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ヒストリー

ヒロシマの記録1971 8月


1971/8/1
長崎市が原爆死没者名簿に新たに2,035人を記載、奉安名の総数は4万3,736人となる(「長崎年表」)
1971/8/1
原爆資料保存会の会員と被爆者の遺族約80人が広島市内の72カ所の原爆関係慰霊碑を巡拝。8回目
1971/8/1
平和記念公園で平和の灯奉賛会(藤田定市会長)の「平和の灯まつり」。市民約500人が参加
1971/8/1
日本原水協の第17回原水禁世界大会国際予備会議が東京・神田の学士会館で開幕。7年ぶりに入国許可の出た北ベトナム代表2人、初参加のスペイン代表など10カ国7国際団体の33人の海外代表と日本側代表90人が出席。世界平和評議会代表も7年ぶりに出席したが、日本平和委員会招請のオブザーバー資格
1971/8/2
永野厳雄広島県知事が「8月6日の平和の鐘を合図に全県民が黙とうをしよう」と呼びかけ
1971/8/2
全国被爆者青年同盟(全国被青同)の児玉隆博委員長ら7人が山田広島市長との面会を求め市長室前に座り込み
1971/8/2
原水禁国民会議の被爆26周年原水爆禁止世界大会国際会議が東京・全日通労働会館で開幕。初参加のミクロネシア代表をはじめ8カ国1国際団体から17人の海外代表と日本側から30人。秋に予定されている米のアリューシャン列島アムチトカ島地下核実験反対とミクロネシアのビキニ水爆実験被害者調査団派遣が特色
1971/8/3
大学教授、主婦、牧師からなる「米国平和巡礼団」(リーランド・ウィルソン団長、7人)が広島入り。ワールド・フレンドシップ・センター(原田東岷理事長)が招待
1971/8/3
辛泳洙韓国原爆被害者援護協会長が山田広島市長に会い「佐藤首相に在韓被爆者の訴えを伝えてほしい」と要望。(1)治療目的の渡航制度をつくり、被爆者健康手帳を交付してほしい(2)民間ベースの救援活動を市、政府ともバックアップしてほしい。協会員は6,269人
1971/8/3
全国被青同の児玉隆博委員長らが山田広島市長と話し合い
1971/8/3
「八時十五分祈り会」(土岡喜代一代表)が平和記念公園に、原爆ドームの中で自然に発芽したクスノキを植える
1971/8/3
広島県教育会館で全国被爆教師の会結成準備会開く。9月中に結成総会
1971/8/3
広島市草津地区に住む被爆者ら120人が「草津を特別被爆地区にする会」結成総会を開く
1971/8/4
平和記念公園そばの平和大通り沿いに「原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑」が完成、除幕式。建設委員長の惣野真澄広島県退職校長会会長、同県被爆教師の会の石田明会長、像制作者の新制作協会会員、芥川永さんら約1,000人が参列。詩人深川宗俊さんの作・構成で、映画「ヒロシマの証人」の音楽を担当した安達元彦さん作曲の構成詩「未来を語り続けて」を俳優の山本学さんが朗読。被爆者の声楽家千葉佳子さん、広島少年合唱隊、広島交響楽団などが歌う。碑文は被爆歌人正田篠枝さんの「太き骨は先生ならむそのそばに小さきあたまの骨あつまれり」。碑の死没者名簿には子ども774人(死亡推定2,000人)、教師131人(同200人)の氏名
1971/8/4
中国新聞が「佐藤首相と核問題」と題し、歴代総理として初めて広島の平和記念式典に出席する佐藤首相の原爆・核発言をまとめる。1967年、日本被団協の被爆者援護法制定陳情で広島被爆の田中正子さんに「私の親類にも被爆者がいて…」。原爆被爆者特別措置法が審議中の1968年、山口2区選出の山田耻目社会党議員に「被爆されている山田議員の言葉に心を打たれた」
