×

ヒストリー

ヒロシマの記録1972 3月


1972/3/1
ビキニ水爆実験の被災で死亡した第五福竜丸の故久保山愛吉さんの墓前祭が焼津市の弘徳院で行われる。日本宗教者平和協議会主催。日本原水協(共産党系)のビキニデー集会参加者約1,000人も出席
1972/3/1
元米空軍曹長アル・ハバド氏の核兵器輸送発言で、防衛庁が外務省を通じ在日米大使館に調査を要請。同大使館は「核兵器について事前協議に違反したことはない」と核持ち込みを否定
1972/3/1
日本原水協(共産党系)の3・1ビキニデー集会に参加した元米空軍曹長で米の「反戦ベトナム帰還兵の会」書記長のアル・ハバド氏が「1960年から4年間、数十回にわたって米本土から日本や沖縄の米軍基地に核兵器を輸送した」と証言。「私の乗り組んだ飛行機に核兵器を積んで三沢、横田基地に着陸した。ほかの乗員は三沢、千歳、沖縄の基地に核兵器を積んで着いた。核兵器が日本本土に貯蔵されたかどうかは断言できない」
1972/3/1
パリ在住の画家西村計雄画伯の大作「ヒロシマ」が東京・銀座の東京セントラル美術館で披露。原爆の炸裂で太陽も裂けるさまを描いた300号。西村画伯「文化を尊ぶ仏が核実験を繰り返す現状にたまりかね、日本人としてヒロシマを描いた」
1972/3/1
3・1ビキニデー。日本原水協(共産党系)が焼津、静岡市でビキニ被災18周年の問題別集会や全体集会。原水禁国民会議(社会党・総評系)は焼津市で3・1原水爆禁止大衆集会。ミクロネシア独立擁護連盟リーダーのフランシスコ・ウルドング氏が出席。集会でビキニ水爆実験のミクロネシア被災者支持を決議
1972/3/2
衆院予算委員会で社会党の楢崎弥之助氏が米軍岩国基地の核疑惑について質問。「基地の電話帳にはNBC(核、生物、化学兵器)小隊、ガード兵、技術者、補給・作戦・点検将校が記載されているが、NBC兵器が存在しなければ必要ないはず」。江崎真澄防衛庁長官は「疑いのある名称もなくはないが、前国会で核について国民的な不安があったことを踏まえ、1月のサンクレメンテ日米首脳会談で首相、外相からニクソン米大統領に『核を無断で日本に持ち込むことのないよう』要請した」
1972/3/2
尾道市原田町の桑原忠男さんの「原爆症認定訴訟」第4回口頭弁論が広島地裁であり、原告側証人の富永初子さん(広島市江波東2丁目)が被爆者として初めて証人に立ち、原爆医療法の認定制度の不備を証言
1972/3/3
共産党の不破哲三書記局長が「沖縄の米軍基地にB43など4種の核爆弾が存在するという米軍資料を入手した」と発表
1972/3/4
久保勘一長崎県知事が県会で「厚生省とは別に県独自で被爆二世の実態調査、検診を実施したい」と答弁。行政機関が被爆二世問題を取り上げるのは初めて
1972/3/4
ミクロネシア独立擁護連盟リーダーのフランシスコ・ウルドング氏が広島を訪問。江崎治夫広島大教授や原田東岷医師に、18年前のビキニ水爆実験の放射能障害に苦しむミクロネシア住民のため専門医師団派遣を要請。5日は被爆者と懇談、原爆慰霊碑に参拝、原爆資料館を見学。6日、山田広島市長や広島原爆病院の重藤文夫院長に広島で治療を受けられるよう要請
1972/3/5
長崎市立山町の長崎県営ユースホステルで「長崎青年と被爆二世の会」(白石真子会長)の結成式。(1)被爆二世の実態調査の早期実施(2)核兵器禁止協定の締結(3)被爆二世にも援護法を制定-など決める
1972/3/6
