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ヒストリー

ヒロシマの記録1975 3月


1975/3/1
日本原水協の「3・1ビキニデー中央集会全体集会」が静岡市の駿府会館で開かれ、約1,500人が参加。原水禁運動の統一問題について「中央、地方で原則を堅持し、創意を発揮して前進の年にする」ことを確認。核実験抗議船フリーの9人も参加。2日まで
1975/3/1
原水禁国民会議の全国委員会(2日目)で、原水禁運動統一への努力を確認。当面、援護法制定のための共同行動を組織し、広島、長崎の世界大会で統一集会を目指す方針を打ち出す
1975/3/1
長崎市が米地下核実験に対し抗議電報。2日、長崎の証言の会と長崎県被爆教師の会が平和祈念像前で抗議の座り込み
1975/3/1
原水禁運動の分裂以来12年ぶりの統一集会「3・1被爆国民の広場」が静岡市の駿府会館で開会。静岡県の社会、共産両党と県評、県平和委員会の4者が結成した同県原水禁運動統一促進準備会の主催。「被爆30周年の8月に向け、この成果を前進させるため、すべての平和民主勢力に統一を呼びかける」とのアピールを採択
1975/3/1
ビキニ被災21周年。焼津市の弘徳院で第五福竜丸の故久保山愛吉さんの墓前祭。核実験抗議船フリーの乗組員14人も参列
1975/3/3
米核実験に抗議し原爆慰霊碑前で広島市の労組員1人が座り込み。広島被爆者団体連絡会議がビキニデー参加で連絡を怠り、1人だけの抗議に。同会議は4日座り込み、約100人が参加
1975/3/3
広島市の荒木武市長が米核実験に対し、新市長として初めてホッドソン駐日米大使に抗議電報。「核実験の強行は核開発競争を激化させ、核拡散を促進し、世界平和を危機に陥れる。広島市民を代表し厳重に抗議する」
1975/3/3
日本原水協がビキニデー中央集会で決議した被爆者援護法の制定などを衆参両院議長や各党、厚生省、防衛庁などに請願
1975/3/3
外務省が核拡散防止条約を今国会で批准承認すべき-とする論拠をまとめる。(1)日本の核武装は非現実的(2)条約に参加すれば国際関係を安定させ日本の安全を高める(3)条約に参加しないと核燃料提供、技術協力など平和利用面での不利益が増大
1975/3/4
米とイラン両国がワシントンで、原子力発電所を含む総額150億ドルの経済・技術協力協定に調印
1975/3/4
ジュネーブ軍縮委員会が6カ月半ぶり再開。東西ドイツ、イラン、ペルー、ザイールの5カ国が加入し30カ国に。非核武装地帯設置などが焦点に
1975/3/5
在韓被爆者医療調査団(長崎被災協、長崎の証言の会、ユネスコ協会長崎県支部で編成)の一行6人がソウルへ向かう。長崎からの救済は初めて(「長崎年表」)
1975/3/5
三木首相が参院予算委員会で、野党共同提案の原爆被爆者援護法について「現在、特別に作る考えはない」と制定意思のないことを表明
1975/3/6
広島県山県郡芸北町の芸北中学校3年生90人が卒業記念の版画「反戦、平和を訴える」を制作。縦3メートル、横4メートルで、戦火にもがく群像を描く
1975/3/6
ソウルであった韓国人被爆者・李南洙さんの葬儀に日本政府を代表し日本大使館の森田芳夫参事官が参列し弔辞。韓国の被爆者の葬儀に日本当局者が出席したのは初めて。李さんは広島で被爆、4日に「原爆被災補償を受けるまで遺体を日本大使館前に置け」と遺言して死亡
1975/3/7
米がネバダ実験場で地下核実験を実施。米の地下核実験はこの年2回目、1963年以来267回目 1975/3/8
荒木広島市長が米核実験に対し抗議電報。10日、被爆者や労組員ら約110人が原爆慰霊碑前で抗議の座り込み
1975/3/10
共産党が社会党と総評、中立労連、日本平和委員会、日本科学者会議、日本被団協の5団体に、原水禁運動の組織統一を図るための懇談会開催を申し入れ。社会党には中断している統一問題協議の再開も提案。申し入れは総評の懇談会開催呼びかけ(2月10日)への逆提案
1975/3/11
スウェーデンのウプサラ大地震研究所が、セミパラチンスク実験場でのソ連地下核実験を探知
1975/3/11
参院予算委員会で共産党の立木洋氏が、沖縄駐留の米第345戦術空輸中隊が核兵器の輸送任務に当たっている-との疑惑を米軍内部資料によって指摘。三木首相らは「資料からは核兵器輸送は読み取れない。日本に核兵器が入ってくることはない」と答弁
