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ヒストリー

ヒロシマの記録1974 8月


1974/8/1
原水禁国民会議の被爆29周年原水禁世界大会国際会議が東京・社会文化会館で始まる。2日まで。12カ国24人の外国代表含む約70人が参加
1974/8/1
平和の灯奉賛会が広島市平和記念公園で例年行っている「平和の灯まつり」を中止。原爆慰霊碑での流れ献花に切り替える。奉賛会の山内敕靖副会長「各種の宗教団体が集まっているので、考え方に違いがあり、費用の出し方をめぐって問題が出てきた」
1974/8/1
日本原水協の第20回原水禁世界大会で来日した米のノーベル賞受賞者ジョージ・ウォルド・ハーバード大教授が記者会見。「5年以内に核保有国は26カ国に達するだろう。原子力の平和利用は存在しない」
1974/8/1
核禁会議が核禁広島全国集会を広島市の見真講堂で開く。800人参加。韓国・陜川在住の鄭基璋さんと被爆二世の崔孟蓮さん、李京姫さんが在韓被爆者の救済を訴え
1974/8/1
日本被団協の代表10人が在日中国大使館を訪れ核実験に抗議。大使館側は「中国の核実験は平和のためであり、抗議されるいわれはない」と抗議文の受け取りを拒否
1974/8/1
平和宣言がこれまで外国の首脳に送られていなかったことが分かり、山田広島市長が19カ国の首脳に送るよう指示。「市長に就任した1967年から各国首脳に送るよう指示していた。毎年送っていると思っていた」
1974/8/1
外務省が衆院外務委員会で、所沢、千歳、沖縄の3米軍基地に大陸間弾道ミサイル(ICBM)探知レーダーOTHの存在を認める
1974/8/2
原水禁国民会議の被爆29周年原水禁世界大会に参加しているタイ代表のチャネット・W・クムトング氏がインタビューに答え「クラ運河の開発に核が使われれば20万人に影響が出る」と証言
1974/8/2
原爆投下直後の長崎に臨時に造られた救護所や救急病院の実態を記録した「昭和20年支部日誌」「戦災会員調べ」「防空救護手当報告」など6冊の文書が長崎市医師会館の地下倉庫で見つかる
1974/8/2
広島原爆病院が上半期の診療概況を発表。がん発病率は1971年以来平行線をたどっているが、糖尿病、脳血管障害、貧血など老人症の傾向が強まる。入院患者の死亡者は36人
1974/8/2
日本原水協の第20回原水爆禁止世界大会の国際予備会議が東京・労音会館で始まる。15カ国47人の海外代表が参加。インド代表の国会議員シャン・プーシャン氏「インドは原爆をつくる意思はなく、核兵器保有国でもない」。大田区立体育館で約6,000人を集め第20回原水爆禁止世界大会東京大会。全核兵器保有国に核兵器完全禁止国際協定の締結訴え
1974/8/2
原水禁国民会議の被爆29周年原水禁世界大会の国際会議が閉幕。国連への核軍縮会議開催要請などを盛り込んだコミュニケとインド政府への核実験抗議など3つの特別決議を採択
1974/8/2
原水禁国民会議の関口和国際会議書記長ら代表が森山欽司科学技術庁長官に原子力船「むつ」の試運転を中止するよう申し入れ
1974/8/2
創価学会広島青年部が第2回原水爆禁止広島反戦平和集会を広島市公会堂で開く。1,800人が参加
1974/8/2
韓国人被爆者の朴海君さんが三菱重工本社に朝鮮人徴用工の未払い賃金や強制貯金の返還を要求
1974/8/2
厚生省玄関前に7月29日から座り込んでいる日本被団協の小佐々八郎代表委員ら5人が斎藤邦吉厚相に被爆者援護法制定を直訴。厚相は「国家補償的な精神の援護法は作れない」と突っぱねる
1974/8/2
第20回を迎えた広島市平和美術展が広島県立美術館で始まる。6日まで
1974/8/3
被爆者健康手帳の交付を申請している韓国人被爆者の金容善さんに対し、広島市は交付する方針を固め、滞在日数不足や入国目的で難色を示す厚生省に働きかけを強める方針
1974/8/3
日本原水協の第20回原水禁世界大会国際予備会議が終わる。大会決議は意見調整に手間取り広島大会に持ち越す
1974/8/3
法務省が第20回原水禁世界大会の南ベトナム平和委員会代表団の入国を拒否している問題で、南ベトナム解放通信が「南ベトナムの実情を否認し、パリ協定の破壊を続ける米とサイゴン政権に同調」と批判