1971/8/4
愛知県豊川市の彫金作家後藤秋男さんが原爆投下直後の逃げまどう人々の姿を描いた銅製の彫金壁画を原爆資料館に寄贈
1971/8/4
仏が中距離弾道ミサイル(IRBM)部隊の第1陣9基を南仏アルビヨン高原に配備したと発表
1971/8/4
広島市基町の市青少年センターで、映画「ヒロシマ原爆の記録」と「千羽鶴」の観賞会。親子連れら100人が集まる
1971/8/4
広島県公安委員会が、申請を受け付けた8月5、6日のデモ行進22コースのうち8コースについて一部変更し許可
1971/8/4
核禁広島県民会議(村上忠敬議長)の核禁広島集会で、「秋に韓国在住被爆者の原爆症治療のため医師団を派遣する」と決める。辛泳洙韓国原爆被害者援護協会長らがあいさつ
1971/8/4
来日中の米国平和巡礼団(リーランド・ウィルソン団長ら7人)の一行が三次市を訪れ、三次中学生らと討論
1971/8/4
広島県教組が主催し、広島労働会館で映画「ひろしま」を上映し平和教育を語る集会
1971/8/5
広島市堺町1丁目で「第2回韓国人原爆犠牲者慰霊祭」。張泳徳民団広島県本部議長が式辞、崔成源同団長が死没者名簿を奉納、韓杞駐下関韓国領事、辛泳洙韓国原爆被害者援護協会長、遺族代表の尹炳道さんらが追悼の言葉。死没者名簿記載数545人
1971/8/5
広島市公会堂で広島交響楽団主催の市民音楽会「平和への夕べ」。市民ら約1,000人が参加
1971/8/5
米ロサンゼルスで在米被爆者の「原爆友の会」が中心になって原爆祈念式典。トーマス・ノグチ検視局長(横須賀市出身)、ブラッドレー市参事官(後のロサンゼルス市長)らが参加
1971/8/5
米ソが共同でジュネーブ軍縮委員会に生物兵器禁止条約草案提出
1971/8/5
米国防総省が「中国は射程1,000~2,400キロの準中距離弾道ミサイルを配備したもよう」と発表
1971/8/5
「被爆26周年8・6広島反戦集会全国統一実行委」がデモコースの一部変更で広島県公安委員会を相手取り、広島地裁にコース変更処分の取り消しと執行停止を申し立て。5日に予定していた広島駅前、広島グランドホテル周辺のコース変更は不服
1971/8/5
「1971年夏東京-広島『愛と怒りのゼミナール』」のティーチイン列車が広島到着。東京・渋谷のクラルテ研究会(代表、畑好秀さん)の呼びかけで約250人の若者参加。作家の小中陽太郎、北山修氏なども参加。4日午後9時10分東京発、5日午後5時広島着。兵役拒否、南京虐殺などテーマ別に6両編成。5日夜は広島県安佐郡佐東町の八木温泉に一泊、6日朝、解散
1971/8/5
日本原水協の第17回原水爆禁止世界大会本会議総会が広島県立体育館で開幕。8,000人が参加。7年ぶり参加の北ベトナムのレ・ズイ・バン代表があいさつ。新村猛名古屋大名誉教授が7月に東京で開いた原水禁科学者会議の決議を受け、「原水禁運動の統一」を要請。1970年、被爆二世の長女を白血病で失った中本剛広島県原水協理事が、長女の遺影を胸に被爆者援護を訴える。不破哲三共産党書記局長が広島県庁で記者会見し「原水禁運動の統一は7年前の分裂時に比べ、条件ははるかに有利。統一の道は開ける」
1971/8/5
