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ヒストリー

ヒロシマの記録1975 8月


1975/8/1
米オハイオ州ウィルミントン大で「広島、長崎30年後-ウィルミントン会議」が開幕。バーバラ・レイノルズ女史が主催。森下弘広島県高校被爆教職員の会会長ら日米の平和運動家約100人が被爆体験をもとに平和の在り方を追求。最終日の5日、三木首相とフォード米大統領あてに核兵器廃絶要請メッセージを送る
1975/8/1
広島大学の平和科学研究センターが発足。関寛治教授(東大、広島大併任)がセンター長。同大の平和科学研究所構想が文部省予算から外れたため、学内措置として発足
1975/8/1
原爆資料館が開設以来20年ぶりの大改装を終え、新装開館。外光遮断や館内照度を下げて被爆資料の保存対策に留意。1週間で5万人を超える
1975/8/1
広島原爆病院が内科診療体制をきめ細かくするため「第2内科」を新設
1975/8/1
「原爆画家福井芳郎追悼展」が広島市の天満屋で始まる。被爆者でもある画伯の原爆記録画の大作シリーズ11点や被爆後のスケッチ26点などを展示
1975/8/1
原爆詩人「峠三吉遺作展」が広島市基町の市中央図書館で始まる。自筆の日記やがり版刷り「原爆詩集」など約200点を展示。27日まで
1975/8/1
ヒロシマを撮り続ける写真家佐々木雄一郎氏の個展「ヒロシマは生きている」が広島市基町の広島センタービルで始まる。戦後復興の歩みがテーマ。15日まで
1975/8/1
日本原水協の被爆30周年国民平和大行進が平和記念公園に到着。原水協が5年ぶりに復活、第1陣の東京コースほか山陰、九州、四国の4コース
1975/8/1
核禁会議の広島全国集会が広島市の見真講堂で開会、約550人が参加。核兵器の完全禁止、核実験・核公害の追放、被爆者援護法の制定促進の一方、「核の平和利用推進」を新たに打ち出す
1975/8/1
原水禁運動の統一に向けた総評と社共両党の第2回トップ会談が不調に終わる。今夏の統一集会開催は不可能に
1975/8/1
日本原水協(共産党系)の第21回原水禁世界大会国際予備会議が東京・学士会館で開幕。英のノーベル平和賞受賞者ノエルベーカー卿や初参加の南ベトナム臨時革命政府のダン・クアン・ミンさんら海外代表は82人。被爆30周年で改めて原爆の投下責任や米核戦略体制の告発が相次ぐ。2日まで
1975/8/1
日本原水協の第21回原水禁世界大会東京大会が開会、約5,500人が参加。核兵器全面禁止国際協定の締結、非核三原則の立法化などを求める決議を採択
1975/8/1
創価学会青年部が広島県立体育館で「反戦平和中央集会」。約1万人が参加。同青年部反戦映画委員会が作った映画「戦争のない明日へ」を初公開
1975/8/1
核実験抗議船フリーが広島港に入港。原水禁世界大会への参加や反戦集会「ヒロシマ+1」を開く目的。7日、乗組員の若者5人が荒木広島市長にオークランド市長の平和メッセージを渡す
1975/8/1
国際文化会館が原爆資料センタ-に衣替えしてオ-プン(「長崎年表」)
1975/8/1
東広島市出身の洋画家(一水会委員)元川嘉津美氏(神戸市在住)が原爆ドームを描いた油絵(50号)を広島市の平和記念館に寄贈
1975/8/2
被爆詩人、故福田須磨子さんの詩碑が平和公園内に完成、除幕式(「長崎年表」)
1975/8/2
広島県原水禁が、「原水禁統一問題懇談会」の協議中断について声明を発表。座長提案をめぐる共産党の態度と中央の政党主導型の統一論議を批判
1975/8/2
広島で被爆した在日朝鮮人(朝鮮総連系)が「広島県朝鮮人被爆者連絡協議会」(李実根代表)を結成。広島市社会福祉センターでの結成大会で「朝鮮人を含めた援護法の制定」を要請するアピールを採択
1975/8/3
広島市の広島流川教会で、かつての原爆乙女や原爆孤児ら25人が集まり、谷本清牧師を囲んで思い出を語り合う
1975/8/3
