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ヒストリー

ヒロシマの記録1972 10月


1972/10/2
広島県議会が「ABCCの日本移管」と「被爆二、三世の援護措置強化」の二つの意見書を採択。ABCC問題では(1)原子爆弾後障害研究所(仮称)を政府支出で設立しABCCの資料などを移管(2)被爆者の調査、研究に医療、福祉も結合させた運営-を強調
1972/10/2
原爆症治療のため密入国し被爆者健康手帳の交付申請を福岡県に却下された韓国人被爆者、孫振斗氏(国立福岡東病院に入院中)が、同県を相手取り却下処分取り消し訴訟を福岡地裁に起こす 1972/10/3
米政府原子力委員会が「3日、ソ連地下核実験とみられる地震波を記録」と発表
1972/10/3
長野正義横須賀市長が、米第7艦隊の攻撃型空母の母港受け入れを表明。「空母1隻なら拒否すべき理由はない」
1972/10/3
ニクソン米大統領とグロムイコ・ソ連外相がホワイトハウスで米ソ弾道弾迎撃ミサイル(ABM)制限条約の批准書に署名、同条約が発効
1972/10/4
英労働党が党大会で、核兵器保有反対決議や米ポラリス型原子力潜水艦基地撤退決議を採択。同党が政権を握った場合、核保有国の地位放棄を示唆
1972/10/6
中国電力島根原子力発電所への核燃料搬入が始まる。初日は横須賀から第1便7トンの核燃料がトラック4台に分載して到着
1972/10/8
山口県原爆被爆者の要求を実現する行動集会(同県原爆被爆者を支える会主催)が山口大経済学部講堂で開かれ、約300人が参加。作家大江健三郎氏らが講演
1972/10/10
日本物理学会第27回年会が広島大で開会。13日まで。日本原子力研究所が、核融合反応制御の研究装置として国内で製作されたトカマク型装置の実験報告を提出
1972/10/11
社会、共産両党と広島県労会議など同県内の労組、民主10団体が、陸上自衛隊第13師団のパレードに関し、山田広島市長あての協力中止申し入れ書を提出。「平和都市の市長として許せない」
1972/10/11
英の反戦団体「核武装反対同盟」(CND)から平和を願って贈られたバラ苗木が、山田広島市長らの手で平和記念公園に植樹
1972/10/11
衆院社会労働委員会で厚生省の加倉井駿一公衆衛生局長がABCC運営問題について答弁。「ABCCをどう性格づけ、扱っていくか、11月半ばごろまでに結論を出したい」
1972/10/12
陸上自衛隊第13師団が広島県庁前を中心に29日に行う市中パレードに合わせ、社会党広島県本部が同日、同一コースのデモを広島西署(現広島中央署)に申請。広島県労会議、共産党広島県委員会も申請済み
1972/10/13
米原子力潜水艦ポギーが沖縄本島のホワイトビーチ軍港に入港。1時間後に出港
1972/10/17
核禁会議(民社党・同盟系)が派遣した韓国被爆者第2次診療医師団一行6人が広島に帰る。被爆者診療センターの来年度着工にめど。建設地は陜川郡保健所の隣接国有地。今回診療は2~16日の間、ソウル、釜山、陜川の3地区で220人
1972/10/19
日本、オーストラリアなど太平洋地域12カ国が国連事務局に太平洋地域での大気中核実験およびあらゆる環境下での核実験禁止を呼びかける決議案を提出
1972/10/20
広島県被爆教師の会と広島市、同市教委が初の平和教育懇談会。原爆資料館を平和教育の場として活用する方策などを協議。教師の会は(1)子供にも分かる資料館の展示説明(2)資料の県外巡回展示(3)修学旅行生のためのガイドを市に常駐-などを要望
1972/10/20
