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ヒストリー

ヒロシマの記録1975 1月


1975/1/1
米コラムニストのジャック・アンダーソン氏がワシントン・ポスト紙で、核積載の米潜水艦マジソンが1974年11月3日、北海潜航中にソ連潜水艦と接触事故を起こしたことを明らかにする。核爆発などはなし
1975/1/4
ラロック米国防情報センター所長が、1974年11月に北海で起きた米核積載潜水艦とソ連潜水艦の接触事故に関し語る。「原潜衝突事故は過去2回、地中海とジブラルタル海峡入り口で発生-との報告を聞いた」
1975/1/4
1975年度予算案の大蔵省原案内示で、ABCCから日米共同運営になる放射線影響研究所の設立に13億8,400万円全額が認められる
1975/1/5
パレスチナ解放機構(PLO)のアラファト議長がベイルートで演説。「イスラエルが原爆5個を保有していることを知っている。原爆ではわれわれを威嚇できない」
1975/1/6
インドの英字紙インディアン・エクスプレスが香港特派員電として伝える。「中国がパキスタンの核兵器開発援助に同意したとの観測が香港で流れている」
1975/1/6
広島市の平和記念公園の原爆慰霊碑さい銭箱に、1974年1年間で561万2,708円の浄財が集まる
1975/1/7
東京電力が福島県双葉郡富岡、楢葉両町に建設中の福島第2原子力発電所の設置許可は違法-として地元住民404人が国を相手取り原子炉設置許可処分の取り消しを求める訴訟を福島地裁に起こす。原発建設許可をめぐり住民が国と争うのは四国電力の伊方原発などに次ぎ3番目
1975/1/8
山田節男広島市長が肺がん、がん性肋膜炎のため入院中の広島市民病院で死去。76歳。「市民の皆さん、立派な都市になるように努力してほしい」と遺言。9日、平和記念公園の国旗掲揚台に吉田茂元首相の死去以来の半旗。22日、県立体育館の市葬で市民4,000人がめい福を祈る。参院議員3期を経て、1967年に広島市長に初当選、71年に再選され2期目(在職7年8カ月)。毎年、平和宣言を世界主要国に送って核廃絶を訴え、核実験の度に抗議電報。戦災復興の仕上げとして同市基町の都市再開発を手がける。49年度ハマーショルド記念国際平和賞を受賞。熱心な世界連邦主義者
1975/1/8
関西電力美浜原子力発電所2号機(福井県三方郡美浜町)の蒸気発生器が故障し、放射線漏れを示す警報ブザーが鳴り運転を停止。原子炉格納容器外への放射能漏れはなし。2号機の放射能漏れ事故は1972年7月運転開始以来初めて
1975/1/9
1975年度予算案の大蔵原案に対する閣僚折衝で、被爆者保健手当(月額6,000円)新設が認められる。9月から実施へ。爆心地から2キロ以内に住み、大量の放射能を浴びた直接被爆者への手当
1975/1/10
科学技術庁に「原子力安全局」の新設が決まる。「部局新設は認めない」政府方針があったが、三木首相が裁断
1975/1/10
政府が核拡散防止条約について、条約批准の時期を明示しない答弁書を閣議で決定。1974年8月1日の参院外務委員会で木村俊夫前外相が「次期通常国会に提出」との答弁から後退
1975/1/10
1975年度予算案の大蔵原案に対する復活折衝で、被爆者対策の全予算が要求額を上回る258億5,000万円(1974年度155億円)に
1975/1/11
1975年度の被爆者対策予算で、家族介護手当の新設が決まる。10月から広島、長崎両県の648人に月額4,000円を支給の予定
1975/1/12
韓国人被爆者、孫振斗さん(大村収容所に強制収容中)の被爆者健康手帳請求訴訟を支える広島、東京、大阪など全国6都市の「孫さんを支援する市民の会」代表が広島市で全国連絡会議。控訴審に向け支援署名運動の展開を決める。2月中に1万人目標
1975/1/13
広島県労会議が常任幹事会で、原水禁国民会議(社会党・総評系)の3県連絡会議(広島、長崎、静岡)が決めた「原水禁運動の統一を進め、8月の原水禁世界大会を統一大会にする」との運動方針を了承
