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ヒストリー

ヒロシマの記録1973 3月


1973/3/1
静岡県焼津市の弘徳院で日本宗教者平和協議会主催の故・久保山愛吉さん墓前祭。共産党系の日本原水協の集会に参加した約1,000人が参列
1973/3/1
ジュネーブ軍縮委員会で、西堀正弘大使が地下核実験の検証問題で非公式の専門家会議を呼びかけ。兵器用濃縮ウランの生産停止と平和目的への転用も
1973/3/1
原水禁国民会議が「ビキニ被災19周年3・1原水禁全国集会」で、春に予定されている仏の南太平洋核実験を阻止する全国運動展開を決める
1973/3/1
丸木位里、俊夫妻の新しい「原爆の図」が広島市の平和記念館に飾られる。縦4メートル、横8メートル、朱と墨で描く。山田広島市長が制作を依頼
1973/3/1
広島県被団協(森滝市郎理事長)が9回目の被爆証人捜し。新たに4人、これまで計50人を公表し、全員の証人見つかる
1973/3/5
国際文化会館内の原爆資料室が2倍の広さに拡充、整備されて、「祈りの長崎」から「祈り、訴える長崎」への脱皮を目指す(「長崎年表」)
1973/3/6
日本原水協代表理事の畑中政春氏が脳出血のため、東京・代々木病院で死去。65歳。元朝日新聞記者、日本原水協の創設に参加
1973/3/6
小説「大地」で知られる米作家でノーベル文学賞受賞者のパール・バック女史が米バーモント州ダンビーの自宅で死去。80歳。ヒロシマ・ピース・センター運動、精神養子運動などを支援
1973/3/8
米がネバダ実験場で、この年初めての地下核実験
1973/3/8
エリザベト音楽大学理事長のエルネスト・ゴーセンス氏が、糖尿病のため広島市内の病院で死去。64歳。ベルギー出身。1936年9月、キリスト教布教のため来日、1947年9月、広島音楽教室を開講、1952年4月、エリザベト音楽大学を設立
1973/3/9
長野士郎岡山県知事が、岡山県和気郡日生町の鹿久居島に中国電力が建設を予定している原子力発電所に反対の意向を表明。「瀬戸内海のような所に原発をつくるのは好ましくない」
1973/3/9
広島原爆病院が1972年の診療概況を発表。1年間に亡くなった入院患者は開院以来最高の80人。死因別では51人が悪性腫瘍、うち胃がんがトップで22人。年齢別では死亡者のうち61人が60歳以上
1973/3/12
米ソの第2次戦略兵器制限交渉(SALT2)が、ジュネーブで80日ぶりに再開。米代表に元駐日大使のアレクシス・ジョンソン氏。弾道弾迎撃ミサイル(ABM)条約、攻撃用戦略兵器に関する暫定条約などが焦点に
1973/3/13
中国電通局が「被爆二世実態調査対策委員会」の設置を認める。全電通中国被爆者連絡協議会の要求にこたえる。委員は局側4人、組合側(被爆者を含む)4人
1973/3/13
田中首相が参院予算委員会で、日本の核兵器保有について「非核三原則を堅持したい。核兵器は攻撃的兵器であり、憲法に背反する」と表明。発言に対し、民社党の永末英一氏が従来の政府見解の変更であるとの質問趣意書を14日、政府に提出。「田中首相の発言は、1957年5月の参院予算委での岸首相発言、1964年3月同予算委での林修三内閣法制局長官発言、1965年12月参院日韓特別委での佐藤首相、高辻正己法制局長官の発言の『防衛目的に限った戦術核兵器は合憲』という見解を変更したものだ」と主張
1973/3/15
韓国原爆被害者援護協会の李一守釜山副支部長が厚生省を訪ね、韓国人被爆者への援護を訴え 1973/3/16
仏が4月下旬から5月上旬に予定していた南太平洋ムルロア環礁での核実験を5月中旬以降に延期。オーストラリア、ニュージーランドなどを説得のため
1973/3/17
元中国新聞カメラマンで、被爆当時は広島市宇品の船舶練習部で特攻兵器の極秘写真の技師だった広島市中島町、木村権一氏が死去。68歳。1945年8月6日のキノコ雲と火災雲の写真を撮る。8月末に都築正男東大医学部教授が広島を訪れたとき、原爆症患者の症状記録を撮影
1973/3/17
