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ヒストリー

ヒロシマの記録1974 6月


1974/6/1
広島市で全国平和教育シンポジウム始まる。3日まで。広島平和教育研究所主催。戦争や平和の問題を家庭でどう教えるかなど討議
1974/6/1
日本非破壊検査水島出張所の少年被曝事件で、岡山地検が現場責任者を放射線障害の防止に関する法律違反の疑いで起訴
1974/6/1
小倉馨広島市渉外課長ら3人が米国立公文書館の被爆資料調査のため渡米
1974/6/1
広島市平和記念館に原爆・平和問題に関する写真や文献を集めた常設展示場と図書室がオープン。展示資料536点、文献1,1000冊
1974/6/2
「日本平和教育研究協議会」が発足。全国平和教育シンポジウムを発展、常設化した連絡団体で代表委員に今中次麿氏を選出。靖国神社法案、広島市での自衛隊パレードに反対する決議を採択
1974/6/2
第15回原爆後障害研究会が長崎市で始まる。被爆者福祉の問題が初めてテーマに
1974/6/2
ガンジー・インド首相が「一部の国が経済援助停止を考慮しているとしてもインドは核開発は進めるだろう」と語る。PTI通信が報道
1974/6/2
原対協の被爆者死亡年齢調査(1971年)で70歳以上が62%を占めていることが判明。一般市民は40.3%で、被爆者の生命力の強さが浮き彫りに。第15回原爆後障害研究会で発表
1974/6/3
外務省が米政府に横須賀に限って原子力潜水艦の寄港を認めると通告
1974/6/3
山田広島市長が記者会見で自衛隊の広島パレードについて「宮沢弘知事と相談し、意見がまとまれば防衛庁に中止要請も考慮している」と述べる
1974/6/4
遊説のため長崎市入りした田中首相が平和公園の平和祈念像に献花。首相の平和公園訪問は初めて
1974/6/5
広島テレビが「美空ひばりは広島平和音楽祭に予定通り出演」と発表
1974/6/5
中国の〓小平副首相が西園寺公一氏と会見。「インドの核実験はインドの威信を高めるのに役立たない。後ろにはソ連がおり、ソ連の狙いは西アジア、インド亜大陸の緊張激化にある」
1974/6/5
米原子力潜水艦パーミットが横須賀港に入港。日本分析化学研究所のデータねつ造事件で寄港中止した1973年12月3日以来
1974/6/5
日本非破壊検査会社水島出張所が、5年前に使い古しのイリジウム192を違法に空き地に埋めていたことが判明。倉敷保健所が住民の健康診断へ
1974/6/7
広島被爆者団体連絡会議(近藤幸四郎事務局長)が、参院選遊説のため広島市を訪れ原爆慰霊碑に参拝する田中首相に対する抗議文と原爆被爆者援護法の早期制定を要請する声明文を自民党広島県連に手渡す
1974/6/7
国労被爆者対策協議会が広島と長崎に「国労被爆二世の会」の結成を決める
1974/6/7
原爆被爆者医療審議会会長で国立がんセンタ-総長の塚本憲甫氏が肝臓がんのため死去。69歳 1974/6/8
参院選遊説中の田中首相が広島市入り。「援護法を制定せよ」のシュプレヒコールの中、平和記念公園を訪れ原爆慰霊碑に参拝。記者会見で「被爆者援護は国が最大限やるべき」と語る
1974/6/8
1972年に日本非破壊検査会社の従業員が放射性物質のイリジウム192を紛失した九州石油大分製油所で6人が原因不明の皮膚炎
1974/6/8
ジスカールデスタン仏大統領が「南太平洋で実施する今回の核実験シリーズが大気圏内実験の最後になる」と表明
1974/6/9
広島県被団協(田辺勝理事長)が定期総会。(1)被爆者援護法制定に向け10万人署名の展開(2)広島県、広島市などに対し援護法についての明確な態度表明要求(3)県内の被爆者団体の統一-など運動方針決める
1974/6/9
仏政府が「核実験のため南太平洋ムルロア環礁付近の海域に11日午前9時から船舶が立ち入らないよう」海上保安庁に通告
1974/6/9
シラク仏首相が核実験に反対表明したセルバンシュレベール行政改革相を解任
1974/6/10
ジスカールデスタン仏大統領が一連の核実験回数の1回削減を指示
1974/6/10
