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ヒストリー

ヒロシマの記録1973 8月


1973/8/1
中国新聞に歌人の深川宗俊氏が「被爆朝鮮人『応徴士』を追う」と題した連載企画を掲載。戦争末期、朝鮮から連行され、広島の三菱重工で働いた朝鮮人徴用工の実態を追う
1973/8/1
原水禁国民会議の被爆28周年原水爆禁止世界大会が東京・全日通会館で始まる。森滝市郎代表委員が(1)太平洋での核実験、核基地反対に向け沿岸諸国の平和、環境保護団体と国際共同行動(2)原子力発電所建設反対-を中心に基調報告。米代表のミクロネシア友の会ロジャー・ゲール、ミクロネシア独立連合のフランシスコ・ウルドング氏、ニュージーランド労働党のJ・マジソン氏らが報告。2日目は、米ローレンス研究所のアーサー・タンプリン博士が「原子力発電所の危険性」について特別報告
1973/8/1
韓国原爆被害者援護協会の趙判石会長が核禁広島県民会議(村上忠敬議長)広島集会に出席。核禁会議の韓国被爆者診療センター建設運動に謝意
1973/8/1
核禁広島県民会議(村上忠敬議長)が広島市の労働会館で核禁広島代表者会議。1973年度運動方針として「平和の便り運動」を展開
1973/8/1
広島市の平和記念公園で「平和の灯まつり」。仏教、キリスト教、新宗連14団体が参加。1965年から毎年続く
1973/8/1
仏のシャンソン歌手、ジョルジュ・ムスタキが、自作の「ヒロシマ」をレコード化
1973/8/2
オタワの英連邦首脳会議で、カーク・ニュージーランド首相が「同会議としてすべての大気圏内核実験禁止を要求する声明発表」を提案
1973/8/2
第8回原水爆禁止科学者会議が、東京・神田の学士会館で始まる。約80人が参加、「原水禁運動の統一に科学者も積極的に協力」を確認
1973/8/2
日本被団協が原水禁3団体に「原水爆を完全に禁止し、被爆者援護法を制定するためは、原水禁運動統一が必要」との要望書を送る。被団協が統一問題で3団体へ申し入れるのは初めて
1973/8/2
中国電通局が原爆被爆職員実態調査結果まとめる。被爆二世職員は99人
1973/8/2
広島市が、被爆者収容所にあてられていた宇品の船舶練習部(現マツダ西地区)跡地を試掘。3カ所掘るが、遺骨は発見できず打ち切る
1973/8/2
「病室閉鎖の続くABCC」を中国新聞が報道。ABCCは1953年1月、「治療しないABCC」の批判をかわすため、15床の入院、治療体制をとった。しかし、病室は事実上、閉鎖され、定期検査を受ける被爆者の休憩用に使用
1973/8/3
「原爆死没者供養盆踊り大会」が広島市の平和記念公園、原爆資料館前で開催。日本民踊研究会広島支部の主催。6年前から
1973/8/3
広島市立翠町中学校で、同校の前身の第3国民学校の原爆犠牲者慰霊祭と原爆特設授業
1973/8/3
カナダ・オタワの英連邦首脳会議が、すべての核実験、とくに大気圏内の実験中止のため、5核保有国に新協定を締結するよう、全会一致で声明
1973/8/3
第19回広島市平和美術展(広島平和美術協会など主催)が、広島県立美術館で始まる。会場を初めて平和記念館から県立美術館に移す
1973/8/3
ABCCの財政負担が日米折半に。大平正芳外相、ロジャーズ米国務長官の会談(1日)で原則合意。インガソル駐日米大使「活動を維持するには平等な負担が必要。日本の研究者の不満も解消するだろう」
1973/8/4
「長崎県対馬に建設中の航行援助電波基地・オメガ局はミサイル潜水艦の航行や、ポラリスミサイルの精度を高めるための核戦略施設」。原水禁国民会議の被爆28周年原水禁世界大会に出席のため、広島入りしたニュージーランドのオーエン・ウィルクス氏が記者会見し述べる
1973/8/4
