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ヒストリー

ヒロシマの記録1972 5月


1972/5/1
山田広島市長がABCC運営問題について記者会見。「被爆者や関係団体の意見を聞き、長崎とも協議したうえで、7月ごろまでに市の考えを政府に伝えたい」
1972/5/1
芥川賞作家大庭みな子さんが雑誌「潮」原爆特集の取材で広島市を訪問。2日も。旧制賀茂高女3年生だった1945年8月6日は広島県賀茂郡西条町にいたが、10日後に救護隊として広島に入る
1972/5/2
政府が閣議で原爆被爆者特別措置法施行令の改正を決める。被爆者医療手当を月額4,000~6,000円(現行3,000~5,000円)に、葬祭料も1万6,000円(同1万円)に。被爆者の扶養義務者に対する所得制限も緩和
1972/5/2
インドのラム国防相が「核開発技術が進めば、平和目的のための地下核実験を行う」と述べる
1972/5/3
広島の原爆乙女が渡米治療の際、親代わりを務めた米ペンシルベニア州のロバート・ティールさん夫妻が広島を訪問。夫妻のもとに滞在した2人の乙女と16年ぶりに再会
1972/5/4
国連貿易開発会議(UNCTAD)で林平・中国次席代表が、核兵器の全面禁止と完全な破壊を討議する世界首脳会議の開催を呼びかけ
1972/5/5
広島市の平和記念公園内の「原爆の子の像」前で「像除幕14周年少年少女慰霊のつどい」。広島「折鶴の会」会員ら約50人が参加。同会が広島市内の全小中高校で被爆二世調査を提案
1972/5/5
中国新聞社が創刊80周年記念事業として、原爆記録映画「ヒロシマ原爆の記録」(1970年製作)の英語版を、米ニューヨーク・タイムズやソ連プラウダなど世界13カ国の14新聞社に贈呈。被爆新聞社として原水爆禁止と世界平和確立への願いを込める
1972/5/7
米原子力潜水艦シードラゴンが横須賀港に入港。9日に出港
1972/5/7
四国電力伊方原子力発電所の建設に反対し、愛媛県西宇和郡保内、三崎、伊方、瀬戸4町と喜多郡長浜町の漁船100隻が海上デモ。陸上でも住民200人がデモ。この後、保内町喜木津海岸で伊方灘海域原発反対漁民連合委員会の主催の伊方原発反対海陸合同総決起大会
1972/5/8
自民党の大平正芳氏が宏池会主催の「平和の声を高める会」で「平和国家の行動原則」をテーマに講演。「いっさいの核攻撃と核軍拡を許さない」
1972/5/8
山田広島市長が記者会見で、公約である国際文化会館建設について「6月補正予算で調査費を組み、資金面などの検討にかかりたい」と積極姿勢を見せる
1972/5/8
仏のインドシナ問題専門家ジャン・ラクチュール氏が仏週刊誌ヌーベル・オプセルバトール誌(8日発売)で、ベトナム戦争に関し「ニクソン米大統領らがパリ会談を中断したのは核兵器使用も含めた腹案があってのこと」と核使用の検討を推測
1972/5/8
米国防総省が弾道弾迎撃ミサイル(ABM)の2回目の実験に成功-と発表。複数核弾頭の迎撃
1972/5/9
「ベトナムに平和を!市民文化団体連合会」(ベ平連)が「岩国の米軍基地で核兵器の積載訓練が行われた」と発表。「同基地でここ数週間に1回だけ核兵器の模擬爆弾を航空機に安全に積み込む訓練が行われた。『核兵器の特殊作戦』に基づいたチェックテストで、絶対間違いない。確認したものだ」
1972/5/11
山田広島市長の発案で、ABCCの運営について意見を出し合う会議が広島市役所で開会。原対協の松坂義正副会長ら市民、被爆者団体の代表12人が出席。「ABCCの調査や運営方法には不満で、日本側が主体的に管理、運営に当たるべき」との意見が大勢を占める。山田市長もこれらの声を背景に政府との折衝を進める意向を表明
1972/5/12
国労広島地本が国鉄職員の原爆死没者慰霊碑の建設要望書を広島鉄道管理局に提出。局側は「趣旨は賛成。善処したい」と答える。国労は国鉄開業100周年を迎える10月までの建立を求める
1972/5/12
防衛庁が「海上自衛隊の護衛艦9隻、航空機10機が9~11日まで、大島東沖の在日米軍演習用チャーリー海面で、米海軍第7艦隊所属の原子力潜水艦シードラゴンを標的艦として共同対潜訓練を実施した」と発表。日本近海での米原潜との共同訓練は前年3月に次いで2回目
1972/5/12
被爆二世の実態調査を進めている国労原爆被爆者対策協議会(会長、中川新一国労委員長)が「被爆二世援護法」(仮称)を制定するため全国で1,000万円カンパと25万人署名を開始
1972/5/13
