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ヒストリー

ヒロシマの記録1971 2月


1971/2/1
広島原爆病院が1970年1年間の診療白書を発表。1年間の死亡者は70人、うち44人が、がんによる死亡。対前年比で9人増
1971/2/5
原子力船「むつ」に原子炉圧力容器を積載
1971/2/7
米原潜バーブが横須賀に入港。横須賀入港はこの年はじめて。通算28回目
1971/2/7
「私のからだは生きた被爆教材」と原爆で痛めつけられた体で教壇に立ち続けた広島市立比治山小学校の尾形静子教諭が死去。44歳。肝道がん摘出のあとの急性腎不全。勤務先の広瀬国民学校(爆心から約1キロ)で被爆、全身にケロイド、傷を負った。1947年1月に復職、「批判力、真の判断力がある子供を育てることが悲劇を繰り返さない道」と平和教育に打ち込む
1971/2/8
広島県被団協(田辺勝理事長)が「米はベトナムで核兵器を使用しないよう誓約せよ」との声明を発表
1971/2/8
科学技術庁が、「日本原子力発電会社敦賀発電所付近の海で採取されたムラサキイガイから、放射性同位元素のコバルト60を検出」と発表
1971/2/10
参院予算委員会で、防衛庁の久保亘防衛局長が「沖縄のナイキ・ハーキュリーズは核兵器を装備」と肯定
1971/2/11
「原爆の図」第13部制作のため画家の丸木位里、俊夫妻が広島市内で関係者から話を聞く。テーマは米兵捕虜23人の死。当時、中国憲兵隊司令部特別協力班長だった柳田博さん、捕虜の世話をした増本春男さんらから取材
1971/2/11
米英ソ3国がモスクワで、大陸棚と海底から核兵器、大量殺りく兵器を締め出すための海底非核化条約に調印。日本も調印
1971/2/12
広島大主催の「ペスタロッチ展」記念式典出席のため広島市を訪れたエミール・シュターデル・ホーファー駐日スイス大使が原爆慰霊碑に参拝、原爆資料館を見学
1971/2/14
被爆者から佐藤首相にあてた直訴状を携えた「群集の渦」(日疋信代表)の自転車リレー行進(広島-東京)が広島を出発。前年2月、5月に続き3回目。5人の被爆者と被爆二世も参加。直訴状は原爆病院に入院中の西土万合枝(にしど・まりえ)さんが書く
1971/2/14
きのこ会が患者25歳の誕生会。以降5年ごとに実施(「きのこ会会報」)
1971/2/16
広島公演中のジェリー・藤尾さんが原爆病院を慰問
1971/2/20
梶山季之氏が小説現代3月号に発表した「ケロイド心中」が「被爆者の心を踏みにじる」と、広島県被団協(田辺勝理事長)、広島県原水協(佐久間澄理事長)が抗議へ。作品は被爆した女性とその兄の近親相かんを扱う。梶山氏は「公害問題などで忘れられがちな原爆問題について、強烈なテーマで世論を喚起したいと思った」
1971/2/20
全米に核攻撃警報の誤報が流れ、大混乱。コロラド州コロラドスプリングス・シャイアンの北米防空司令部が誤って本物の警報暗号を流す
1971/2/22
広島平和公園爆心復元委員会の成宮惣五郎会長らが「平和公園内の被爆前の戸別復元地図を刻んだ銅板を市の責任で早く作製してほしい」と陳情。委員会は平和記念公園内にあった旧中島本町、天神、材木、元柳の4カ町に住んでいた生き残り住民で構成
1971/2/23
広島市が映画「ヒロシマ原爆の記録」をウ・タント国連事務総長に贈呈
1971/2/24
原爆被爆者への国家補償に重点をおいた社会、民社、公明3党の「原爆被爆者援護法案」が議員立法として国会提出。原爆二法を援護法に一本化し、医療や対象範囲の拡大などが柱。(1)毎月限度額3万円の援護手当支給(2)被爆に起因した身体障害者に年金24万円支給(3)被爆に起因した疾病で治療中の全被爆者に毎月1万円の医療手当(4)毎月3万円の介護手当-など
1971/2/24
広島県原水協(佐久間澄理事長)と広島県被団協(田辺勝理事長)が梶山季之氏の作品「ケロイド心中」で梶山氏と講談社に抗議文。「梶山氏が広島出身であることも考えて、作品を理解しようとしたが理解できなかった。作品は被爆者差別を助長する」
1971/2/26
日米科学者137人が「ベトナム戦争で核兵器、化学兵器を使用するな」と緊急アピール発表。東京・一ツ橋の如水会館に草野信男東大教授、新村猛名古屋大教授、牧二郎京大教授らが集まり、国内31大学126人と米カリフォルニア大J・B・ニーランズ教授ら11人が署名したアピールを発表
1971/2/27
広島県被団協(森滝市郎理事長)が、野党3党提出の被爆者援護法成立に全力をあげると決定
1971/2/28
日本原水協のビキニ被災17周年3・1ビキニデー中央集会が始まる。静岡市の静岡大に1,500人が集まり分散討論集会。(1)原爆教育を全国的に実施する(2)毎月6日と9日に行っている「6・9行動」を通じて原水禁運動をさらに大衆に定着させる-などを確認。1日は焼津市体育館で全体集会
1971/2/28
ロバート・リフトン氏の「死の内の生命-ヒロシマの生存者」邦訳が朝日新聞社から刊行。桝井迪夫氏監修。原著のタイトルは「DeathInLIFE」で、日本語に直訳すれば「生の内の死」となるが、訳者は死の影の中でわずかな生命を生きているのが被爆者であるとの解釈から「死の内の生命」に(「原爆を読む」、「奥付」)
1971/2/--
映画人集団「核」(楠木徳男監督ら)が製作中の反核映画「私たちと戦争」の製作資金集めのため、広島市内でアピール・フィルムを上映。広島、長崎、沖縄、東京が主舞台
1971/2/--
広島の歴史にユニークな足跡を残した日本基督教団広島流川教会の旧会堂の取り壊し進む。跡地には三越デパートの駐車場ビル。1887年、米メソジスト教団によって創設された広島美以教会(原爆ドームわきの民家)が最初。1890年、赤レンガ2階建ての広島メソジスト教会(紙屋町)と、英和女学校(上流川町)へ発展。教会は流川教会、女学校は広島女学院の前身。1928年、ゴシック風の新会堂が「日本メソジスト広島中央教会」として献堂される。原爆によって破壊されたが谷本清牧師の手によって復興、広島の平和運動の拠点となる
1971/2/--
ドイツ、イタリアを公演中の東京ビバルディ合奏団(指揮者、早川正昭広島大助教授)が好評。特に早川氏が作曲した「広島のためのレクイエム」(レクイエム・シャーンティ)が感動を与える
1971/2/--
広島市原爆被爆者協議会が広島市牛田新町、神田山に計画している「被爆者療養研究センター」に、広島市が2,900万円の補助金決める。自転車振興会4,133万円、県も補助。協議会は組織強化のため会長を任都栗司氏から山田広島市長に、理事に財界や市議会代表も参加へ

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