英詩人エドモンド・ブランデン氏の詩碑が広島市基町の市立中央図書館前庭に完成。詩碑建設委員会(森戸辰男会長)が市に寄贈。ヒロシマを読んだ詩を刻む
1975/8/3
米オハイオ州ウィルミントン大に原爆資料を集めた「広島・長崎記念文庫」が開設。バーバラ・レイノルズ女史が同大の援助で資料収集。原爆文学集、体験記、ドキュメンタリー、医療記録などの文献類200冊、写真、報道関係資料5,000点
1975/8/3
東京都原爆被害者団体協議会(東友会)の原爆犠牲者慰霊祭が東京・品川の東海寺で営まれる。都内で1974年度中に被爆者38人が死亡
1975/8/3
原水禁国民会議の被爆30周年原水禁世界大会国際会議が広島市の労働会館で開会。核実験抗議船フリーの乗組員、マーシャル諸島のネルソン・アンジャイン元ロンゲラップ島村長ら約100人が参加。4日、原子力発電所の建設による環境破壊防止などを盛り込んだコミュニケと朝鮮半島での核使用阻止決議を採択、閉会
1975/8/4
被爆30年広島国際フォーラムが広島国際ホテルで開会。世界16カ国、約200人の科学者、宗教家が「核廃絶と人類平和共存の道」を探る。ノーベル平和賞受賞のマックブライド、ノエルベーカー両氏らも出席。4日、国連に核兵器使用禁止の国際協定実現を訴える特別決議を採択、閉会
1975/8/4
ワルトハイム国連事務総長が中国新聞社を通じ、被爆30周年を迎える広島、長崎両市民にメッセージ。軍備拡大競争や核拡散の現状に対し「世界の人々は人類初の被爆体験を持つ広島、長崎市民と連帯せよ」
1975/8/5
「原爆映画をみる会」が広島市基町の朝日会館で開かれ、6本をオールナイト上映。「原爆の子」(新藤兼人監督)、「生きものの記録」(黒沢明監督)や米「渚にて」など国内外の原爆映画の代表作で盛況
1975/8/5
全逓労組が「全逓原爆被爆者全国協議会」(石井平治委員長)を結成。被爆者の労働条件改善や被爆死した組合員らの遺族年金支給、被爆職員・二世職員の実態調査など10項目を郵政省に要求することを決める。全国規模の被爆者組織は国労、全電通、日教組に次いで4番目
1975/8/5
ワルトハイム国連事務総長が、広島市で開幕した日本原水協の原水禁世界大会にメッセージを送る。「被爆30年は、核兵器を廃棄する決意を強め、努力を倍加する重要な機会」と強調。国連事務総長が原水禁大会にメッセージを寄せるのは初めて
1975/8/5
日本原水協の第21回原水禁世界大会(約8,000人)と原水禁国民会議の被爆30周年原水禁世界大会(約1万人)の両開会総会が、ともに広島市の県立体育館で時間をずらして開幕。実現できなかった統一集会問題で双方が批判し合い、溝を深める。7日、原水禁が午前中に「核への怒り」国民集会、原水協が午後に閉会総会をいずれも同体育館で開き、広島での日程を終了
1975/8/5
広島市と長崎市が姉妹都市縁組。広島市役所で荒木広島市長と諸谷義武長崎市長が協定書に調印。記念事業として国内外の原爆展主催、原爆資料館へ両市コーナー設置など8項目も決める
1975/8/5
「ヒロシマ・原爆の記録展」が東京・日本橋の三越本店で始まる。10日まで6日間に5万7,485人が入場
1975/8/5
「国鉄職員原爆犠牲者遺族会」が国労被爆者対策協議会(石川俊彦事務局長)の呼びかけで結成。広島市内で開かれた国鉄原爆死没者慰霊祭で決まる
1975/8/6
被爆30周年。原爆慰霊碑前で広島市主催の原爆死没者慰霊式・平和祈念式。約4万人が参列。新たに2,172人を加えた原爆死没者名簿を奉納、名簿総数は8万6,975人に。遺族代表の会社員落窪光、公務員松下宜子さんが「平和の鐘」。荒木市長が平和宣言。田中正巳厚相が首相にかわってあいさつ。姉妹都市縁組を結んだ長崎市の諸谷義武市長や市民代表ら10人が参列。式典途中、糾弾状を持った被爆者青年同盟の活動家が荒木市長に突進したが威力業務妨害の疑いで逮捕。静かな祈りの場を確保するため午前7時から3時間、平和記念公園前の平和大通り900メートルが初めて通行止め
1975/8/6
