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ヒストリー

ヒロシマの記録1976 11月


1976/11/1
焼津市がビキニ被災の第五福竜丸事件の資料集「第五福龍丸事件」を出版
1976/11/2
原発規制の賛否を問う全米6州の住民投票で、規制提案を否決。オハイオ、アリゾナ、コロラド、モンタナ、オレゴン、ワシントン州
1976/11/2
参院で継続審議の被爆者援護法(野党4党と二院クラブ共同提案)の廃案が確定
1976/11/2
劇画「はだしのゲン」(中沢啓治氏作)の第2部「はだしのゲン・涙の爆発」の製作、配役が決まる。監督は現代ぷろだくしょんの山田典吾氏。ゲン少年に春田和秀君、母親役に宮城まり子さん
1976/11/5
米原子力規制委員会が新規原子力発電炉への運転免許発給を再開
1976/11/5
米国務省が「米国の対外政策」(1949年、第1巻)を刊行。水爆問題に関し、原子力委員会とオッペンハイマー博士を中心とする同委の諮問委員会の大半が開発に反対だったにもかかわらず、マクマホン上下両院合同原子力委員長や軍部が開発を主張した経緯を記録
1976/11/5
米エネルギー研究開発局(ERDA)が「ソ連の地下核実験とみられる振動を記録した」と発表。爆発地点はバイカル湖の北約600キロの中央シベリア
1976/11/5
国連総会が南アフリカに核軍事装備を供給しているとして米、英、仏、西ドイツ、イタリアを非難する決議を採択。賛成は中国、ソ連など93国。日本は棄権
1976/11/7
広島市で開かれた広島地区高校演劇大会で、広島舟入高校演劇部が創作原爆劇「記憶の森で」を公演。伊藤隆弘教諭の書き下ろし。同校の原爆劇公演は8年前から毎年続く
1976/11/7
来日中の米上院議員マイク・グラベル氏(民主党、アラスカ州)が広島市を訪れ、荒木広島市長に原爆投下ショーについて「米政府も米国民も非常に遺憾に感じており、これを機会に原爆についての認識を新たにしなければならない」と述べる。広島県被団協の森滝市郎、佐久間澄両理事長ら16人の被爆者代表とも懇談
1976/11/7
荒木広島市長がソ連核実験で、在日ソ連大使館に抗議電報。8日、広島被爆者団体連絡会議の被爆者ら120人が原爆慰霊碑前など3カ所で座り込み
1976/11/8
広島市が被爆者健康手帳不正入手者に健康診断費と交通費の返還を請求。健康診断費は60人、50万円。交通費は14人、3,000円
1976/11/8
来日中のソ連の最高会議代議員E・S・ルイチン氏とロシア紙国際部長V・I・グリゴロビッチ氏が広島市を訪問。5日のソ連核実験について「被爆者の気持ちはよくわかる。全面禁止に努力する」と話す
1976/11/8
来日中の西ドイツ青少年代表団の14人が広島市を訪問。原爆資料館を見学
1976/11/8
広島、長崎両市長の国連報告書「核兵器の廃絶と全面軍縮のために」がまとまる。「国連アピール資料編集専門委員会」(委員長、今堀誠二広島大総合科学部長)の作成。核兵器廃絶のための要請書と、「原爆被害の実態-広島・長崎」の2編からなり、A4判、63ページ
1976/11/9
広島平和文化センターが、荒木広島市長の国連報告書を増刷し国内外に配布へ
1976/11/10
英の詩人エドモンド・ブランデン氏の未亡人クレア・ブランデンさんが広島市入り。広島市基町の市立中央図書館前に1975年夏、建立された夫の詩碑と対面。広島日英文化協会(会長、飯島宗一広島大学長)が招待
1976/11/11
広島市の藤枝良枝さんが筆談で集めた核兵器廃絶の願い「女性平和悲願署名」1万人分を国連訪問の荒木広島市長に託す。幼いときから耳が不自由な藤枝さんは27歳で被爆、母親と2人の子供を失う
1976/11/11
東ドイツ国営放送のトマス・ジルバーシュタインさんが広島原爆病院や荒木広島市長を取材
1976/11/11
1955年ごろ広島市の復興全景を撮影したパノラマ写真が、広島県五日市町の寺地智子さん方で保存
1976/11/11
米ソなど「核供給」15カ国がロンドンで核兵器拡散防止に向けての秘密会議を開催。15カ国は米ソのほか、英、仏、カナダ、西ドイツ、日本、スウェーデン、ベルギー、オランダ、イタリア、東ドイツ、チェコスロバキア、ポーランド、スイス
1976/11/12
愛知県原水爆被災者の会(石井重夫理事長)が、名古屋市の愛知県広報センターで「原爆被爆体験絵画展」を開く。愛知、静岡、石川、富山各県在住の被爆者が記憶をたどりながら描いた絵や手記、写真など125点
1976/11/13
西ドイツ・ブロックドルフで原子力発電所建設をめぐり2万人の反対集会。反対派と警官隊が乱闘、数十人が負傷
1976/11/13
青森市で開かれた第18回放射線影響調査北日本研究者会議で、滝沢行雄秋田大医学部教授が「9月26日に行った中国の核実験は、同国としては死の灰を最も大量に降らせた汚い核実験」と発表
