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ヒストリー

ヒロシマの記録1972 12月


1972/12/1
東京電力福島原子力発電所1号機(福島県双葉郡大熊町、双葉町)で、定期点検中の技術員が放射能を帯びた1次冷却水を浴びる。人体影響はなし
1972/12/2
日本原子力研究所東海研究所のトカマク型核融合実験装置で、1立方センチ当たり10兆個、電子温度摂氏300万度の高密度、超高温のプラズマ生成に成功。同研究所が4日に発表
1972/12/2
第1回世界連邦中国地区教育者会議が広島YMCAで開かれ、「平和教育の課題と実践」をテーマに約50人が出席。「平和教育を文部省の指導要領に盛り込むよう働きかける」ことを申し合わせる
1972/12/2
総選挙の遊説で尾道入りした田中首相が記者会見。「被爆者の援護には私自身強い関心があり、政府がもっと力を入れ、全額国で負担すべきだと思う」
1972/12/4
山田広島市長が記者会見で「在米被爆者治療医師団を来年5月ごろ派遣したい」と表明。ハワイでの広島県物産展に合わせて医師団も同行し、まずハワイ在住被爆者の診療を目指す
1972/12/4
原子力委員会が四国電力伊方原子力発電所の安全審査について「審査は十分かつ適法」との談話を発表。11月29日に設置許可が出たが、安全審査を担当した科学者2人が反対派学生らに「安全審査は不十分だった」との確認書を取られたことから、異例の見解を発表
1972/12/4
長崎県と長崎市が「原爆被爆者とその家族の基本調査」を実施。被爆二、三世に関する初の実態調査(「長崎年表」)
1972/12/4
長崎被爆者青年同盟が、長崎県と長崎市が実施する被爆二世実態調査の中止を求めビラを配る
1972/12/8
国連植民地独立付与宣言履行特別委員会が太平洋地域での核実験禁止を求める決議を採択
1972/12/8
日本学術会議講堂(東京・六本木)で開かれた第1回原子力問題シンポジウムが大荒れ。原子力発電所の安全性を検討する初の専門家討論会だったが、主催者の同会議原子力問題特別委員会と原発建設に反対する学者、住民の意見が対立
1972/12/10
スウェーデンのウプサラ大地震研究所が「ソ連は10日、セミパラチンスク地区で地下核実験を2回行った」と発表。2回目はマグニチュード7と大規模
1972/12/11
国連総会本会議が国連大学の設立を決議。設立決議案を賛成101、反対7、棄権4で採択
1972/12/14
被爆者青年同盟の代表が広島市を訪れ、市が実施する被爆二世実態調査について「調査は二世を差別、分断するもの。即時取りやめよ」と抗議
1972/12/14
1972年度芸術祭の優秀賞テレビドキュメンタリー部門で、広島テレビの原爆シリーズ9作目「きょうも空は晴れているか-原爆裁判」が受賞。7年連続受賞
1972/12/14
国連総会本会議が南太平洋での仏核実験中止を求める決議案を採択
1972/12/15
広島原爆病院で、美容院経営の沖従子さんが正月前の美容奉仕。15年目
1972/12/16
長野正義横須賀市長が原水禁神奈川県協議会(中野勝事務局長)からの米空母ミッドウェー横須賀母港化に関する公開質問状に回答。「空母の核問題は政府の責任で処理すべき。市の姿勢として核持ち込みには反対。しかし自治体として核の有無の確認など査察方法はない」
1972/12/16
東京都大学学生平和団体連絡協議会が被爆者援護法制定を要求する集会を東京・全電通労働会館で開く。学生や広島県被団協の森滝市郎理事長、画家の丸木俊さんら約400人が参加。各大学で制定要求署名運動を開始へ
1972/12/18
日本原水協が被爆者救援金として広島県内の被爆者に150万円を贈る
1972/12/19
広島市の平和記念式典で鳴らす「平和の鐘」が、貸し出した東京・京王プラザで客寄せの「除夜の鐘」に使われようとしていたことが分かり、市が「貸し出し条件違反」と抗議。25日、広島に返る
1972/12/21
米政府原子力委員会がネバダ実験場で地下核実験を行った-と発表。この年7回の米核実験で最大
1972/12/21
尾道市原田町、桑原忠男さんの「原爆症認定訴訟」第8回口頭弁論が広島地裁で開かれ、結審。桑原さんが発言。「これは全国の被爆者に代わっての訴訟。弱い立場の者が認定を受けるのに訴訟まで持ち込まねばならないのは実に残念だ。被爆者の願いを聞き入れ、正しい判決を」
1972/12/21
原水禁国民会議の全国活動者会議が静岡県天城湯ケ島町で開会。2日目の22日、「被爆者援護法制定要求大会」(1973年1月、東京)を開き、沈滞気味の被爆者援護運動再生のきっかけにする方針を決定
1972/12/22
長野正義横須賀市長が米空母ミッドウェー横須賀母港化に関し、米軍側から「核を持ち込まない」との回答があったことを初めて明かす
1972/12/22
広島市が米核実験に抗議電報(「広島市・核実験抗議文書発信状況綴」)
1972/12/23
国労被爆者対策協議会(石川俊彦事務局長)が被爆二世救済募金の1次分を締め切る。募金額は311万912円で、当面、入院治療中の国鉄職員関係の被爆二世38人に見舞金各1万円を渡す
1972/12/25
広島大が本部構内(広島市東千田町)で被爆死した旧広島文理科大、広島高等師範学校の関係者の慰霊碑を建て、除幕式。現在の理学部ボイラー室の下に遺骨数体があることが判明したが発掘できず、慰霊碑を建立
1972/12/26
厚相の諮問機関の原爆被爆者医療審議会(中泉正徳会長)が被爆者福祉改善のための意見書を斎藤邦吉厚相に提出。(1)1973年度予算で健康管理手当など各種手当の増額(2)被爆者の全国調査を促進-など
1972/12/26
米の元大統領(第33代)ハリー・トルーマン氏が肺充血のため入院中のカンザスシティーの研究病院医療センターで死去。88歳。広島、長崎への原爆投下を決定。大統領を辞めた後も「あの決定は正しかった」と語り続ける
1972/12/27
広島市の平和記念館に常設展示場が開設(1973年4月)されるのに伴い、市民13人から制服、被災証明書など20点の被爆資料の提供申し出。同市尾長町、無職升川貴志栄さんは長男宗利君(旧広島一中1年)が被爆前日まで着ていた制服を提供
1972/12/28
原爆資料館の入場者がこの年1年間(28日まで)で112万9,529人と前年より約8万2,000人増加。初めて110万人台を突破。外国人は2万8,373人
1972/12/28
広島市西川口町の高橋昭博さんが、右手人さし指の「黒いつめ」を原爆資料館に提供。つめが抜けたのは8回目。6回目のつめは1968年に資料館に寄贈
1972/12/--
画家の丸木位里、俊夫妻(埼玉県東松山市)が広島市の依頼で、平和記念館1階に展示する作品制作を始める。「原爆の図」13部作を集大成した作品にする予定
1972/12/--
広島市が被爆二、三世を中心とした被爆者家族調査を1973年実施のため、調査費290万円を予算計上へ。広島県も190万円計上へ

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