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ヒストリー

ヒロシマの記録1976 6月


1976/6/1
佐世保市で「反むつ集会」。全九州青婦協総決起集会で約1万人が参加
1976/6/3
核施設や核技術の輸出管理強化を協議する核先進12カ国の秘密会議がロンドンで始まる。1975年5月から1976年1月の核供給7カ国会議を拡大
1976/6/3
中国郵政局と電電公社中国電気通信局が、原爆で亡くなった旧逓信院雇用員(地方採用の一般職員)遺族に特別一時金60万円の支給を決める。1972年にも一時金(7~30万円)が支払われ、2回目の支給
1976/6/3
在韓被爆者への援助を呼びかけて韓国人画家尹熈寿さん(ソウル在住)ら3人が、広島市内の画廊でチャリティー展開く。15日まで。益金は韓国陜川面にある韓国被爆者診療センターに寄付
1976/6/3
ブラウン・米カリフォルニア州知事が原子力発電所建設について、核燃料再処理と核廃棄物をめぐる諸問題が解決するまで新設を規制-などの法案に署名
1976/6/4
防衛庁が「防衛白書」で、非核三原則を明確化。防衛白書は1970年以来2度目。専守防衛を強調、核装備について「政治的にも軍事的にも必要性ない」
1976/6/4
防府市の三田尻病院が第2陣の在韓被爆者を受け入れ。ソウル市の金萬福さんら3人
1976/6/4
広島市が被爆者健康手帳の交付で「2人以上の証人」より「本人の申述書・誓約書」を重点に審査の方針決め、厚生省に連絡。手帳の交付は1960年5月、厚生省通知で(1)被爆当時の罹災証明書(2)当時の書簡、写真などの記録書類(3)市町村などの証明(4)2人以上の被爆証明書(証人)(5)本人の被爆状況を記した申述書・誓約書-のいずれかを添付書類として求めている
1976/6/4
カナダのストロング前国連環境管理理事会事務局長が、原子炉は安全規制が完備するまで製造を中止すべき、と呼びかけ
1976/6/5
財団法人広島平和文化センター(坂田修一理事長)が、広島市の平和記念館で「第1回平和を考える市民の集い」。約100人が「ヒロシマはこれからなにをするべきか」をテーマに討論。関寛治広島大平和科学研究センター長、長崎市の秋月辰一郎聖フランシスコ病院長、原田東岷ワールド・フレンドシップ・センター理事長らが参加
1976/6/5
仏の核燃料再処理工場があるラアーグで、日本の使用済み核燃料再処理の受託反対などで抗議行動。核反対地域情報闘争委員会(CRILAN)、地球友の会などが呼びかけ計1万2,000人が参加
1976/6/6
広島大原医研の大北威教授が、長崎市で開かれた第17回原子爆弾後障害研究会で「広島の被爆者の白血病発生は、全国平均に比べ依然高率」と発表
1976/6/6
共産党系の広島県被団協が、田辺勝理事長の死去後、空席となっていた理事長に佐久間澄広島県原水協理事長を選ぶ
1976/6/6
長崎市で開かれた第17回原子爆弾後障害研究会で、鹿児島大医学部衛生学教室の古庄敏行助教授が、「被爆者の子の身長は非被爆者の子より高い」と発表。1965年に同助教授らが実施した広島、長崎の小、中、高校の児童、生徒20万人の体格調査の中から広島市内の高校生3万人を取り上げ身長だけまとめた。5~8ミリ高い
1976/6/6
長崎の原爆死没者数は約9万人。広島大原医研の湯崎稔助教授が、長崎市で開かれた第17回原子爆弾後障害研究会で推定値を発表。長崎の死者数はこれまで2万台から7万台まである。湯崎助教授は被爆当時の人口を約28万6,000人と推計、この推定人口から被爆後の生存人口14万人と原爆投下前後に流出した5万数千人を差し引いた
1976/6/7
広島被爆者団体連絡会議と部落解放同盟広島県連などが、広島市に「放射線影響研究所の戸籍閲覧は中止してほしい」と申し入れ
1976/6/8
広島市の永井正子さんが広島市を訪れる厚生省の佐分利輝彦公衆衛生局長に級友の死を訴えへ。「日本製鋼所広島工場は休電日で休みだったが、自宅待機を命じられていた。公務死が認められないのは納得できない」
1976/6/8