ワルトハイム国連事務総長が、5日の部分核停条約締結10周年記念日に向け、すべての核保有国が包括的核実験禁止実現のため、協力するよう訴える
1973/8/4
広島の12の被爆者団体で構成する広島被爆者団体連絡準備会が、広島市に、6日の原爆死没者慰霊式・平和祈念式で任都栗司市議を被爆者代表に選んだことで抗議、選定経過を明らかにするよう求める
1973/8/4
日本原水協の第19回原水禁世界大会東京大会が、大田区立体育館で開幕。約6,000人が参加。「いかなる問題に論議があるが、核戦争阻止、核兵器の完全禁止、被爆者援護の原水協路線で進もう」
1973/8/4
「原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑」慰霊祭。過去帳に広瀬国民学校の17人の児童の名前などが加えられ計981柱に
1973/8/4
共産党が、公明党の原水禁国民会議(社会党・総評系)の原水禁世界大会参加を非難。「原水禁運動の分裂の固定化に新たな役割を果たす」
1973/8/4
核禁会議の磯村英一議長が長崎市で「核禁会議はヒューマニズムに基づいた被爆者救援、原水禁運動を基本としており、現段階では統一はあり得ない」
1973/8/4
東京・神田の学士会館で第19回原水禁世界大会国際予備会議始まる
1973/8/4
福岡県大牟田市で死んだ被爆朝鮮人李順子さんの遺骨を広島市の戦災供養塔に納めようとの大牟田市原爆被害者の会などの運動が実り、供養塔に安置。李さんは韓国慶尚北道の出身。31歳の時、広島市で被爆し、脊髄を痛め、右腕にはケロイド
1973/8/4
日米首脳会談で渡米中の田中首相が、サンフランシスコで「原爆被爆者援護法を検討中」と語る。原爆二法の不十分さを認め、「公害病や難病、奇病対策もだが、原爆被爆者対策はそれ以上にやらねばならない。厚生省に検討させているが、具体的なものはまだ出ていない」
1973/8/5
「ヒロシマ・ナガサキ返還被爆資料展」の展示写真に写っている医師と看護婦が、27年ぶりに再会。広島逓信病院の副院長だった小山綾夫さんと本多(旧姓脇田)浜子さん
1973/8/5
創価学会広島青年部の原水爆禁止広島平和集会が初めて開催。約600人が参加
1973/8/5
東京都の被爆者団体「東友会」が、品川・東海寺で原爆慰霊祭
1973/8/5
二階堂進官房長官が広島市舟入幸町の広島原爆養護ホームと千田町1丁目の広島原爆病院を慰問。前年に続き2度目の訪問
1973/8/5
全国被爆者青年同盟(山田隆則委員長)など中核系の学生、労働者ら600人が、広島市内で「革共同大政治集会」
1973/8/5
全電通労組が広島市で全電通全国被爆者協議会の結成大会。会長に酒井喜芳全電通委員長、事務局長に近藤幸四郎広島地方支部副委員長
1973/8/5
中国新聞に現代文学研究家の江刺昭子さんが「原爆の日に大田洋子を思う」寄稿
1973/8/5
原水禁国民会議の被爆28周年原水禁世界大会が、広島県立体育館に約8,000人が参加して開幕。公明党から矢野絢也書記長ら500人が特別代表として初参加。28年間、福岡県で燃え続けた原爆の火をかかげて開会し、主催者を代表して阿部万亀四郎中立労連議長があいさつ、市川誠総評議長、成田知巳社会党委員長、矢野絢也公明党書記長が原水禁運動統一などで意見表明。2日目の6日は分科会や階層別集会。「一般戦災者を含め国家補償を求める」「韓国の被爆者を放置して真の日韓親善はあり得ない」「現在の技術では原発の危険性は大きい」などと論議
1973/8/5
共産党が原爆被爆者援護法案を発表。「広島、長崎の原爆投下は国際法違反であり、その損害賠償請求権を1952年の対日平和条約で捨てた日本政府は、被爆者、遺族、その子に対し国家補償をする義務がある」。被爆者健康手帳を一本化し、被爆二世の希望者にも交付。被爆者年金、遺族年金支給-などが柱
1973/8/6