米上院が大型核弾頭、核ミサイルの命中精度向上など、新しい戦略兵器開発計画の推進を認める
1974/6/10
広島市の小倉馨渉外課長らが米国立公文書館で被爆資料の点検開始
1974/6/10
山田広島市長がシャン駐日オーストラリア大使と市長公室で会談、仏核実験に反対の立場を確認。広島県被団協(森滝市郎理事長)は仏大使館に核実験再開抗議の電報。日本原水協も仏大使館に抗議
1974/6/10
米政府原子力委員会が「10日ミシシッピ河畔にあるコモンウェルス・エジソン社原子力発電所の原子炉2基のうち1基で放射能を帯びた蒸気が噴出。冷却水が川に流入した」と発表
1974/6/11
大分県原爆被爆者対策協議会が別府市鉄輪(かんなわ)の原爆被爆者別府温泉療養研究所にリハビリテーション施設の建設を決める。広島県、広島市が工事費2,300万円の四分の一を負担
1974/6/12
広島大構内で「原爆死没者追悼の碑」の起工式。死没者702人の内訳は、広島文理科大21人、広島高師23人、同付属小・中32人、広島女高師・山中高女395人、広島工専90人、広島高校31人と各校の教職員110人。文理科大や高師に在学していた東南アジア、中国、モンゴルの留学生7人 1974/6/12
キャラハン英外相がボウマルシェ駐英仏大使を招き南太平洋での核実験に反対の意思を伝える
1974/6/13
政府がMSAC援助(石油危機などの影響を受けた発展途上国に対する緊急援助)の対象国から核実験を行ったインドを除外する方針を固める
1974/6/14
ABCC労組(上田登委員長、450人)が定期大会で(1)ABCCを被爆者の医療と福祉に役立つ機関に(2)職員の雇用安定と労働条件改善-の2点を18日から始まるABCC再編日米交渉に申し入れ
1974/6/14
山川出版社の高校日本史教科書に原爆記述のミスが見つかる。原爆ドームを「原爆記念館」、投下場所も原爆ドームの真上と記述。死者数も同じ出版社の教科書で「20万」「28万」とまちまち。広島商高の松崎徹教諭の指摘に対し出版社は1975年版から書き改めると回答
1974/6/14
中東歴訪中のニクソン米大統領がサダト・エジプト大統領と原子炉供与を盛り込んだ共同声明に調印。米議会やイスラエルは「プルトニウムで核兵器開発の危険が増す」と懸念
1974/6/14
ブレジネフ・ソ連書記長が最高会議で「ニクソン米大統領が訪ソするさい、地下核実験の制限に関して協定を結ぶ用意がある」と演説
1974/6/14
原爆投下の直後に「黒い雨」が降った広島市沼田町、安古市町、安佐町の住民が山田広島市長に特別被爆地域指定に努力して欲しい」と陳情
1974/6/15
広島県と広島市が「黒い雨」調査結果発表。「特別被爆地域から除外されている潜在被爆者は推定2万人」。厚生省に特別被爆地域指定を働きかけへ
1974/6/16
反核報道を貫いた金井利博中国新聞社論説主幹が死去。60歳。三次市出身。原爆問題を中心に文化、学芸の分野に健筆をふるい、1960年代に原水爆被災白書運動を主唱。著書に「核権力」など
1974/6/17
インド原子力省が「中国は17日、ロプノル地区で1メガトンの大気圏内核実験を行った」と発表。スウェーデンのウプサラ大地震研究所「実験規模は0.3メガトン」。19日に中国が正式発表
1974/6/17
長崎市議会が「仏、中国の核実験抗議決議案」を採択(「長崎年表」)
1974/6/17
シュレジンジャー米国防長官が記者会見で27日からの米ソ首脳会談の見通し語る。「複数目標弾頭(MIRV)の実戦配備の制限で合意に達する可能性」
1974/6/17
日本原水協、日本宗教者平和協議会、「フランスの核実験に反対する第五福竜丸前座り込み抗議団」の代表が仏大使館に厳重抗議
1974/6/17
在仏日本大使館の武藤利昭公使が仏外務省に核実験抗議の口上書を手渡す。パリ滞在中の原水禁国民会議の森滝市郎代表委員ら代表団も仏大統領に抗議電報
1974/6/17
オーストラリアのホイットラム首相が「仏は17日、ムルロア環礁上空で核爆発実験を行った」と発表。ニュージーランドのカーク首相も発表。「今回の核実験は20キロトン以下の規模とみられる」
1974/6/17
