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ヒストリー

ヒロシマの記録1971 10月


1971/10/2
在韓被爆者診療医師団の石田定広島原爆病院内科部長と河村虎太郎医師が広島帰着。石田医師「貧困と高い治療費が(韓国の)被爆者を一層惨めにしている。被爆者に対する偏見が強く、26年間も放置され続けたことにうらみを抱いている」。河村医師「患者の経済的負担をなくすことが先決。無料診療のために日本から援助が必要。韓国内にも被爆者救援の世論が盛り上がってきた」
1971/10/2
在韓被爆者診療医師団の第2陣、広島大原医研の江崎治夫(臨床第2部門長)、内野治人(臨床第1部門長)両医師がソウル着。慶尚南道の陜川で4日から3日間、診療へ
1971/10/3
被爆者青年同盟が独自の被爆者診療所建設に向け募金運動を開始へ。広島県安佐郡高陽町に約1,500平方メートルの土地を借りる
1971/10/5
出入国管理令違反で懲役10月が確定し、福岡刑務所に服役し、国立療養所福岡東病院に入院している密航被爆韓国人、孫振斗受刑者が、亀井光福岡県知事に被爆者健康手帳の交付を申請
1971/10/6
ABCC労組が「ABCC再編成の基本構想」をまとめる。(1)科学技術庁を主務官庁とする「原子爆弾後障害調査研究所」が、ABCCの業務、資料などを引き継ぐ(2)日本政府と米学士院が費用分担し、日本の原子力基本法にある自主、平和、民主、公開の原則を貫く(3)従来の調査、研究に加え、原子力の平和利用によって起こる環境汚染も対象とする(4)運営には市民、学識経験者を含める
1971/10/6
カナダ・バンクーバー市の高校生1万人が、アムチトカ島米核実験に抗議し、授業を放棄し米領事館へデモ
1971/10/7
在韓被爆者診療医師団の診療が終わる。1、2陣合わせ計252人を診察。消化器疾患62人、神経疾患58人、循環器疾患50人、貧血など40人、ケロイド外傷38人
1971/10/7
広島一中1年のとき、教室で被爆したデザイナー片岡修愛知県立芸術大助教授が高校生の受験雑誌に「戦火の青春・ヒロシマと私」を寄稿
1971/10/8
「軍の依頼を受け、米大学で11年間にわたって末期がん患者111人に放射線照射人体実験」。ワシントン・ポスト紙が報道。シンシナティ大学のサンガー博士の研究班。核戦争での兵士への影響調査が眼目か
1971/10/9
徳山ニューライオンズクラブ(山下武男会長)の一行5人が釜山などで韓国の被爆者実態調査。馬山ライオンズクラブと姉妹縁組がきっかけ
1971/10/10
在韓被爆者診療医師団の福永久義団長(核禁広島県民会議事務局長)と第2陣の内野治人、江崎治夫両広島大原医研教授が広島帰着。両医師は慶尚南道・陜川地区で117人を診察
1971/10/11
広島市似島町南風泊の被爆者仮収容所跡から7体の遺骨見つかる。現場は当時、陸軍馬匹(ばひつ)検疫所。13日、市が調査。遺骨は500体以上と推定
1971/10/11
千葉県市原市の三井造船千葉造船所の放射性イリジウム被曝事故の患者6人に
1971/10/11
ABCC労組長崎支部が提出した「ABCCの調査研究の継続と日本人労働者の労働条件の確保に関する請願」を長崎市議会が採択(「長崎年表」)
1971/10/14
長野県下伊那郡豊丘村の豊丘村原水爆禁止協議会のメンバーが、広島市に同村出身の被爆孤老を慰問。豊丘村原水協は青年団、婦人会、商工会などで構成
1971/10/15
在米被爆者治療医師団派遣に見通し。米側の大学がABCC、広島大原医研を「学術調査、研究」の名目で招請し、医師団が訪米する段取り。山田広島市長とジョージ・ダーリングABCC所長が会見し、一致
1971/10/15
ワシントンの米連邦高裁がアムチトカ島地下核実験の資料提出拒否に再審命令。民主党のパティ・ミンク議員(ハワイ選出)ら33人が起こした訴訟で、地裁が資料提出拒否を認めていた
1971/10/17
「被爆教師の会全国連絡会」が東京で結成総会。広島、長崎、東京、三重、大阪、熊本、鹿児島の被爆教師20人が出席、会長に石田明(広島県被爆教師の会会長)、事務局長に佐々野昭典(日教組中執委員)氏
1971/10/18
全国被爆者青年同盟(児玉隆博委員長)が、日本青年館で「人間をかえせ、援護法をよこせ中央総決起集会」。約800人が参加、作家の大江健三郎氏が講演
1971/10/20
米司法省当局者が、米政府は10月27日に予定していたアムチトカ島地下核実験を一時中止と発表
1971/10/20
広島大原医研が韓国医師を研修目的で受け入れへ。来春を目標に1~3人。日本学術会議の「外国人流動研究員制度」での受け入れを申請
1971/10/21
日本学術会議総会が「原水爆被災資料センターの設置について」の勧告と「原水爆被災資料の基礎調査について」の申し入れの両提案を全員一致で採択。センターは広島、長崎、東京の3カ所に資料収集、整理、研究の機能を備えた50人規模の施設。基礎調査は1975年の国勢調査に付帯して実施し、死没者の調査にも配慮を-の内容
1971/10/21
山田広島市長が京都市で開会中の日米市長会議で、ホノルル市のフランク・ファージー市長と会見、在米被爆者治療団派遣で協力を要請
1971/10/22
広島原爆養護ホームで79歳と71歳の被爆孤老2人が結婚式。ホームで知り合い、意気投合。新居へ
1971/10/22
スウェーデンのウプサラ大地震研究所が、ソ連が地下核実験を実施と発表
1971/10/22
米で「ヒロシマ投爆決定-原爆使用は必要だったか」のタイトルの児童、生徒向け教材用スライド作製。カリフォルニア州カルバー市のソーシャル・スタディーズ・スクール・サービス社(社会科教材メーカー)のアーウィン・レビン氏らが作製。カラーを含む84コマ。「カリー中尉のソンミ虐殺が戦犯なら、ヒロシマへの原爆投下は戦争犯罪ではないのか」など問題を提起
1971/10/23
全国被爆者青年同盟が「人間をかえせ、援護法をよこせ」と厚生省前に座り込み
1971/10/27
ニクソン米大統領がアリューシャン列島アムチトカ島地下核実験の実施を指示。計画名「カニキン」。爆発規模5メガトン
1971/10/28
ワシントンの連邦巡回裁判所が、アムチトカ島地下核実験中止の仮処分を求めた環境保護団体の訴えを却下
1971/10/29
広島市の似島で被爆者の遺骨発掘始まる。30体の遺骨発見。2日目には12体。3日目37体で計86体
1971/10/30
西ドイツ政府とハノーバー市派遣の青少年使節団が原爆慰霊碑に参拝。財団法人世界青年交流協会の招きで来日、一行157人のうち広島市へは24人
1971/10/31
県立広島商業高校原爆研究会が「教科書にみる原爆」を文化祭で発表
1971/10/--
中国新聞に「原爆の子20年」の連載企画。漫画家の中沢啓治さん、デザイナー片岡修さんら
1971/10/--
小学校低学年向きの「ゆみ子とつばめのおはか」を偕成社から出版。今西祐行氏作、遠藤てるよ氏絵。原爆に被災した少女とツバメのふれあいを描く

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