1975/3/11
第五福竜丸保存平和協会(三宅泰雄会長)が全国に散在するビキニ被災の関係資料の収集を始める。東京・夢の島にできる福竜丸の永久保存施設に展示へ
1975/3/11
荒木広島市長が市会で、平和問題や原水禁運動などで見解。「平和宣言に非核三原則の厳守を政府に求める内容を盛り込む」「原水禁運動の統一に努力し、官民一体の平和運動を進める」。被爆者援護法は「先頭に立って努力する」
1975/3/11
ジュネーブ軍縮委員会で日本の西堀正弘政府代表が一般演説し、第2次米ソ戦略兵器制限交渉(SALT2)の速やかな完了と核実験全面禁止を求める
1975/3/13
米の民間調査機関「国防情報センター」が米の核兵器に関する報告を発表。「米は世界を吹き飛ばすに十分な約3万の核兵器を保有し、半分は欧州やアジア、あるいは船や潜水艦に積んでいる。過去4年間、1日3個の割合で戦略核兵器を生産」。国防総省は論評を避ける
1975/3/14
ビキニ米水爆実験で死の灰を浴びたマーシャル諸島ロンゲラップ島の村長、ネルソン・アンジャインさんが広島入り。15日、広島原爆病院の重藤文夫院長と荒木市長をたずね、専門医師派遣の協力要請。18日、同市内の福島生協病院で健康診断。20日まで広島に滞在。ロンゲラップ島では86人が死の灰を浴び、既に20人が死亡。残った66人のうち33人が甲状腺手術を受ける。村長は水爆2年後に隣島から移住、直接被災者ではないが、放射線障害に苦しむ島民救済のため、島に寄ったニュージーランドの核実験抗議船フリーで2月22日に来日
1975/3/15
広島県、広島市、中国新聞社、NHK中国本部が主催の被爆30周年記念行事「ヒロシマ・原爆の記録展」開催実行委員会の設立総会が県庁で開く。7月から全国6都市で巡回展示へ。県、市がタイアップし中国地方以外で被爆展示を開くのは初
1975/3/16
長崎原爆遺族会(杉本亀吉会長)が原爆死亡者への弔慰金などを求める総決起大会を長崎市の国際文化会館で開会
1975/3/16
第2回日米記者交換計画の米記者団8人が広島を訪問。原爆慰霊碑に参拝、原爆資料館を見学
1975/3/17
社会党の軍事問題チームが「米軍岩国基地に核を扱う実戦部隊の移動司令部が置かれ、核兵器と密接なかかわりを持つ部隊、施設が存在する」と公表
1975/3/18
社会党の軍事問題チームが「核を扱う移動司令部」と指摘した米軍岩国基地内のトレーラーについて、同基地報道部は「防御装備倉庫として使用している」と核司令部説を否定。19日には米海兵隊岩国基地がトレーラーを地元記者団に公開、写真撮影も許可
1975/3/18
米国防総省が「ソ連は17日夜、新型の大陸間弾道ミサイル(ICBM)SS18の試射を行い、太平洋上に着弾した」と発表
1975/3/18
1968年に太平洋で爆発沈没したソ連の核ミサイル積載潜水艦を米中央情報局(CIA)の探査船が発見し、1974年、一部を引き揚げた-と米情報機関筋が明かす。ワシントン・ポスト紙(21日付)は「その際に核魚雷2個を回収」と伝える。ロサンゼルス・タイムズ紙は22日、ポスト紙の回収報道を否定
1975/3/18
参院社会労働委員会で田中正巳厚相が被爆者援護法に否定的な見解。「被爆者に国家補償すれば一般戦災者全体に波及し、被爆者と他の戦災者の援護区分が難しくなる。原爆二法の枠内で施策を積み上げたい」
1975/3/19
広島県原水禁が「今年の原水禁世界大会を統一集会として開催に努力する」ことを決める。世界大会にマーシャル諸島の被曝者を招待し、広島で治療も決定
1975/3/19
韓国国会が核拡散防止条約の批准を承認。同国政府は4月23日、批准書を米政府に寄託、批准。同条約の批准国はこれで86カ国に
1975/3/20
東京電力が柏崎・刈羽原子力発電所(新潟県柏崎市など)1号機の原子炉設置許可申請書を科学技術庁に提出。地元には「地盤が軟弱で立地に適さない」と反対があり、新潟県も「検討が必要」との異例の要望書を提出
1975/3/20
原対協が役員会で1975年度事業計画を決める。(1)夜間被爆者検診を実施(2)「地方の被爆者健康診断のあり方検討会」を設け検査項目の充実を厚生省などに働きかけ(3)島根県の有福原爆被爆者温泉療養所の利用料金を300円値上げして1,800円に改定-など
1975/3/22