関西電力大飯発電所1、2号機(各出力117万5,000キロワット)=福井県大飯郡大飯町=が原子力委員会原子炉安全審査会の審査をパス。100万キロワットを超す大型原子炉は米でも運転実績がなく、国内初。8日の衆院科学技術特別委員会で野党が「安全性で問題がある。設置認可を慎重に」と追及
1972/3/7
原爆治療のため日本に密航し、出入国管理令違反で有罪が確定した韓国釜山市の孫振斗氏が亀井光福岡県知事を相手取り、福岡地裁に被爆者健康手帳の交付を求める行政訴訟。手帳交付訴訟は全国初めて。広島で被爆した孫氏は1970年12月2日、佐賀県に密入国。一審の佐賀地裁唐津支部は懲役10月の判決。福岡高裁も控訴を棄却し刑が確定。福岡刑務所に服役したが肺結核の疑いで刑の執行を停止、国立療養所福岡東病院に入院
1972/3/7
ジュネーブ軍縮委員会の西堀正弘大使が、日本の軍縮委に望む態度を表明。(1)大国による核軍縮の必要(2)化学兵器の即時禁止-などが柱
1972/3/7
国鉄の理事会が広島市内の宇品線を4月1日から廃止を決定。宇品線は1966年12月から広島-上大河町2.4キロの定期旅客と貨物を残し既に廃止
1972/3/8
日本への核兵器輸送を証言した元米空軍曹長で「反戦ベトナム帰還兵の会」書記長のアル・ハバド氏が広島市を訪問。原爆慰霊碑に参拝、同市内の広島労働会館で共産党系の広島県原水協、広島県被団協と懇談。「人間が人間に対して行っている非人道的行為をやめさせるため全力を尽くす決意を固めた」とあいさつ
1972/3/10
核禁広島県民会議(民社党・同盟系)が常任理事会で、韓国の被爆者が集中する慶尚南道陜川郡に被爆者診療所を建設するため、1,000万円の募金活動を決める。1971年に続き韓国被爆者検診医師団派遣も決定
1972/3/10
スウェーデンのウプサラ大地震研究所が「セミパラチンスク地区でソ連が行った地下核実験を探知」と発表
1972/3/10
来日中のエチェベリア・メキシコ大統領が佐藤首相と会談。14日、「核軍縮をはじめとする軍縮の進展に努力」などの共同声明
1972/3/10
世界トップレベルの核融合反応実験装置JFT2が茨城県東海村の日本原子力研究所核融合研究室でほぼ完成し、公開。4月6日、火入れに成功
1972/3/12
被爆二世をテーマにした映画「ヒロシマの子」(仮題)製作上映実行委員会が映画のタイトルを「小さな恋人たち」に決定。13日、広島市の平和記念館での総会で関係者約100人が映画の成功を誓い合う。9月一般公開を予定したが、シナリオ完成が遅れる
1972/3/13
広島大原医研が被爆者治療の研究調査をする韓国人研究生1人の受け入れを決め、招請状を送る。慶尚南道陜川郡保健所の鄭昌生所長で、原医研や広島原爆病院などで被爆者健康管理や診療法を研修。日本学術振興会に受け入れを働きかけたが断られ、核禁会議が滞在費負担、原医研が研究協力することで受け入れ
1972/3/13
岡山県議会総務委員会が、中国電力の同県和気郡日生町鹿久居島原子力発電所の建設計画で地元漁協などから出された4つの反対陳情、請願を満場一致で採択
1972/3/13
日本への核兵器輸送を証言した米「反戦ベトナム帰還兵の会」書記長アル・ハバド氏を招き、東京の衆院第2議員会館で「真相を聞く会」が開かれ、衆参両院の野党議員15人が出席。沖縄出身の革新系と参院二院クラブの議員が呼びかけ
1972/3/13
米政府原子力委員会が「1964年に大気圏内で燃え尽きた海軍の衛星が南半球の12カ国に放射性プルトニウムをまき散らした」と発表。量は約900グラムで、米ソ両国の300回を超す大気圏内核実験で南半球に降下したプルトニウムの六分の一に相当
1972/3/15
