×

ヒストリー

ヒロシマの記録1971 12月


1971/12/6
日本被団協の被爆者援護法制定国会請願行動が始まる。全国から過去最多の3,000人を動員
1971/12/7
原水禁国民会議が水爆実験の被害を受けた太平洋マーシャル諸島の住民を調査するため調査団を派遣。団長、原水禁常任委員の本多きみ医師。15日間。調査団員、江崎治夫(広島大原医研教授)、望月美己(静岡県原水禁事務局長)、池山重朗(原水禁事務局員)氏ら
1971/12/9
広島原爆被害者援護強化対策協議会(任都栗司会長)が広島市役所で開き、1972年度被爆者対策予算の大幅獲得に向け陳情活動の強化を決定
1971/12/9
国連総会第1委員会が、核実験全面禁止を求める3つの決議。中国、アルバニアが「2大核保有国の核の脅威に備えるには、核開発はやむを得ない」と反対
1971/12/9
米軍岩国基地でこの年3月にヤギ10頭を飼い、1晩で10頭全部が死んだ事実が分かる。基地側は「野犬にかみ殺された」と発表
1971/12/9
衆院沖縄・北方問題特別委員会で公明党の伊藤惣助丸氏が「広島県の川上、秋月弾薬庫にも核兵器貯蔵を示すシンボルマーク『4』がある」と政府を追及
1971/12/10
広島テレビ制作のドキュメンタリー「原爆遺書」が芸術祭テレビ部門で優秀賞を受賞。1966年度から6年連続の受賞。原爆作品では初のカラー作品
1971/12/10
在米被爆者が医療保護を受けられるように、との趣旨の法案を下院が認めてほしいとの提案が出される
1971/12/11
原爆生き残りの芸術家11人で結成した「面影会」が第2回慈善展示会を広島市内で開く。展示の陶芸、絵画、写真などの益金は施設のモチ代に寄付
1971/12/13
原水禁国民会議のマーシャル諸島水爆実験被災者調査団に対し、米が入域を拒否。調査を断念。サイパンにある米太平洋諸島信託統治行政府の米高等弁務官が、マーシャル諸島マジュロ島に滞在中の調査団に「マーシャル諸島のロンゲラップ、ウトリック両島への入域を認めない」と、事実上の退去勧告
1971/12/14
広島県安佐郡安古市町の町営火葬場裏の空き地から被爆者とみられる遺骨6体分を発掘
1971/12/15
広島市似島町で発掘された遺骨617柱を平和記念公園内の戦災供養塔に合祭
1971/12/16
国連総会が生物兵器禁止協定を承認。中国が投票不参加、仏は棄権
1971/12/17
「原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑」建設委員会(惣野真澄委員長)が、原爆の犠牲になった教師と子どもの追悼記集「流灯」を出版
1971/12/18
岩国市体育館で米女優ジェーン・フォンダさんら自由劇団(FTA)の反戦ショー。ベ平連の主催。レイ・チャンドラー、ドナルド・サザランド氏らも参加。約1,000人の米兵が参加
1971/12/18
原水禁国民会議の「マーシャル諸島水爆実験被災者調査団」が帰国。本多きみ団長が声明、「ロンゲラップ、ウトリック両島への入域が米により拒否されたが、これはミクロネシア人と医師の権利をじゅうりんしたものだ。米の態度に抗議し、広く世界にこの事実を訴え、ミクロネシア被災者の救援に努力したい」
1971/12/20
参院沖縄・北方問題特別委員会で社会党の上田哲氏が、米が持ち帰った広島の被爆直後の解剖資料などの返還を要求。佐藤首相が「返還に努力。日米首脳会談の議題にする」と答弁
1971/12/23
広島地裁で、尾道市の桑原忠男さんの「原爆訴訟」第3回口頭弁論。原告側証人として岡山大医学部助教授、杉原芳夫さんが「放射能障害かどうかわからない症状は、すべて放射能に原因していると考えるのが現在では正しい」と証言
1971/12/23
中国新聞の連載企画「死の灰から17年ビキニ水爆実験の被災者たち」始まる
1971/12/31
民社党の春日一幸委員長が佐藤首相と会談。沖縄返還問題について「非核・基地縮小決議」の趣旨に沿って米側の保証を取り付けるべき」と提言。佐藤首相は「核撤去、基地縮小については十分、決議を踏まえたい」と回答
1971/12/--
被爆二世をテーマにした映画「ヒロシマの子」(後に「小さな恋人たち」)の製作が決まる。東京の人形劇団「ひとみ座」など3つの独立プロダクションが製作費(約2,000万円)を出し合い、広島、長崎に製作実行委員会をつくる。監督家城巳代治氏、脚本早坂暁氏
1971/12/--
財政難を理由に縮小-廃止の方針が出された財団法人広島原爆傷害対策協議会(会長、山田広島市長)の職業補導部の存続決まる
1971/12/--
原爆資料館が開館以来の入館者が100万人を突破
1971/12/--
原爆の爆風で折れた旧広島護国神社の鳥居台座が、広島市民球場横の児童公園から出土

年別アーカイブ