1975/1/13
「軍縮と平和のための国際連合」(ICDP)総会(3~7日、ロンドン)に日本原水協(共産党系)代表として参加した広島県原水協の相良勝美事務局長が広島市役所で記者会見。「ICDPは今年の原水禁世界大会を支持し、加盟団体に大会参加を要請することになった」
1975/1/13
広島県原水協の相良勝美事務局長が、ロンドンで購入した広島原爆投下を報じる英紙ニューズ・クロニカル(1945年8月7、8日付)の復刻版を広島市の平和記念館に寄付を表明。7日付紙面は「英の科学者が米の科学者と技術協力し、ドイツの科学者に勝利した」と原爆投下事実より英の原爆開発を強調。8日付は原爆投下パイロットの話をまとめる
1975/1/14
原水禁国民会議(社会党・総評系)が韓国の李龍雲氏の核持ち込み発言で、(1)国連軍の名目で韓国に派兵されている米軍が核兵器を持ち、核戦略の担い手になっていることは国連決議に反する(2)日本の非核武装宣言、核基地撤去行動の強化-を確認
1975/1/14
元韓国海軍参謀総長の李龍雲予備役中将が東京都内のホテルで語る。「核兵器を装備した米第7艦隊の空母が、韓国から日本の横須賀や佐世保に直行したことは何度もある。核兵器の海上積み降ろしはあり得ない」。外務省は論評を避ける
1975/1/14
米原子力潜水艦ハドックが横須賀港に入港。米原潜の横須賀寄港は3カ月ぶり、通算91回目
1975/1/14
シュレジンジャー米国防長官が国防総省で記者会見。「ソ連最初の複数目標弾頭(MIRV)SS18の配備開始を確認」。SS19についても「既に配備開始を示す証拠がある」
1975/1/14
北九州市小倉北区で胎内被爆の女性(28)がガス自殺。胃が悪く「病気がこれ以上どうにもならないので死ぬ」と遺書。母親が妊娠中に長崎で被爆
1975/1/18
広島市を訪れた韓国の児童舞踊団「リトル・エンジェルス」の少女20人が広島原爆病院を慰問
1975/1/20
米政府原子力委員会が新設のエネルギー研究開発局に吸収。30年の歴史にピリオド。同委員会が使った予算は600億ドル(約18兆円)。約4万発の核弾頭を生み出す一方、平和利用の原子力発電は進まず、エネルギー総合開発の必要性から機構改革
1975/1/20
カナダ通産省スポークスマンが、インドに対する核設備の輸出を正式に禁止した-と述べる。1974年5月、インドはカナダの援助で建造した原子炉のプルトニウムで初の地下核実験
1975/1/20
被爆者健康手帳の交付を受けて広島原爆病院で治療中の韓国人被爆女性、崔英順さんが広島入国管理事務所に3カ月のビザ延期を申請。長期入院が必要なため。同事務所は30日、30日間の滞在延期を認める
1975/1/21
自民党首脳が核拡散防止条約の批准問題について、再開国会への政府提出案件に批准案が含まれていないことを明らかにする。同党内に依然、慎重論
1975/1/21
政府が閣議で、核兵器積載艦の日本領海通過問題に対する政府統一見解。(1)常時、核装備を有する軍艦の領海通過、日本寄港は核持ち込みに該当(2)核積載艦の領海通航は無害通航と認められず拒否-など
1975/1/21
広島で被爆した韓国人被爆女性、卞蓮玉さんが治療のため来日。「大牟田市原爆被害者の会」の招きで実現
1975/1/22
関西電力高浜原子力発電所1号機(福井県大飯郡高浜町)で発電用タービンが故障し運転を停止。美浜1、2号機も蒸気発生器の細管損傷で停止しており、高浜1号機を含め関電の原発3基すべてが運転を停止
1975/1/23
日本原水協(共産党系)が全国担当常任理事会で、原水禁運動の国民的統一を目指し各団体と積極的に懇談していく方針決める
1975/1/23
日本原子力発電会社の敦賀原子力発電所(敦賀市神明)が送電線故障のため自動的に停止。関西電力の3原発と合わせ、福井県内の4原発全部が運転を停止
1975/1/23
広島で被爆した韓国人卞蓮玉さんが日赤長崎原爆病院に入院(「長崎年表」)
1975/1/24