中国電力が島根県八束郡鹿島町に建設中の島根原子力発電所に、国産第1号の原子炉本体が陸揚げ。バブコック日立呉工場が2年がかりで作る
1972/3/15
中国電力が山口県内に原子力発電所立地を検討している問題について、橋本正之知事が同県議会で「原発というだけで設置を拒む考えはない。適当な場所であれば、安全性を検討しながら対応する」と答弁
1972/3/16
社会、公明、民社3党が議員立法の「原爆被爆者援護法案」を国会に提出。現行の原爆医療法と原爆被爆者特別措置法を「援護法」に一本化し、内容の大幅改正を目指す。1971年2月、3党が提出したものとほぼ同内容
1972/3/16
社会党が中央執行委員会で原子力発電所建設に反対する「原発反対運動推進委員会」設置を決める
1972/3/16
NBC長崎放送が放映(2月26日)した「フランケンシュタイン対地底怪獣」(1965年、東宝作品)に対し、長崎県被爆教師の会など長崎の原爆5団体が「原爆で誤った印象を与える」と同社に抗議。映画は不死身のフランケンが広島で原爆の放射能をあびて巨大化し、地底怪獣と戦うSF物
1972/3/16
米カリフォルニア州医師会議が、在米被爆者に援護立法措置を取るよう要求する決議
1972/3/17
島根県、同県八束郡鹿島町と中国電力が、同町に建設中の島根原子力発電所の安全協定書案をまとめる。15条からなり、異常事態のほか必要と認める場合は知事と町長が指名する住民はだれでも立ち入り調査できる。県は「住民監視体制を全国で初めて確立した」。福井県と関西電力の安全協定より企業側に厳しい「島根方式」。18日、県議会水商厚生委員会が協定案を審議
1972/3/17
東京の市民グループ「原爆体験を伝える会」が英文パンフレット「水ヲ下サイ-広島・長崎の証言」(1万部)を作る。原爆文献を活用し被爆の惨状や被爆二世、朝鮮人被爆者など多角的な視点
1972/3/18
広島大原爆死没者慰霊行事委員会(委員長、飯島宗一学長)の第1回会合が開かれ、大学全体の被爆実態調査と慰霊碑建立、記念出版など決める
1972/3/18
米政府原子力委員会が「中国は18日、ウイグル自治区ロプノル実験場上空で大気圏内核爆発実験を行った」と発表。中国の核実験は14回目
1972/3/19
山田広島市長が中国核実験に対し、毛沢東主席あてに抗議電報。長崎市も周恩来首相に抗議電報
1972/3/20
広島「憩いの家」(広島市宇品西5丁目)を開設し被爆者援護に尽くした同市の特別名誉市民、米人作家アイラ・モリス氏(仏在住)が死去。68歳
1972/3/21
島根県議会全員協議会が、中国電力島根原子力発電所の安全協定案を原案通り了承。22日、同県八束郡鹿島町議会も原案を了承
1972/3/22
日本原子力発電会社が、秋から敦賀原子力発電所で国産の核燃料棒を試験使用すると発表。国産核燃料棒が国内の原発で使われるのは初めて
1972/3/22
ソ連タス通信が中国核実験を非難
1972/3/23
国労被爆者対策協議会が被爆二世の第1次実態調査結果をまとめる。1次調査は国労の被爆者健康手帳交付者1,077人が対象で、254人が回答。被爆者の73%が流産、異常分娩など異常を訴え、生まれた子供の19%が病弱。2次調査は4月中にまとめ、7月に「被爆二世黒書」を発表する予定。二世への手帳交付や救援運動展開へ
1972/3/23
斎藤昇厚相が衆院社会労働委員会でABCC問題について答弁。「原爆を広島、長崎に投下したのは米だから研究費まで日本が引き受けるのはおかしい。米側が費用を引き続き出すなら、日本側で研究を引き継いでもよい。その時は放射線医学総合研究所を持つ科学技術庁が研究の中心になるのが望ましい」
