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ヒストリー

ヒロシマの記録1975 11月


1975/11/1
厚生省が実施している全国被爆者実態調査の2次調査が始まる。9月実施の基本調査を受け、被爆者の二十分の一を抽出し、生活状況を中心に21項目。広島市では被爆者と比較するため非被爆者2,479人も調査
1975/11/3
朝鮮中央通信が「北朝鮮の科学者たちは原子力を生産に応用し、放射性同位元素と放射能を工業と農業に利用した」と伝える
1975/11/3
米紙ボストン・グローブが「1945年8月6日、広島に原爆が投下された際、同市内の捕虜収容所にいた2人の米国人が死亡」と報じる。2人は米海軍飛行士として参戦中、撃墜され捕虜に。捕虜収容や被爆の事実は「広島原爆戦災誌」や米軍記録に既に記載済み
1975/11/4
「群集の渦」の自転車行進隊3人が首相官邸で三木首相に面会を求めたが会えず。原爆投下日の休日化を求め、1969年以来15回目の直訴も実現せず
1975/11/4
広島、長崎両市長が中国核実験に対して送った抗議電報が、在日中国大使館から返送。「中国の核実験は超大国の核独占を打破し、核をなくすのが目的。抗議を受ける筋合いはない」と同大使館。抗議電報の返送は広島は初、長崎は1973年に続いて2回目
1975/11/5
米とエジプトが原子力平和利用の協力に関する共同声明に仮調印。交渉中の協力協定で原則合意した部分を盛る。米が原子力発電炉2基と燃料用濃縮ウランをエジプトに売却。米が供与する援助の軍事利用は厳しく禁止
1975/11/5
米マサチューセッツ工科大の研究チームが核融合実験で、摂氏1,000万度プラズマ閉じ込めに成功した-と米エネルギー研究開発局が発表
1975/11/5
長崎市が製作していた被爆30周年記録映画「誓いを新たに」が完成し試写会。16ミリカラー、20分。平和祈念式典など世界平和祈念旬間行事を記録
1975/11/6
長崎市が平和公園内に爆心地周辺復元図板を設置(「長崎年表」)
1975/11/6
三木首相が参院予算委員会で、継続審議になっている核拡散防止条約批准について「次の通常国会では必ず承認を受けたい」と答弁。今国会承認を事実上断念
1975/11/7
広島大平和科学研究センターが運営委員会で、新たに7人の研究員の任命・委嘱を承認。同大政経学部の北西允教授ら学内併任研究員6人と学外の客員研究員の阿部耕一朗日本科学技術情報センター中国支所長
1975/11/7
広島県労被爆者団体連絡協議会が、来広する三木首相にあてた被爆者援護法即時制定の要請書を自民党県連に渡す。国家補償に基づく援護法を要求
1975/11/8
創価学会の池田大作会長が原爆慰霊碑に参拝。広島市での同会本部総会出席に合わせ
1975/11/9
三木首相が広島市内のホテルで記者会見。被爆者援護法問題で「現行の原爆二法を充実、強化」と被爆者援護法制定に消極姿勢。原爆慰霊碑に参拝
1975/11/10
広島県被団協(森滝市郎理事長)が在米被爆者の被爆証人捜し運動を決める。来日中の在米被爆者、マリコ・リンゼーさん(カリフォルニア州リッチモンド市、広島市出身)からの要請を受ける
1975/11/11
長崎市が沖縄県那覇市の市立那覇文化センタ-で「ながさき原爆の記録展」を開催(「長崎年表」)
1975/11/12
被爆者援護法の参院本会議上程で日本被団協が声明を発表。「広島、長崎を再び繰り返さぬ決意をもって政府、与党が援護法制定に踏み切ることを望む」
1975/11/12
広島県原水禁(森滝市郎代表委員)が、天皇の原爆投下に関する発言について「発言は容認できない」との声明文を発表。宮内庁に送り真意をただすことに
1975/11/12
野党4党と二院クラブが共同提出した被爆者援護法案が参院本会議に上程。社会党の浜本万三氏(広島)が提案理由を説明。かつて援護法に賛意を示した三木首相は「現行原爆二法を強化したい」と否定的見解。援護法案の国会提出は1959年以来11回目、両院を通じ本会議上程は初