1974/8/4
第20回原水禁世界大会に参加しているニュージーランド外国軍事活動反対委員会のオーエン・ウィルクス氏が「原水爆実験抗議船フリーが6日、核廃絶を訴える3万通のメッセージを積みニュージーランドを出発。ムルロア、ビキニを通り、来年3月ごろ広島に来る」と明かす
1974/8/4
ニューヨーク・タイムズが在米被爆者の現状を「いまも残る広島の傷跡」と1面で報道
1974/8/4
東京都原爆被害者団体協議会(東友会)が品川・東海寺の原爆慰霊碑前で10回目の慰霊祭を営む
1974/8/4
中国新聞が8月6日の平和教育実施状況を報道。広島県内の小、中学850校のうち650校が平和教育
1974/8/4
核禁長崎県民会議の九州キャラバン隊が長崎市を出発。核実験反対を訴えながら九州各地を回り、長崎原爆記念日の9日、各県から持ち寄った清水を平和公園の平和の泉にささげる
1974/8/4
総評被爆者協議会連絡会議が広島市で全国代表者会議を開き、被爆者援護法を実現させるため超党派の期成同盟結成を呼びかける
1974/8/5
広島被爆者団体連絡会議の代表8人が広島入りした斎藤邦吉厚相に被爆者援護法制定、原爆病院財政再建などを訴える。厚相は「被爆者援護について今後は医療だけでなく、生活面にも及ぶ援護を図る必要があり、自民党でも検討している」と答える
1974/8/5
広島市の韓国人原爆犠牲者慰霊碑の碑文が「屈辱的な表現だ」として一部消されたことについて、在日韓国青年同盟広島県本部が抗議声明。「消された碑文は植民地時代の歴史を述べた部分である。歴史と事実を消し、責任を転嫁することこそ屈辱」
1974/8/5
全国原爆被爆教師の会が広島市で開いた第4回総会で、日本書籍の中学社会(公民的分野)から「非核三原則」に触れた部分が削除された問題で、文相あてに公開質問状の提出を決める
1974/8/5
在韓被爆者の救援を訴え来日した韓国原爆被害者援護協会の趙判石会長、朴海君事務局長、郭貴勲湖南支部長が広島市に被爆者健康手帳の交付を申請。広島市は入国目的があいまいとして受理せず。「韓国原爆被害者を救援する市民の会」や広島在住の医師河村虎太郎氏らが手帳交付を求める要望書を山田広島市長に提出
1974/8/5
広島市社会福祉センターで韓国の原爆被害者を囲み励ます会開く。在韓被爆者で被爆者健康手帳交付第1号になった辛泳洙さんが「日本政府は全韓国被爆者の救援を考えて、私に手帳を交付したのだろうか」と、政府の姿勢に疑念を表明
1974/8/5
米ロサンゼルスの西本願寺別院で「広島・長崎原爆被爆者追悼法要」。在米被爆者ら300人が参列
1974/8/5
国労原爆被爆者対策協議会が原水禁運動史と協議会10年の歩みをまとめた資料集「この怒りを忘れまじ」を発行
1974/8/5
長崎原爆病院が過去1年間の診療状況を発表。入院患者は864人で平均年齢が初めて60歳を超す
1974/8/5
広島市沼田町の沼田青年会が「沼田住民手記原爆の体験」を、老人クラブ安佐明治青年大学が「原爆の記録あの日わたしは」を発行
1974/8/5
山田広島市長が日本原水協(共産党系)、原水禁国民会議(社会党・総評系)の両大会に初めてメッセージ。「ヒロシマを繰り返さないため、イデオロギーを乗り越え、人類の恒久平和に貢献されることを期待する」
1974/8/5
日本原水協(共産党系)の第20回原水禁世界大会の開会総会と原水禁国民会議(社会党・総評系)の被爆29周年原水禁世界大会の開会総会が、それぞれ広島市の県立体育館で始まる。ともに1万人参加
1974/8/6
原爆投下29周年。広島市の平和記念公園で原爆死没者慰霊式・平和祈念式。市民ら4万人参列。1,970人の原爆死没者名簿を奉納し、総数は8万4,803人に。首相代理として斎藤邦吉厚相が参列、屋良朝苗沖縄県知事が全国の知事の中で初めて出席。平和宣言文を初めて核保有国をはじめ19カ国首脳に送る
1974/8/6
