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ヒストリー

ヒロシマの記録1973 5月


1973/5/2
オーストラリアの海員組合が、核実験に反対してフランス船のボイコットを決める
1973/5/2
尾道市の桑原忠男さんが、「原爆医療法に基づく認定申請却下処分取り消し請求を広島地裁が棄却したのは、納得できない」と広島高裁に控訴。「原爆医療法の解釈と、事実認定に誤りがある」と主張。相良勝美弁護士は「控訴審では、国の鑑定に対する反証としての鑑定を出す。認定制度のあいまいさを改めて強調したい」
1973/5/4
原水爆被災資料センター設立推進広島委員会が山田広島市長に、同センターを1975年の被爆30周年事業として建設するよう協力を要請
1973/5/4
ABCC日米政府間交渉に参加した米側代表が、広島のABCCで被爆者代表と会談。日本側=森滝市郎、田辺勝、近藤幸四郎、石川俊彦、森下弘、古田文和の6氏。米側=A・ローゼンタール米学士院-学術会議財政部長、G・ビービー同医学統計追跡室長、L・アレンABCC所長ら。アレン所長「日本移管問題は、まず運営面、財政面で対等化し次いで移管ということになるだろう」
1973/5/6
原水爆被災資料センター設立全国委員会役員会が、広島大跡地を活用する広島案を了承。長崎、東京案をそろえ政府に実現を働きかけ
1973/5/7
米国防総省がTNT火薬50キロトン程度のミニ核兵器を開発、3~5年で欧州配備が可能に。英ロンドン・タイムズ紙が報道
1973/5/8
広島市が「原爆被災全体像調査」の報告書まとめる。1969年からスタートし3月末までに調査対象114町(爆心0.5~2キロ)の町並みを地図上に復元する作業を一応完了。3万5,165世帯をつかみ、うち3万778世帯について氏名、屋号、事業所名を復元(復元率87.5%)。世帯の消息を求める確認調査は全世帯の40.9%の1万4,399世帯にとどま
1973/5/9
広島市親善使節団(団長、宮本正夫市議会議長)が姉妹都市のソ連・ボルゴグラード市へ出発。団員は山田辰美(市議会議員)、福井満(日ソ協会広島支部理事長)、土屋美智代(市立仁保保育園長)、石原幸江(市教委保健体育課社会体育係長)の各氏
1973/5/9
原子力発電の安全性をめぐって衆院科学技術振興対策特別委員会で、参考人9人の意見を聞く。自民党推薦=内田秀雄東大教授、都甲泰正東大教授、宮永一郎日本原子力研究所保健物理安全管理部長(以上、原子炉安全審査専門委員)黒川良康動力炉・核燃料開発事業団安全管理室長。野党推薦=小野周東大教授、藤本陽一早大教授、滝沢行雄秋田大教授、中島篤之助原研副主任研究員、安斎育郎東大助手。論議は対立
1973/5/9
米返還被爆資料が広島大原医研に到着。1.5メートル角の木箱7箱。厚生省、広島、長崎両大学、地元県市が立ち会い開封へ。資料リストでは返還資料は病理標本17箱、組織標本11箱、カルテなどの書類52箱、スライド25箱、写真3箱
1973/5/9
外務省で被爆資料の返還式。米陸軍病理学研究所のシービー大佐が深田宏外務省北米第1課長に返還資料の目録手渡す。資料は原爆投下2カ月後の10月から12月にかけて米軍の調査団が日本側の医学者や市民から接収したものと、調査団が撮影した写真など。28年間、これらの資料はワシントンの米陸軍病理学研究所(AFIP=ArmedForcesInstituteOfPathology)が保管
1973/5/9
オーストラリアとニュージーランドが仏の核実験停止を求めオランダ・ハーグの国際司法裁判所に提訴。オーストラリアは核実験禁止の仮命令を求め、ニュージーランドは裁判所が全面的な法的措置をとるよう求める
1973/5/9
広島県が「被爆者家族調査」で、重病を訴えた1,289人の被爆二世の無料健康診断実施へ
1973/5/10
中国電力島根原発に反対する「島根原発公害対策会議」=議長、黒田成一郎松江市議=が発足
1973/5/10
米返還被爆資料の開封、整理が広島大原医研で始まる
1973/5/10
仏政府当局者が、オーストラリア、ニュージーランドの国際司法裁判所への提訴について、「実験を中止するつもりはない」と述べる