原水禁国民会議が広島県立体育館で被爆26周年原水禁世界大会開会総会。約6,000人が参加。沖縄の核基地撤去、被爆者の完全援護などを盛り込んだ「広島アピール」を発表。成田知巳社会党委員長、市川誠総評議長らあいさつ。被爆者を代表し高橋昭博広島県被団協理事が「佐藤首相を歓迎する気持ちになれない。国の戦争責任をわび、日本の非核武装宣言をし、被爆者の完全援護をすることが佐藤首相にできるか」。成田委員長が記者会見で「原水禁大会後、共同行動に向け具体的、実際的な話し合いを始めるよう提唱する。第五福竜丸の保存運動を一体的に進めるなどを呼びかける」。成田委員長が小頭症患者の畠中百合子さんを「きのこ会」会長の長岡千鶴野さん方に見舞う
1971/8/5
平和記念式典出席の佐藤首相が広島入り。台風19号の影響で列車が大幅に遅れ、新左翼系のデモ隊は引き揚げた後。静かな到着
1971/8/5
佐藤首相の来広阻止を掲げる新左翼系学生と機動隊が広島駅前などで衝突。学生らは21団体、1,770人が3会場で集会を開いた後、10のコースでデモ行進。広島県警は2,700人の警察官で厳重警備。学生の一部が広島駅構内に乱入。22人を逮捕
1971/8/5
広島「折鶴の会」が、式典の混乱を懸念し原爆の子の像の折りづるを「疎開」。「焼かれたら大変」。最近3カ月間に全国から寄せられた55万羽
1971/8/6
広島市が編集を進めていた「広島原爆戦災誌」第1巻が刊行。被爆による壊滅の実態、救護活動、復興着手までを描く。本文631ページ。1962年4月から編集を始め、最初は2巻、1,000ページ程度を予想していたが、次第に資料が増えたことから全5巻、4,000ページに。中心になってまとめたのは原爆資料館主査の小堺吉光氏。第2巻は市内各地区被爆状況など。編集に当たっては広島市が被爆当時の町内会長ら82人を地区委員として委嘱、各委員が地区の被爆状況を記入。第3巻は市内主要官公庁、事業所の被爆状況。第5巻の刊行は12月8日
1971/8/6
平和式典での佐藤首相あいさつ「わが国は、戦後、世界で唯一の原爆被災国として、人類滅亡の危険を未然に防止するため、戦争の絶滅と国際間の平和秩序の確立を図ることを国是の基本としてまいったのであります。わたくしは、自由を守り平和に徹するわが国の基本方針を一層堅持し、今後とも、恒久平和の理想の達成に全力を傾注するとともに、今なお原爆の傷跡に苦しんでおられる被爆者の方々に対し、これまでにも増して、その福祉の増進をはかる所存であります」
1971/8/6
佐藤首相が原爆資料館を見学、原爆養護ホームを慰問。広島県庁での記者会見の後、被爆者の西土万合枝さんらが首相と出会い「直訴」。原爆病院は首相秘書官の西垣昭秘書官が代理訪問
1971/8/6
佐藤首相が広島県庁で記者会見。(1)もっと早く広島に来るべきだった。初めて被爆地を見舞った今、遅きに失した感がしないでもない。式典に参列して26年前の私を回想した。当時、大阪鉄道局長だった私は広島への救援に鉄道病院の医師を動員したこと、山口連隊にいた私のおいが広島で被爆し、1週間後に死んだことなど、あれこれ思いながら万感胸に迫った。若者たちの反対行動は原爆への理解が足りないためではないか(2)原爆養護ホームでは、老人たちが一応元気そうだったが、この種施設が不足していると感じた(3)被爆者援護法の制定は考えていない。被爆者対策を推進するため被爆特別区域の拡大、諸手当の増額、施設の整備など前向きに取り組む(4)非核三原則は国是であり、国会で改めて非核武装宣言する考えはない(5)被爆全数調査は1975年の国勢調査時点で並行実施するかどうか検討したい(6)被爆者援護審議会の設置は考えていないが、研究課題
1971/8/6