共産党系の日本原水協と広島県原水協が原爆資料館にJ・F・マークス著「SEVENHOURSTOZERO(ヒロシマへの7時間)」の館内販売中止を申し入れ。原爆投下機エノラ・ゲイの乗員12人の原爆投下の見解などをまとめた本で、「原爆投下を正当化する」が理由
1972/10/20
第21回日本口腔衛生学会(広島市)で国立予防衛生研究所の永井充主任研究員のグループが、「核実験が行われた後は日本の子供の乳歯に高濃度の放射性物質ストロンチウム90が多く検出され、人体蓄積される」-との研究結果を発表。1963年から関東、東海、北陸の脱落乳歯約9万2,000本を分析。米ビキニ水爆実験の1954年と米ソ核実験が激しかった1962~64年に生まれた子供の乳歯中のストロンチウム濃度は、ほかの年の子供より急激に高いことが判明。放射性物質を大量に含んだ牧草などを食べた乳牛のミルクが原因と推定
1972/10/22
米原子力潜水艦ポギーが沖縄ホワイトビーチに入港。米原潜の日本寄港は79回目
1972/10/22
公明党が在日米軍基地の第2次総点検結果を公表。「日本復帰後の沖縄米陸軍の知花弾薬庫に核兵器貯蔵の疑いがある」。(1)同弾薬庫内の貯蔵庫に「警告高度な放射線地域・立ち入るな」の表示(2)復帰直前、沖縄関係者が米で核兵器の消火訓練を受けた-など。在日米大使館は「工業用エックス線検査機を備えた弾薬、信管検査室で、核物質の貯蔵施設ではない」と回答。23日、同党は二階堂進官房長官に立ち入り調査を申し入れ
1972/10/23
広島県原水禁(社会党・総評系)が理事会で、広島市竜王町に計画されている財団法人広島川崎観光会(川崎正蔵理事長)の観音像「世界原爆像」建設について「原爆を売り物にした観光事業」と反対を決定。広島県、市へ建設不許可を申し入れへ
1972/10/23
陸上自衛隊第13師団の広島市中パレードに合わせて社会党広島県本部、広島県労会議、共産党広島県委員会が申請した集会やデモに対し、同県公安委員会はデモ時間変更や一部集会不許可などの条件をつけて許可。3団体を含めた革新10団体は24日、集会、デモを県労主催に一本化することを決定。25日、県労が条件付き許可処分の取り消しと執行停止申し立てを広島地裁に提出
1972/10/24
米原子力潜水艦パッファーが横須賀港に入港。15分間停泊し出港
1972/10/24
インガソル駐日米大使夫妻が着任後初めて広島を訪れ、原爆慰霊碑に参拝、原爆資料館を見学、ABCCを訪問
1972/10/25
日本、カナダ、スウェーデンなど15カ国が国連総会第1委員会に地下核実験停止決議案を提出
1972/10/25
国際反戦平和統一行動広島県実行委員会(社、共両党、広島県労会議など革新10団体で構成)が山田広島市長に「平和都市の市長として陸上自衛隊第13師団の市中パレード観閲を拒否せよ」と申し入れ。「20数万の原爆犠牲者が埋まるヒロシマの土の上を戦車や軍靴で踏みつけられるのは市民感情から許せない」。山田市長は「個人的には自衛隊の存在も全面的に是認しているわけではない。しかし地方自治体の首長は無所属の立場であり、国家機関の実施する儀礼的な行事をボイコットするわけにはいかない」
1972/10/25
原爆被災資料広島研究会が「原爆被災資料総目録」第3集(原爆手記・広島の部)を刊行。B5判、386ページ。戦後27年間に出された手記2,229編の執筆者、被爆場所、題名、出版年月、掲載書・誌名などを網羅
1972/10/26
ニュージーランドのスコット代表が国連総会第1委員会で核兵器実験全面停止を求めた13カ国決議案を提案
1972/10/26
原水禁国民会議(社会党・総評系)が東京・四谷の主婦会館で「原子力の日」行事として初めて原子力発電所・再処理工場設置反対全国活動者会議を開く。約50人が参加。軍事転用の危険をPR