山田広島市長が平和宣言。「…相次ぐ核実験と核兵器の拡散という憂慮すべき世界情勢にあるこのとき、核保有国に対し広島市民を代表して強く抗議し、警告する。核実験を即時全面禁止し、核兵器を速やかに廃絶せよ。核均衡の理論や自衛の名のもとに核の拡散が急速に進むことはまさに人類の自殺的破滅への道である。いまや真の危機が迫ってきた。われわれは危険な核拡散の進行を断固阻止するために、国連において、核兵器のすべてを含む緊急国際会議を開き、核兵器の全面禁止協定の早期成立に努めるよう提唱する。同時にまた、日本政府に対し、核拡散防止条約の速やかなる批准を求める…」
1974/8/6
日本原水協が広島市似島で「第1回原水爆禁止少年少女のつどい」を開く
1974/8/6
韓国人原爆犠牲者の慰霊祭がソウル市鐘路区の曹渓寺で営まれる。遺族ら250人が参列。韓国原爆被害者援護協会の呼びかけで7回目
1974/8/6
広島大が原爆死没者追悼の碑の除幕式と追悼式。広島高等師範学校出身の屋良朝苗沖縄県知事ら遺族や大学関係者ら350人が参列
1974/8/6
広島市平和記念館の原爆死没者名簿公開終わる。遺族確認は8人
1974/8/6
広島市平和記念公園の戦災供養塔前で行われた各宗派合同の「原爆死没者供養行事」に仏教代表が不参加。主催者の広島戦災供養会から案内状が届かず
1974/8/6
広島市庚午北町の被爆女性が自殺。30歳。「体が悪く生きる望みを失った」と遺書
1974/8/6
米オハイオ州のウィルミントン大学で、平和運動家バーバラ・レイノルズさん主催の記念集会。同大に大規模な原爆記念館を造ろうと提唱
1974/8/6
ワシントンで原水爆禁止デモ。国防総省に突入を図った11人が逮捕される
1974/8/6
日本原水協(共産党系)の第20回原水禁世界大会、原水禁国民会議(社会党・総評系)の被爆29周年原水禁世界大会が広島市内で分科会や国際交流集会。原水禁運動の統一など討議
1974/8/6
斎藤邦吉厚相が平和記念式典後の記者会見で被爆者援護法を否定し「現行法で福祉を拡充」と語る
1974/8/7
日本原水協の第20回原水禁世界大会が広島県立体育館で閉会総会。核兵器完全禁止国際協定締結を訴え連帯行動を求める「広島からの呼びかけ」を採択
1974/8/8
広島の被爆者にだ液腺がん多発。原医研の武市宣雄助手が調査
1974/8/8
韓国原爆被害三菱徴用者被害補償闘争委員会(鄭喜昌会長、120人)と広島三菱重工韓国人被爆者沈没遺族会(盧長寿会長、41人)の代表4人が三菱重工広島造船所を訪れ、未払い賃金の支払いなど補償を要求。三菱側は「1企業が単独で補償することはできない」と拒否
1974/8/8
日本原水協(共産党系)の第20回原水禁世界大会、原水禁国民会議(社会党・総評系)の被爆29周年原水禁世界大会が長崎市で始まる
1974/8/9
長崎原爆投下29周年。長崎市の平和公園で平和祈念式典。市民ら1万2,000人が参列。新たに判明した1,112人の原爆殉難者名簿を奉安
1974/8/9
諸谷義武長崎市長が平和宣言。「核兵器を廃絶せよ。核実験を全面禁止せよ。われわれ44万長崎市民は被爆市民の血の叫びとして全世界に訴え続けてきた。しかるに長崎市民の願いは無視され、核実験に対するはげしい世論の高まる中で、相次いで核実験は強行されている。許しがたい行為である。核兵器使用は人類自滅への道である。今こそ核保有国はもちろん、全世界の国々が人類の英知を結集、世界平和の理念に立脚し、核兵器の使用、実験、製造、貯蔵の完全なる廃絶のため、いかにあるべきかを行動で示すべき時である」
1974/8/9
自殺した被爆二世、山口誠さんの遺志を生かし、友人たちが長崎市で原爆被爆者救援コンサート開く。遺作「ギブ・ミー・サム・ウオーター」披露。山口さんはコンサートの資金が集まらず7月27日に自殺
1974/8/9
広島テレビ主催の「広島平和音楽祭」開く。美空ひばりさんら出演。「広島平和音楽祭」に反対している全電通など8団体は原爆裁判映画「人間であるために」を抗議上映
1974/8/9
二階堂進官房長官が長崎市で記者会見。「国家補償に基づく援護法制定は戦時補償などの関係もあり非常に難しい」
1974/8/9
埼玉県内の8市2町で構成する基地対策協議会(会長、畑和埼玉県知事)が、所沢の米軍基地に配備されている大陸間弾道ミサイル(ICBM)探知レーダーOTHの即時撤去を決議
1974/8/9
