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ヒストリー

ヒロシマの記録1974 5月


1974/5/1
被爆直後に広島に医薬品を運んだ国際赤十字代表の故マルセル・ジュノー博士の手記が広島市に届く。「広島の惨状」というタイトルがついたタイプ印刷の57ページ。遺児のブノワ・ジュノー氏が広島市内の救護所地図を同封して送る
1974/5/1
山口県阿武郡田万川町江崎漁協の代表が山口県に原発建設反対の要望書を提出
1974/5/3
米国務省スポークスマンが「地下核実験制限に関する新しい交渉が、既に米ソ両国の間で行われている」と発表。ソ連から帰国したエドワード・ケネディ上院議員が記者会見で「ソ連指導者と会見の結果、地下核実験禁止協定がことし中に成立するとの確信を得た」と述べる
1974/5/3
憲法と平和教育公開シンポジウムが広島市の平和記念館で開く。広島平和教育研究所や広島県教組が主催、150人が参加
1974/5/4
米ロサンゼルスの州議事堂で在米被爆者の実情調査公聴会。7人が当時の状況や治療の現状を証言。トーマス・ノグチ・ロサンゼルス郡検視官らが研究委員会を結成し、広島の専門医による巡回診療などを決議
1974/5/8
広島三菱重工韓国人被爆者沈没遺族会(韓国ソウル市)が同会顧問の深川宗俊氏の手を通し広島市観音新町の三菱重工広島造船所に決議文を手渡し慰霊と補償、遺族への援護対策を訴える
1974/5/8
丸木位里、俊夫妻が、南京虐殺事件を主題とした「原爆の図15部」の構想を広島市で表明
1974/5/9
旧逓信省の原爆犠牲者のうち遺族年金の支給を受けていない雇用員の遺族が広島市で「旧逓信関係原爆遺族会」(小松キクエ会長)を結成。全逓広島地区本部と全電通広島地方本部も遺族会をバックアップするため「全逓、全電通原爆犠牲者対策委員会」を発足
1974/5/9
陸上自衛隊第13師団の広島パレード問題について、山中貞則防衛庁長官が衆院内閣委員会で「今年は石油不足もあるので中央観閲式も実施するかどうか検討したい」と答弁。社会党の大原亨氏(広島1区)が質問
1974/5/10
広島平和文化センターが米オハイオ州のウィルミントン大に1975年に設立される「広島・長崎記念文庫」に原爆記録映画「ヒロシマ原爆の記録」や写真集「ヒロシマ-米返還資料から」など資料を贈る
1974/5/11
広島市の姉妹都市、ソ連ボルゴグラード市の親善使節団(ポリャーコフ団長)が広島市を訪問
1974/5/12
岡山県警が日本非破壊検査水島出張所の元責任者を、5人の少年を放射線作業に使った労基法違反で逮捕。4人が脱毛、指先に水ぶくれ症状。科学技術庁が実情調査へ
1974/5/14
森山欽司科学技術庁長官が日本非破壊検査の放射線障害防止法違反事件に関連し「全国約3,300の放射性物資取り扱い事業所に総点検、報告を求める」と語る
1974/5/14
1971年に大阪でアルバイトの少年が放射性物質を手でつかみ被曝していたことが判明。少年は左手を手術。大阪労働基準局は作業をさせていた日本工業検査(本社川崎)と雇い主の国際非破壊検査(本社大阪)の刑事責任追及を検討
1974/5/15
日本非破壊検査水島出張所の放射線被曝事件で、岡山県は同出張所と同じ建物にある5事業所の従業員の健康診断。異常なし
1974/5/15
大阪労働基準局が管内で放射性物質を扱う372事業所を検査した結果、469人が何らかの放射線障害を受けていることが判明
1974/5/16
日本非破壊検査長崎出張所の従業員が素手で放射性物質を扱い被曝していたことが長崎労働基準局の調べで判明
1974/5/16
米政府原子力委員会が「ソ連は15日、セミパラチンスク実験場で20ないし200キロトン級の地下核実験を行った」と発表
1974/5/18
インドが初の地下核実験。6番目の核保有国に。パキスタン国境に近いラジャスタン州の砂漠の地下100メートルで規模は10~15キロトン程度。インド原子力委員会「核爆発は平和利用、特に鉱山開発や土木工事などに利用する目的でテストしたもので、核兵器を製造する意思はない」。ガンジー首相「実験はインドの科学発展にとって重要なものだが、驚くべきことではない。実験は純粋に平和目的のためで、外国の批判を憂慮していない」