広島県教組の第37回定期大会が広島市可部町の可部中学校で開会。14日、広島平和教育研究所の設置など8議案を採択。さらに(1)国、県、市に被爆二世の実態調査を要求するなど二世の生命と健康を守る運動(2)二世の苦しみを描く映画「小さな恋人たち」製作を推進-など被爆二世に関する2特別決議を採択
1972/5/13
東京の「原爆体験を伝える会」が出版した原爆体験の英文パンフレット「水ヲ下サイ-広島・長崎の証言」出版記念会が広島市の広島YMCAで開かれる
1972/5/13
「核禁止アピール被爆者の会」が発足。広島市の広島YMCAで開かれた「水ヲ下サイ-広島・長崎の証言」出版記念会で、広島県被団協の森滝市郎理事長や詩人の栗原貞子さんらが呼びかけ
1972/5/13
ソウル市内に原爆病院の建設運動を進めている徳山ニューライオンズクラブ(徳山市)が、尾道市で開かれた広島、山口、島根3県ライオンズクラブ(第302W-4地区)の第18回年次大会総会で「韓国被爆者救援特別委員会の設置」を提案
1972/5/15
沖縄が日本に復帰。27年間の米軍統治が終わり、沖縄県に。東京と那覇で政府主催の記念式典。沖縄から核兵器撤去の終了を示すロジャーズ米国務長官から福田赳夫外相あて書簡が、スナイダー駐日米大使館公使から外務省の吉野文六アメリカ局長に手渡される。「沖縄の核兵器に関する米政府の確約が完全に履行されたことを大統領の指示と許可の下に通報する」
1972/5/15
「ABCC問題検討会」が広島原爆被爆者福祉センターで開かれ、医学関係者が専門的立場からABCCの在り方について意見交換。飯島宗一広島大学長、大内五良広島県医師会長の呼びかけで、問題点を出し合い、医療面を遮断したままの研究を厳しく批判
1972/5/16
参院外務委員会で社会党の森元治郎氏が沖縄の核抜き書簡について「核兵器を撤去した明確な表現がなく、国民の不安は解消されていない」と政府を追及。福田赳夫外相は「日本政府としても明確な表現を希望したが、核は米の最高の戦略機密であり、実現しなかった。大統領の指示と許可の下に、米の確約が完全に履行されたとの表現は、核が沖縄から撤去されたことを示したものと受け止める」
1972/5/16
参院社会労働委員会で斎藤昇厚相が「被爆者の扶養義務者の所得制限は将来、撤廃する方向で努力したい。とりあえず来年度は大幅緩和を図りたい」と述べる
1972/5/17
日米海軍核戦力部隊の創設に関する秘密電報問題について衆院外務委員会が、「電報の真偽が不明確のまま国会に提出されたため、その信頼性に遺憾な点がある」との委員長談話で真偽論争に事実上の終止符
1972/5/17
韓国を訪れ在韓被爆者治療施設の建設計画を話し合った核禁広島県民会議の村上忠敬議長らが広島に帰る。韓国政府、地元との間で慶尚南道陜川郡の陜川郡保健所内に治療施設を早期開設することで一致-と語る
1972/5/18
米英ソ3国がモスクワで海底非核化条約の批准書を寄託し、同条約が発効。沿岸19キロの範囲から外の海底で核兵器や大量破壊兵器の使用が禁止に
1972/5/18
北九州市八幡区の折尾中学校3年生が修学旅行の途中、広島駅で広島原爆病院への千羽づる5,000羽、見舞金2万8,800円を同駅長に寄託。今回が10回目
1972/5/19
広島県教組が6月に開設する「広島平和教育研究所」のスタッフ決まる。研究所長に当たる研究会議議長に今中次麿広島大名誉教授、研究会議は研究員25人と客員研究員5人の計30人。理事長には宅和純同県教組委員長、事務局長に石田明全国被爆教師の会会長
1972/5/19
英ロンドンの民間テレビ「テームズ・テレビ」取材班8人が広島を訪れ、原爆資料館で被爆者4人の証言を収録。1973年9月放映予定の「第2次大戦の歴史」シリーズ(26回)の一環
1972/5/19
沖縄核ミサイル基地と同じマーク「4」の存在が問題になった在日米軍秋月弾薬庫(広島県安芸郡江田島町)から大型爆弾が撤去された-と米軍から江田島町に通告。爆弾の種類は明らかにされず
1972/5/20
ABCC労組(上田登委員長)が定期大会で、1972年度運動方針を決定。「ABCCの調査、研究を真に被爆者の救援に役立つものに改めるため、ABCCの再編成、新研究体制の確立を目指して戦う」
1972/5/20
米軍岩国基地の反戦兵士らが岩国市の錦帯橋で、広島市の被爆者、小西ノブ子さんを囲み、原爆体験を聞くティーチインを開く
1972/5/21
「山口県原爆被爆者を支える会」の発会式が山口市の同県原爆被爆者福祉会館ゆだ苑で開かれる。(1)被爆者の要求を国、県などに働きかける(2)健康管理や相談体制の確立(3)ゆだ苑の拡充-などを目指す。ゆだ苑に事務局を設置
1972/5/21
近沢敬一福岡大教授が山口市での「山口県原爆被爆者を支える会」発会式で「悪性新生物による死亡率」と題して記念講演。大気中の放射能汚染が進むほど、がんの死亡率が高まるとの相関関係を発表