中東歴訪中のニクソン米大統領がラビン・イスラエル首相と会談。核エネルギー援助を盛り込んだ共同声明を発表
1974/6/18
日本原水協が中国の核実験で初めて遺憾の意を表明。「環境破壊、核軍拡競争に直結する核実験競争は地球の安全、恒久平和にとって極めて危険である。この悪循環を世界の世論と行動で1日も早く停止させ、核兵器完全禁止の国際協定を結ぶよう強く要求する」。共産党系の広島県原水協と広島県被団協は広島市内で街頭署名。中国の核実験で初の具体的な抗議行動
1974/6/18
ABCC改組のための日米政府間交渉が外務省で始まる。日本側は財団法人化を要求へ
1974/6/18
日本原水協が第20回原水禁世界大会に米第7艦隊旗艦オクラホママーチの元艦長ジーン・ラロック氏を招くと発表。同氏は7月24日に不参加を発表
1974/6/18
広島被爆者団体連絡会議の被爆者ら100人が広島市平和記念公園の原爆慰霊碑前で仏、中国の核実験に抗議し座り込む。広島市も抗議電報
1974/6/18
二階堂進官房長官が記者会見で「仏の核実験に抗議したが、中国にも同様の抗議をする」と言明
1974/6/18
ワシントンの米国立公文書館で小倉馨広島市渉外課長らが被爆直後の生活を写したカラーフィルム、面接録音テープなどを発見
1974/6/19
小川平四郎駐中国大使が中国外務省に核実験で抗議
1974/6/19
ファーミ・エジプト外相がアラブ社会主義連合書記会議で「イスラエルは核実験の準備をしている。もし核実験を行えば、エジプトも核を開発」と言明
1974/6/19
広島被爆者団体連絡会議とABCC労組の代表が、ABCC改組の日米交渉団に「新組織を被爆者の医療と福祉に役立つ機関に」と申し入れ
1974/6/19
中国核実験による「死の灰」が九州上空に達する。内閣放射能対策本部発表。平常値の1,000~5,000倍の放射能検出
1974/6/19
仏ルモンド紙が「政府が核実験に沈黙を守っているのは納税者をばかにしているか、ムルロアで行っていることを恥じているためか」と批判
1974/6/19
斎藤邦吉厚相が広島市での記者会見で被爆者援護法について「国家補償的な考え方は行き過ぎ。被爆者の生活を守る立場から生活保障を強化するのが先決だ。1975年の被爆者実態調査に死没者調査は含めない」と表明
1974/6/20
ニクソン米大統領が上下両院の与野党幹部を招き「エジプト、イスラエルへの核エネルギー援助は核拡散につながらぬ」と説明
1974/6/20
広島、長崎の米国立公文書館被爆資料調査団の調査終わる。収集資料は16ミリカラーフィルム21本、面接録音テープ29本、文献79箱分。複写を依頼して帰国へ
1974/6/20
核実験抗議のため渡欧していた原水禁国民会議代表団(森滝市郎団長)が帰国。仏滞在中に核実験があり、インド行きを断念。羽田空港で森滝氏「訪問中に仏、中国と核実験が強行され、挫折感を味わった。しかし、絶望している暇はない。今がんばらねば人類は終わりだ」
1974/6/21
エジプトのサダト大統領が米CBSテレビのインタビューで「イスラエルが既に戦術核兵器を開発したとの情報を得た」と語る
1974/6/21
新潟市で中国核実験の放射能を検出。平常値の100倍。岡山県衛生研究所も22日に平常値の10倍を検出
1974/6/21
佐世保市議会が4回目の原水爆反対決議
1974/6/21
公明党が原水禁運動の統一や核兵器不使用など国際協定の締結を訴え緊急提言
1974/6/21
ABCC改組の日米交渉が「日米対等の財団法人で来春新発足」で合意。新機構は日米同数の理事会で運営、管理し、現在の業務を引き継ぐ
1974/6/23
ユナイテッド・ニューズ・オブ・インディア通信が「インドは平和利用目的の水爆を開発中」と伝える
1974/6/23
イランのパーレビ国王が仏経済専門誌レザンフォルマシオンのインタビューで「核兵器を保有する」と言明。在仏イラン大使館は否定
1974/6/24
国際司法裁判所が核実験で、仏、オーストラリア、ニュージーランドに対する再審問を7月4日から始めると発表
1974/6/24
東北大核物理学研究施設の第2リニアック実験室で研究員6人が加速器の放射線で被曝