ベトナム戦傷児救援広島委員会(代表、原田東岷氏)の招きで広島市の原田病院で治療を受けているグェン・ティ・フェット君とフォ・ディン・クイ君の2人が原爆慰霊碑など参拝
1973/8/6
原水禁西宮市協議会の被爆者37人が初めて平和記念式典に参加。1958年に結成し、15周年を記念し参加
1973/8/6
原爆死没者慰霊式・平和祈念式出席のため、広島市を訪れている諸谷義武長崎市長が、広島市に姉妹都市縁組みを申し入れ
1973/8/6
平和記念式典に参加した二階堂進官房長官が、1974年度予算で(1)従来の援護枠を超えた生活援護を実現する(2)原水爆被災資料センター建設の実施予算を計上したい(3)米に残っている被爆資料は外交ルートを通じ返還をお願いする-などの見解表明
1973/8/6
米返還被爆資料をもとに中国新聞社が編集した写真資料集「原爆の記録・ヒロシマ-米返還資料から」が発売。広島関係の写真1,205点の中から394点を掲載
1973/8/6
広島平和記念館で開かれていた「ヒロシマ・ナガサキ返還被爆資料展」再公開が終わる。7日間で2万4,028人が入場
1973/8/6
日本原水協が広島県立体育館で、第19回原水爆禁止世界大会広島大会。約3,500人が参加
1973/8/6
全日本大学写真連盟のメンバー約100人が、カメラで被爆28周年の広島を追う。1968年から続け、写真集「ヒロシマ広島」を出版している
1973/8/6
平和記念公園の戦災供養塔の前で、各派合同原爆死没者慰霊祭。世界平和記念聖堂で原爆犠牲者慰霊ミサ
1973/8/6
埼玉県庁で、広島原爆の犠牲者の霊を慰め午前9時から職員2,500人が1分間の黙とう
1973/8/6
被爆28周年。山田広島市長、永野厳雄広島県知事、田中首相代理の二階堂進官房長官、西田修一広島県議会議長、池永清真広島市議会議長、遺族、市民ら約4万人が参加し「被爆28周年原爆死没者慰霊式・平和祈念式」。公式招待を受けた長崎市の諸谷義武市長、宮崎藤美市議会議長、被爆者代表の宮城重信氏も参加。新たに原爆死没者名簿に書き加えられたのは1945年8月6日死亡の321人を含む2,650人、名簿登載数は計8万2,833人となった。原爆死没者名簿奉納を初めて被爆二世が行う。唐津麻里子さん
1973/8/6
山田広島市長が平和宣言。「全世界の強い抗議を無視して、南太平洋において核実験を強行した仏政府をはじめ、いまなお核実験を続ける米・ソ・中国など、国家主権をタテとして、自国の安全のためにのみ、核実験を正当化しようとしていることは、まさに時代錯誤であり、全人類に対する犯罪行為である。…世界平和を培う源泉は、平和のための正しい、真摯な教育であり、これこそが次の世代への「ヒロシマの心」の継承である。…真の世界平和は、法による世界秩序の確立によってのみ打ち立てられる。すべてのものが世界化する情勢下においては、もはや、一国だけの安全と繁栄はあり得ない。いまや国民国家から世界国家理念移行への時代である。人類生存条件の根本的な改善は、全世界の連帯と協力に待つほか道のないことをあえて断言する」
1973/8/6
スウェーデンのウプサラ大地震研究所が、「ソ連のウラル山脈で地下核実験が行われたもよう」と発表
1973/8/6
香港の青年が「ヒロシマの惨状を世界に伝えたい」と映画づくり。香港の証券会社につとめる龍剛さん。被爆二世の少女を主人公に描く
1973/8/6
1945年9月14日に文部省学術研究会議の特別委員会が調べた調査結果などを中心に、仁科記念財団が「原子爆弾-広島・長崎の写真と記録」を編集、光風社書店から刊行
1973/8/6
学徒動員で爆心地から1.7キロで被爆しながら全員が助かった旧広島一中3年の有志が、被爆の瞬間からの全員の行動の復元を計画。被爆29周年の8月6日午前8時15分に被爆地の広島市東平塚町の鶴見橋のたもとに全員が集合へ。世話をしているのは教師、森下弘さん。動員されていたのは一中の16、19、20学級の75人
1973/8/6