荒木市長の平和宣言。「昭和20年8月6日、広島市民の頭上で、突然、原子爆弾が炸裂した。爆弾は灼熱の閃光を放射し、爆発音が地鳴りのごとく轟きわたった。その一瞬、広島市は、すでに地面に叩きつぶされていた。死者、負傷者が続出し、黒煙もうもうたるなかで、この世ならぬ凄惨な生き地獄が出現したのであった。倒壊した建物の下から、或は襲い来る火焔の中から、助けを求めつつ、生きながらに死んでいった人々、路傍に打ち重なって、そのまま息絶えた人々、川にはまた、浮き沈みしつつ流される人々、文字通り狂乱の巷から一歩でも安全を求めて逃げまどう血だるまの襤褸の列、「水、水」と息絶え絶えに水を求める声…。今もなお脳裡にあって、30年を経た今日、惻々として胸を突き、痛恨の情を禁じ得ない。更に被爆以来、今日まで一日として放射能障害の苦痛と不安から脱し切れず、生活に喘ぐ人々が多数あり、その非道性を広島は身をもって証言する。この被爆体験を原点として、われわれ広島市民は、人類の平和を希求し、一貫してヒロシマを再び繰り返すなと叫び続けて来た。しかるに、現状は、核兵器の恐怖が、地球上のすべての国、すべての国民の上にも黒々とおおいかぶさっているのである。今や世界が、無秩序な核戦略時代という人類の滅亡を招く重大危機に突入しつつあることは、広島市民として、絶対に黙視できないところである。この恐るべき事態に直面して、広島市は同じ被爆都市長崎市と相たずさえ、真の世界平和を樹立する決意を新たにし、我々の平和理念が、全人類の共鳴を得るよう切望する」
1975/8/6
平和記念式典に出席した田中正巳厚相が、外国人被爆者の治療問題について「治療目的の入国ビザでなくても、正規の手続きで入国し、一定期間滞在する人なら原爆医療法を適用してもよい」と緩和の方針を示す
1975/8/6
韓国原爆被害者援護協会が、日本政府に在韓被爆者の治療と補償を求める声明を発表
1975/8/6
核実験抗議船フリーが呼びかけた反戦集会「ヒロシマ+1」が広島市三滝町の太田川放水路河川敷で開かれ、約200人が参加。7日朝まで徹夜でティーチインなどが続く。フリーは15日、広島市営桟橋から長崎経由でソ連へ出発
1975/8/6
在米被爆者団体の北カリフォルニア被爆者協会の倉本寛司会長と南カリフォルニア被爆者協会の据石和代表世話人が、ホワイトハウスでフォード大統領あての直訴文を提出。連邦政府による医療援護の推進などを求める
1975/8/6
荒木広島市長が「核禁止実現のため、広島市民の署名や被爆資料を国連に持って行く用意がある」と今後の平和問題への決意を表明
1975/8/6
大阪・西成あいりん地区の「釜ケ崎被爆者の会」の中村順会長ら13人が平和祈念式に参列。平和記念公園で釜ケ崎被爆者の援護を訴えるビラを配る
1975/8/6
原爆ドームに被爆者青年同盟の男性が上り、「平和を問い直せ」と訴える。軽犯罪法違反などの疑いで逮捕
1975/8/6
旧制広島市立中学校(現基町高校)の原爆犠牲者慰霊碑が広島市小網町の天満川河岸緑地に完成し、除幕式と慰霊祭。遺族ら約300人が参列
1975/8/6
東京の浄土真宗本願寺派築地別院で「原爆被爆30周年追悼法要」、約150人が参列。被爆者の落語家江戸家猫八、雑誌「酒」編集長佐々木久子さんらが発起人
1975/8/6
庄原市山内町で、元広島第1陸軍病院庄原分院山内病棟で死亡した軍関係被爆者の慰霊祭と死没者追悼座談会。6遺族が参列し、地区の人から死亡時の様子などを聞く。同病棟は山内国民学校に開設され、収容被爆軍人のうち88人が死亡
1975/8/6
「広島・長崎30年の証言上」(広島・長崎証言の会編)が未来社から発刊(「奥付」)
1975/8/6
「原爆30年を考える長崎市民の集い」(第3回原爆と科学・教育・文化を考える集い実行委員会主催)が開かれ、原水禁運動の統一アピ-ルを採択(「長崎年表」)
1975/8/6
東京・赤坂のギャラリー「アメリア」が被爆二世の実態を紹介する写真展「30年目のゲンバク-放射能遺伝障害の恐怖」を開く。下松市出身のフリーカメラマン福島菊次郎さんの原爆写真50点を展示