田中首相が衆院予算委で「核兵器と憲法について13日に表明した見解は、核に対する基本的立場を述べたもので、憲法と核に対する解釈を論じたのではない。核に対する政府の解釈は変わっていない」と述べる。19日、社会党が集中審議を要求へ
1973/3/17
広島県被爆教師の会(石田明会長)が、父母の被爆体験の聞き書きなどをまとめた小、中学生の手記約100編を集め、平和教育教材「にんげんのあしたへ」第1集として出版
1973/3/19
広島市が「被爆者家族調査」の追加調査項目を決める。「健康である」「虚弱である」「病気である」の3項目を追加し、「虚弱である」と答えた人には、疲れやすい、貧血、鼻血がでやすい、めまい、病気後の回復が遅い-などの症状を列記し、内容を具体的につかむ
1973/3/19
広島市が「被爆者家族調査」の中間集計をまとめる。被爆二世の11.4%が被爆者健康手帳の交付や無料健康診断を希望し、7.6%が大病を経験。集計は回答者の中から500人を抽出
1973/3/20
田中首相が参院予算委で、核兵器と憲法の関連について「核兵器のすべてが憲法に背反して持てないというわけではない。非核三原則は堅持していく」と表明
1973/3/22
ティゲ・ダルカル駐日デンマーク大使が広島市を訪れ、原爆慰霊碑に参拝、原爆資料館を見学
1973/3/23
ソ連水爆の父、アンドレイ・サハロフ氏がソ連国家保安委員会(KGB)の査問受ける。人権擁護問題での同博士の行動が問題に
1973/3/25
原子力水上艦ベインブリッジが横須賀港に入港
1973/3/26
リチャードソン米国防長官が、上院歳出委員会で(1)中国の核兵器は間もなくソ連領全域に到達する能力を持つ(2)1970年代末までには米本土に達する核兵器を持つ-と表明
1973/3/26
中国郵政局が、被爆二世職員の健康管理に積極策。(1)希望者に無料で人間ドック(2)年2回、血液検査
1973/3/27
仏紙ルモンドが「フランスの原爆」と題し社説。実験の内容、地下核実験に移行の期日を公表すべき-と主張
1973/3/27
広島市大手町1丁目の医師河村虎太郎氏が韓国人被爆者を自費で招き、治療へ。第1号の金英子さんが広島につき、ただちに入院。金さんは4歳のとき、広島市広瀬北町にあった自宅で被爆、1945年11月、両親とともに帰国、8年前に心臓病と診断され治療中。河村さんは「全国で同様の動きが起きてくれれば…」
1973/3/28
日米原子力協定を5年ぶりに改定。(1)1978年末までに、日本で着工される原子力発電所にも燃料の濃縮ウランを供給(2)米が供給した濃縮ウランから生産されるプルトニウムは、国外移転が禁止されていたのを一定の保障措置の下で一定国に対し緩和する-などが変更点
1973/3/29
ジュネーブ軍縮委員会でソ連が「地下核実験の停止問題についても交渉の用意」と姿勢を転換。これまでは、中国、仏の不参加を理由に、地下核実験停止交渉には消極的
1973/3/29
衆院社労委で、諸手当の増額など原爆被爆者特別措置法の一部改正案を可決。被爆者の子、および孫に対する対策に十分配慮する-など13項目の付帯決議
1973/3/29
衆院社会労働委員会で、斎藤邦吉厚相が山田耻氏(社会・山口2区)の質問に答弁。「わが国が平和国家建設へ進んでいく旗印として原爆被爆者援護法はつくるべきだ。一般戦災者と同じようにと考えていたのでは進まない。前向きにこの問題の決着をつけたい」
1973/3/--
広島市出汐3丁目、佐伯敏子さんが、平和記念公園内の戦災供養塔の清掃と、引き取り手のない1,800柱の遺族捜しに執念。すでに3柱を遺族に。「この人たちにとって毎日が8月6日なのだ」
1973/3/--
日本原子力発電会社敦賀原子力発電所(福井県敦賀市)沖の浦底湾でとれたイシダイからコバルト60を検出。京大農学部水産学科の若手研究者らが調査
1973/3/--
志水清氏がABCC医科社会学部長を辞任。ABCC部長ポストは全員、米人に

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