厚生省の佐分利輝彦公衆衛生局長が出席して広島県庁で「被爆者の声を聞く会」。被爆者団体などが前年から要求し実現。13被爆者団体から18人の代表が出席。遺族補償、被爆二、三世問題、原爆医療機関の一元化、被爆者援護法などに発言が集中
1976/6/8
政府が核拡散防止条約の批准書を米英ソ3国に寄託。署名以来6年4カ月ぶりに97番目の同条約正式加盟国に。政府声明(1)わが国は従来から唯一の被爆国として、核武装を排する基本政策を堅持し、平和外交に徹してきた。今後もこの基本政策を守る(2)この条約は「核兵器国」にのみ、核兵器の保有を認めている。このような差別は将来、核兵器国の核兵器廃絶により是正されなければならない(3)核兵器を保有しながら、条約に参加していない仏、中国の参加を強く希望する
1976/6/8
原子力発電所の安全性をめぐって米カリフォルニア州で住民投票。賛否はほぼ2対1で原発推進派が圧勝
1976/6/9
米エネルギー資源開発局が、「ソ連が9日、セミパラチンスク核実験場で20~150キロトンの地下核実験を実施」と発表。この年、2回目
1976/6/9
10月に予定されている広島、長崎市長の国連訪問に「ヒロシマの医師の声も」と広島県医師会長の大内五良氏の同行が決まる
1976/6/9
東京・葛飾区立上平井中学が東京の公立中として初めて広島修学旅行に。9日朝から10日昼まで原爆学習。広島市立翠町中とも交流会。山陽新幹線の開通と、長崎の被爆者の江口保教諭らの努力実る
1976/6/10
放影研理事会で、移転に向けて日米政府関係者と理事で構成する「放影研の移転問題を協議する委員会」の設置を決める
1976/6/10
東京・夢の島の「第五福竜丸展示館」が完成、一般公開始まる。工費1億7,000万円。第五福竜丸平和協会(三宅泰雄会長)から同船の寄贈を受けた東京都が1975年9月に着工
1976/6/10
荒木広島市長が、ソ連の地下核実験に抗議しポリャンスキー駐日ソ連大使に抗議電
1976/6/12
1975年8月から製作が進められていた日本、ポーランド初の合作映画「灯は生きていた」(阿倍野人監督)が広島で初公開。広島の被爆二世と、アウシュビッツの経験がある恩師を持つポーランドの女性の悲恋物語
1976/6/12
広島市で第4回全国平和教育シンポジウム(日本平和教育協議会と広島平和教育研究所主催)開く。「すべての子どもたちにいのちと平和の尊さを」がスローガン。13日も。約1,300人が参加。石田明日平教事務局長が基調報告。松谷みよ子さんが「ヒロシマの意義を問う」と題し講演。「教科書問題と平和教育」「今日の核問題と平和教育」など9分科会で論議。広島市戸坂中の高橋信雄教諭が、教科書の原爆記述が文部省の検定でどう変化したかを報告
1976/6/12
第4回全国平和教育シンポジウム開会式で、音楽構成詩「にのしま」が発表される。三原市の三原東高1年、源田えりさんの作詞、作曲家大西進さんが曲をつける。声楽家、相川マチさんが独唱
1976/6/12
9日のソ連地下核実験に抗議し、広島被爆者団体連絡会議の被爆者ら30人が原爆慰霊碑前で座り込み。ポーランドの青年が5分間、飛び入りで参加
1976/6/16
米の核問題専門家、ウォルステッター・シカゴ大教授が米下院外交委員会で証言し、「1985年までには40近い国が核爆弾を製造できるようになる」と述べる。イスラエル、西ドイツ、ベルギー、南アフリカ、日本、イタリア、アルゼンチン、台湾、パキスタン、ブラジル、イランは85年までにプルトニウム生産のための再処理施設を建設する計画がある-と言明
1976/6/18
広島県被団協(森滝市郎理事長)が、1972年7月から40回目の証人捜し。ソウル市の李順玉さんら5人、通算で141人に
1976/6/19
修学旅行で広島市を訪れた京都市立安祥寺中学の生徒らが、「同じ原爆犠牲者なのに参拝者が少ないのはおかしい」と、平和記念公園対岸の広島市堺町にある韓国人原爆犠牲者慰霊碑に参拝。参拝の世話をした在日大韓基督教広島教会の金信煥牧師は「1970年に碑ができて以来、修学旅行で参拝は初めて」と歓迎
1976/6/20