山田広島市長が平和宣言「…ここにわれわれは提言する。今こそ人類生存の理念を明確にし、地球人としての運命一体感を強く認識し、世界市民意識を基調とした新しい世界の構造を確立して、戦争なき人類共同社会を建設しなければならない。すべての国家は日本国憲法にうたわれた戦争放棄の基本精神にのっとり、いっさいの軍備主権を人類連帯の世界機構に委譲し、解消すべきである。そのためには、まず地上におけるすべての戦争の即時停止と、核不使用協定の締結を速やかに実現するよう強く要請する。さらに次の世代に戦争と平和の意義を正しく継承するための平和教育が、全世界に力を込めて推進されなければならない…」
1971/8/6
平和記念公園の戦災供養塔前で、広島戦災供養会(田頭新太郎会長)が原爆死没者各派合同慰霊祭
1971/8/6
被爆26周年原爆死没者慰霊式・平和祈念式。台風19号の激しい風雨の中で始まる。山田広島市長と遺族代表の広島市段原山崎町、三浦正之さん、己斐本町の高野ハツエさんの3人がこの1年間に原爆死没者名簿(過去帳)に記入された1,745人(被爆当日死亡243人)の名簿を原爆慰霊碑に奉納。名簿記載は計7万8,086人に。歴代首相として初めて佐藤首相が出席、花輪を奉呈中に新左翼系の若い女性が首相に突進、警護の警察官にさえぎられる。流れ献花。爆竹が静けさを破る。平和の鐘、黙とう、再び新左翼系の若者4、5人が慰霊碑前に乱入、首相めがけ駆け寄る。1、2分で取り押さえられる。山田市長が平和宣言
1971/8/6
平和記念公園の戦災供養塔前で楠木徳男監督ら独立プロ「核」のスタッフによるドキュメンタリー映画「私たちと戦争」が再クランクイン。1970年7月に製作を始めたが、製作費不足でストップしていた 1971/8/6
原水禁国民会議の原水禁世界大会に参加したマーシャル諸島ビキニ環礁のララウ島に住むモーゼス・ウルドングさんが被爆者との懇談を通し、マーシャル諸島の水爆実験被害者と広島、長崎の連帯を呼びかけ
1971/8/6
ブラジル・サンパウロに「ヒロシマ中学校」誕生。サンパウロの邦字紙パウリスタ新聞が伝える。永野厳雄広島県知事のサンパウロ訪問(1月)を記念し当時の知事が約束していた。中学校は旧名ジナジオ・イタケーラ中学校、生徒数約2,600人
1971/8/6
バーバラ・レイノルズさんが中心になってミシガン州アンナーバー大で原爆記念日集会。「ヒロシマ原爆の記録」を観賞し、被爆者の広島県安芸郡府中町の吉村節子さんが講演。吉村さんから中国新聞社へ便り
1971/8/6
広島県被団協(森滝市郎理事長)が広島市中町の国泰寺で原爆死没者慰霊祭。成田知巳社会党委員長、望月優子参院議員ら400人が参列
1971/8/6
全国被爆者青年同盟(児玉隆博委員長)と中四国救援連絡センター(代表、小島丈児広島大教授)が「被青同のデモ規制は法的根拠を欠き特別公務員の職権乱用」と抗議、告訴へ
1971/8/6
佐藤首相に永野厳雄広島県知事、山田広島市長が広島県庁で陳情。(1)被爆者援護審議会の設置(2)ABCCの研究を1995年まで延長(3)韓国人被爆者の救済-など
1971/8/7
日本被団協が佐藤首相の広島訪問について「式典でのあいさつなど首相の言動は、具体的な被爆者援護策を示さず、期待を裏切る」と非難声明
1971/8/7
日本原水協が広島県立体育館で第17回原水禁世界大会広島大会の閉会総会。「国際共同行動のための広島アピール」など5つの大会文書を採択。広島アピール(1)インドシナでの米帝国主義の侵略の即時停止と南ベトナム臨時革命政府の7項目を支持(2)核戦争の阻止、核兵器の全面禁止と核使用禁止協定の締結実現-など
1971/8/7
8月5、6日に広島県警が公務執行妨害罪、礼拝妨害罪、広島県公安条例違反などで逮捕した新左翼系学生らは84人、右翼は1人。動員警察官は延べ5,500人
1971/8/8
