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ヒストリー

ヒロシマの記録1971 9月


1971/9/1
奈良県立医大付属がんセンターが、子宮がんに使用するラジウム管の紛失を科学技術庁に届け出
1971/9/2
広島市原爆被爆者協議会草津支部(川本実支部長)が草津地区の被爆状況調査。1,531人が回答。92%が黒い雨を証言、53%が下痢、脱毛など急性症状」
1971/9/3
米が原子力空母エンタープライズの横須賀寄港を日本政府に非公式に打診
1971/9/5
日本被団協が東京・国労会館で第15回総会。被爆者援護法の早期実現などの運動方針と、当面の活動目標として(1)1972年度の被爆者関係予算の大幅増(2)全被爆者へ特別手帳の交付(3)沖縄被爆者に対する格差是正-を決める。新役員として代表委員に行宗一(再)、桧垣益人(再)、小佐々八郎(新)、事務局長に伊東壮氏(再)を選ぶ。小佐々八郎氏は小林ヒロ氏と交代
1971/9/6
7年前から広島の被爆者と文通を続け、広島原爆病院に新茶をプレゼントなどしている京都府綴喜郡田辺町の草内老人クラブの一行が広島を訪れ原爆慰霊碑に参拝。手紙をやりとりしている広島市の佐伯敏子さんが案内
1971/9/6
米のアリューシャン列島アムチトカ島地下核実験計画に対し、ジュネーブの第4回原子力平和利用国際会議で、カナダ外相が反対を表明
1971/9/6
「撃墜したB24から生き残り米兵を連行したのは自分」と広島市の土屋義信さんが名乗り出る。当時、土屋さんは広島憲兵分隊の司法主任。高射砲で撃墜されたB24が八幡村(佐伯郡五日市町)に墜落した際、捜索隊長として現場に急行。「機体のそばでパラシュートで脱出した2人の米兵をとらえ、憲兵隊司令部に移送した。B24には他に6人がいたがいずれも墜落時に死亡」
1971/9/6
日本被団協の桧垣益人代表委員らが首相官邸に竹下登官房長官を訪ね、「佐藤首相が広島で援護法制定に否定的な発言をしたのは遺憾だ。一日も早く援護法を実現してほしい」と要望
1971/9/9
米政府が10月に予定している米アリューシャン列島アムチトカ島地下核実験について再検討始める。理由には触れず
1971/9/10
山口県原爆被爆者福祉会館ゆだ苑の3周年記念事業で「加藤登紀子チャリティーショー」。利益75万円をゆだ苑に贈る
1971/9/10
ジュネーブの原子力平和利用国際会議で、世界保健機関(WHO)代表が、原子力産業の普及で地球上の放射能汚染が進んでいると警告
1971/9/11
在韓被爆者を救おう-と、核禁広島県民会議などが広島市内で募金活動。2時間で8万2,000円
1971/9/13
ABCC労組(上田登委員長、350人)がドルショックによる生活不安に組織を挙げて闘う決議
1971/9/13
平和記念式典を妨害し広島地検が氏名、年齢不詳のまま起訴した被告が、その後の調べで少年とわかり、広島地裁が公訴棄却。地検は少年を広島家裁へ送致
1971/9/14
米上下両院協議会が、10月に米政府原子力委員会が計画しているアリューシャン列島アムチトカ島地下核実験について「大統領が命令しない限り、来年5月末まで延期」との公共事業支出法案修正に合意
1971/9/14
広島市の労働会館で核禁会議(磯村英一議長)などが派遣する韓国被爆者診療医師団の結団式。河村虎太郎医師、石田定広島原爆病院内科部長、江崎治夫広島大原医研臨床第2部門(外科)長を囲み、村上忠敬核禁広島県民会議議長、重藤文夫広島原爆病院長らが激励
1971/9/19
広島市基町で「基町地区再開発連合協議会」が発足。会長に同協議会発起人会代表の東秀治さん 1971/9/20
核禁会議(磯村英一議長)、在日本大韓民国居留民団が派遣する韓国在住被爆者診療医師団(福永久義団長=核禁広島県民会議事務局長、6人)の第1陣が広島を出発。福永団長、石田定広島原爆病院内科部長、姜文煕民団広島県本部副団長ら。河村虎太郎医師は22日出発
1971/9/21
10万匹のカエルの精子や卵に低線量の放射線を照射した場合、孫ガエルの40%に異常が発生-。広島大理学部の川村智治郎名誉教授、西岡みどり教授が発表。原子力利用に慎重さを要望
1971/9/22
日本新聞協会の招きで来日しているインド新聞人一行5人が原爆資料館を見学
1971/9/23
東京都をはじめ関東甲信越の被爆者の「広島慰霊墓参団」(行宗一団長)28人(他地区含めた総勢は49人)が広島入り。広島原爆病院を慰問。東京都原爆被害者団体協議会と日本被団協関東甲信越ブロックが主催。昨夏に続き2回目。平和記念公園に東京・品川の東海寺などのイチョウを植樹 1971/9/23