「三菱重工韓国人徴用工原爆被爆者・沈没遺族を支援する会」が結成。調査救援活動を続ける深川宗俊さんを中心に「韓国の原爆被害者を救援する市民の会」(河村虎太郎会長)広島支部のメンバーが参加
1976/6/21
核兵器全面禁止を訴え1975年末、国連を訪問した国連要請国民代表団(日本原水協、日本被団協を中心に35人)が、ワルトハイム事務総長から依頼された広島・長崎の原爆被害実態報告書「広島・長崎の原爆被害とその後遺」をまとめる。「原爆による死者広島7万8,000人、長崎2万7,000人は過小評価。これまでの調査では、広島15万人、長崎7万人が妥当」「投下原爆の爆発力は、広島が13キロトン、長崎22キロトンと推定」とする
1976/6/21
被爆者の認定請求却下は不当、と長崎県被爆者手帳友の会(深堀勝一会長)が、厚相に対し却下処分の取り消しを求める異議申し立て
1976/6/22
福井県敦賀市の日本原子力発電会社敦賀発電所で1970年11月13日、作業員の村居国雄さんが200ミリレム以上被曝。1971年3月、高熱が続き毛髪が抜け歯がボロボロになり10本も抜ける。敦賀市議会で明るみに
1976/6/23
1975年、東京-広島間を歩いた日本原水協の国民平和大行進を記録した映画「歩く」(カラー、34分)が完成。板谷紀之監督。製作は日本原水協など協力
1976/6/23
広島県警と広島東署の被爆者健康手帳不正入手事件の捜査終わる。ニセ被爆者と呼ばれる不正入手者は29人。一方、広島市役所に「不正に入手した」と返還してきた手帳は49件
1976/6/24
東広島市議会が原爆被爆者援護法の制定を求める意見書を全会一致で採択
1976/6/25
1957年の原爆医療法制定前に独自の「被爆者健康手帳」をつくり、被爆者医療に当たっていた広島市段原新町の中山広実医師の私製手帳が20年ぶりに見つかる
1976/6/25
米環境保護局(EPA)が、原子力発電所の大事故の確率、被害は原子力規制委員会(NRC)が発表している「ラスムッセン報告」より高く大きいと発表。ラスムッセン報告は、大事故は10億年に1回とするが、EPAは数百年に1回。死者は即死3,300人に対し、「はかりきれず」、事故後の20~30年にがんなどの死亡者は3万3,000人に対し最低6万6,000人から最高33万人と修正
1976/6/25
中国電力が島根県鹿島町の御津漁協と温排水測定作業などについて協定書。中電側は2号機建設への含みを残したと評価
1976/6/26
広島原爆病院が赤字から脱出。1975年度決算は収支が6億760万円で一致。国や自治体の運営費補助、民間からの寄付金があったため
1976/6/26
広島・長崎平和文化都市提携記念事業の一環として広島原爆資料館に「長崎コーナー」がオープン。被爆後の写真11枚とミニチュアの「長崎の鐘」を展示。長崎国際文化会館は「広島コーナー」を設置ずみ
1976/6/26
米日系人協会(ジェームズ・村上会長)が、カリフォルニア州サクラメントで開いた総会で、在米原爆被爆者の支援を決議
1976/6/26
被爆死した陸軍少尉の遺族(柳井市在住)が、熱線の跡の残る遺品の軍刀を原爆資料館に寄贈
1976/6/26
原爆資料館の出口の表示「こうして広島の人たちは、老いも若きも幼きも身をもってこの恐るべき炸裂を受けとめて散華した。その霊の永久に安らけき」のうち「その霊の永久に安らけき」のラテン語表示「REQUIESCANTINPACE!」をめぐり論議。難しすぎると英語表記「RestinPeace!」に。1965年当時の館長、森弘助治さんや渉外課の新出政雄さんは「残念」
1976/6/26
韓国被爆者診療センター増築のため、核禁広島県民会議(村上忠敬議長)を中心に実行委員会が発足。必要経費1,500万円のうち不足分700万円を募金
1976/6/27
広島平和教育研究所と広島映画センター(小森敏広事務局長)が、「広島平和教育映画ライブラリー」の設置を記念し、広島郵便貯金会館ホールで記念上映会。原爆映画で最も古い「原爆の子」と東京大空襲を扱った「猫は生きている」を上映
1976/6/28
米オハイオ州ウィルミントン大の「広島・長崎記念資料文庫」の世話をしている同大キャンビー・ジョーンズ教授が、同文庫資料の英文翻訳のため広島を訪問。同文庫はバーバラ・レイノルズさんが呼びかけ開設
