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ヒストリー

ヒロシマの記録1973 4月


1973/4/2
日本被団協(伊東壮事務局長)が、東京で被爆者援護法制定要求集会を開き、被爆者要求骨子14項目を発表。被団協が要求してきた26項目を整理し「被爆者の最低の要求として援護法案を具体的に作ってもらいたい」。重点項目は、「国家補償の精神を明らかにする意味でも、軍人遺家族並みの被爆者年金、遺族年金は欠かせない」「療養手当、生活手当の給付。被爆者援護審議会の設置」
1973/4/2
日米政府が、ABCC(リロイ・R・アレン所長)の性格付けを「在日米大使館付属機関」から「米政府機関」とすることで合意。ABCCの米人職員約30人の外交官特権がなくなる
1973/4/3
日本被団協の行宗一代表委員らが、政府に被爆者援護法の制定を陳情
1973/4/4
中国新聞が社説で「ABCCを日本に移管せよ」と主張。「占領行政時代の惰性を一掃して、形がい化した日米共同研究を日本側中心に改め、被爆者に関する医学研究の主体性を日本側が持たねばならない。…被爆者を真に救済するためには、財政的負担を伴おうとも、ABCCをわが国に移管する方針を政府は明確に打ち出すべき」
1973/4/6
来日中のニュージーランドのウォルディング海外貿易相兼外務次官が仏核実験で、「国際司法裁判所に提訴も考えている」と述べる
1973/4/7
「原水爆被災資料センター設立推進全国委員会」が発足。桧山義夫元東大教授、今堀誠二広島大教授が座長になり、当面1975年を目的に運動の再結集をはかることを決める。広島からは今堀教授のほか、志水清元広島大教授、原田東岷医師、相原和光広島YMCA総主事、文沢隆一原爆被災資料広島研究会事務局長らが参加
1973/4/10
被爆者健康手帳取得のため、広島県被団協(森滝市郎理事長)が新たに4人について被爆証人捜し。10回目。前年7月から54人を公表し、全員の証人が見つかる。25人がすでに手帳を取得、29人が手続き中
1973/4/11
広島県の阿部克己衛生部長が保健所長会議で、被爆二世の医療促進体制を固めるよう指示
1973/4/11
原爆症治療のため広島市の河村病院(河村虎太郎院長)の招きで来日、入院中の韓国人被爆者金英子さんが、広島市役所に被爆者健康手帳交付を申請。治療のため入国した韓国人が被爆者健康手帳を申請したのは1968年12月、原爆病院に入院の2人のケースがあり、「日本に永住せず、旅券で入国した人には交付できない」(厚生省)と却下されている。密航被爆韓国人の孫振斗氏も1971年10月に福岡県で手帳を申請し却下、福岡地裁へ提訴、係争中
1973/4/12
俳優の川津祐介さんが東京で家族全員の絵と焼き物即売会、チャリティー・サイン会。収益を被爆二世が中心になって建設している広島高陽病院などに寄付
1973/4/12
ABCCの運営問題をめぐる日米交渉の米側代表決まる。米政府原子力委員会のS・イングリッシュ研究開発担当副総支配人、J・リーバーマン生物医学環境研究部長、学士院-学術会議のA・ローゼンタール財政部長、G・ビービー医学統計追跡室長の4人と大使館員1人
1973/4/12
広島市の平和記念館の平和資料展示室がオープン。戦時下の市民生活、原爆被災の物的、身体的影響、核問題の3つのコーナー。総予算2,200万円
1973/4/15
ぜんそく発作を苦に、被爆老人が自殺
1973/4/16
広島県の阿部克己衛生部長が議会で、被爆者家族調査の中間集計を発表。「回答した1万6,075人のうち8.02%の1,289人が入院、または2カ月以上通院と体の異常を訴え。一般の有病率5%に比べ1.6倍の高率」
1973/4/17
サモア島アピアで開かれた南太平洋会議に出席している7代表団が、仏核実験に抗議の宣言採択。西サモア、オーストラリア、ニュージーランド、トンガ、フィジー、クック諸島、ナウル代表が参加
1973/4/18
原爆小頭症患者を持つ父母の会「きのこ会」(長岡千鶴野会長)が、「後障害のある被爆者もNHK受信料の全額免除を」と広島市に支援を陳情
1973/4/19
日本原水協(共産党系)が、被爆者援護法の大綱を発表
1973/4/19
スウェーデンのウプサラ大地震研究所が、ソ連がセミパラチンスクで地下核実験を実施、と発表
1973/4/19
尾道市の桑原忠男さんが起こしていた「原爆医療法に基づく認定申請却下処分の取り消し請求」に対し、広島地裁民事2部の田辺広介裁判長が、「原告の疾病は被爆が起因していると認めるのは困難」と、請求を棄却。「被爆と疾病の因果関係の立証責任は国にある」とする原告主張には触れず。判決理由の中で、「被爆者は老齢化し、生活面において困っている。医学の介入を待つまでもなく生活給付を行政の立場で配慮することが望ましい」「人類史上、初めて原爆を受難し、身をもって戦争終結の機縁をつくった被爆者に対し、国が補償の責任を果たすことが、他の福祉制度との関連、現在の国の経済力からして困難なことであろうか」と指摘
