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ヒストリー

ヒロシマの記録1977 12月


1977/12/1
厚生省の松浦十四郎公衆衛生局長と2つの広島県被団協など被爆者団体10団体の代表が広島市で話し合い。被爆者団体側が被爆者援護法の制定、諸手当の改善、小頭症児・被爆二世・被爆朝鮮人対策などをただす。松浦局長は現行二法の枠内での改善策を示しただけで援護法を含む他の問題について前向き見解は示さず
1977/12/1
荒木広島市長がソ連核実験に抗議する電報をポリャンスキー駐日ソ連大使に打つ
1977/12/2
ソ連核実験に抗議して広島市の原爆慰霊碑前など8カ所で座り込み。新たに府中市でも座り込みが実施され5市に広がる
1977/12/2
国民春闘中国ブロック共闘連絡会議と反原発中国5県共闘会議が広島市の中国電力本店を訪れ、山口県豊北原子力発電所の建設中止を訴え
1977/12/3
広島大平和科学研究センターが広島市で平和教育の在り方を探るシンポジウム開く。4日まで。教師や社会科学者ら30人が参加。理論と実践の統一を確認
1977/12/4
広島で被爆死した米兵捕虜17人の名前が判明。広島大原医研の宇吹暁助手が外務省の連合軍捕虜関係名簿から追跡
1977/12/5
広島、長崎両市が、原爆災害を学術的にとらえる「広島・長崎の原爆災害」の出版を発表。両市長が1976年に国連に提出した被害実相の報告書「核兵器の廃絶と全面軍縮について」を基本に他の学術的記録も追加し、原爆被害についての学術資料の決定版にする方針。日本語版の完成は79年6月、英語版は80年6月の予定
1977/12/6
厚生省が広島県立病院の被爆看護婦13人の公務死を認定。看護婦見習の12人は保留
1977/12/7
元中国新聞写真部員の松重美人氏ら被爆写真のカメラマン5人が東京で記者会見し、損傷の激しい被爆写真のネガフィルムを永久保存する資料センター設置を訴え。「原爆写真フィルムを永久保存する会」を結成へ
1977/12/7
荒木広島市長が、米核実験に抗議する2度目の書簡をマンスフィールド駐日米大使に送る。「原爆投下は生命を破壊しただけではなく、投下した米国人の人間性をも失わせた。被爆者は人間性を取り戻したが、人間性を失った国は核兵器を製造し続けている」との平和運動家バーバラ・レイノルズ女史の言葉も添える
1977/12/8
広島県原水禁が常任理事会で、国連に核兵器完全禁止を要請する3,500万人署名への参加や被爆者援護法制定をめざす統一大会開催など運動方針を決める
1977/12/12
核実験の抗議電にルイ・ドージュ駐日仏大使から広島市に返書(11月29日付)。「自衛のための核実験」を強調。荒木市長は初の返書は評価しながらも「いかなる理由であれ、核実験は許せぬ」と再抗議
1977/12/12
原爆小頭症患者の親らで作る「きのこ会」が総会を開き、1978年度の活動方針を決める。(1)生活指導費の手当支給(2)医療機関やリハビリテーション施設を備えた収容施設の建設(3)小頭症患者の実態調査の実施-の3点を国へ働きかける
1977/12/12
「米国被爆者援護法」制定の前提になる米下院の聴聞会の年内開催が不可能に。エネルギー法案など他の重要法案の審議のあおりを受ける
1977/12/12
長崎市が平和公園に、世界から平和と人類愛を象徴するモニュメントを集め「世界平和シンボルゾ-ン」を建設することを決める(「長崎年表」)
1977/12/13
米コネティカット州にある原子力発電所で2回の爆発が起き、放射能が漏れる
1977/12/13
「人類の未来を創るための科学者宗教者国際会議」の1978年夏の広島開催決まる。関寛治広島大平和科学研究センター長らが呼びかけ
1977/12/14
広島市高陽町上深川の空博行さん方で、被爆後8カ月の広島市中心部を撮影した写真の原板22枚が見つかり、原爆資料館に寄贈
1977/12/14
茨城県東茨城郡大洗町の日本原子力研究所大洗研究所の材料試験炉で、原子炉室内を点検作業していた作業員1人が微量の放射性ガスを右手に浴びる
1977/12/14
米エネルギー省が「ネバダ実験場で14日、地下核実験。規模は20~150キロトン」と発表 1977/12/15
放射線影響研究所の長崎施設が長崎支所に昇格(「長崎年表」)
1977/12/15
核禁会議が「韓国被爆者調査委員会」設置。国連軍縮特別総会(1978年5月)までに実態を報告。調査委員会は石田定広島原爆病院内科部長、渡辺正治広島大助手、河村虎太郎河村病院長、在日本大韓民国居留民団の姜文煕韓国被爆者対策委員長ら7人
1977/12/15
呉原爆被爆者友の会(中津泰人会長)が求めていた被爆者のバス料金無料化の請願が呉市議会民生交通委員会で採択される。呉市も実施の方針を示唆
