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ヒストリー

ヒロシマの記録1972 2月


1972/2/1
米ニューヨーク・タイムズ(1日付)が「中国は大幅に改良された推力装置を持つ中距離弾道ミサイル(IRBM)の配備を開始した」と報じる
1972/2/1
兵庫県赤穂市の「公害をなくす赤穂市民の会」が岡山県に対し、中国電力が岡山県和気郡日生町の鹿久居島に計画している原子力発電所の建設反対を申し入れ
1972/2/1
広島市監査委員が「平和記念公園内にある新広島ホテルは都市公園法に違反」として、山田市長に速やかな適法措置を要請。同法第5条で公園管理者以外のものが公園施設を管理する時は市への申請書提出と市の許可がいるが、その手続きがなかった
1972/2/1
「原水爆被災資料センター設立準備委員会」が発足。日本学術会議が政府に設置を勧告した同資料センターを早急に開設するため、広島、長崎の学者、市民サークル代表ら約50人が広島大原医研で会合。世話人に今堀誠二広島大教授、金井利博中国新聞論説主幹ら6人を選ぶ
1972/2/2
原爆が被爆者の生活に与えた影響などを社会学的に研究する「被爆者生活史調査班」(代表、那須宗一中央大教授)が広島大原医研で調査方針を協議。3日も。(1)戦後の経済、社会変動が被爆者に与えた影響(2)原水禁、被爆者救援運動と被爆者のかかわり-の2点を中心に調査、研究することを確認
1972/2/3
三菱原子力工業会社の臨界実験装置の撤去訴訟で、浦和地裁の装置文書提出命令を不服とする同社が東京高裁に即時抗告
1972/2/3
岡山県議会の厚生環境委員会が、岡山県和気郡日生町の鹿久居島に中国電力が建設を計画している原子力発電所問題を協議。「放射能排出などに関する安全性が確認されない限り、建設は適当でない」と超党派で決議
1972/2/4
「広島と沖縄を結ぶ教師の会」結成準備のため沖縄を訪問した広島県教組の宅和純委員長が広島に帰り語る。「沖縄県教職員組合の全面的な賛同を得たので結成のめどがついた」
1972/2/5
米ワシントン・ポスト紙(5日付)が「日本の電力会社が米国内に10億ドルでウラン濃縮工場建設を検討」と報じる
1972/2/6
広島県教組が広島教育会館で第4回平和教育推進委員会を開き、教科書出版会社や執筆者に原爆記述について初の公開質問状を出すことを決める。原爆問題の取り扱いや原爆学習の必要性など4項目
1972/2/7
動力炉・核燃料開発事業団が「日本初のプルトニウム核燃料製造工場が東海事業所(茨城県東海村)に完成し、16日から運転を開始」と発表
1972/2/9
広島原爆病院が1971年1年間の診療概況を発表。入院、死亡者とも悪性腫瘍が増え続ける。外来患者は延べ4万9,528人で、開院(1956年)以来の受診件数は48万6,002人。入院総数は638人、うち死亡は76人
1972/2/9
全電通中国地本と全電通広島被爆者連絡協議会が被爆組合員710人とその二世の実態調査に乗り出すことを決める。親の被爆状況や二世の健康状態などを調査。被爆二世の実態を調査中の国労とタイアップ
1972/2/11
大石武一環境庁長官が、岡山県和気郡日生町の鹿久居島に中国電力が建設を計画している原子力発電所のボーリング調査について「地元住民が納得すれば許可してもよい」と語る。地元の日生町漁協などが反発
1972/2/12
歌手の真山一郎さんが広島原爆病院を訪れ、被爆二世をテーマにした新作歌謡浪曲「ああヒロシマ」を披露。劇作家中沢啓治さんの劇画「ある日突然に」をもとに、福山市の飯山栄浄さんが脚色。真山さんは下松市出身、原爆で20人余りの親戚を失う
1972/2/12
広島市公会堂運営委員会が平和記念公園内の新広島ホテルの存続問題を協議。1973年度までの期限付きで市とホテルの委託管理契約を認めることを決定。同ホテルの2年後閉鎖が決まる
1972/2/12
広島県被爆教師の会が広島市の幟町共済会館で開かれ、沖縄の被爆教師1人を8月4日に広島市で開く平和教育シンポジウムに初めて招くことを決定。国労、全電通など職域の被爆者組織と連携し、被爆二世調査など合同運動を進めることも決める