1975/8/6
日本とポーランド初の合作映画「灯は生きていた」(阿部野人監督)の撮影が広島市の平和記念公園で始まる。被爆二世の死を通して原爆、戦争を問い直す
1975/8/6
映画「はだしのゲン」の撮影が広島市で始まる。現代ぷろだくしょんの山田典吾監督らが被爆30周年の平和祈念式からフィルムに収める
1975/8/6
「丸木位里・俊原爆の図展」が広島市の福屋で始まる。「原爆の図」14部作などを展示。14日まで。約4万5,000人が入場
1975/8/6
三次市高杉町の神杉小学校で、集団疎開した広島市袋町小の疎開児童6人を招き、体験談聞く
1975/8/6
広島市白島北町の私立安田女子高校で、詩人栗原貞子さんの詩「生ましめん哉」のモデルになった主婦平野美貴子さん(同市旭町2丁目)が被爆体験を語る。同市東千田町の自宅で被爆。猛火を避けてビルの地下に逃げ、陣痛がきて2日後に三女を出産
1975/8/7
スウェーデンのウプサラ大地震研究所が「ソ連のセミパラチンスク地区で7日、地下爆発があった」と発表。核実験と推定
1975/8/8
原水禁国民会議の原水禁世界大会長崎大会が長崎市で始まる。9日、閉会総会。被爆者援護法の即時制定、朝鮮半島での核使用阻止、原水禁運動統一のほか、原子力船「むつ」佐世保母港化反対の決議を採択
1975/8/8
来日中の米国防情報センターのジーン・ラロック所長が東京で「核問題の現状と将来」と題し講演。「日本が仮に核武装しても、ソ連の脅威に対抗する十分な核は持ち得ない。日本が核武装することは無意味で無用」
1975/8/8
韓国の被爆女性、金八金さん(ソウル市)が渡日治療を待たずに死亡。韓国原爆被害者援護協会から「在外被爆者を支援する会」の鎌田定夫長崎造船大教授に9月2日手紙届く。長崎で治療のためカンパ活動中
1975/8/8
在日朝鮮人広島県商工会(李実根理事長)が、朝鮮での米の核使用反対を訴え広島-呉港間で海上デモ。漁船21隻に朝鮮人被爆者ら約100人が分乗。尾道-三原港間でも実施
1975/8/8
佐々木義武科学技術庁長官が記者会見で、原子力船「むつ」の船体修理、点検を佐世保港で行う方針を明らかにする。佐世保市長に受け入れを要請へ。植木光教総務長官は「政府の正式決定ではない」
1975/8/8
荒木広島市長が長崎市との姉妹都市縁組を記念し、長崎の平和公園内に植樹
1975/8/9
長崎の被爆30周年。長崎市の平和公園で原爆犠牲者慰霊平和祈念式典。約1万2,000人が参列。新たに1,054人の原爆殉難者名簿を奉納、名簿総数は4万8,857人に。これまで式典参加を拒んできた被爆者の山口仙二さんが核拡散や原水禁運動の分裂などにたまりかね初めて参列、被爆者代表として「平和の誓い」。諸谷義武市長の平和宣言。「人類史上、かつて見たことのない原子爆弾の惨禍を、身をもって体験した長崎市民は、『平和は長崎から』を市民の悲願として、核兵器の廃絶と、核実験の全面禁止を叫び、人類永遠の平和を、広く、全世界に訴えつづけてきた。あの日から30年。国際社会の現実は、あまりにもきびしく、平和を願うわれわれ被爆市民の悲願は、常に踏みにじられてきた。核大国による核実験は、繰り返し強行され、日増しに激化する核軍備競争は、核拡散に拍車をかけている。われわれ長崎市民は、今こそ、総決起し、核兵器による惨苦の経験者として、『人類が存続するためには、核兵器は勿論、戦争そのものを廃絶しなければならない』ことを強く全人類に訴え、世界平和実現のため、特別の使命を果たすべきであると考える。今年8月5日、被爆30周年を契機として、世界で唯二つの被爆都市、広島市と長崎市の間で、「平和文化都市提携」が実現したことは、極めて意義深い。お互いに、協力一致。被爆都市の使命を果たしていかねばならない」
1975/8/9
韓国ソウル市の仏教寺院で韓国人被爆者の追悼式が営まれ、約50人が参列。日本大使館からも出席
1975/8/9