東京都原爆被害者団体協議会(東友会、伊東壮事務局長)が、東京・品川の東海寺で第7回東友会原爆犠牲者慰霊祭。石田忠一橋大教授、東京空襲を記録する会代表の作家有馬頼義氏らが参列
1971/8/8
山口放送テレビが山口県原爆被爆者福祉会館ゆだ苑の専務理事永松初馬さんの被爆者援護・救援の姿をテーマにしたドキュメンタリー「この祈りを」を放送。磯野恭子ディレクターを中心に制作
1971/8/9
仏が南太平洋ムルロア環礁で核実験。シリーズ4回目
1971/8/9
仏核実験に外務省が情文局長談話で抗議。原水禁国民会議、日本原水協も抗議電報。山田広島市長もポンピドー仏首相に、長崎県・市も駐日仏大使へ抗議電報
1971/8/9
原水禁国民会議が長崎市で被爆26周年原水爆禁止世界大会の閉会総会。広島で「被爆者援護法制定の考えはない」とした佐藤首相に抗議し、大会宣言で佐藤首相の退陣を要求。9日、核実験を強行した仏政府にも抗議
1971/8/9
長崎市、被爆26周年。平和公園で原爆犠牲者慰霊奉賛会が主催し「原爆殉難者慰霊祭」。続いて、市主催の平和祈念式典。竹下登官房長官が佐藤首相の代理で出席。被爆者代表の笹村球吾さんが「平和への誓い」。諸谷義武市長が平和宣言。「原子爆弾、水素爆弾をつくり出した科学技術は、たとえそれが前人未到のすぐれたものであったとしても、そこには人間への愛情が欠如し、ただ、有るものは、平和と幸福に対する反逆のみであったが、真の人類愛に立脚した人間の英知は、必ずや、核兵器を絶滅し世界の平和を実現し得ることを堅く信じ、心から期待する」
1971/8/11
広島・ポーランド文化協会(会長、山田広島市長)と、広島・アウシュビッツ委員会(桑原英昭委員長)の世界連邦訪ポ平和親善使節団(桑原団長、20人)が、ポーランドを中心にヨーロッパへ出発
1971/8/11
財団法人広島市原爆被爆者協議会(会長、山田広島市長)が、同市牛田町新町1丁目の神田山に建設する「原爆被爆者療養研究センター」の建設計画を正式決定。事業費3億468万円
1971/8/12
社会党が党中央執行委員会で、原水禁運動の統一問題への積極取り組みを決定
1971/8/15
セポロト・オフチンニコフ氏作の「ヒロシマの灰はまだ熱い続・サクラと沈黙」の邦訳が徳間書店から刊行。訳者、石黒寛氏(「奥付」)
1971/8/15
仏が南太平洋ムルロア環礁で今シリーズ最大の1メガトン級の大型水爆実験。約500メートル上空の気球につるし爆発
1971/8/15
日本原水協が那覇市で第17回原水爆禁止世界大会沖縄県大会。米の反戦歌手レイ・チャンドラーさん、初めて沖縄への渡航許可が出た日本平和委員会の平野義太郎会長、日本原水協の吉田嘉清事務局長ら150人が参加
1971/8/16
米国平和巡礼団(リーランド・ウィルソン団長、7人)の一行が平和記念公園の原爆慰霊碑前で「祈りの集会」の後、広島を離れる
1971/8/18
韓国政府の招きで在韓被爆者の慰問と親善のため訪韓する広島「折鶴の会」(河本一郎世話人)の少女ら8人が広島駅を出発。広島市内の女子中、高生6人と河本さん、案内役の在日本大韓民国居留民団広島県地方本部事務局長、姜文煕さん
1971/8/18
広島市と同市議会議員で構成する広島原爆被害者援護強化対策協議会(任都栗司会長)が、1972年度の重点陳情項目を決定。(1)原爆被爆区域の是正(2)国家補償精神に基づく援護策を立てる原爆被爆者援護審議会の設置(3)現行被爆者援護措置の充実-など
1971/8/19
被爆者実情調査のため自民党政調会原爆対策小委員会調査団(団長、増岡博之委員長)が広島入り。県庁で県、広島市などの説明会。被爆者代表の桧垣益人広島県被団協事務局長、安佐郡祇園町の中西高美町長らが援護法の制定、被爆区域の拡大などを要望