1972/10/27
広島県労会議が広島県公安委員会を相手取って起こした陸上自衛隊第13師団パレード反対デモの条件つき許可処分の執行停止申し立てについて、広島地裁が同時間帯の反対デモを認めない決定を出す。「パレードと同時間帯のデモは公共の福祉に重大な影響を及ぼす恐れがある」。28日、県労は広島高裁に即時抗告
1972/10/28
ペルシャ美術展に出席のため広島入りした三笠宮が原爆慰霊碑に参拝
1972/10/28
広島県衛生部が初の被爆二世実態調査を、爆心地から2キロ以内の二世に絞って年内にも調査開始することを決める
1972/10/29
陸上自衛隊第13師団(広島県安芸郡海田町、栗栖弘臣師団長)が自衛隊創立22周年を記念し、広島県庁前で観閲行進を実施。前年より規模を縮小し、航空機6機、戦車14両など車両計200両、徒歩部隊1,100人が参加。永野厳雄県知事、山田広島市長が観閲。広島県労会議、社会、共産両党など革新10団体はパレード阻止を訴える
1972/10/30
広島市が平和記念施設整備改善委員会(会長、志水清ABCC医科社会学部長)で、広島平和記念館1階に設ける常設展示場の基本構想をまとめる。戦時下の市民生活、医学を中心とする原爆被災状況、核問題の3点を柱に、11月改修着手へ
1972/10/30
米第7艦隊の原子力ミサイルフリゲート艦トラックストンが佐世保港に入港。11月6日に出港
1972/10/31
政府が閣議で、沖縄米軍の地対空ミサイル組織と航空警戒管制組織を約77億円で購入を決定。購入するナイキミサイルは核・非核両用のため、防衛庁は「核用ミサイルは非核専用に改修する」
1972/10/--
原子力発電所の排水などに含まれるトリチウムが許容限度を下回る放射能レベルでも染色体異常を起こすことが、帝京大医学部の田中信徳教授らの植物実験共同研究で分かる。日本遺伝学会(7日から岡山大)で報告へ
1972/10/--
韓国ソウル市で開かれた東洋東南アジアライオンズクラブ定期総会で、徳山ニューライオンズクラブが中心に進めている韓国への原爆病院建設計画の促進を決議。「韓国原爆病院建設委員会」を設置
1972/10/--
ABCCのベルスキー前臨床部長とブロー前統計部研究員が、放射線による成長阻害の研究結果をまとめる。被爆当時18歳未満だった広島、長崎の住民3,389人(うち被爆者2,576人)の身長、体重を1966年から3年間計測し、解析。「5歳までの幼児期に100ラド以上の強い放射能を浴びた被爆者の身長は、成人になった今も2~4センチ低い」。成長阻害要因が放射線量の違いにあると断定
1972/10/--
長崎の原爆で死亡した長崎医科大(現長崎大)の呂雲竜助教授、呉福順助手や留学生、卒業生計17人の遺族が、台湾で見つかった留学生名簿から判明。11月5日に台湾で行われる原爆犠牲者慰霊祭に調来助・長崎大名誉教授(同医科大原爆犠牲学徒遺族会長)ら5人が出席
1972/10/--
カナダのトロント、ヨーク両大学の学者ら80人連名で、第五福竜丸保存委員会に保存支持の声明
1972/10/--
広島県安芸郡海田町東海田、町収入役の尾木正己さん方で原爆投下後の広島の焦土を撮影した写真フィルム(23コマ)が見つかる。呉海軍工廠勤務だった尾木さんが1945年8月末に撮影
1972/10/--
広島平和教育研究所に海外から研究提携申し込みが相次ぐ。同研究所国際交流部が世界28カ国、92平和研究所、施設に研究協力、資料交換などを呼びかけたのに対し、スウェーデン、ノルウェー、米英仏など16カ国、28研究所から提携賛同の返事が届く

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