1973/5/11
米返還被爆資料の中に被爆死者解剖第1号を手がけた広島県五日市町、元陸軍軍医中佐、山科清さんの剖検記録。山科さんが対面
1973/5/11
オーストラリアの婦人団体「平和と自由のための国際婦人連盟」が、仏の核実験への抗議航海に女性、子どもなど1,000人が志願と発表。連盟は在オーストラリア仏大使館に抗議航海を通告
1973/5/12
広島市三滝町の三滝寺に、広島アウシュビッツ委員会(桑原英昭会長)が建てた「アウシュビッツ慰霊碑」が完成し、除幕式
1973/5/12
広島市基町相生通りの通称「原爆スラム」で大火。24世帯が被災。1961年以降10回目
1973/5/12
米返還被爆資料の整理終わり、臓器などの保存作業始まる。資料総数は広島1万1,131点,長崎1万2,147点の計2万3,278点。うち解剖記録などの書類は1万7,993例分(広島9,027、長崎8,966)、スライド標本1,769枚(広島561、長崎1,208)、パラフィン・ブロック953点(広島271、長崎682)、組織標本681点(広島37、長崎644)、写真1,879枚(広島1,232、長崎647)、その他3点
1973/5/13
仏核実験に抗議する英の若者たち50人がロンドンからパリに向けて抗議デモ始める。前年11月に仏核実験に抗議するため組織されたグリーンピースのメンバー
1973/5/14
米返還被爆資料約1万2,000点が長崎大学医学部で関係者に初公開(「長崎年表」)
1973/5/14
全電通被爆者連絡協議会(近藤幸四郎事務局長)など広島の9被爆者団体が、広島県、市にABCCの日本移管を政府に積極的に働きかけるよう要請書を提出
1973/5/15
スウェーデン・ストックホルムの国際平和研究所が1973年度版年鑑を出版。米ソの核兵器競争が「人類生存に対する脅威を高め、犯罪性は年々強まっている」
1973/5/15
仏最大の労働団体労働総同盟(CGT)と民主労働総同盟(CFDT)が仏核実験に反対声明
1973/5/16
原水禁国民会議が南太平洋の仏核実験に対して、大規模な反対運動の展開決める。17日に在日大使館に抗議
1973/5/16
日本を含む16カ国が世界保健機関(WHO)総会に、仏の核実験に抗議する決議案を提出。5月23日の総会で圧倒的多数で可決
1973/5/16
米原潜ドラムが、横須賀に寄港。米原潜の日本寄港は94回目
1973/5/17
オーストラリアの最大の労働組合協議会が、仏との通信、輸送停止の実力行使。仏UTA航空がオーストラリア線の運航を停止。テレックス、郵便、電報不通に
1973/5/17
米政府原子力委員会が、天然ガス開発計画の一環としてコロラド州西部のロッキー山脈地下1.6キロで30キロトン原爆3個を爆発させる
1973/5/17
広島市高陽町の石田明氏が「原爆に起因する白内障と認めながら、認定申請を却下したのは、原爆医療法の立法趣旨と解釈を誤っており違法」と、厚生大臣を相手取り処分の取り消しを求める訴えを広島地裁に提出。石田氏は爆心から約750メートルの電車の中で被爆。1971年8月以降、3回、原爆白内障で認定申請。医療を受けていたにもかかわらず、「医療を要する時点で再提出してほしい」「手術を要する時点で再提出されたい」と却下。石田氏「失明したら生活はどうなるのかと考えると、『手術段階で再申請を』は、死の宣告。被爆者援護を実現するための捨て石に」
1973/5/17
仏核実験中止を求める国際司法裁判所への提訴にフィジーも加わる
1973/5/19
朝鮮記者同盟の訪日代表団(チョン・ジュンギ団長)が、原爆慰霊碑に参拝
1973/5/19
総評が仏核実験に反対の決議
1973/5/20
米原子力巡洋艦ロングビーチが横須賀港に寄港。米水上艦の日本寄港は11回目。23日に報道陣に一部公開
1973/5/21
国際司法裁判所が仏核実験に関する公開審問を開始。オーストラリアのマーフィ法相が「オーストラリアの国土は仏核実験で汚染されている。過去7年間の実験で24~26例の甲状腺がん、11~14例の白血病が発生」と証言。仏は審問をボイコット
1973/5/22
原子力委員会が、原子力発電所の原子炉設置に当たっての公聴会開催要項を決める。原子炉設置で公聴会が開かれたのは1958年に日本初の発電炉(日本原子力発電会社東海発電所)だけ