1972/5/22
広島で被爆した沖縄県那覇市安謝、無職吉本毅さんが広島入りし、広島原爆病院で治療を受ける。沖縄被爆者の本土治療は、原水禁国民会議(社会党・総評系)の世話で5人、厚生省が1965、66年に16人を招き、吉本さんが22人目。沖縄の日本復帰後は初めて
1972/5/24
四国電力伊方原子力発電所建設に反対する愛媛県西宇和郡保内町磯津漁協と関係3漁協の519人が、原発建設用地の埋め立てを許可した白石春樹同県知事を相手取り、埋め立て許可処分取り消しと処分執行停止を求める訴えを松山地裁に起こす。原発建設をめぐる行政訴訟は初
1972/5/26
米ソが戦略兵器制限条約・協定(SALT)に調印。訪ソ中のニクソン米大統領とブレジネフ・ソ連共産党書記長が結ぶ。弾道弾迎撃ミサイル(ABM)は米ソ各2カ所に限定、大陸間弾道ミサイル(ICBM)は5年間凍結-が骨子
1972/5/27
レアード米国防長官が米陸軍に対し、モンタナの弾道弾迎撃ミサイル(ABM)基地の建設中止を命令。長官は「米ソ戦略兵器制限条約・協定(SALT)の義務を順守するため慎重に行動にとりかかる」と言明
1972/5/27
米ソ戦略兵器制限条約・協定(SALT)の調印について、竹下登官房長官が記者会見。「条約は核実験禁止などは含まれておらず内容は制限されたものだが、核軍縮条約の調印は評価、歓迎する。核軍縮については単に核兵器の総数のみならず、その質的改善の可能性をも阻止する措置が取られる必要がある」
1972/5/27
米ニューヨーク・タイムズが社説(27日付)で、米ソ戦略兵器制限条約・協定(SALT)の調印について「全面軍縮への一歩」と論評。英のザ・タイムズは「ヤルタ会談以上の意義」と絶賛
1972/5/29
国労被爆者対策協議会(会長、中川新一国労委員長)が被爆二世実態調査の第2次調査をまとめる。長崎の被爆者68人を含む被爆職員262人とその子529人が調査に応じ、被爆二世の6人に1人が病弱で何らかの症状
1972/5/29
ニクソン米大統領とブレジネフ・ソ連共産党書記長がモスクワで「米ソ関係の基本原則に関する基本文書」に署名、共同コミュニケを発表。基本文書は国際間の軍事対立を避け、終局的な全面軍縮を目指す
1972/5/30
日本原水協(共産党系)が第18回原水禁世界大会(8月)の日程と大会への声明を発表。声明は「沖縄返還に伴い、日本全土がインドシナ侵略の自由出撃、補給基地となっているが、原水爆禁止の立場からこれに反対し、核兵器完全禁止、被爆者救援に取り組む」
1972/5/30
広島市を訪れたポーランド国立アウシュビッツ博物館員のエメリカ・イバシコ女史が原爆資料館を見学。山田市長に犠牲者の遺骨を贈る。遺骨は同市三滝町の三滝寺に供養塔を建てて安置の予定
1972/5/30
初巡視で海上自衛隊佐世保地方隊を訪れた自衛艦隊司令官の北村謙一海将が記者会見で語る。「国民的理解を得られれば原子力潜水艦がほしい。日米安保体制がなくなる時期が来れば、攻撃型空母も必要」
1972/5/30
外務省が駐仏大使を通じ、仏が南太平洋ムルロア環礁で予定している核実験の中止を申し入れ
1972/5/31
埼玉県大宮市の住民が三菱原子力工業会社を相手取り原子炉(臨界実験装置)の撤去を求めた訴訟の即時抗告で、東京高裁が会社に関係書類提出を命じた浦和地裁の決定を取り消し、住民側の文書提出命令申し立てを却下する決定を出し、関係者に通知。同高裁は「原子力基本法2条に定める公開の原則は、住民に関係文書の引き渡しや閲覧を請求する権利を与えたものではない」と三菱側の主張を全面的に認める
1972/5/31
原爆被災地図復元運動を進める長崎市の被災世帯調査(5月末現在)で、爆心地近くの9カ町915世帯4,329人のうち、41%の1,760人が即日死亡、71%の3,059人がこれまでの27年間に死亡していることが判明
1972/5/--
女優の望月優子さんが広島の被爆者を主題にしたセミドキュメンタリー映画の製作準備。脚本はシナリオ作家の西村滋氏。年内クランクインの予定。望月さんは「若い世代にノーモア・ヒロシマを訴えたい」
1972/5/--
広島県被爆教師の会が、修学旅行で広島を訪れる全国の学校に対し「事前のヒロシマ学習」を要請する文書を発送。平和教育を深める体制づくりへ
1972/5/--
広島大原医研がダ液腺腫瘍の発生について基礎的研究データをまとめる。被爆者には悪性のダ液腺腫瘍の発生率が高いと分析。長崎市で開かれる「原爆後障害研究会」(6月4日)で発表へ

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