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ヒストリー

ヒロシマの記録1971 3月


1971/3/1
日本宗教者平和協議会が主催し焼津市弘徳院で故久保山愛吉さんの墓前祭。宗平協の壬生照順理事長、日本被団協の行宗一代表理事、第五福竜丸の見崎吉男さん(福竜会会長)ら50人が参列。小佐々八郎日本原水協代表理事、平野義太郎日本平和委員会会長らが誓いの言葉
1971/3/1
原水禁国民会議が静岡市の静岡県評会館で全国代表100人が集まり、拡大全国委員会。2日も。返還協定作業が進んでいる沖縄問題を重視、原水禁沖縄大会を広島、長崎に先駆け7月20日から3日間、開催を決定。森滝市郎代表委員の核保有国への派遣などを承認
1971/3/1
市民グループ「原爆文献を読む会」(長岡弘芳世話人)が小説「ケロイド心中」で、「原爆-ケロイド-障害児出産という図式で被爆者差別を助長する」と作者の梶山季之氏と発行元の講談社に抗議
1971/3/1
米原子力ミサイル艦トラクストンが横須賀に初入港。過去、佐世保に2回入港
1971/3/1
被爆者青年同盟(被青同)が広島市で3・1ビキニデー討論集会。4月に予定されている昭和天皇、良子皇后の原爆慰霊碑参拝反対などを決める
1971/3/1
梶山季之氏が小説「ケロイド心中」で「観念的な『聖ヒロシマ』的見方だけでは谷間の被爆者は救われない。実話に基づき、生身の肌で庶民が感じる広島を書き、世間の目を今も続くきびしい現実に向けさせようと思ったのだ」。実話については「広島の被爆者7家族に5年ごとに会い、30年たった時、ヒロシマを題材にした長編を書こうと思っている。その資料の一部」
1971/3/3
房総半島沖で自衛艦が米原潜スヌークと合同訓練
1971/3/4
中国新聞に連載企画「ネバダ核実験場を見る」始まる
1971/3/6
「8月6日の広島平和式典に首相が出席してほしい」との原爆病院の患者の直訴状をもって広島-東京を自転車リレーした「群集の渦」メンバーが首相官邸で木村俊夫官房副長官に面会。直訴状を手渡す
1971/3/9
参院予算委員会で佐藤首相が答弁「日本の防衛のために、日米安保条約の義務として、米が他の場所から防衛用の核兵器を使うことはあり得ると思うが、それは関知するところではない」
1971/3/10
1942年、世界で初めて核連鎖反応実験に成功した米シカゴ大の黒鉛ウラン型原子炉の黒鉛の一部を、米軍人が原爆資料館に寄贈。米海兵隊岩国基地のカール・スミス少佐。「原子力開発の歴史を知る一助に」
1971/3/11
衆院社会労働委員会が原爆被爆者特別措置法改正案を可決。健康管理手当の支給対象年齢を65歳から60歳に引き下げ
1971/3/11
原爆の犠牲となった「原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑」の建設地鎮祭が平和記念公園そばで営む。碑建設委員会の惣野真澄委員長がくわ入れ
1971/3/15
原爆症認定却下に異議申し立てしている東京・小金井市の内海トシ子さんの第1回口頭審査が厚生省で開かれる
1971/3/15
生活保護受給家庭への被爆者特別手当支給問題で、厚生省が広島県被団協(田辺勝理事長)に回答。「特別手当も収入と認定せざるをえない」
1971/3/15
ウィーンで米ソ戦略兵器制限交渉(SALT)第4次会談始まる
1971/3/16
佐藤首相と中曽根康弘防衛庁長官が、日本の防衛構想で「非核専守防衛国家」とすることで一致
1971/3/16
御園生圭輔放射線医学総合研究所長が、東京で開かれた原産会議年次大会の「原子力発電と環境問題」シンポジウムで講演。日本の原子力公害対策の不備を指摘し、対策強化を呼びかけ