1972/2/14
原子力委員会の山田太三郎委員が、原子力開発利用新長期計画の大筋を明らかにする。現行の原子力発電開発見通しを大幅に引き上げ、1985年に6,000万キロワット、1990年には1億キロワットを目指す
1972/2/14
米医学誌「ジャーナル・オブ・ジ・アメリカン・メディカル・アソシエーション」(2月14日号)で広島、長崎のダ液腺腫瘍研究報告が発表される。ABCCと米公衆衛生局の共同研究で、1957~70年の14年間のデータを分析。「症例は少ないが被爆すると何年もたってからダ液腺がんになると結論せざるを得ない」
1972/2/14
核爆発のキノコ雲を図案化した核拡散防止記念切手が国連本部で発行。8セント(米通貨)と40サンチーム(仏通貨)の2種類
1972/2/14
広島市が原爆資料館の入場料を4月から値上げする計画で、3月市会に「広島平和記念資料館条例の一部改正案」を提案へ。1955年開館以来、据え置きになっている大人20円を50円、子供10円を30円に
1972/2/14
中国電力の鹿久居島原子力発電所の建設計画に反対する岡山県和気郡日生町の日生町漁協と頭島漁協の代表が同県と県議会厚生環境、総務両委員会に「原発計画をやめるよう国などに働きかけてほしい」と陳情
1972/2/16
中国電力が岡山県和気郡日生町の鹿久居島に予定している原子力発電所の建設計画で、大石武一環境庁長官が日生町漁協の陳情に「瀬戸内海だけは原発の建設をやめようと思っている」と発言。ボーリング調査への前向き発言から一転、不許可を示唆
1972/2/17
原対協が広島原爆被爆者福祉センターで実施している被爆者らの職業補導のうち「孔版科」を4月から廃止へ。受講者の減少などが理由。残り4部門も3月15日からの受講生募集で計90人と従来より75人減り、受講生らは「廃止の布石」と批判
1972/2/17
広島市議会共産党議員団と広島県原水協(佐久間澄理事長)、広島県被団協(田辺勝理事長)が、原爆資料館の入場料値上げ問題で広島市に相次いで抗議文
1972/2/17
チェコスロバキアの子供たちが描いたヒロシマの絵50点が広島県被爆教師の会に届く。1971年9、10月、石田明会長がチェコスロバキアのプラハを訪問した際、教師に依頼
1972/2/18
茨城県東海村の日本原子力研究所東海研究所の動力試験炉が炉心改造後初の臨界に達する
1972/2/20
「第1回民主教育をすすめる広島県民大集会」で、原爆資料館の値上げ反対を緊急決議
1972/2/21
広島県原水禁(社会党・総評系)の森滝市郎理事が常任理事会で、「8月の原水禁世界大会で原水禁国民会議と日本原水協の両団体が平和教育をテーマに共同集会を開き、運動統一への足がかりにしたい」と提案。平和教育への取り組みを通じ原水禁運動の統一を目指す
1972/2/21
日本政府が世界有数のウラン資源国オーストラリアと「日豪原子力協定」をキャンベラで締結。核燃料の安定確保を目指す
1972/2/21
広島県原水禁(社会党・総評系)が常任理事会で、原爆資料館の入場料値上げ反対を決議。山田広島市長に抗議へ
1972/2/22
島根県が中国電力との間で進めている島根原子力発電所の安全確保協定について、県議会水商厚生委員会で中間報告。(1)協定の適用範囲を発電所周辺に限定し、放射能と温排水の安全を主眼とする(2)緊急事態が発生した場合、県は立ち入り調査をする(3)監視体制を整え、資料は公表して住民の不安除去に努める(4)放射能に関する技術者の専門委員会を設ける-の4点が基本
1972/2/23
広島県教組が中央委員会で、原爆資料館の入場料値上げ問題で「子供は入場無料にするよう」広島市に申し入れることを決める
1972/2/23
急性骨髄性白血病で日赤長崎原爆病院に入院中だった被爆二世の長崎市戸石町、鳥越保男君(長崎市立商高3年)が死去
1972/2/23
長崎市の長崎大医学部記念同窓会館で「原水爆被災資料センター」の設置を推進する設立準備懇談会。同センター設置を目指す運動が長崎でも活発化
1972/2/25