1974/6/24
ウィルソン英首相が下院で「数週間前に米ネバダ州の核実験場で地下核実験をひそかに行った」と発表。英の核実験は9年ぶり。米英共同実験は5回目
1974/6/25
日本原水協(共産党系)が在日英大使館に核実験抗議文。原水禁国民会議(社会党・総評系)もウィルソン首相あてに抗議文
1974/6/25
山田広島市長が在日英大使館を訪れ核実験に抗議。政府も遺憾の意を表明。諸谷義武長崎市長と宮崎藤美市議会議長が駐日英大使に抗議電報
1974/6/26
広島被爆者団体連絡会議の60人が英核実験に抗議し広島市平和記念公園の原爆慰霊碑前で座り込み
1974/6/26
石橋政嗣社会党書記長が広島市で「アジア・太平洋地域非核武装国際会議」の開催を提唱
1974/6/26
広島市のベトナム戦傷孤児救済委員会(原田東岷委員長)に1967年に招かれ広島で治療を受けていたマイ・フォン・ダオさんが帰国。「マスターした洋裁技術をサイゴンの孤児院で教えたい」
1974/6/26
オスロの地震観測所が「25日、ソ連カザフ共和国東部から地下核実験による地震波を探知」と発表 1974/6/27
仏政府がイランへの原子力発電5カ所建設など経済援助協定に調印
1974/6/27
関西電力美浜原子力発電所でアルバイトした岡山大生6人の放射線被曝が判明。3月に汚染場所で作業、自覚症状はないが、日本建設工業(本社東京)も被曝の事実を認め、学生に被曝線量を記入した被曝手帳を交付
1974/6/27
広島市教育委員会が中学生用の「平和教育の手びき」案をまとめる
1974/6/28
日系二世の在米被爆者、河原房子さんがコロラド州のデンバーから来日、広島原爆病院で受診。河原さん「米人医師は取り合ってくれず、心細い思いをしていた」。同病院で在米被爆者の受診は初めて
1974/6/28
科学技術庁放射線医学総合研究所(千葉市)の医療用サイクロトンで所員が被曝。右手に皮膚炎
1974/6/28
米国務省がイランへ原子炉2基供与
1974/6/29
ニクソン米大統領とブレジネフ書記長の第3回会談で、弾道弾迎撃ミサイル(ABM)制限に合意
1974/6/--
第五福竜丸保存平和協会(会長、三宅泰雄元東京教育大教授)が8月6日に第五福竜丸の被爆資料を広島市で展示する計画を進める
1974/6/--
1975年度の教科書「中学校国語三」(学校図書)に井伏鱒二氏の「黒い雨」掲載。主人公の閑間重松の被爆日記の一節。広島県被爆教師の会は「文部省が原爆記述の復活を認めただけでも画期的」と評価
1974/6/--
韓国慶尚南道陜川郡の韓国被爆者診療センターへの資金援助のため、ソウル市の画家尹〓寿氏が広島市で個展開く
1974/6/--
インド政府が、5月18日に西部ラジャスタン州の砂漠で実施した地下核実験の巨大なクレーターの航空写真を発表
1974/6/--
1949年に作られた「ヒロシマ平和都市の歌」の楽譜が広島市の浅野図書館で見つかる。作曲・山田耕筰氏、作詞・大木惇夫氏。広島市は今年(1974年)の平和記念式典で復活の意向
1974/6/--
ビキニ水爆実験で被曝した第五福竜丸の船主と乗組員家族の手記2冊が広島平和記念館で見つかる
1974/6/--
広島市二葉の里、宮原双馨さんが原爆の熱光線で障子と取っ手の跡が焼きついた手文庫を保存。原爆資料館に保管へ
1974/6/--
「長崎の原爆投下時刻は午前11時2分」。米国立公文書館に保存されている米戦略爆撃調査団の最終報告書に明記。「広島原爆戦災誌」の10時58分説に長崎市が訂正を申し入れたことに端を発した論争にけり
1974/6/--
米国原爆被爆者協会の岡井巴会長らロサンゼルス在住の被爆者150人が被爆写真展の準備。在米被爆者の援護対策の立法化を訴えるのがねらい
1974/6/--
英労働党が9年ぶりの地下核実験をめぐって分裂。核実験反対の左派は閣僚引き揚げも検討
1974/6/--
「韓国原爆被害三菱徴用者被害補償闘争委員会」が韓国で発足。三菱重工と日本政府へ被害補償要求を決定

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