1971/8/20
広島県佐伯郡廿日市町廿日市中学の卒業記念作品、彫金「忘れえぬ川」の制作過程をスライドに
1971/8/21
平和記念式典で佐藤首相の献花を妨害しようとして逮捕された女性を、広島地検が処分保留のまま釈放。女性は「ハレンチ学園全狂頭」のメンバー。「犯行を認め、思想的背景もない」として27日、起訴猶予に
1971/8/26
仏モーラン3軍参謀総長が「仏は1976年まで毎年2、3回、低威力の核兵器実験を続ける。76年以降は中止されよう」。仏国営放送が伝える
1971/8/26
在韓被爆者の慰問と親善のため韓国を訪れていた広島「折鶴の会」の一行が広島帰着。ソウル市で韓国被爆者二世の会「ピドルギ(ハト)団」との姉妹縁組調印。4市を訪問
1971/8/27
広島地検が平和祈念式で逮捕した新左翼系の84人の処分を決める。起訴は全国被爆者青年同盟委員長の児玉隆博被告ら被青同のメンバーら9人、略式起訴1人
1971/8/28
全日本原爆被爆者協議会(任都栗司会長)が、広島市役所で総会。1972年度の国への要望として被爆者養護ホームの増設などを決める
1971/8/30
仏がペルー政府などの強い抗議で9月に予定していた核実験を中止。中南米諸国の仏製武器の輸入中止を恐れる
1971/8/31
厚生省が1972年度予算要求で、各種手当の所得制限撤廃を打ち出す。要求額も1971年度の1.5倍
1971/8/31
広島市牛田新町1丁目の神田山で、保養と療養の施設「原爆被爆者療養研究センター」の起工式。財団法人広島市原爆被爆者協議会(会長、山田広島市長)が建設
1971/8/--
原対協(会長、山田広島市長)が被爆婦人の生活歴調査を進める。広島原爆被爆者福祉センターの職業補導部で学ぶ被爆婦人のうち、爆心から2キロ以内に住んでいた人が対象。被爆で、どう生活が変わったか、被爆後どのような経過をたどったか-を面接調査
1971/8/--
超満員続く原爆資料館の原爆映画映写室。35人分の席しかないため「ヒロシマ原爆の記録」の観賞に定員の2、3倍が詰めかけることも。貸し館専用となっている平和記念館に不満の声
1971/8/--
同じ動員学徒なのに作業の名前が「防空補助要員」となっていたばかりに遺族年金が支給されないのは納得できない-。お役所仕事に遺族から怒りの声
1971/8/--
平和記念式典で山田広島市長が読み上げる「平和宣言」が、海外14都市と267の平和団体・個人に計281通発送へ。1970年のヒロシマ会議参加者ニューヨーク州立大教授ユージン・ラビノビッチさん、フォーク歌手ジョーン・バエズさんらにも
1971/8/--
広島市が建設している基町の高層住宅建築現場で、原爆犠牲者とみられる遺骨6体分が見つかる
1971/8/--
広島県内の現場教師による実践リポート「原爆をどう教えたか」が明治図書出版から発行。広島県被爆教師の会と同教職員組合が編集
1971/8/--
広島市の原爆資料館主査、小堺吉光さんのもとへ各地から貴重な証言相次ぐ。宮城県の医師伊藤益次さんからは宇品の船舶司令部で軍医として救援に当たった記録、徳山市の安沢松夫さんからは被爆直後の広島吉島飛行場から飛行機で脱出、再び救援のため広島に飛来した記録、旧比治山高女第5期生は中国軍管区司令部暗号通信室に学徒動員していて交換台を最後まで守り、福山の司令部に「広島が全滅に近い」と通報した記録など

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