1976/11/15
新たに指定を受けた拡大黒い雨地域で、健康診断始まる
1976/11/15
日本新聞協会の招きで来日中のアジアの新聞関係者8カ国11人が広島市を訪問
1976/11/16
映画「はだしのゲン第2部」の広島ロケが広島県倉橋島で始まる
1976/11/17
中国が「17日、新たな水爆実験に成功」と発表。米エネルギー研究開発局は、「中国としては過去最大の約4メガトン、実験地はロプノル実験場上空」と言明。中国の水爆実験は5回目。タス通信も報道
1976/11/18
荒木広島市長が中国核実験に抗議し、在日中国大使館に電報。大使館は受け取りを拒否。20日、広島被爆者団体連絡会議などの被爆者や市民約50人が原爆慰霊碑前など3カ所で座り込み
1976/11/20
在韓被爆者の林福順さんが広島市に被爆者健康手帳の交付を申請。8年前にも来日、申請したが当時は認められなかった。12月8日交付
1976/11/21
荒木広島市長が国連訪問を前に今堀誠二広島大教授らと中国新聞で座談会
1976/11/22
日ソ協会の招きで来日中のソ連社会科学アカデミーのアレキサンドル・シャルコフ教授が広島市を訪問
1976/11/23
国連訪問の荒木広島市長らが広島を出発。出発に先立ち平和記念公園の原爆慰霊碑に参拝。同行は大内五良広島県医師会長(24日出発)、小倉馨広島市渉外課長。長崎側は諸谷義武市長ら3人。25日羽田を出発
1976/11/23
スウェーデンのウプサラ大地震研究所が、ソ連の地下核実験を探知。セミパラチンスク地区
1976/11/23
米エネルギー研究開発局がネバダで地下核実験を実施、と発表
1976/11/24
米ソの核実験に抗議し、国連訪問のため上京中の荒木広島市長と諸谷長崎市長が連名でそれぞれの在日大使館に抗議電報。25日、広島被爆者団体連絡会議の被爆者や市民ら約50人が原爆慰霊碑前で座り込み
1976/11/24
中東訪問を終えたピアソン上院議員が、ワシントンで「イスラエルは既に核爆弾を保有しており、深刻な脅威があれば使用に踏み切る」と述べる
1976/11/25
政府が17日の中国核実験に抗議、即時中止を求める外務省情文局長談話を発表
1976/11/26
ブカレストで開会中のワルシャワ条約機構政治諮問委員会(首脳会議)が、西側に核兵器先制不行使条約の締結呼びかけなどを求め閉幕
1976/11/26
ワシントンを訪問中の荒木広島、諸谷長崎両市長が日本大使館、米軍縮局を表敬訪問。米国立公文書館も訪れ、ローズ館長から被爆直後にアトリー英首相からトルーマン米大統領にあてた親書など解禁されたばかりの機密文書など10数点の目録が両市長に渡される。夜は米国防情報センターのラロック提督など平和活動家と懇談
1976/11/27
東ドイツ・ライプチヒで開かれていた国際ライプチヒ記録・短編映画週間で、「生きる-その証のために」(脚本・監督秋吉宣子さん)が優秀賞の「金ハト賞」を受賞。原爆症に苦しむ若い教師の生きる勇気を描く
1976/11/28
訪米中の荒木広島、諸谷長崎両市長がオハイオ州ウィルミントンを訪ね、モイヤー市長、バーバラ・レイノルズさん、ウィルミントン大学関係者と懇談。モイヤー市長はこの日を同市の「国際平和デー」にすると宣言
1976/11/29
1974年6月のハワイ沖の沈没ソ連潜水艦の引き揚げは成功していた-。米週刊誌「タイム」が米政府の「失敗発表」は偽装と伝える。同潜水艦は1968年に爆発を起こして沈没
1976/11/30
荒木広島、諸谷長崎両市長がニューヨークで、各国大使に核兵器の廃絶を訴え
1976/11/--
広島市のワールド・フレンドシップ・センターで働く永末栄子さんの原爆投下ショーに対する抗議の投書が、10月27日付のニューヨーク・タイムズ紙に掲載。バージニア州の一市民から謝罪の手紙
1976/11/--
原爆症と闘いながら「吾妻鏡」の総索引をつくった故及川大渓さんの遺作が「吾妻鏡総索引」として、日本学術振興会から出版。及川さんは長男を原爆で失い、自らも東千田町の自宅で被爆、1956年に日本原水爆被害者団体協議会が発足したときには初代代表委員の一人として原爆医療法の制定に奔走
1976/11/--
英に亡命中のソ連の生物学者ジョレス・メドベージェフ博士が科学雑誌「ニューサイエンティスト」で、1958年、ウラル近くのブラゴベシェンスクで長期間埋蔵されてきた核廃棄物が大爆発を起こし何万人もが被曝、数百人が死んだと報告
1976/11/--
被爆死した旧千田国民学校の学童、教師の遺族や元教師らが思い出や被爆体験をつづった遺族ニュース「つぼみ」が刊行。年2回発行へ

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