日本原水協(共産党系)の第20回原水禁世界大会と原水禁国民会議(社会党・総評系)の被爆29周年原水禁世界大会がそれぞれ長崎市で閉会総会
1974/8/9
広島市幟町の工事現場で被爆者らしい3体分の遺骨を発見
1974/8/10
関西電力美浜原子力発電所2号機のパイプから水漏れ事故
1974/8/10
世界連邦建設同盟など5団体主催の「地球市民ヒロシマ大会」が始まる。広島県医師会館で約400人が参加。11日まで
1974/8/10
「世界原爆詩集」(大原三八雄氏編集)が出版。広島市内で出版記念会開く
1974/8/11
大阪府警が関西電力美浜原子力発電所から放射性同位元素イリジウム192を盗み出し、非破壊検査会社(本社大阪市)を恐喝した3人組を逮捕。イリジウムも見つかる
1974/8/11
関西電力美浜原子力発電所が福井県警に「アイソトープのイリジウム192を紛失」と届け出
1974/8/11
広島市内の工事現場から被爆者とみられる14体分の遺骨と鉄かぶとや靴が見つかる
1974/8/12
広島県議会文教委員会で自民党県議が、「自衛隊のばか」と書いた詩を記載した夏休み帳問題で県教育委員会を追及
1974/8/12
米国立公文書館の被爆資料第3便が広島市着。「昭和20年11月30日、文部省主催の原子爆弾災害調査研究特別委員会第1回報告会記録」など。「上空570メートルで爆発」。「爆心地近くで地中生物が生存」の証言を収録
1974/8/13
中国新聞社が在ソウル新聞界の主筆、論説委員を集め在韓被爆者の救援の道を探る座談会開く。「救援行動の原点である実態調査が先決」で一致
1974/8/13
韓国の医師、韓芝淑・延世大医学部助教授が被爆者治療を学ぶため原医研で研修。期間は9カ月
1974/8/13
米空母ミッドウェーへの乗艦を拒否しているマイク・ハモンド一等水兵が横須賀基地の軍事法廷で「同空母は日本に核兵器を持ち込んでいる」と証言。裁判官にあたる法務官が証言中止を命じる
1974/8/14
米政府原子力委員会が「ネバダ核実験場で14日、20キロトン以下の地下核実験」と発表
1974/8/15
オーストラリアのウィルシー外相が「仏が15日、南太平洋で大気圏内核実験を行った」と発表
1974/8/15
山田広島市長がフォード米、ジスカールデスタン仏両大統領に核実験抗議の電報
1974/8/15
米政府原子力委員会が「ソ連は14日にことし4回目の地下核実験を行った。地下核実験探知装置が20~200キロトン規模の地下核爆発を記録」と発表。実験場所はシベリア北西のタゾフスコエとみられる
1974/8/15
中国放送が米国立公文書館から被爆直後に撮影した「医学的状態」と「爆風の効果」の16ミリカラーフィルムを入手し、放映
1974/8/15
米原子力潜水艦パーミットと米空母ミッドウェーが横須賀港に入港
1974/8/16
広島被爆者団体連絡会議の呼びかけで被爆者70人が、広島市の原爆慰霊碑前で米、ソ、仏の核実験に抗議して座り込む
1974/8/16
山田広島市長がブレジネフ・ソ連首相にあて核実験抗議の電報
1974/8/18
パキスタンのシャヒ外相が南アジアの核禁止地域指定を国連に提案
1974/8/18
広島市東白島の万行寺で旧第二総軍司令部の被爆戦没者追悼法要が初めて営まれる
1974/8/18
運営費不足に陥っている韓国被爆者診療センター支援で、韓国の画家尹〓寿氏が広島市内で個展
1974/8/19
米軍事法廷が「米空母ミッドウェーが日本に核を持ち込んでいる」と証言した乗組員、マイク・ハモンド一等水兵に除隊判決
1974/8/21
英紙イブニング・スタンダードが「アルゼンチンが核保有を検討」と報道
1974/8/23
金容善さんの被爆者健康手帳交付申請が却下されたことに対し、核禁広島県民会議、在日本大韓民国居留民団広島県地方本部の代表が山田広島市長に抗議。山田市長は「広島・長崎原爆被爆者援護対策促進協議会(八者協)などを通じ行政の厚い壁を破る努力をする」と約束
1974/8/23
広島市が韓国人被爆者、金容善さんの被爆者健康手帳交付申請を却下。治療目的以外のビザで入国した外国人被爆者には手帳を交付しないという厚生省の意向を受けての措置
1974/8/25
オーストラリアのウィルシー外相が「仏は25日、南太平洋の大気圏で核実験を行った」との声明を発表。ニュージーランドのカーク首相も発表