1972/3/23
共産党系の広島県原水協と広島県被団協が原爆資料館の入場料値上げで広島市議会に請願
1972/3/23
中国、四国、九州電力で構成する西地域電力協議会が1971~80年度の10年間の地域電力長期計画を明らかにする。中電の原子力発電2号機は鹿久居島(岡山県和気郡日生町)の難航で1年延期に
1972/3/24
山田広島市長が広島市会でソ連ボルゴグラード市との姉妹都市縁組で答弁。「6月市会で承認してほしい。今秋、ボ市のカラリヨフ市長が広島を訪問する時に正式調印したい」
1972/3/24
原対協が広島原爆被爆者福祉センターで実施している被爆者の職業補導について、在籍生代表が広島市に縮小反対を申し入れ
1972/3/26
広島地方の画家6人が広島市舟入幸町の広島原爆養護ホームを似顔絵慰問。第17回平和展の代表で、色紙売上金3万3,000円も贈る
1972/3/27
島根県八束郡鹿島町に建設中の中国電力島根原子力発電所の安全協定調印。同県庁で中電と県、鹿島町が協定書にサイン
1972/3/28
米政府原子力委員会が「ソ連セミパラチンスク地方で行われた地下核実験を探知」と発表
1972/3/28
ジュネーブ軍縮委員会で日本代表の西堀正弘大使が3段階の地下核実験停止を新提案。米ソの政治的決断を訴え
1972/3/28
長崎市原爆被災復元調査協議会が、第3回会議を開き、1970年度から5カ年計画で始めた復元調査事業の進捗状況を報告、復元率80.2%(「長崎年表」)
1972/3/30
原爆資料館の値上げ問題について、広島市議会予算特別委員会で「小中学生の団体無料化」の修正案を可決。4月値上げ案を議員提案で一部修正
1972/3/30
長崎県北松浦郡鷹島村の中学校に勤める女性の臨時用務員が「被爆者」を理由に解雇を言い渡される。長崎県被爆教師の会などが「被爆者差別」と抗議。村は4月2日、解雇を撤回。「健康面で勤務に支障がないと分かった。被爆者に対する配慮が欠けていた」
1972/3/30
山田広島市長がソ連地下核実験に対し、コスイギン首相に抗議電報
1972/3/31
広島県が3年がかりで編集していた「広島県史・原爆資料編」を発刊。全27巻の県史の第1号。戦争末期の防衛体制、原爆被災の記録、原爆調査団の活動、原爆に対する国際的反応、平和への努力の5部に編集。県史編さん室長の熊田重邦広島女子大教授「ヒロシマの願いを凝縮した資料編であり、単なる郷土史ではない」
1972/3/31
広島県教組婦人部が「ひろしまたたかう婦人教師」(B6判、246ページ)を出版。被爆女性教師の平和教育への取り組みや原水禁運動とのかかわりなど4章。1945~70年の女性教師の活動年表をつける
1972/3/31
広島原爆養護ホーム(広島市舟入幸町、定員150人)の入所待ちが、広島県内で465人に。同県公衆衛生課のまとめ。被爆者の高齢化で入所希望が殺到
1972/3/31
日赤長崎原爆病院内にがん治療施設が完成(「長崎年表」)
1972/3/--
原爆死没者の遺骨が発掘された広島市似島、市立似島中学校で手記集「平和への叫び」発刊。生徒と教師全員が原爆への怒り、驚き、平和への誓いを記す
1972/3/--
山口大社会学研究室が実施した第4回山口県原爆被爆者実態調査の最終報告がまとまる。1971年7月に山口、下関市内の被爆者、非被爆者約550人を対象に面接調査。報告書は「被爆者の大半が健康と老後生活に不安を感じ、医療機関の充実、拡大を強く望んでいる」と分析

年別アーカイブ