8月6日に牛田本町の自宅で被爆し、国民義勇隊の参謀長として原爆ドームで被災証明書を発行した広島市袋町の中山良二さんが体験記「原爆に想う」を出版
1973/8/6
広島市内の民間企業の「8・6休業」が減る。金融機関はオンライン化で数年前から、三菱重工業広島造船所はこの年から新たに休業を返上。週休2日制の導入で年間休日制になったため。全面休日は東洋工業(現マツダ)、広島ガス、十和
1973/8/6
広島市内の川で広島市祭委員会(村田可朗委員長)が主催し1万2,000個のとうろう流し
1973/8/7
オーストラリア政府がラヌーフ駐仏大使を本国召還。「駐仏大使のポストは仏の核実験に対する不満の表明として、今後数カ月間、空席となろう」
1973/8/7
社会党の石橋政嗣書記長が国会内で「原水禁運動の統一機運が生まれてきたのは事実だが、共産党が『いい核兵器』と『悪い核兵器』があるという見解を改めない限り統一は難しい」と語る
1973/8/7
広島市内の被爆孤老、松重ハナさんが広島原爆病院に1,000万円を寄付
1973/8/8
山口市芝崎町、江良墓地で被爆旧軍人死没者の慰霊祭が営まれ、木製の墓標立つ。原爆被爆者福祉会館ゆだ苑の追跡調査によって被爆軍人の埋葬が分かる
1973/8/8
爆心から350メートルの広島市本川町1丁目、本川国民学校の生存者が、「奇跡の女教師」以外にもう1人判明。横浜市の居森(旧姓筒井)清子さん。当時本川国民学校の6年生。広島市原爆被災復元委員会(志水清会長)の調査で判明し、女教師の堀江克子さんと28年ぶり再会
1973/8/8
長崎市が原爆死没者名簿に新たに1,238人を記載、奉安名総数4万6,991人となる(「長崎年表」)
1973/8/8
「ヒロシマ・ナガサキ返還被爆資料展」の全国巡回始まる。中国新聞社の呼びかけで全国有力地方紙が協力。京都市(京都新聞)、山形市(山形新聞)、新潟市(新潟日報)、宇都宮市(下野新聞)、大宮市(埼玉新聞)、熊本市(熊本日日新聞)、宮崎市(宮崎日日新聞)など
1973/8/8
日本原水協の第19回原水禁世界大会長崎本会議の開会総会が、長崎市で始まる。草野信男代表委員が「米を起動力とした核軍拡競争を断ち切るための核兵器完全禁止国際協定の締結」「日本の核基地化防止と非核三原則の立法化」「被爆者援護法の早期制定」「原水禁運動の組織と運動統一のための大衆運動の盛り上げ」などを強調
1973/8/9
原水禁国民会議の被爆28周年原水禁世界大会が長崎国際体育館で閉会総会。安恒良一総評総括幹事、石橋政嗣社会党書記長、松本忠助公明党副書記長が出席。「すべての核兵器禁止をめざし、日本の核武装を阻止し、原子力発電所、再処理工場建設に反対。被爆者援護法を闘いとる中で、原水禁運動を強固なものとし、いかなる国の核兵器にも反対し、運動の大統一をめざす」とのアピール採択
1973/8/9
山田広島市長と諸谷義武長崎市長が長崎市で、平和活動の連携を申し合わせ。ワルトハイム国連事務総長、田中首相などへ平和確立の要望書提出へ
1973/8/9
被爆28周年。長崎市で原爆犠牲者慰霊平和祈念式典。山田広島市長、明星正明広島市議会副議長、任都栗司広島市原爆被爆者協議会副議長が初めて公式招待を受け参列。諸谷義武長崎市長が平和宣言。「日中国交の正常化、ベトナム和平協定の締結等国際情勢は、いくらか雪解けの機運にあるとはいえ、なおいまだに、ごく最近においてすら核実験が行われている。われわれの切実な抗議や、世界の多くの国々から中止の要請があるにもかかわらず、それは無視され、強行されている。人間だれしもが願う平和への悲願を踏みにじるものとして、断じて許すことはできない」。広島市が長崎被爆時間に初めてサイレンを鳴らす
1973/8/10
