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ヒストリー

ヒロシマの記録1976 12月


1976/12/1
荒木広島、諸谷長崎両市長と大内五良広島県医師会長が国連本部で、ワルトハイム事務総長に会い、国連アピール文書を手渡すとともに記録映画「ヒロシマ原爆の記録」(広島市製作)など3本のフィルムとパネル写真を贈る。事務総長は「世界の良心を動員するため一層努力する」と約束
1976/12/1
1975年の8月6日、原爆ドームに上ってアジ演説をし、建造物侵入と公務執行妨害罪に問われている全国被爆者青年同盟(被青同)の活動家に広島地裁で判決。植杉豊裁判長は「原爆ドームは刑法に規定する建造物に該当しない」として、公務執行妨害罪(懲役6月、執行猶予2年)と軽犯罪(拘留29日)の判決を言い渡す
1976/12/2
広島市安古市町上安、相田地区の住民らが広島市に「黒い雨」地域を全域指定にと要望
1976/12/2
荒木広島、諸谷長崎両市長がソ連、インドなど各国国連代表部を訪問。ソ連代表部ではクズネツォフ第一外務次官と会見
1976/12/3
原子力発電所建設のストップを公約にしていたスウェーデン新政府が、原発の建設、操業を認める「規制法案」を公表
1976/12/3
北海道電力岩内原子力発電所の建設に反対していた岩内町議会が逆転賛成決議
1976/12/4
荒木広島、諸谷長崎両市長の各国代表部訪問が共感を持って迎えられる。UPIのラインハルド記者は「国連に持ち込まれた平和の衝撃波」と表現
1976/12/6
訪米中の荒木広島、諸谷長崎両市長と大内五良広島県医師会長がロサンゼルスで在米被爆者約40人と懇談。引き続きロサンゼルス郡医師会館でサミエル・ホロウイッツ同医師会長らと協議の結果、日本からの専門医師団の受け入れに基本合意、翌春までには実現
1976/12/7
ロサンゼルス滞在中の荒木広島、諸谷長崎両市長が真珠湾攻撃35周年の日、ロサンゼルス郡行政庁で「米国にとって悲しい日の今日、われわれは平和の使者として『戦争と核のない世界』への悲願を込めて、米国民の良心に訴える」と声明を発表
1976/12/7
ソ連から1972年にイスラエルに移住したレオ・ツマーマン・ワイズマン工科大名誉教授が、ソ連のウラル地方キシュティムの軍事用プルトニウム貯蔵施設で1958年に起きた核爆発事故の被災現場を3年後に見た、と述べる。「キシュティム付近のウラル縦断ハイウエーの両側は延長32キロにわたり何一つない荒涼とした被災地」
1976/12/7
スウェーデンのウプサラ大地震研究所がセミパラチンスクでソ連の地下核爆発を記録
1976/12/7
福井県三方郡美浜町の関西電力美浜原子力発電所1号機で起きた1973年3月の事故を、同社が監督官庁に届けずひた隠しにしていたことが通産省調査でわかる。燃料棒2本の折損事故で日本の原発の運転開始以来、最大規模の事故。原子力委員会が同社を厳重注意
1976/12/8
仏がムルロア環礁で地下核実験。9日付タヒチ紙が伝える
1976/12/8
広島市がソ連核実験で在日ソ連大使館に荒木市長名で抗議電報。広島被爆者団体連絡会議の被爆者、市民80人が原爆慰霊碑前など3カ所で座り込み
1976/12/8
米がネバダで地下核実験を実施。米エネルギー研究開発局が発表
1976/12/9
英ウィンズスケールの英国営核燃料公社(BNF)の核燃料再処理工場で、10月10日に起きた放射能汚染水の漏水事故を公社がひた隠し。8日に報告を受けたベン・エネルギー相が下院で明らかにする
1976/12/9
広島市が米地下核実験で在日米大使館に、荒木市長名で抗議電報
1976/12/10
「黒い雨」地域の拡大で新たに被爆者健康手帳の交付が認められたのは健診1カ月で52人。「健康診断受診者証」の交付申請は1,898件、うち受診者証を交付されたのは1,600人。これまでに1,032人が受診
1976/12/10
荒木広島、諸谷長崎両市長が帰国。羽田空港で記者会見した両市長は「広島、長崎は世界の人々を動かすための劇的な行動が出来る唯一の都市と強く感じた」。11日に首相官邸、外務、厚生省に帰国報告
1976/12/10
ブリュッセルで開会中の北大西洋条約機構(NATO)外相理事会が、ワルシャワ条約機構提案の「核兵器先制不行使条約締結」の拒否を決める
1976/12/10
広島市が仏核実験で在日仏大使館に荒木市長名で抗議電報
1976/12/11