1971/3/17
広島県教委が、原子力教育に功績のあった福山工業高校の真壁芳夫教諭に県教育賞を決める
1971/3/19
日本放射性同位元素協会(茅誠司会長)が、14年間にわたって千葉県館山市沖に、放射性廃棄物をコンクリート詰めにしたドラムかん1,661本を海洋投棄。参院科学技術振興対策特別委員会で科学技術庁原子力局長が明らかに
1971/3/20
日本被団協の森滝市郎理事長が核兵器の全面禁止訴えのための欧米7カ国旅行に出発。米からスタート。5月27日、広島帰着
1971/3/23
大阪府警が、和歌山市内の人家密集地の青果物店倉庫に放置していた放射性物質1.8トンを押収。「健康バンド」「健康飲料石」として販売した業者と、放置していた関係者を逮捕
1971/3/24
原爆被爆者特別措置法改正案が参院本会議で成立
1971/3/25
被爆者青年同盟などが申請した「昭和天皇来広糾弾広島県民集会」(4月15日)の平和記念館の会場使用許可を広島市が取り消す。申請は被青同、広島部落解放研究連合、広島青年アジア研究会の「三団体連絡会議」(土屋稔代表)。三団体は「天皇の来広は被爆者の怨念を慰撫することにより、被爆者に対する国家責任をあいまいにし、核アレルギーを解消させようとするものだ」
1971/3/25
大田市三瓶山ろくで開かれる島根、広島県主催の第22回全国植樹祭に出席する昭和天皇、良子皇后の日程決まる。4月16日に初めて原爆慰霊碑に参拝し、原爆養護ホームへ。原爆資料館は見学せず。広島県被団協の森滝市郎理事長は「原爆の問題が人々の記憶から遠のきかけているとき、両陛下においでいただくことは大きな意味がある。できれば原爆資料館を見学していただきたい」
1971/3/26
韓国李王朝最後の皇太子妃だった李方子女史が韓国人原爆犠牲者慰霊碑と原爆慰霊碑を参拝。李方子女史は東京の梨本宮家の出。1920年、李王朝の李垠殿下と結婚、1963年、朴政権になって韓国へ
1971/3/26
福島県大熊町の東京電力福島原子力発電所1号機が営業運転に入る。出力46万キロワットで国内最大
1971/3/26
長崎原爆被災復元調査協議会が発足。調来助長崎大名誉教授を委員長に委員17人(「長崎年表」)
1971/3/26
ウ・タント国連事務総長から広島市に、先に贈った映画「ヒロシマ原爆の記録」に対する礼状。「この種の映画は世界世論の喚起に役立つ」
1971/3/29
原爆資料館主査の小堺吉光さんが中国新聞に「広島原爆戦災誌の編集を終えて」と題し寄稿。「1969年ごろは調査活動のピークで、いつのまにか私の手元には何千本の糸口がまとめられていた。…もう原稿の枚数を気にしながら書いておれなくなった。このさい、被爆者の真実の声を赤裸々に後生に残すことが広島市の責任だと感じた」
1971/3/30
長崎原子爆弾被爆者中央診療所が完成。4月1日から原爆医療法に基づく業務を開始(「長崎年表」)
1971/3/30
ジュネーブの軍縮委員会でソ連が生物兵器禁止案に同意。化学兵器禁止と切り離す米、英案をのむ
1971/3/31
がんの人体実験問題で辞表を出していた広島大原医研の岩森茂・助教授が、愛媛県北宇和郡広見町の国立出目診療所の医師として赴任
1971/3/--
広島県佐伯郡廿日市町の廿日市中学3年生が彫金で卒業記念として原爆図絵の「忘れえぬ川」制作。美術担当の吉野誠教諭が指導
1971/3/--
京大原子炉で研究者1人が全身に被曝。3カ月に6.6レム
1971/3/--
作曲家の林光さんが、原民喜氏の「原爆小景」から、混声合唱曲の第2部「日ノ暮レチカク」と第3部「夜」を作曲。第1部の「水ヲ下サイ」から13年ぶり

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