長崎市で第3回被爆教師の会全国連絡会。6都府県の約50人が参加。会長に石田明広島県被爆教師の会会長を3選。(1)広島、長崎を原点とする平和教育運動の推進(2)被爆教師の生命と健康を守るため労働条件改善をめざす(3)各県に被爆教師の会を組織する(4)広島の石田原爆訴訟を支援する-の運動方針を決める
1973/8/10
日本原水協の第19回原水禁世界大会が長崎市で閉会総会。「核軍拡競争に終止符を打ち、核戦争の危険を根絶するため、米、ソ、英、仏、中の参加する核兵器完全禁止の国際協定を要求する」と大会決議
1973/8/11
山田広島市長、諸谷義武長崎市長が、ワルトハイム国連事務総長らに送る「核実験の全面禁止と核兵器廃絶のための世界連帯への要請」内容を発表。「核戦争防止の米ソ協定は、国家主権をたてに、力の論理を根底とする限り核戦争の歯止めにはならない。世界の安全を保障する国連の責務に期待し、権威ある平和維持機構のもとで核実験全面禁止と核兵器の廃絶を実現してほしい」。仏核実験に抗議しニュージーランド、オーストラリア、スウェーデン、ペルー、カナダの5カ国首相あてには「核実験全面禁止、核兵器廃絶を求めるヒロシマ、ナガサキの願いをさらに支援していただき、恒久平和のために尽力してほしい」との内容
1973/8/12
原爆犠牲者慰霊・世界平和祈念市民大行進が南北の2コ-スで行われる(「長崎年表」)
1973/8/14
米政府原子力委員会が「ソ連はタシケント北西部で地下核実験を行った」と発表
1973/8/16
試運転中の中国電力島根原子力発電所で、原子炉内の振動計が最初から故障して稼働していなかったことが分かる。中電は県に連絡しないまま2カ月運転。試運転を中止、炉を開けて点検へ。11月からの営業運転は1974年1月以降と大幅遅れへ。伊達慎一郎島根県知事が「運転を中止するような事故は重大であり、発生時に連絡の義務がある。半月もたってからの連絡は協定違反」と中電を非難
1973/8/16
仏核実験抗議のため実験海域に入ったカナダのヨット、グリーンピース3世が仏海軍警備隊に捕獲され、乗組員4人は実験基地に移送
1973/8/16
広島市が、独自事業として被爆二世の健康診断を始める。初日は原対協で16人。1,300人を予定
1973/8/17
原子力船「むつ」の行き詰まり打開のため、科学技術庁が「原子力船むつ対策協議会」を結成、初会合。関係省庁と青森県で構成
1973/8/17
シュレジンジャー米国防長官が、ソ連が4種類の複数目標弾頭(MIRV)を開発と発表。4個の核弾頭を持つSSX17、6個のSSX18、16、19の4種類
1973/8/17
広島「折鶴の会」(河本一郎世話人)の女生徒ら12人が韓国政府の招待を受け、在韓被爆者慰問へ出発。4回目。広島生まれの韓国人被爆二世4人が同行
1973/8/17
「ヒロシマ・ナガサキ返還被爆資料展」岡山展が天満屋デパートで始まる。広島、長崎、岡山市、岡山放送、中国新聞社主催。元広島逓信病院長の蜂谷道彦氏夫妻も訪れる。21日までに3万2,822人が入場
1973/8/18
韓国ソウル市への原爆病院建設資金問題打ち合わせのため、徳山ニューライオンズクラブの山下武男前会長らが韓国へ。韓国側はすでにソウル市内に1万7,000平方メートルの土地を用意し、鉄筋7階建て150床の病院設計図を完成させている。経費10億円
1973/8/19
山田広島市長が仏政府に「(実験は)ヒロシマ、ナガサキの平和祈念式を冒とくし、被爆市民の核廃絶の願いを踏みにじる」と抗議電報
1973/8/19
ニュージーランドのカーク首相が「仏がムルロア環礁で3回目の核実験をした」と声明。オーストラリアのホイットラム首相も同じ声明
1973/8/19
ビキニ水爆実験で被曝したマーシャル諸島で6人の新重症患者。米のミクロネシア独立擁護団体「ミクロネシアの友」が明らかにする。うち3人は米政府が、「ビキニ環礁からは距離も遠く、被曝地とは認められない」としていたウトリック島出身
1973/8/20