呉市議会総務水道委員会の委員ら13人が米軍川上弾薬庫(広島県賀茂郡八本松町)の「核問題」で弾薬庫内を視察。核は見当たらず。前年暮れの国会で公明党議員が「沖縄の核ミサイル基地と同じ『4』マークが川上、秋月(同県安芸郡江田島町)両弾薬庫にもある」と発言したことから問題化
1972/2/25
ソ連のH2型原子力潜水艦がニューファンドランド北東約1,000キロの大西洋上で故障し、5日間漂流-と米大西洋艦隊司令部が29日に明かす
1972/2/25
ソ連ボルゴグラード市のゲオルギー・ボイコ地方労組議長ら3人が広島を訪問。広島県労会議の招きで、原爆慰霊碑に参拝、原爆資料館を見学
1972/2/25
原子力発電用核燃料の供給量拡大について日米が合意し、ワシントンで政府間書簡を交換。日本の原発増設に合わせ濃縮ウラン供給量を計335トンに拡大
1972/2/26
日仏原子力協定が外務省で調印。有効期間は10年。仏からの核物質受け入れを円滑にするのが主な目的。日本の原子力協定は米、英、カナダ、オーストラリアに次いで5番目。9月22日発効
1972/2/26
中国電力と島根県が進めている中電島根原子力発電所(八束郡鹿島町)に関する安全協定について、共産党県委員会が「住民の立ち入り調査権確保」など12項目を伊達慎一郎知事に申し入れ
1972/2/26
広島県原水禁(社会党・総評系)が広島市の労働会館で3・1ビキニ被災18周年広島県集会を開き、約100人が参加。ビキニ水爆実験で被災したミクロネシア住民の現状をスライド上映
1972/2/27
英の最高峰ベンネビス山の石で造られた世界平和のための記念碑を広島市の平和記念公園に贈る式がダッドリー市で行われ、在英大使館員が同市長のロジャーズ女史から受け取る。記念碑は3月28日、広島市に届き、8月2日に「原爆の子の像」横に「平和の石塚」として除幕式。1967年、広島青年会議所がダ市に平和を祈る記念碑を贈ったお返し
1972/2/27
原爆医療法による認定申請をめぐり訴訟中の尾道市原田町、農業桑原忠男さんを支持する「桑原さんを励ます会」(三井一雄会長)の結成集会が同市内の尊光寺で開かれる。尾道原爆被害者の会と原水禁尾道地区協議会が音頭を取り、被爆者ら17人が集まる
1972/2/29
ミクロネシア議会がビキニ水爆実験(1954年)で被災したマーシャル諸島のロンゲラップ、ウトリック両島被災者の特別調査委員会を設置-とミクロネシア独立擁護連盟リーダーのフランシスコ・ウルドング氏(ミクロネシア議会書記)が明かす。前年末、原水禁国民会議(社会党・総評系)調査団が米信託統治領行政府の拒否で十分調査できなかったため「現地の自国民の手で独自調査を」と委員会を設置。ウ氏は同国民会議の招きで来日
vv1972/2/29
原水禁国民会議(社会党・総評系)が静岡市の静岡県評会館でビキニ被災18周年3・1全国拡大代表者会議。3月1日「原水禁運動の統一を目指し、8月の原水禁世界大会で平和教育部門で日本原水協(共産党系)と共同行動を申し入れる」など1972年度運動方針を決める
1972/2/29
1972年のジュネーブ軍縮委員会が再開。非同盟諸国を中心とする強い軍縮要求を背景に、ワルトハイム国連事務総長が演説で核保有国の技術進歩を阻止する重要性など核軍縮の進展を強調
1972/2/29
日本原水協(共産党系)が静岡市の静岡県民会館で初の被爆二世問題懇談会を開き、8月を目標に二世や母親を中心にした全国組織の結成準備を申し合わせ
1972/2/--
「庄原・原爆の記録」第1集(B5判、47ページ)が発刊。庄原市内の小学校教諭で組織する社会科同好会(久保田一爾代表)が同市内に収容された被爆者の実態や看護、救援に当たった市民の体験談を収録
1972/2/--
被爆者青年同盟(児玉隆博委員長)が「君は明日生きるか」を出版。1971年7月31日結成以来の活動記録と被爆二世の手記をまとめる。販売益金は全国被青同などが建設中の高陽病院の資金に 1972/2/--
岡山県議会が同県和気郡日生町鹿久居島への中国電力原子力発電所建設に反対の意見書を採択

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