千葉県市原市の三井造船千葉造船所で溶接の非破壊検査に使う放射性同位元素イリジウム192(6キュリー)が紛失。業務請け負いは呉市の中国エクス線会社。20日に紛失に気づき、23日、市原署と科学技術庁に届け出
1971/9/24
ヘルシンキでの米ソ戦略兵器制限交渉(SALT)第5次交渉終わる。「米ソ偶発戦争防止協定」がまとまり米が承認。(1)ホットラインを通信衛星経由にする(2)偶発的な事故、正式な許可なしの核兵器使用防止のため適切な措置をとる
1971/9/26
三井造船千葉造船所で紛失した非破壊検査用のイリジウムが、同造船所の下請け作業員の寮自室で見つかる。作業員と友人ら4人が大量の被曝。3人は1立方ミリメートル当たり白血球が2,000台に激減。その後、被曝者は6人に
1971/9/26
日本基督教団が広島県佐伯郡廿日市町原に建設していた特別養護老人ホーム「清鈴園」(蛯江紀雄園長)が完成。原爆孤老を中心に50人が入所。総事業費1億4,500万円、米、カナダなどからも約3,600万円の浄財
1971/9/27
スウェーデンのウプサラ大地震研究所が、ソ連はこれまでの地下核実験としては2番目の規模の核爆発実験を実施したと発表。北極圏ノバヤゼムリャ核実験場
1971/9/27
来日中の英のロック・グループ「レッド・ツェペリン」のジミー・ペイジさんらが山田広島市長に被爆者援護資金として700万円を寄付。県立体育館で開いた「愛と平和チャリティ・コンサート」の売上金全額。広島公演はメンバーの要望
1971/9/28
被爆者の生活史の解明を目指す「被爆者ならびに被爆家族の生活史調査の方法論に関する基礎的研究」(文部省科学研究費)の研究班が、広島で初会合。メンバー=那須宗一(中央大教授)、石田忠(一橋大教授)、小川政亮(日本社会事業大教授)、上子武次(大阪市立大教授)、小山隆(東洋大教授)、国富毅(広島商大教授)、志水清(ABCC医科社会学部長)、中鉢正美(慶応大教授)、原田勝弘(明治学院大講師)、山手茂(東京女子大助教授)、湯崎稔(広島大原医研助手)、渡辺孟(同原医研教授)
1971/9/28
広島市平和文化推進審議会(岡咲恕一会長)が、広島市教委の作成した小学校用「平和教育の手引」を批判。「手引は観念的であたりさわりのないことを述べているだけ。作成した人が原爆、戦争の惨禍を身にしみて感じているかどうか疑問」(岡咲会長)。「現場の先生は手引を手にしたら困惑するだろう」(荘司雅子広島大教授)
1971/9/30
厚生省の原爆症認定申請却下処分の取り消し請求訴訟を起こしている尾道市の桑原忠男さんの第2回口頭弁論が、広島地裁で開く。原告側証人の広島市の田坂正利福島病院長が認定制度の矛盾を指摘
1971/9/--
被爆米軍捕虜に新事実。米ワシントンにある国立記録保存所の記録文書によると「被爆当時、広島には20人の米軍捕虜が抑留され、大半は米陸軍航空隊員。うち17人が直後に殺され、2人は8月19日に負傷のため死亡と認定」「19日に死亡した2人は、1945年5月28日に撃墜されたB24爆撃機ロンサムレディの砲座手、ラルフ・J・ニール軍曹とノーマン・ローランド・ブリセット」。ロンサムレディの他の乗組員の消息は、トーマス・A・カートライト少尉(操縦士)=助かってのちに米艦リースで帰国▽W・D・アベル軍曹=9月1日救出▽ルーパー・ダーデン少尉(副操縦士)=死亡▽ロイ・M・ペダーセン少尉(航法士)=死亡▽ジェームス・M・ライアン少尉(爆撃手)=死亡▽E・H・アトキンソン軍曹(通信士)=死亡▽ビュフォード・J・エリソン軍曹(機関士)=恐らく死亡▽ジョン・A・ロング・ジュニア伍長(砲座手)=恐らく死亡。記録はロンサムレディの乗組員以外の10人はまったく不詳とし、「撃墜された他のB24の搭乗員」と推測。原爆慰霊碑の原爆死没者名簿に記載されている米兵士は「トニー・某(米国人、航空少尉)」が憲兵隊中国本部内で即死、「ジョン・アラン・ロング」が5師団内捕虜収容所で即死とされている。ジョン・アラン・ロングはジョン・A・ロング・ジュニア伍長と同一人物とみられる
1971/9/--
国立柳井療養所で見つかった「広島第一陸軍病院・原子爆弾研究綴」の中から広島市の原爆死没者名簿に記載されていない原爆犠牲者8人の名前が判明。出身地、年齢は不詳。記録を記した元軍医、松江市の米田正治さんの調べで分かる
1971/9/--
「原爆の子」(岩波書店)に収録されなかった未公開手記約3,000編の行方わかる。編集者の長田新広島大教授の郷里である長野県茅野市の生家の書庫。長田教授の門下生の佐藤正夫広島大教授、長田教授の三男、三郎氏、五男、五郎氏らが証言

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