仏核実験に抗議し広島被爆者団体連絡会議準備会(近藤幸四郎事務局長、13団体)が原爆慰霊碑前で正午から1時間座り込み。山田広島市長代理として初めて広島市平和文化センターの木山香寿美次長が座り込む
1973/8/20
日本原子力研究所東海研究所の研究用原子炉(JRR3)で、点検作業中の作業員2人が放射性のチリ(コバルト60)を吸い込む被曝事故
1973/8/21
山田広島市長と高比良博長崎市助役が、東京のペルー、ニュージーランド、カナダ、スウェーデン、オーストラリア大使館を訪れ、「国連を舞台に核兵器廃絶運動の展開を」との要請書を手渡す
1973/8/23
広島公演中の北朝鮮国立平壤マンスデ芸術団の代表15人が原爆慰霊碑に参拝
1973/8/24
米政府原子力委員会が米国内10カ所のゼネラル・エレクトリック社製の沸騰水型炉(BWR)原発の出力を5~25%削減するよう命令
1973/8/24
仏大使館から山田広島市長と広島被爆者団体連絡会議準備会に「仏核実験白書」(6月28日発表)の邦訳版届く。白書は「核兵器の完成は仏の安全と独立のため必要」とし「実験の無害性を確信」と強調。山田市長「結局は国家エゴ。核実験を正当化することはできない」
1973/8/25
結核、原爆症治療のため広島赤十字病院に入院、その後、広島の吉島刑務所で服役していた密航韓国人被爆者、孫振斗氏が8月24日刑期を終え、長崎県の大村収容所へ。仮釈放申請は認められず
1973/8/25
米原潜ハドックが横須賀に入港
1973/8/25
山田広島市長がポンピドー仏大統領に、核実験抗議の電報を打つ
1973/8/25
ホイットラム・オーストラリア首相が「仏はムルロア環礁で4回目の核実験を行った」と発表
1973/8/26
広島・長崎の共同研究による被爆二世の遺伝的影響に関する研究・調査項目が決まる。両県市の衛生部・局長が長崎市で会合を開き決定。広島が「被爆者家族の被病状況に関する研究」、長崎が「被爆者家族の家系要因と健康に関する調査」「被爆者家族の学童期における身体発育状況に関する研究」
1973/8/27
四国電力が建設中の伊方原発に反対している伊方原発建設反対八西連絡協議会の川口寛之会長ら住民代表35人が、国を相手取って松山地裁に、同原発設置許可処分取り消しと執行停止を求める行政訴訟を起こす。「原発は安全性に問題がある上、審査手続きも違法でずさん」。原発建設許可をめぐって住民が国と争うのは初
1973/8/27
仏の4回目の核実験に抗議し被爆者団体の代表約120人が、正午から1時間、原爆慰霊碑前に座り込む。山田広島市長も中途から約10分間加わる。広島市長の座り込みは初めて。山田市長「座り込みは被爆者の祈りであり無言の抗議だ。市民のやむにやまれぬ行動をくみ取って、広島市としてとるべき道を考えたい」
1973/8/28
米政府原子力委員会が「ソ連は27日夜、地下核実験をした」と発表。実験地域は北部カザフ地区
1973/8/28
日本科学振興財団が科学技術庁へ「科学技術館」(東京・千代田区)に展示していたウラン・インゴット2本が盗まれたと届け出
1973/8/29
5回目の仏核実験に抗議し、広島被爆者団体連絡会議準備会(近藤幸四郎世話人、13団体)の代表約100人が午後6時から原爆慰霊碑前で24時間ハンスト。2つの広島県被団協の田辺勝理事長、森滝市郎理事長、山田広島市長代理の佐々木英男平和文化センター局長、近藤幸四郎世話人、浜本万三広島県労会議議長ら。30日午後6時までには準備会の13団体のほか、ABCC労組など20団体も加わり、参加者は延べ170人。ハンスト貫徹は13人。「仏核実験に抗議するための広島市民集会」を開き、抗議文を採択、ソ連核実験にも抗議電報
1973/8/29
山田広島市長がソ連、仏核実験に抗議の電報。1972年3月20日以来
1973/8/29
ニュージーランドのカーク首相が「仏は南太平洋で核実験を行った」と発表。今期5回目
1973/8/29
