傷し付近の住民100人が緊急避難
1978/8/24
プルトニウム汚染でロンドン郊外オルダーマストンの英核兵器研究所が、プルトニウム関連施設を無期限閉鎖
1978/8/26
中国新聞が連載「第三世界の核開発」を掲載。「イスラエルの核兵器保有は公然の秘密。米中央情報局(CIA)は1968年、イスラエルの核保有を確認」
1978/8/26
荒木広島市長が24日のソ連核実験に抗議し、在日ソ連大使館に電報。この年ソ連へは7回目(通算36回)。28日、被爆者や労組員が広島県内7市町で抗議の座り込み
1978/8/27
広島原対協が広島市の合併地域で初の日曜被爆者検診
1978/8/27
カナダ・バンクーバーで開催の「ヒロシマ・ナガサキ被爆写真展」が閉幕。約6,000人が入場
1978/8/28
東北電力の宮城県女川原発が11年の紛争に決着、着工へ。女川町漁協が漁業権消滅を決める
1978/8/28
米エネルギー省が「31日、ネバダ核実験場で地下核実験を行う」と発表。予告通り実施
1978/8/29
松江市の本田松子さんが、被爆し1945年8月29日に亡くなった夫、本田勇さんの血染めの軍服を原爆資料館に寄贈。勇さんは広島陸軍病院で重傷
1978/8/29
ソ連が2回の連続地下核実験。2回目はこの年最大規模。スウェーデン国防省観測所が発表
1978/8/30
荒木広島市長がソ連地下核実験に抗議し在日ソ連大使館に抗議電。米の31日の核実験予告にも
1978/8/30
長崎で治療のため来日中のビキニ水爆実験の被曝者リジョン・マクドナルドさんとアルミラ・マタヨシさんの2女性が広島市を訪れ原爆慰霊碑に参拝
1978/8/31
ソ連の29日の連続核実験と米の31日の予告核実験に抗議し、被爆者や市民らが広島県内7市2町で座り込み。ビキニ被災のリジョン・マクドナルドさんも原爆慰霊碑前の座り込みに参加
1978/8/31
写真家福島菊次郎さんが1946年から撮りためてきた原爆被災者の写真を「原爆と人間の記録」として出版。社会評論社。収録写真320枚。「私が30年間続けてきた原爆キャンペーンはこれで終わる。絶望をいくら積み上げてみたとて、一つの時代がそれを実質的に切り開こうとしない限りすべては徒労だ。というより、私はもうこの取材に疲れ、撮影を続けてゆく気力を失った…」
1978/8/31
「78核兵器完全禁止・被爆者援護世界大会」広島実行委員会が解散
1978/8/--
安芸郡海田町収入役の尾木正已さんが1945年8月14日に写した広島市内の写真17枚を同町で展示(8・3夕)
1978/8/--
「被爆3カ月以内の広島の死者は約13万人」と広島大原医研の湯崎稔助教授が試算
1978/8/--
神戸市で開かれた第2回全国高校演劇研究大会で舟入高校演劇部の「虎杖忌」が2位に
1978/8/--
北九州市教委が8月9日を平和学習日に指定
1978/8/--
広島県立病院の看護講習生12人の遺族が「公務死認定却下」は不服と異議申し立てへ
1978/8/--
「自分にとってヒロシマとは」-。東京・小平高校の坂本誠吾君が広島で8ミリカメラを回す
1978/8/--
長崎国際文化会館が長崎で被爆した朝鮮人の実態を明らかにするため、長崎市交付の原爆被爆者健康手帳を持つ朝鮮・韓国人105人の聞き取りを始める(「長崎年表」)
1978/8/--
広島市観光協会が相生橋近くの河原で拾い集めた被爆瓦を観光客らにプレゼント。原爆資料館は鑑定のため配布中止を指示

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