1974/5/18
インド核実験に対し諸谷義武長崎市長と宮崎藤美市議会議長がインド大使館に抗議電報(「長崎年表」)
1974/5/18
山田広島市長がインド核実験に抗議してガンジー首相に電報。広島県高校被爆教職員の会も在日インド大使館に抗議電報
1974/5/18
インド核実験について、二階堂進官房長官が政府談話。「平和目的であれ核兵器の拡散を防止したいとする世界の世論に逆行」。山田広島市長「インドは故ネール首相以来、中立を厳守してきた。『核クラブ』に仲間入りしたことは非常に残念」。広島県被団協の森滝市郎理事長「インドは非暴力主義を主張し、国際平和をリードする国と期待していた。平和利用にしても核実験自体が人類の悲劇」 1974/5/18
国際新聞編集者協会の一行が平和記念公園を訪れ、原爆慰霊碑に参拝
1974/5/19
パキスタンのブット首相が記者会見。「インドの核実験のためインドと不戦不可侵条約を交渉する可能性はなくなった」
1974/5/20
インド原子力委員会のセトナ委員長が「核実験技術の正確な評価のため、データが必要と認められれば、2回目の核実験を行うかもしれない」と言明
1974/5/20
原水禁国民会議、核禁会議、日本被団協、長崎県、長崎市の代表が在日インド大使館に核実験抗議の申し入れ。日本原水協は21日に抗議文
1974/5/20
広島県被団協(森滝市郎理事長)、広島被爆者団体連絡会議の被爆者ら200人が、インドの核実験に抗議して広島市平和記念公園の原爆慰霊碑前に座り込む。インド政府への抗議声明を読み上げ、今後すべての核実験に座り込み抗議を申し合わせる
1974/5/20
広島県被団協(森滝市郎理事長)が広島市で原爆被害者大会開く。国家補償の精神に基づく被爆者援護法の制定を要求する決議を採択
1974/5/20
ワルトハイム国連事務総長がインド核実験に遺憾を表明
1974/5/21
社会、共産、公明、民社の4野党が共同提案した原爆被爆者援護法案が衆院社会労働委員会で自民党の反対で廃案に。政府提出の現行二法改正案を可決。日本被団協や原水禁国民会議、日本原水協が「被爆者の声を軽視している」と一斉に抗議声明
1974/5/21
訪米中の大平正芳外相が日本協会で演説。「エネルギー危機の衝撃波の中で、日本の再軍備や核武装の憶測が一部にあるようだが、全く根拠がない」
1974/5/21
パキスタンのムニル・カーン原子力委員長が「インドの核実験に追随せざるを得ないかもしれない」と独自の核開発を示唆
1974/5/21
ジュネーブ軍縮委員会で西堀正弘大使が「平和目的の実験でも核兵器実験と区別することは困難」とインドを批判
1974/5/21
ジュネーブ軍縮委員会で日本、カナダ、スウェーデン、米の4カ国がインドの核実験を非難
1974/5/22
国連児童基金(ユニセフ)の会議でフィリピン、パキスタンの代表が「巨額の援助をユニセフから受けているインドが核実験に多額の予算を投入しているのは疑義がある」と非難
1974/5/23
ユーゴスラビアの国営タンユグ通信がインドの核実験を「原子力エネルギーの平和利用に対し有意義な貢献をしたとみなされるべき」と称賛
1974/5/23
大村襄治官房副長官が米原子力潜水艦の日本寄港について6月再開を示唆。辻一三佐世保市長は「国の観測体制がでたらめだった以上、国民や佐世保市民を納得させる観測体制が整備されないと賛成できない。寄港要請があれば断る以外にない」
1974/5/23
衆院がインドの核実験に抗議する決議案を全会一致で採択
1974/5/24
長崎市が「広島原爆戦災誌」の「長崎の原爆投下は午前10時58分」の記述で広島市に訂正申し入れ。「投下時刻は被爆者の証言などから午前11時2分が定説」。「広島原爆戦災誌」は日本学術振興会の原子爆弾災害調査報告書の記録から10時58分説を採用
1974/5/25
陸上自衛隊第13師団の広島パレード問題で、宮沢弘知事が「機動隊に囲まれたパレードが果たして自衛隊の姿を国民に知らせる効果があるのかどうか疑問。隊内で記念行事をした方がよいという認識でいる」と語る