動員学徒として被爆死しながら「防空補助要員」という名称の違いのため遺族年金を支給されなかった広島市内の遺族に、厚生省が初めて年金支給を認める
1973/8/31
広島市が実施した被爆二世実態調査(被爆者とその家族の調査)の概要まとまる。対象2万8,900人余のうち、現在大病にかかっている1,623人、5.6%、過去に大病にかかった二世3,327人、11.5%。合わせると4,950人、17.1%。被爆二世問題に関する親の意見で最も多いのは「子どもにも被爆者健康手帳を」の48.3%
1973/8/--
広島市中心部から約20キロ離れた広島市沼田町の森本真静さんが、被爆当時飛んできた横95センチ、縦50センチのベニヤ板を28年間保存。地元の公民館で開く「沼田地区戦災関係資料展」に出品へ
1973/8/--
山口市芝崎町にあった旧山口陸軍病院で死亡した被爆軍人の遺体が同町江良地区の共同墓地の一角に埋葬との証言。原爆被爆者福祉会館ゆだ苑が調査
1973/8/--
広島市内の山陽本線神田川鉄橋(現猿猴川鉄橋、爆心地から1.5キロ)で被爆し、貨物列車もろとも京橋川に転落し、殉職したと信じられていた機関士が生存。山口県大島郡大島町の片元武美さん。午前8時8分、広島操車場から下り貨物列車49両を発車、神田川鉄橋上で被爆し、車両は上り線路上に転覆。復旧工事のため、列車は線路わきに落とされ「転落、殉職」のうわさが定着。国労慰霊碑の建設調査で生存が判明
1973/8/--
赤字が続く広島原爆病院。1956年に開院後、赤字がなかったのは最初の10年間。1966年からの累積赤字は約1億1,000万円。入院患者の固定化、外来患者の減少、原爆症研究部門の無収入などが原因
1973/8/--
広島県被団協(森滝市郎理事長)が被爆者証人捜しを始めて1年。139人が依頼し、証人の見つかっていないのは1人だけ。139人のうち90人が軍人
1973/8/--
中国行政監察局が広島県に広島市舟入幸町、広島原爆養護ホームの寮母についてチェックを指示。一部寮母に給食のピンはね、日用品の私物化などの事実
1973/8/--
中国新聞が「広島市街地の再開発次々消える原爆遺跡」を掲載。被爆資料を収集している山崎与三郎さんが1968年に作成した「原爆遺跡リスト」にある95カ所のうち福屋屋上の絵など9カ所がなくなり、今回(1973年)調査で15カ所が姿を消す
1973/8/--
広島県私学教職員組合婦人部が「わが内なるヒロシマと戦争」をテーマに教材用文集「平和教育教材づくり1(平和を考える)」を刊行
1973/8/--
小学館発行の「小学六年生・8月号」と「少女コミック・33号」の鈴原研一郎氏作の「この命ある限り」が、「被爆二世と白血病を単純に結び付け、ゆがんだ二世像を描いている」と、被爆者団体などが批判
1973/8/--
8ミリ愛好家でつくる「広島エイト倶楽部」の会員2人による広島の悲劇の作品化が進む。医師松原博臣さんの「太陽の消える時」、酒造会社経営川本昭人さんの「私のなかのヒロシマ」
1973/8/--
堺市の福西佐嗣さんが、丸木位里、俊夫妻の原画を基に「原爆図」を西陣のつづれ織りで製作
1973/8/--
広がる平和教育。福岡県内で県教組の決定に基づき小、中学校962校のうち約半数が初めて平和教育。大分県は前年に続き587校中、571校が取り組む
1973/8/--
東京空襲を記録する会の松浦総三事務局長が「広島、長崎の被爆資料がまだ米国立公文書館にある」と明らかに。広島県が1945年10月1日現在で調べた広島県内の主要都市の人口、広島市祇園町で原爆投下を目撃した外国人神父の手記など
1973/8/--
「原爆の図・丸木美術館」(埼玉県東松山市下唐子)の分館を栃木県下都賀郡岩船町に計画。同町の山中鹿之助さんと阿部恒二さん

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