日教組第24次、日高教第21次教育研究全国集会が岡山市で開会。初めて「平和教育分科会」が設けられる。27日まで
1975/1/26
日蓮正宗の第1回世界平和会議がグアム島で開会。日米仏など51カ国の信者代表約150人が参加、「国際仏教者連盟」を結成。平和宣言を採択
1975/1/26
自治労広島県本部が被爆者運動を強化するため「自治労広島原爆被爆組合員連絡協議会」を結成。被爆組合員の生活保障、医療充実や被爆者援護法の制定を図る。広島県内の職域団体の被爆者組織は県教組、国労、全電通などに次いで7番目
1975/1/27
広島県原水禁がフィジーの首都スバで開かれる太平洋非核化国際会議(4月1~6日)に森滝市郎代表委員ら代表2人の派遣を決める
1975/1/27
米国立公文書館から広島市に届いた原爆開発の「マンハッタン計画」極秘文書の写し3通を市が翻訳。原爆投下計画の実行段階と広島に投下した直後の状況を、作戦グループからワシントンの参謀本部に報告した米側通信資料。1960年ごろ公表され、既に文献などにも引用されているが、原爆関係の基本資料として平和記念館に展示へ
1975/1/28
日本原水協(共産党系)の吉田嘉清事務局長が、ジュネーブで開かれた国連諮問機関の「非政府組織(NGO)軍縮特別委員会」に日本の原水禁、平和団体として初めて参加
1975/1/28
九州電力の玄海原子力発電所1号機(佐賀県東松浦郡玄海町)が臨界に。九州で初、全国12番目 1975/1/29
カナダが韓国に対し、核兵器製造に利用しないことを条件に3億ドルの原子炉売却で合意
1975/1/29
米原子力規制委員会が米国内23基の沸騰水型原子炉の運転を20日以内に停止し、非常安全装置用パイプのひび割れ点検を命令。21日、米イリノイ州ドレスデン発電所2号炉の緊急冷却水散布用パイプにひび割れが発見されたため
1975/1/30
被爆者健康手帳の交付申請のため、広島での被爆証人2人を捜していた韓国人被爆女性、卞蓮玉さん(長崎原爆病院に入院中)に、広島の小学校時代の同級生2人が名乗り出る。31日、長崎市に交付申請
1975/1/30
日本原水協(共産党系)が原水禁運動統一問題についてアピールを発表。「国民は統一実現を要求しており、緊急かつ重大な問題」と強調。3月1日に予定する「ビキニ集会」を統一実現の第1段階とし、地元静岡での統一努力を尊重し、ビキニ集会に生かす方針を決定
1975/1/31
衆院予算委員会で公明党の矢野絢也書記長が「10年前の1965年3月、横須賀・田浦港に入港した米海軍軍用船が核専用爆雷(MK101)15ケースと付属部品などを日本国内に持ち込んだ」と政府を追及。政府は「事実関係を調べて報告する」と答弁
1975/1/31
第2次米ソ戦略兵器制限交渉(SALT2)がジュネーブで再開。1974年11月5日以来、87日ぶり
1975/1/--
全米組織の日系米人市民協会(杉山茂樹会長、約3万人)が米国原爆被爆者協会などの支援に立ち上がる。2月1日にサンフランシスコで開く被爆者協会との初会合で正式に意向を伝える。米政府による援護法制定が目標
1975/1/--
被爆した広島市東白島町の中国郵政局・郵政監察局のビルが新庁舎(18日落成式)完成で、1976年度に取り壊しへ。1933年建設、原爆で職員590人中89人が死亡
1975/1/--
財団法人「放射線影響研究所」の名称について、「日本放射線影響学会」からクレームがつき、厚生省が外務省、米側と協議へ。(1)名前が紛らわしい(2)放射線影響研究とは放射線が人類、生物、環境などに及ぼす影響と防護、治療などを研究する広い意味を持ち、被爆者調査だけのABCC業務を引き継ぐ研究所名としてふさわしくない-がクレームの理由
1975/1/--
大田洋子氏の小説「屍の街」の生原稿が広島県安芸郡府中町に住む実妹、中川一枝さんの手元に返る。東京の旧大田家に住む中川さんのめいから届く。被爆後、惨状をわら半紙などに書きつけた原稿。1946年、「中央公論」に郵送

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