1976/6/29
忘れられる原爆慰霊碑。広島市舟入本町の永光寺にあった「舟入町神崎学区慰霊碑」、同市土橋町にある「西新町、西地方町民慰霊碑」、広島県防空機動挺身隊西分隊の「原爆慰霊供養塔」-。中国新聞が報道
1976/6/30
荒木広島市長の国連訪問に向け、広島平和記念館で「国連アピール市民懇談会」を開く。森滝市郎氏「市民からの盛り上がりがあって、訪問を決めるのが望ましい。市長は原爆慰霊碑前の座り込みに参加するぐらいの姿勢が必要」。佐久間澄氏「ただ国連に行くのでなく、米の平和団体や発展途上国の代表とも接触してほしい」
1976/6/30
教科書の原爆記述について広島県教組(宅和純委員長)と広島県原爆被爆教師の会(石田明会長)が、永井道夫文相に公開質問状。(1)子どもたちの心情に訴える内容で、被爆の体験を記載する(2)原爆の破壊力とその非人道性を教える(3)広島、長崎への原爆投下の責任と背景を明らかにする(4)原爆後障害問題を記述する-など問う
1976/6/--
1975年に広島市で開かれた「被爆30年広島国際フォーラム」の記録に服部学立教大助教授、関寛治広島大平和科研センター長らが加筆した「核廃絶か破滅か」(時事通信社)が刊行される
1976/6/--
外務省が初公開中の外交秘密文書の中から、外務省の終戦連絡中央事務所が連合国軍総司令部に報告した広島原爆による人的被害が見つかる。広島県がまとめた1945年11月30日現在の数字。死者7万8,150人、行方不明1万3,983人、重傷者9,428人、軽傷者2万7,997人、一般罹災者17万6,987人、総被害人口30万6,545人
1976/6/--
米ソの水爆開発競争に焦点を当てた「エネルギーと抗争、エドワード・テラーの時代と生涯」が出版。スタンレー・ブランバーグ、グウィン・オウィンズ氏著。「水爆開発はソ連の方が米に先行していた」。(1)1951年5月24日、米は核融合反応に成功。しかし、ソ連に数カ月遅れていた。(2)52年11月1日、米は太平洋エニウェトク環礁で初の水爆実験に成功。だが、これは大型の「湿水式」水爆(3)53年8月12日、ソ連が小型の乾水式水爆実験に成功(4)54年2月2日、米が初の乾水式水爆「ブラボー」に成功
1976/6/--
平和教育の全国的な民間教育研究団体である「日本平和教育研究協議会」(略称日平研、森田俊男代表)が機関誌「平和教育」を創刊。季刊
1976/6/--
日本被団協が機関誌「被団協」を発行へ。季刊
1976/6/--
新日本婦人の会広島県本部(荒滝文子会長)が、被爆者の苦しみを全国の婦人に知ってもらいたいと、被爆者実態調査
1976/6/--
英のバートランド・ラッセル氏の遺志を継いだラッセル平和財団が財政危機に陥っている、とラッセル夫人から広島市の森滝市郎氏に救援を求める手紙
1976/6/--
広島大平和科学研究センターの「平和理論開発のための情報構造とその組織化の研究」に文部省の科学研究費補助金800万円がつく
1976/6/--
原爆被爆者福祉センター広島平和会館が申請以来4年で、財団法人が認可。同会館は1959年4月、全国からのカンパによって分裂前の日本原水協が建設。72年8月、財団法人化を申請していたが、被爆者団体が分裂していることなどから県が慎重に。22日、共産党系の広島県被団協(佐久間澄理事長)が、県に「過去のいきさつを無視して財団法人化を認めたのは納得できない」と申し入れ
1976/6/--
広島県朝鮮人被爆者連絡協議会(朝被協)が、広島市内の朝鮮人被爆者279世帯を実態調査。半数を上回る153世帯が失業対策事業や生活保護などで生活
1976/6/--
米コロラド州のデンバー・ポスト紙が報道。デンバー郊外のロッキー・フラッツ核兵器工場で過去5年間に労働者25人ががんで死亡、同工場を運営しているロックウェル・インターナショナル社では1953年同工場が設立されて以来、従業員、退職者の間から33人のがん死亡者

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