1973/4/20
南太平洋の核実験をめぐる仏とオーストラリアの交渉が決裂。仏核実験に抗議する4人乗りヨットのスピリット・オブ・ピースがニュージーランド・オークランドから実験区域のムルロア環礁に向かう
1973/4/20
被爆二世問題をテーマにした映画「小さな恋人たち」製作・上映実行委員会(石田明事務局長)が、委員会活動のストップと、カンパの返済を決める。早坂暁氏に依頼したシナリオができないため。早坂氏「約束を守れなかったことは深謝するが、本当のおわびはシナリオを完成させ、映画にすることだと考える」
1973/4/23
米原潜スキャンプが横須賀港に寄港。米原潜の日本寄港は93回目、横須賀は67回目
1973/4/23
南太平洋での仏核実験の中止を求めてニュージーランドのヒュー・ワット副首相がパリに到着。「満足できる回答が得られない場合、外交関係の断絶も」
1973/4/24
広島市が、韓国人被爆者金英子さんの被爆者健康手帳交付申請を却下。「短期滞在の入国では、原爆医療法にいう『居住』とは認められない」
1973/4/24
ジュネーブ軍縮委員会で、西堀正弘大使が地下核実験停止問題の専門家会議開催の作業文書を提出
1973/4/25
広島県被爆教師の会(石田明会長)が「ひろしまの平和教育」第3集を出版
1973/4/25
ABCCの在り方を話し合う日米政府間交渉が外務省で始まる。日本側代表は柳瀬孝吉厚生省審議官、深田宏外務省北米第1課長、柳沢謙国立予防衛生研究所長ら10人、米側はS・イングリッシュ米政府原子力委員会研究開発担当副総支配人ら4人
1973/4/25
原水爆被災資料センター設立推進広島委員会が、センターの構想をまとめる。広島大移転跡に5研究部門、資料収集管理部門を備えた国立の施設で建設費10億円、運営費年間8億円。スタッフは220人
1973/4/25
訪英中のホイットラム・オーストラリア首相が、ロンドンで「仏が南太平洋での核実験の態度を変えなければ、仏との外交関係断絶も考えている」と述べる
1973/4/27
ABCC日米政府間交渉終わる。日本側財政負担の増加を決め、移管問題などは継続討議。米側主張(1)ABCCの研究計画に日本側が十分、参画できるようにしたい(2)研究計画の財政負担は日米同程度に(3)ABCCと日本側の原子力問題を含む各研究機関すべてについて調整すべきだ。日本側主張(1)ABCCの共同研究の在り方については継続的に検討(2)来年度予算で研究費、機材費について大幅な予算を組む努力(3)ABCCの研究は一般市民の理解と協力のもとに、日米両国がお互いの主体性を認めながら進める
1973/4/27
ニュージーランドのワット副首相が、「仏から核実験を中止するとの保証を得られなかったため、問題を国際司法裁判所に提訴する」と述べる
1973/4/28
被爆者関係の7団体が「長崎原爆戦災誌刊行推進協議会」の発足を決める(「長崎年表」)
1973/4/30
ニュージーランドのカーク首相が「仏が、国際司法裁判所の仏核実験提訴を審理中に実験を強行するなら、ニュージーランドは閣僚を乗せたフリゲート艦を実験水域に出動させる」と語る
1973/4/--
広島県安芸郡船越町の中学教諭高山等さんが、被爆二世を持つ親や、被爆者の声、世界の識者の意見などを英文でまとめた「広島の追憶と今日」を自費出版。各国元首らに送付へ。4年前の「広島の追憶」の続編。高山さんは中学2年のとき、動員先の広島市皆実町2丁目で被爆
1973/4/--
中部太平洋マーシャル諸島のミクロネシア議会の「ロンゲラップ・ウトリック両島に関する特別委員会」が、1954年3月1日のビキニ水爆実験の被災者に関するリポートをまとめる。「被災者の疾病に対する責任と、被災住民の福祉対策に対する責任はすべて米政府にある」とし、同実験で被曝した現地住民139人、米軍人28人、第五福竜丸乗組員23人(うち1人死亡)の全員について国連放射線科学委員会に毎年、医学的調査の年報を出すよう勧告
1973/4/--
財団法人・広島市原爆被爆者協議会(会長、山田広島市長)が広島市牛田新町、神田山に建設した「広島原爆被爆者療養研究センター」が、完成後も食堂、喫茶、売店の業者が決まらず。背景に市議会議員をバックにした利権争い
1973/4/--
被爆に耐えた広島市東白島町の中国郵政局のアオギリ5本を平和記念公園に移植へ。庁舎建て替えのため。被爆桜4本は移植に耐えられないため切り倒し、焼けただれた幹部分を原爆資料館に保存

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