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ヒストリー

ヒロシマの記録1972 9月


t color="#008000">trong>1972/9/1trong>t>
広島市が爆心1キロ以内で被爆した人のため近距離被爆者特別検診を市立舟入病院で開始。3日間の精密検査を行う制度。広島県も8月から実施。県、市の単独事業だがPR不足で受診希望は低調
t color="#008000">trong>1972/9/4trong>t>
スウェーデンのウプサラ大地震研究所が、ソ連で行われた地下核実験を観測
t color="#008000">trong>1972/9/8trong>t>
全電通広島被爆者連絡協議会(小島逸雄会長)が被爆者や遺族の体験などをつづった「原子雲の下に生きつづけて」第3集を発刊
t color="#008000">trong>1972/9/9trong>t>
ワールド・フレンドシップ・センターから米の「青年平和セミナー」に派遣され、帰国した広島の大学生3人らが帰国報告会。「米の若い人が強い関心」
t color="#008000">trong>1972/9/9trong>t>
広島平和教育研究所が製作した平和教育用スライド「ひろしま-核戦争を考える」が完成し、同研究所で試写会。原爆投下から今日の核開発実態まで36コマ
t color="#008000">trong>1972/9/9trong>t>
現地住民の反対で中止されていたマーシャル諸島のビキニ水爆実験被災者の医学調査が米ブルックヘブン国立研究所の手で再開。21日までロンゲラップ、ウトリック、マジュロの各島を中心に調査を実施。日本から広島大原医研の江崎治夫教授と科学技術庁放射線医学総合研究所の熊取敏之傷害臨床部長が参加
t color="#008000">trong>1972/9/11trong>t>
ABCCがジョージ・ダーリング所長の12月末辞任を明らかにする。後任はアレン副所長が昇格へ
t color="#008000">trong>1972/9/12trong>t>
長崎県が9月補正予算案で、被爆二世を含む調査費230万円を初めて計上。爆心地から2キロ以内の被爆者と被爆後3日以内に2キロ以内の地域に入った特別被爆者2万人を対象にアンケート調査へ
t color="#008000">trong>1972/9/13trong>t>
広島を訪れた北ベトナム教育労働者代表団(ホアン・キム・ハイ団長ら4人)が原爆資料館を見学。「ベトナムでは今、27年前の広島が繰り返されている」
t color="#008000">trong>1972/9/13trong>t>
ハイネマン大統領の招きで西ドイツを訪問した広島「折鶴の会」会員ら一行4人が広島に帰る
t color="#008000">trong>1972/9/13trong>t>
広島平和教育研究所が詩集「ヒロシマの子」の刊行を計画し、広島県内の小中学校に詩の応募協力を要請する文書を発送。峠三吉氏らが編集した詩集「原子雲の下より」に掲載漏れになり、同研究所に寄贈された詩96編と現在の児童生徒の平和を願う詩を合わせて刊行する予定
t color="#008000">trong>1972/9/16trong>t>
広島県、広島市、広島大、経済界が広島商工会議所で「国連大学広島誘致期成同盟会」結成大会。永野厳雄県知事を会長に選び、誘致に乗り出す
t color="#008000">trong>1972/9/17trong>t>
国内電力業界が世界第2位のアルミ精O#会社レイノルズ・メタルズ(本社米バージニア州)とウラン濃縮工場の日米合弁事業について交渉開始したことを明らかにする。総額25億ドル(約7,500億円)の事業
t color="#008000">trong>1972/9/21trong>t>
米政府原子力委員会が「21日、ソ連の小規模な地下核実験の振動を記録した」と発表。ソ連の地下核実験はこの年8回目
t color="#008000">trong>1972/9/21trong>t>
米政府原子力委員会が「ネバダ実験場で地下核実験を行った」と発表。この年5回目
t color="#008000">trong>1972/9/21trong>t>
公演で広島市を訪れたモスクワ国立ボリショイサーカス団(イワン・カズロフ団長)一行62人が原爆慰霊碑に参拝。26日には広島原爆病院を慰問
t color="#008000">trong>1972/9/23trong>t>
日本被団協が沖縄被爆者の実態を調査、26日まで。沖縄被爆者協議会とも初めて懇談
t color="#008000">trong>1972/9/25trong>t>
マーシャル諸島のビキニ水爆実験被災者の医学調査に参加した広島大原医研の江崎治夫教授が広島に帰る。死の灰が降ったロンゲラップ、ウトリック両島には1週間滞在、69人の被災者を詳細調査。「放射線による甲状腺機能障害は一応安定期に入った」
t color="#008000">trong>1972/9/26trong>t>
「中国地方総監府誌-原爆被災記録」が刊行。原爆2カ月前に中国地方の行政統括機関として広島文理科大構内に設置。開庁の経緯、被爆状況、体験記など
t color="#008000">trong>1972/9/26trong>t>
ソ連ボルゴグラード市の第6次親善使節団(カラリヨフ・イワン・ミハイロビッチ団長)の3人が広島入り。27日、山田広島市長と平和記念公園に記念植樹。原爆慰霊碑に参拝、原爆資料館を見学。10月2日、広島を離れる
t color="#008000">trong>1972/9/26trong>t>
ソ連のグロムイコ外相が国連総会本会議の一般討論演説で、「核兵器の永久的な禁止を明確に宣言する」ことを求めた決議案を提出
t color="#008000">trong>1972/9/28trong>t>
広島市とソ連ボルゴグラード市の姉妹都市縁組が正式発効。広島市議会で「広島市、ボ市姉妹都市提携協定」を全会一致で承認。山田市長とボ市親善使節団のカラリヨフ団長が協定発効確認書に調印。1961年8月にボ市から提携申し入れ以来11年ぶり、1968年5月にボ市訪問の山田市長が提携協定書に調印して以来4年ぶり。広島市の姉妹都市は米ホノルル市(1959年)に次いで2番目
t color="#008000">trong>1972/9/29trong>t>
核禁広島県民会議の招きで広島を訪れ、被爆者治療の研修をしていた韓国慶尚南道陜川郡の陜川郡保健所の鄭昌生所長が帰国。28日、広島市役所で記者会見。「まず在韓被爆者のカルテづくりに取り組みたい」
t color="#008000">trong>1972/9/29trong>t>
米原子力潜水艦ポギーが横須賀港に入港
t color="#008000">trong>1972/9/29trong>t>
ソ連最高会議幹部会がモスクワで調印された米ソ弾道弾迎撃ミサイル(ABM)制限条約を全会一致で批准。ボドゴルヌイ幹部会議長は同条約と同時調印された米ソ戦略攻撃兵器制限暫定協定の受諾の通告書にも署名
t color="#008000">trong>1972/9/30trong>t>
ニクソン米大統領が上下両院の承認した米ソ戦略攻撃兵器制限暫定協定に署名
t color="#008000">trong>1972/9/--trong>t>
原爆資料館に広島市民2人から被爆の跡をとどめる衣服が寄贈。比治山本町の松室一雄さんは、薬研堀の自宅で被爆時に着ていた血染めの浴衣。己斐西町の桑原雄二郎さんは長男の海軍航空隊制服上下と下着シャツ
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ビキニ水爆実験で被曝した第五福竜丸の大漁旗や船員の衣服、日記などが、取り壊し中の東大付属病院の物置から見つかる。放射能調査のため同病院にあったが放置。「第五福竜丸保存会」が展示へ

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