1977/12/15
荒木広島市長が米核実験に抗議する電報をマンスフィールド駐日米大使に打つ
1977/12/16
「国連に核兵器完全禁止を要請する署名運動推進連絡協議会」が東京・数寄屋橋で署名を訴える。国連軍縮特別総会(1978年5月)までに3,500万人以上目標
1977/12/16
米核実験に抗議して被爆者や労組員らが広島市の原爆慰霊碑前などで座り込む
1977/12/19
被爆国際シンポジウム広島継続委員会が、国連軍縮特別総会(1978年5月)へ広島代表10人以上の派遣決める
1977/12/19
核兵器廃絶を訴える国連3,500万人署名が広島市内でも始まる。広島県原水協の佐久間澄理事長ら15人が胡町で訴え
1977/12/20
広島県内5市に広がった核実験抗議の座り込み行動をさらに発展させるため「核実験抗議連絡センター」が発足。代表に瀬戸高行広島県労被爆連副会長を選出。抗議行動の窓口を一本化して全市民的な運動に盛り上げる狙いで、福山、呉、三次、三原市長らに対し広島市長と同様の抗議電報を打つよう要請する-など方針を決める
1977/12/21
広島県原爆被爆教師の会(石田明会長)と広島県高校原爆被爆教職員の会(森下弘会長)が被爆体験記「この子らに語りつぐもの」を出版。広島、山口県在住の被爆教師14人の手記をまとめる
1977/12/23
辻一三佐世保市長が記者会見し「佐世保でのむつ修理を断念したい」と語る
1977/12/23
原水禁統一実行委員会(代表幹事、新村猛名大名誉教授ら3人)が東京で幹事会を開き、運動の組織統一について結論を見送る。「5・19合意」の「年内をめどに国民的大統一の組織実現」は事実上不可能に
1977/12/24
世界連邦運動のアジアセンター本部が広島市に発足。インドのニューデリーから移設
1977/12/24
ブレジネフ・ソ連書記長が中性子爆弾放棄協定締結を提唱
1977/12/26
国際会議場などを備えた国際的な平和文化施設の建設を検討する広島市議会の「平和文化施設問題調査特別委員会」が初会合
1977/12/26
厚生省が「軍需充足会社」の広島電鉄で働いていて被爆死しながら公務死扱いされていなかった67人の救済決める。年内に弔慰金や遺族給与金
1977/12/27
荒木広島市長が米核実験に抗議する3回目の書簡をマンスフィールド駐日米大使に送る。「貴国は核実験の停止を唱えながら実験を強行するという矛盾した行為を繰り返している」
1977/12/27
原子力委員会が原子力白書52年版で自主技術の開発促進の必要性を強調
1977/12/28
被爆米兵の世話をした元憲兵、柳井市の福井信一さんが名乗り。ラルフ・J・ニール少尉とノーマン・R・ブリセット通信員で、ブリセット通信員の遺族とは文通続ける。「ニール少尉は日本人軍医から『お前の国の爆弾でけがをした。治療法を知っているだろう』と問い詰められ『知らない。申し訳ない』と泣いて謝っていた」
1977/12/29
旧逓信院(現在の郵政省、電電公社)勤務中に被爆死した職員のうち、年金を受けていない雇用人の遺族に1978年7月から戦没者遺族年金並みの最低月額6万円の年金を支給へ。新年度政府予算案に盛り込まれる
1977/12/29
1978年度の政府予算案発表。原爆小頭症患者への手当支給(月額3万円)が盛り込まれる。被爆者対策費は全体で539億3,545万円で前年度比22%増
1977/12/--
広島市在住の写真家佐々木雄一郎氏が、50ページの原爆写真集「HIROSHIMA」を出版。広島復興の足跡を100枚の写真でつづる
1977/12/--
大阪府池田市の原爆被害者の会(桑井勇会長)が「平和への願い~一地方都市からの訴え」を出版。24編の体験記と池田市被爆者実態調査結果
1977/12/--
米原子力潜水艦第1号ノーチラスの建造に従事した作業員が白血病と診断され、金属労働組合連合会(10万人)が過去原子力船の建造にかかわった組合員とその家族の被曝調査を始める
1977/12/--
広島大平和科学研究センターが研究紀要「広島平和科学」第1号を刊行
1977/12/--
米政府がネバダの大気圏内核実験に参加した将兵らの健康調査に着手へ。退役軍人や遺族から白血病、膠原病などの訴えが続出し補償を求める声が急速に高まったため。調査対象は1957年8月末の「スモーキー作戦」に参加した約3,000人に絞る
1977/12/--
広島で被爆死し、名前が判明した17人の米兵捕虜のうち、ヒュー・ヘンリー・アトキンソン軍曹の父親から広島大原医研の宇吹暁助手に手紙。「米紙の報道で息子の被爆死を初めて知った。詳しく知らせてほしい」

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