1974/8/26
原子力船「むつ」が、原子炉の臨界実験のため、陸奥湾を出港。抗議の漁船250隻に囲まれ出港が16時間遅れる
1974/8/26
山田広島市長がジスカールデスタン仏大統領にあて核実験の抗議電報。広島市の原爆慰霊碑前で広島被爆者団体連絡会議のメンバーらが仏核実験と原子力船「むつ」の強行出港に抗議して座り込む
1974/8/27
長崎県被爆教師の会の有志7人が、仏の第6回核実験に抗議し、原爆投下中心碑前で初めて座り込み。以降、核実験の報道があるたびに座り込み(「長崎年表」)
1974/8/28
原子力船「むつ」が青森県沖800キロの洋上で臨界実験。原子炉に「火」がともる
1974/8/28
厚生省の1975年度被爆者対策概算要求まとまる。(1)2キロ以内の被爆者全員に保健手当の支給(2)健康管理手当など各種手当は増額、支給制限の撤廃(3)法人として新発足のABCCの経費に約14億円など
1974/8/28
仏原子力委員会のロベール・ソーバニャック市場開発部長が記者会見で「25日の核実験は今シリーズ最後の大気圏内核爆発」と述べる
1974/8/29
スウェーデンのウプサラ大地震研究所のバート所長が「ソ連は29日、ノバヤゼムリャでメガトン級の地下核実験を行った」と発表
1974/8/29
木村俊夫外相が参院外務委員会で「次期通常国会に核拡散防止条約の批准承認案を提出」と答弁
1974/8/30
科学技術庁が全国3,000余りの放射性同位元素および放射線発生装置使用事業者の点検結果を発表。全体の77.7%が放射線防護対策などに違反。同庁は被曝事故防止要綱を作成
1974/8/30
故正田篠枝さんの原爆歌集「さんげ」の原本とその肉筆の原稿を、友人の歌人植野はる子さん、詩人栗原貞子さんが広島市へ寄贈
1974/8/30
核禁広島県民会議の福永久義事務局長ら核禁会議の代表団が訪韓。陜川郡の被爆者診療センターの助成を韓国政府に要請
1974/8/30
山田広島市長がブレジネフ・ソ連首相あてに核実験の抗議電報
1974/8/31
米軍の核模擬爆弾投下訓練問題で、共産党の瀬長亀次郎、松本善明両氏が小坂徳三郎官房長官臨時代理(総務長官)に申し入れ。小坂臨時代理は「他の国が核をもつようになっている時、日本はいつまでも丸腰でいいのか、と他国から聞かれたら共産党はどう答えるのか」と発言。その後、小坂臨時代理は「非核三原則を守る姿勢に変わりはない」と釈明
1974/8/31
広島被爆者団体連絡会議がソ連核実験と沖縄米空軍基地での核模擬弾訓練に抗議し原爆慰霊碑前に座り込む
1974/8/--
広島市の母親グループ「山下会」が毎年8月6日を目標に発刊する被爆体験文集「あさ」が10号に
1974/8/--
米カリフォルニア州で被爆者援護の法案作りが具体化。トーマス・ノグチ・ロサンゼルス郡検視官らが中心となって(1)被爆者援護事務所の設置(2)集団検診など医療制度の発足(3)日本からの被爆者治療医師団の招へい(4)日米両国医師による共同研究-などを柱とする法案の骨子をまとめ、州議会に提出へ
1974/8/--
広島日英文化協会が英詩人故エドモンド・ブランデンが詠んだ「ヒロシマ1949年8月6日に寄するうた」の詩碑建立計画進める
1974/8/--
創価学会青年部が被爆体験記「広島のこころ・29年」を出版
1974/8/--
「被爆直後の広島で朝鮮人志願兵が救護活動」。元陸軍中隊長、中塩正義さんが当時の日記と軍関係の書類を基に救護活動にあたった朝鮮人志願兵の記録を執筆、広島市へ贈る
1974/8/--
全電通被爆者連絡協議会が原爆体験集「原子雲の下に生き続けて」第5集を発行
1974/8/--
徳山ニューライオンズクラブが推進しているソウル市の原爆病院計画が資金集めで難航。10億円予定に500万円
1974/8/--
長崎市医師会館の倉庫から被爆前後の医師会の救護体制などを示す記録類が見つかる(「長崎年表」)
1974/8/--
創価学会青年部が進めている核廃絶の署名が1,000万人に達する。1973年の8月から約1年がかり

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