1973/5/22
長崎原対協(会長、高比良博助役)が、1973年度の運動方針として被爆者手帳の一本化などを決める(「長崎年表」)
1973/5/22
原医研が米返還被爆資料の写真のうち整理のついた398枚を公表。返還写真はすべて複写し広島市、県、原医研がそれぞれ保管
1973/5/23
世界保健機関(WHO)総会が核実験反対を決議。賛成68、反対4、棄権9。日本はオーストラリア、マレーシアなど19カ国とともに共同提案国に。米は棄権。ソ連は賛成。中国、仏、アルバニア、オートボルタが反対。英などの妥協工作で仏を名指しにはせず
1973/5/23
仏のノーベル賞受賞物理学者アルフレッド・カスラー博士、ジュール・モック元国連軍縮委代表、フランシス・ペラン元原子力庁長官が、仏政府に核実験の中止を呼びかけ。「仏の核戦略部隊が抑止能力を持つとは考えられない。実験を続ければ、他の国も核武装に走るだけ」
1973/5/24
中国新聞の連載企画「動き出す島根原発」がスタート。8回
1973/5/24
国労被爆者対策協議会(石川俊彦事務局長)が、広島市白島町の京橋川右岸緑地に建設する「国鉄労働者原爆犠牲者追悼慰霊碑」の碑文が決まる。広鉄局施設部の板谷政典さんの作。「天を撃つな/戦雲を射て/人を撃つな/戦禍を射て/原爆広島に眠る/無名の霊よ/国鉄の魂よ/霊の目はみつめ/魂の手はつかむ/平和と未来を」
1973/5/26
原爆白内障の認定申請却下を不服として訴訟を起こした広島県被爆教師の会会長の石田明さんを支援する「石田原爆訴訟をすすめる会」が、広島市で結成総会。会長に宅和純広島県教組委員長。社会、共産党系双方の広島県被団協も参加
1973/5/28
中国郵政局が原爆被爆者と被爆二世職員を対象に無料血液検査始める。希望者は約1,000人の被爆職員のわずか3%
1973/5/28
1950年、広島市沖の似島学園6年のときノーマン・カズンズ氏の紹介で精神養子縁組をした広島市の村岡治さんが、同市を訪れた米の精神親グレース・メソーブさんと初めて対面。2人が交わした手紙は150通以上。「原爆を落とした米人として、ヒロシマは私の心の負担だった。でもオサムの元気な成長と街のすばらしい復興ぶりを見て、心の痛みも和らいだ」。320件あった似島学園の精神養子縁組で、継続中は10数組
1973/5/29
世界平和アピール7人委員会の茅誠司氏、朝永振一郎氏、事務局長の内山尚三氏が仏大使館を訪ね、核実験中止を要望
1973/5/29
広鉄局と国労広島地本が、原爆被爆者問題専門委員会を設置。労使それぞれ5人で構成
1973/5/31
山田広島市長がポンピドー仏大統領に「国家の安全保障のために、核実験を正当化する思考はすでに時代錯誤」と抗議電報
1973/5/31
田中首相が、四国電力伊方原子力発電所(愛媛県西宇和郡伊方町)と日本原子力発電会社東海第2発電所(茨城県東海村)の地元住民が、行政不服審査法に基づき提出していた原子炉設置に対する異議申し立てを「理由がない」として却下
1973/5/31
米の消費者運動指導者ラルフ・ネーダー氏が、米政府原子力委員会を相手取り、ワシントンの連邦地裁に原子力発電所閉鎖を求める訴訟。「米の31の原発のうち20の発電所は非常時対策が不十分」
1973/5/--
耳の不自由な体に被爆、母と子どもを亡くしたうえ、離婚、2度の交通事故と重なった広島市の藤枝良枝さんが体験記「ヒロシマに生きて」を自費出版
1973/5/--
広島市の広島文化出版社が広島文化叢書第1巻の「平和公園-広島の神話から」を出版。著者は同人誌「函」編集人の宮本善樹氏
1973/5/--
写真家の佐々木雄一郎さんが被爆直後からの広島の写真230枚を収めた写真集「広島の日記」を自費出版。写真は10万枚を超えるネガの中から選ぶ
1973/5/--
仏核実験に抗議するニュージーランドのヨット、フライが僚船スピリット・オブ・ピースと実験水域に入る
1973/5/--
広島県の被爆二世無料健康診断に厚生省の「原爆症調査・研究委託費」2,000万円流用に疑問の声

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