島根県美濃郡美都町の美都中学校が折りづる3,000羽を広島市の公園管理事務所に贈る。1974年12月6日、「原爆の子の像」の折りづる約300万羽が焼けたことを新聞で知り、生徒たちが折る 1975/3/22
西ドイツ・ハノーバー市から青少年親善使節団の一行20人が広島を訪問。24日、原爆慰霊碑に参拝、原爆資料館を見学。26日、荒木市長にハノーバー市と広島市の姉妹都市縁組の実現を要請
1975/3/22
長崎大医学部付属原爆被災学術資料センタ-が、同大医学部構内に完成(「長崎年表」)
1975/3/22
東京電力が「福島第1原子力発電所の緊急冷却装置の配管溶接部分に3カ所の傷を発見」と発表。米ドレスデン発電所のひび割れ事故で、国内の同型原子炉6基を総点検。日本原子力発電会社の敦賀原発にも異常
1975/3/23
長崎原爆病院を退院(20日)した韓国人被爆女性、卞蓮玉さんが30年ぶりに被爆地の広島を訪れ、同級生や恩師と再会。広島原爆病院に入院中の韓国人被爆女性、崔英順さんを見舞う
1975/3/24
少年4人に放射性同位元素を素手で扱わせて被曝させた、として放射線障害防止法違反に問われた日本非破壊検査会社水島出張所の元契約社員に対する判決公判が岡山地裁であり、懲役8月、執行猶予3年
1975/3/24
三木首相と成田知巳社会党委員長が党首会談。成田委員長が被爆者の援護強化を首相に申し入れ
1975/3/25
参院社会労働委員会で社会党の浜本万三氏(広島)が「被爆30周年を機に、同委員会が今国会中に広島、長崎両市の実情を調査するよう」提案
1975/3/26
長崎のABCC閉所式(「長崎年表」)
1975/3/27
広島原爆病院が被爆年齢と病気の関係をまとめて発表。1956年から74年までの入院患者のうち白血病、悪性リンパ腫、肺がん、肝臓がん、甲状腺がん、乳がん、腸がんの人の被爆年齢分布を分析。若い時期に被爆した人に白血病、甲状腺がん、乳がんの発生が多い-と指摘
1975/3/27
米コネティカット州のノースイースト電力会社のミルストーン原子力発電所で放射能汚染水があふれ、隣接の新原子炉建設工事現場から1,200人の作業員が避難。作業員に放射線被曝はなしと発表
1975/3/27
広島原爆病院が1974年の診療概況を発表。外来受診者は3万7,988人で前年より1,000人減、入院患者は330人でわずかに減り、利用状況は71年から横ばいか減少傾向。死者は13人減の74人。開院以来の死者は1,073人に
1975/3/28
南太平洋フィジーで開かれる太平洋非核化会議(4月1~6日)に出席するため、原水禁国民会議の森滝市郎代表委員が広島を出発。日本原水協の早坂四郎全国担当常任理事と佐藤行通国際部長も東京を出発。会議は世界30カ国の反戦、平和団体が参加し、太平洋非核化条約締結の国際行動や放射能汚染などテーマに論議
1975/3/28
広島大原医研に新型電算システムが完成し公開。被爆者データの蓄積、解明などに期待
1975/3/28
広島のABCCが閉所式。4月から日米共同運営の「放射線影響研究所」に改組へ。1947年3月、広島赤十字病院に事務所を開設し、本格的な血液学調査を始めて28年。アレン所長は「ABCCの研究プログラムはすべて放影研が継承する。原爆の影響について未知の恐怖を取り除くため、誇りをもって再出発しよう」とあいさつ
1975/3/29
広島県原水協(佐久間澄理事長)が原水禁運動統一のための懇談会を広島YMCAで開き、学者、文化人、労組代表15人が参加。佐久間理事長が「この会合を一歩として努力を始めたい」とあいさつ
1975/3/30
マーシャル諸島ロンゲラップ島の村長、ネルソン・アンジャインさんが帰国。日本原水協が、ビキニ水爆実験で死の灰を浴びた生存島民66人や周辺島民の健康、生活状態を調べるため問診カードを託す
1975/3/31
広島原爆病院の重藤文夫院長(72歳)が退任。27日に最後の院長回診。1956年の開院以来毎週続いた回診に患者が涙の握手。後任には弘中哲也副院長が就任
1975/3/--
原子力船「むつ」の新母港の選定を進めてきた政府が、最有力候補地を長崎県対馬に絞り、地元と折衝に入る方針を固める。久保勘一長崎県知事は22日、「責任は持てない」と語る
1975/3/--
神戸市議会が核兵器積載艦船の神戸入港拒否を決議。米原子力空母などへの核配備を指摘したラロック証言(1974年10月)の衝撃が続く中での決議

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