米サンフランシスコの日本センター・ピース・プラザで原爆犠牲者慰霊祭が営まれ、在米被爆者ら約200人が参列。日米宗教連盟、米の被爆者団体の主催
1975/8/9
日本原水協の原水禁世界大会長崎大会が長崎市で開会。核兵器完全禁止運動の拡大、非核三原則の立法化運動の強化、佐世保港での原子力船「むつ」修理反対などを決議、閉会
1975/8/10
原爆犠牲者慰霊、世界平和祈念の市民大行進が、市民3,000人が参加して行われる(「長崎年表」)
1975/8/11
広島原爆病院運営委員会が同病院の改築問題で、計画縮小を決める。4階建てを3階、総面積も約700平方メートル削減。厚生省が財政難で計画案に難色を示したため。6日、田中正巳厚相が改築の財政難を強調
1975/8/12
安井郁法政大教授が原水禁運動の統一に向けたアピールを発表し、国民が納得できる解決を訴え。「政党や関係団体だけでなく、声なき声を代表する人々も加えた幅広い『原水禁運動再統一懇談会』を開くよう」提唱
1975/8/12
放影研が被爆者治療用に設けていたベッド10床を廃止。「ABCCは調査研究だけ」との市民批判にこたえて1953年1月開設、71年から閉鎖状態で、放影研への改組を機に広島県から廃止許可を受ける
1975/8/12
政治犯として服役中の広島刑務所で被爆した韓国人の姜寿元さん(ソウル市在住)が30年ぶりで広島市を訪問。長崎の被爆者団体の招きで来日
1975/8/12
「原爆をかいた物故文学者を語る広島の会」が広島市の平和記念館で開かれ、遺族、市民ら約80人が参加。原民喜、大田洋子、峠三吉、正田篠枝らにゆかりの人がそれぞれ故人を語り、しのぶ
1975/8/13
「被爆韓国人を囲む市民交流集会」が大阪市東区で開会。「韓国の原爆被害者を救援する市民の会」(河村虎太郎会長)の主催で、約30人が参加。韓国原爆被害者援護協会の名誉会長の辛泳洙さんが、日本政府の国家責任による援護や核兵器全廃を訴える
1975/8/13
原爆供養塔の納骨名簿公開で遺族が名乗り出た遺骨75柱のうち、26柱が引き取られる。既に遺族に渡った13柱と合わせ計39柱。26日にも32柱が遺族の手に。市広報紙などを通じ全国に公表し遺族判明
1975/8/15
「ヒロシマ・原爆の記録展」が大阪・心斎橋のそごう百貨店で始まる。20日までの期間中に4万3,136人が入場
1975/8/18
原子力船「むつ」総点検・改修技術検討委員会(委員長、安藤良夫東大教授)の初会合が運輸省で開会。日本原子力船開発事業団が2改修案を説明。放射線漏れ格納容器の遮へい構造強化を目指す
1975/8/20
科学技術庁島根原子力連絡調整官事務所が松江市内に開設。中国電力の島根原子力発電所と県、関係市町村の連絡、原発周辺の放射線監視などにあたる
1975/8/20
戦時中、広島市の三菱重工業に徴用されて被爆し、帰国中に壱岐沖で遭難した被爆韓国人徴用工の遺族と在韓被爆者代表の計3人が広島入り。日本広島三菱重工業韓国人被爆沈没遺族会の盧長寿会長ら。盧会長は29日、三菱重工業広島造船所を訪れ、遭難者の遺骨の祖国送還や遺族への補償を要請
1975/8/21
広島市の平和文化推進審議会で、ヒロシマ・アピールを国連本部に提出する方針を決める
1975/8/22
全電通被爆者連絡協議会が東映に対し、テレビドラマ「非情のライセンス」放映(21日夜)問題で「被爆者への誤解や差別をなくすための内容修正が一部分だけで不十分」と再び抗議
1975/8/23
「ヒロシマ・原爆の記録展」が名古屋市の丸栄デパートで始まる。28日まで6日間の期間中に6万2,106人が入場。札幌から始まった全国5都市での展示を終える。入場総数は22万6,837人
1975/8/23
米エネルギー研究開発局が「ソ連は23日、北極地方のノバヤゼムリャ実験場で数メガトンの地下核実験を行った」と発表
1975/8/24
初の「反原発全国集会」が京都市で開会。「生存を脅かす原子力」をテーマに、約500人が参加。元米海軍原子力潜水艦技術者ジョン・アボッツ氏が原子力発電の危険性を指摘。26日、「運転、建設、計画中のすべての原発と再処理工場を停止させる」と宣言し閉会