1974/5/25
世界平和アピール7人委員会の大河内一男元東大学長、朝永振一郎元東京教育大学長、内山尚三法政大大学院議長の3氏が首相官邸を訪れ、インド核実験に関連して「核実験の禁止と核軍縮に向かって積極的に取り組んで欲しい」と田中首相あての要望書を手渡す
1974/5/25
広島県原水協(佐久間澄理事長)と広島県被団協(田辺勝理事長)が広島市内でインドの核実験に抗議する街頭署名
1974/5/25
インドネシアのマリク外相が「1960年に中国から核保有のための援助申し入れがあり、スカルノ前大統領が受け入れたが、後に断った」と明かす
1974/5/26
ガンジー・インド首相がニューズ・ウィーク誌のインタビューに「インドは原爆を持っておらず、隣国は懸念する必要はない」と言明
1974/5/27
陸上自衛隊第13師団の栗栖弘臣師団長が記者会見。「知事からの公式要請があれば広島市中パレードの中止もありうる」
1974/5/27
原爆二法の改正案と諸手当を1カ月繰り上げて9月に支給する修正案を参院も可決
1974/5/27
広島県高教組(唐川喜久夫委員長)が教師用資料の「平和教育のてびき」(第1集)を刊行。8月6日を全校登校日とするよう組合員に要請
1974/5/27
インド核実験に抗議する決議、参院でも全会一致で採択
1974/5/28
米政府原子力委員会が原子力発電所の事故に関する報告書を発表。「1973年の事故発生件数は861件を数え、うち2件は放射性物質が大気中に流出」
1974/5/29
原水禁国民会議がプルトニウムの防護基準の強化を求める公開質問状を原子力委員会に提出へ
1974/5/30
原水禁国民会議の森滝市郎代表委員と近藤幸四郎常任理事の2人がインド、仏への核実験抗議のため羽田を出発。山田広島市長がローマ法王パウロ六世やジスカールデスタン仏大統領にあてたメッセージを託す
1974/5/30
「長崎原爆投下は10時58分」という「広島原爆戦災誌」の記述に対し長崎市が「11時2分が定説」と訂正を申し入れている問題で、山口県玖珂郡由宇町在住の旧陸軍気象部の軍人が「10時58分が正しい」と証言
1974/5/31
米政府原子力委員会が「31日、ソ連の地下核実験による地震波を観測した。規模は20~200キロトンで、シベリアの地下核実験場が震源地」と発表
1974/5/31
インド原子力委員会のセトナ委員長がテレビ会見で「地下核実験に使った費用はたったの40万ドル(約1億1,000万円)」と述べる。外国報道は実験費用を2億ドル(560億円)と伝えており、「経済被援助国が核開発」との批判を避ける狙い
1974/5/--
丸木位里、俊夫妻の「原爆の図・丸木美術館」(埼玉県東松山市、安井郁館長)の増築工事が終了。3,000万円のうち700万円が全国カンパ。原爆の図14部作を一堂に展示
1974/5/--
ニュージーランドの平和団体「ピースメディア」が、仏核実験に抗議する映画製作のため、原水禁国民会議に被爆資料の提供を要請
1974/5/--
原爆資料保存会(横田工会長)が被爆30周年の1975年にスペインで原爆資料展を計画し、平和団体へ協力を呼びかけ
1974/5/--
童話作家いぬい・とみこさんがソ連の元プラウダ東京特派員セポロト・オフチンニコフ氏が書いた「アイオイ橋の人影」の翻訳進める。8月6日に出版へ
1974/5/--
中部太平洋マーシャル諸島民の間で20年前のビキニ水爆実験による被曝が広がりを見せる。米政府原子力委員会やミクロネシア議会などが調査。新たに5人の重症患者見つかる。間接被曝が深刻に
1974/5/--
旧制広島一中の生き残り生徒が被爆当時の状況を記した手記や遺族へのアンケートをまとめた文集「ゆうかりの友」を出版
1974/5/--
8月6日刊行予定の角川文庫「世界原爆詩集」(大原三八雄氏編)に1952年当時の小学生の作品6編を収録することになり、出版元が消息捜す

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