広島市の平和記念式典などを記録した東京・小平高校映画研究同好会の映画「ヒロシマ76」が、「日本を記録する8ミリフェスティバル」高校部門で3位に
1976/12/11
米と仏の核実験に抗議し広島県被爆者団体連絡会議などの被爆者や市民約50人が、原爆慰霊碑前など市内3カ所で座り込み
1976/12/12
国連訪問を終えた荒木広島市長が広島帰着。訪問成果について「アピール」を発表。「ワルトハイム事務総長は、両市の悲劇は単なるあわれみでなく、人類共通の苦しみとして心から同意を表され、同じ悲劇を繰り返さないよう国連も努力する-と約束
1976/12/13
下関市立大と梅光女学院短大の演劇部が、原爆の悲惨さを訴えた「銀河鉄道の恋人たち」を下関市内の文化会館で公演
1976/12/14
宮沢弘広島県知事が県会で、「黒い雨」の特別被爆地域指定について不満を表明。「引き続き指定地域の拡大を働きかける」
1976/12/17
西ドイツ北部のシュレスウィヒ・ホルシュタイン州行政裁判所が、ブロックドルフ原子力発電所建設工事一時中止を求めた住民側の仮処分申請を認める
1976/12/18
国際平和ビューロー、世界平和評議会などの国連非政府組織(NGO)が主催し、1977年に広島、長崎で開催を計画している「被爆の実相とその後遺・被爆者の実情に関する国際シンポジウム」(仮称)の日本準備委員会が東京で発足。世話役団体は日本被団協など4団体。代表幹事に飯島宗一広島大学長、行宗一日本被団協代表委員、具島兼三郎長崎大学長、上代たの元日本女子大学長、草野信男東大名誉教授、吉野源三郎氏、三宅泰雄東京教育大名誉教授の7人を選ぶ
1976/12/20
「カーター次期米大統領は選挙公約通り韓国から核兵器を撤去すべき」-。日本の原子力科学者、国際法学者ら22人が声明を出し、カーター次期大統領とワルトハイム国連事務総長に送る。牧二郎京大教授、三宅泰雄日本学術会議原子力特別委員長、田畑茂二郎京都府立大学長、高野雄一東大教授ら
1976/12/20
広島被爆者団体連絡会議など5団体の代表が広島市に、「放射線影響研究所の戸籍調査は被爆者個々人の了解をとって行うべき」と申し入れ
1976/12/21
国連総会が国連軍縮特別総会を1978年に開くよう求めたユーゴスラビアなど非同盟諸国案の決議案を全会一致で採択
1976/12/23
来日中の倉本寛司米国原爆被爆者協会会長が、厚生省に専門医の早期派遣を要望
1976/12/25
北京放送が毛沢東の20年前の論文「10大関係論」を発表。原子爆弾の保有について「今日の世界で、他人の侮りを受けたくなければこれを持たない訳にはいかない」と述べる
1976/12/27
総評の富塚三夫事務局長が共産党本部に金子満広書記局次長を訪ね、原水禁運動統一へ向け核兵器全面禁止、被爆者援護など共通点を基礎に話し合いを続けることで合意
1976/12/28
元広島電鉄家政女学校の被爆死生徒10人の公務死が認められ、遺族に遺族給与金証書
1976/12/28
米がネバダで地下核実験。エネルギー研究開発局が発表
1976/12/30
荒木広島市長が28日の米核実験で在日米大使館に抗議電報。31日、広島被爆者団体連絡会議(近藤幸四郎事務局長)の被爆者ら40人が広島市の原爆慰霊碑前に抗議の座り込み。この年25回目
1976/12/--
広島電鉄が被爆死従業員の遺族捜しのため「原爆援護調査室」を設置
1976/12/--
被爆者や市民の核意識の変化を調べている「核意識の構造と実態研究」グループ(代表、庄野直美広島女学院大教授、26人)が、研究項目を増やす。これまでの「被爆者の生活史と核意識」「広島・長崎と他都市との核意識の比較」「平和教育の実践と核意識の相関」など6項目に、新たに「広島、長崎、東京など5大都市にみる中学生、父兄の意識研究」「被爆体験記にみる被爆者の生活と核意識」「原爆慰霊碑にみる原爆意識の構造と変遷」「教科書記述における原爆、戦争、平和の取り上げ方」など5項目を加える
1976/12/--
広島原爆障害対策協議会(会長、荒木市長)の被爆者生活相談が過去最多(4~9月)の578件。内容は252件、44%が健康管理手当問題、次いで被爆者健康手帳の交付が79件など
1976/12/--
広島城跡にあった旧陸軍第5師団司令部の戦友たちでつくっている広島師友会が、被爆当時の司令部の状況などを回想した体験記「原爆下の司令部」を出版

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