1975/8/25
元中国新聞記者、大佐古一郎さんが被爆体験記「広島昭和20年」を出版。中央公論社
1975/8/25
中国電力島根原子力発電所で「子供をつくらない」ことを条件に地元住民が臨時工で雇用-と島根原発公害対策会議の野津明男事務局長が「反原発全国集会」(京都市)で明かす。被曝の危険性と放射能の子供への影響を恐れる結果-と同会議は実情調査を開始。27日、中電が野津事務局長に「事実無根」と抗議
1975/8/25
観光ビザで広島訪問中の「日本広島三菱重工業韓国人被爆沈没遺族会」の盧長寿会長(韓国金泉市)が、広島市に被爆者健康手帳の交付を申請。田中正巳厚相が治療ビザに限っていた従来の交付条件を緩和する発言(6日)をして以後、在韓被爆者による初の手帳申請。市は正式受理を保留し、同省に問い合わせ
1975/8/25
荒木広島市長がソ連地下核実験に抗議電報。26日、被爆者や労組員約80人が原爆慰霊碑前で座り込み。この年10回目、1974年5月のインド核実験以来27回目
1975/8/26
ジュネーブ軍縮委員会で西堀正弘日本代表が平和目的の核爆発(PNE)について日本の見解を述べる。「PNEと核兵器の区別が不可能である以上、非核保有国はPNE開発を自制すべき」
1975/8/28
「完全核軍縮への新しい構想」をテーマに第25回パグウォッシュ・シンポジウムが京都市で開幕。被爆国日本での開催は初めて。世界17カ国の著名な科学者ら36人が参加。最終日の9月1日、核抑止論の非妥当性や核不使用宣言への期待などを盛り込んだ「京都報告書」を採択。シンポ後、湯川秀樹、朝永振一郎の両博士が声明を発表。「各国政府が核兵器を無条件に放棄することを要求する」と世界へアピール
1975/8/--
原爆で家族や縁者が全滅し、死亡届が出せないため戸籍上で生き続ける「原爆幽霊戸籍」について、広島市が職権で103歳以上の477人を抹消することに。戸籍の職権抹消は1969年に126歳以上の6人を含む944人を抹消
1975/8/--
広島平和教育研究所と広島県教組、同県原爆被爆教師の会が県内小中学生の平和教育に対する意識調査をまとめる。児童、生徒2,340人が対象。学校で原爆を習った者は94.2%、原爆資料館の見学が80.6%。原爆を教えたのは「家族」65.1%、「先生」53.4%
1975/8/--
広島県佐伯郡の旧観音村(現五日市町)の小学校などに収容された原爆被災者の名簿が見つかる。収容者389人を記入した「戦災患者名簿」
1975/8/--
被爆主婦らで作る「平和の遺産を残す会」(西土万合枝会長)が被爆30周年を記念して「ヒロシマ・カレンダー」を作り、世界145カ国の首脳や国連への発送を始める。原爆のキノコ雲や平和記念施設の写真を使用。作家加瀬佳代子さん(藤沢市)が印刷費を負担
1975/8/--
核兵器取扱資格を持つ米軍兵士の10%がアルコール中毒、マリフアナ喫煙などの不適格者-との実態をアスピン米下院議員(民主党)が暴露。1974年4月から75年3月の間に資格はく奪兵士数は約2,400人で、前年より35%増加
1975/8/--
厚生省が、爆心地から2キロ以内の被爆者に支給される保健手当について町名指定による支給方針を固める。同省は距離指定を主張したが、距離指定では2キロ境界付近の被爆者の取り扱いが不公平になることから、広島県、市の主張する町名指定に
1975/8/--
原爆投下の約2時間後に広島上空を軍用機で飛んだ元陸軍少尉、安沢松夫さん(徳山市上村南野)が、体験を小冊子にまとめる準備を進める
1975/8/--
核禁広島県民会議が広島、長崎で被爆した台湾人被爆者の実態調査を決める。同盟と交流のある台湾省総工会を通じ、産業別組織に調査用紙を配って被爆者を把握。被爆状況、被爆後の生活などを11月までに調査

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