1975/11/14
長崎市の戦災復興土地区画整理事業が完了し、久保勘一長崎県知事、諸谷義武長崎市長らが平和公園内で記念碑を除幕(「長崎年表」)
1975/11/15
日本被団協が東京で「援護法制定と核兵器完全禁止をめざす研究集会」。全国の被爆者代表70人が参加。原爆投下責任などを討論
1975/11/17
日本被団協が東京・永田町の参議院会館で、今国会に被爆者援護法案を共同提出している野党各党と懇談会を開き、法案の審議促進を要請。厚生省にも1976年度の被爆者対策予算の拡充を陳情
1975/11/19
中国5県議会正副議長会議が米子市で開かれ、原爆小頭症患者への援護制度確立など10議案を承認。政府、関係機関に要望書を送付へ
1975/11/20
米がネバダ州で複数目標弾頭(MIRV)開発のための地下核実験を実施
1975/11/20
天皇の原爆投下に関する発言で、宮内庁の富田朝彦次長が参院内閣委員会で「陛下の真意は、被爆者に対して常に気の毒に思っておられる。了解してほしい」と述べる
1975/11/20
防衛庁の丸山昂防衛局長が衆院内閣委員会で日本への核持ち込み問題について答弁。「非核三原則に基づいて核通過や一時的持ち込みを拒否したとしても、米にはより上位の核抑止力があり、日本に核兵器を持ち込む必要はそれほどないと考える」
1975/11/22
荒木広島市長が米地下核実験に抗議電報。複数目標弾頭(MIRV)開発だけに抗議内容も厳しく、「核兵器全面廃止にすべての力を傾注するよう広島市民を代表し強く求める」。23日、原爆慰霊碑前で被爆者らが抗議の座り込み。この年17回目
1975/11/22
地中海で米空母ジョン・F・ケネディとミサイル巡洋艦ベルナップが海上訓練中に衝突、炎上。4人死亡、4人不明。核兵器積載の有無についてナポリの米海軍は論評を避ける
1975/11/23
岩国市の反戦喫茶「ほびっと」が1976年1月の閉店を前に、市中央公民館で「サヨナラ集会」
1975/11/24
韓国人被爆者の崔英順さんが被爆体験記「ヒロシマを持って帰りたい」を刊行
1975/11/25
政府の「むつ総点検・改修技術検討委員会」が第1次報告を科学技術庁、運輸省に提出。「『むつ』改修・総点検計画は妥当。工事を慎重に進めれば安全」
1975/11/26
仏国防省が「26日、南太平洋ファンガタウファ環礁で地下核実験を実施」と発表
1975/11/26
米がネバダ州で20キロトン以下の小型地下核実験を実施。この年15回目
1975/11/26
核兵器全面禁止国際協定の締結を国連に要請する「国民代表団」一行35人が米に出発。広島県原水協の佐久間澄理事長ら被爆者、学者、宗教家で編成。12月8日、国連での協定締結促進をワルトハイム事務総長に要請。被爆者らが国連を訪れるのは1974年11月の日本原水協代表に次いで2回目
1975/11/26
世界科学者連盟会長で物理学者のロンドン大のE・H・バーロップ教授が、広島大で「平和と核軍縮」と題して講演。「核軍縮を進めるには大衆、世論の力が重要で、科学者は大衆に情報を与える義務がある」
1975/11/27
荒木広島市長が仏地下核実験に抗議電報。28日には米地下核実験にも抗議電報。同日、原爆慰霊碑前で被爆者ら約80人が抗議の座り込み
1975/11/28
長崎県漁連、同信用漁連の漁船400隻が原子力船「むつ」佐世保受け入れ反対の海上デモ。陸上でも漁協婦人部連合会の集会とデモに約1,000人
1975/11/28
原爆供養塔の遺骨2柱が30年ぶりに遺族に引き取られる。この年、遺族に渡った遺骨は99柱
1975/11/--
広島市教委の調査で同市内の市立幼、小、中、高校に計715人の被爆教職員がいることが分かる。その半数が「疲れやすい」と答え、体育授業や過激な校務分担について代替要員の確保など配慮を求める

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